アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

台湾研修報告 その2

2013-02-15 11:55:31 | インポート
さる11月1日から6日に、台湾にて台湾原住民族と北海道アイヌ民族の交流研修会議を開催したことは以前に書きました。会議後、ディヴァン宣教師とわたしだけ残ってディヴァン宣教師のご実家を拠点にさらに一週間の学びをさせて頂きました。

11月6日は桃園空港で皆と別れた後、ディヴァンさんのご友人Iチャンと合流し、捕里へと向いました。そこで、アウン牧師(セディク民族 2008年にアイヌ民族の研修に来道)とお連れ合い(も牧師)、ルピ牧師(セディク民族 2009年研修者)の案内で九族文化村を見学。アウン牧師の眉原教會訪問。

翌7日はルビ牧師の谷路邦(清流)教會訪問の後、嶺武山(標高3275)~羊の丘(山羊アイス食べました)、盧山教會訪問し、トゥシ牧師と再会(タロコ民族2008年研修者)。そこで、ムササビの煮ものと生の内臓、粟酒をご馳走になりました。

8日は、霧社の記念碑(映画『セデック・バレ』の舞台)、そして、日月譚にてゾウ民族の方と食事会。夜にブヌン民族のロココ村のディヴァン宣教師のご実家に着き、毎週木曜日にある夜店に連れて行って頂きました。日本のお祭の屋台のようなものが広~い公園にたくさん出ていて楽しかったです。UFOキャッチャー式の金魚キャッチャー、すっぽんキャッチャーがあったり、投げ輪の景品にハムスターやみどりガメがあったり、アルマジロのこどもが売られていたりと面白いものでした。


モーナ・ルダオ像

その後、ロココ村にある人倫教会の説教奉仕や、ブヌン中部部会議長・幹事と懇談、そして、2009年8月7~9日に起きた台風8号(モーラコット)被害の被災地を訪問。3日間で3500mmという台湾の一年分の雨量が襲い、台中を中心にいたるところで土石流が発生し、六百人以上が犠牲になったことは過去ブログに掲載しましたが、この被災地は一つの村が陥没し、4~500人が、いまだに埋まっているとのこと。道路も修復できておらず、砂利でデコボコで曲がりくねった道を通りました。


スッポンキャッチャー

映画.com ニュースで「台湾の歴史大作『セデック・バレ』GW公開決定&日本版ビジュアルお披露目」が報道されていました。以下、全文を引用。

第7回大阪アジアン映画祭で観客賞を受賞した、台湾の歴史大作「セデック・バレ」が、ゴールデンウィークに公開されることになり、日本版ビジュアルが公開された。
 台湾で大ヒットを記録した「海角七号 君想う、国境の南」(2008)のウェイ・ダーション監督が、メガホンをとった今作。「レッドクリフ」シリーズのジョン・ウーを製作に迎え、種田陽平がプロダクションデザインを担当した。「第一部 太陽旗」「第二部 虹の橋」の2部構成で、1930年に日本統治下の台湾で発生した先住民・セデック族による霧社事件を描く。リン・チンタイ、ダーチン、ビビアン・スーに加え、安藤政信、木村佑一ら日本人俳優が参加している。祖母が原住民族出身であるスーが、製作費の不足を補うため個人出資を行ったことでも話題を集めた。
 「第一部 太陽旗」は、苦しい生活を強いられてきたセデック族が、部族の誇りをかけ武装蜂起するまでにフォーカス。「第二部 虹の橋」では、憎しみや家族愛などの感情が交錯するなかで、セデック族を襲う悲劇を生々しく映し出す。
 今作は、戦いの舞台となる台湾中部の霧社の村を、歴史考証に基づき再現。日本版ビジュアルは、奥深い森を背景にセデック族を率いたモーナ・ルダオが仁王立ち。生きるため戦うものが見せる、厳しい眼差(まなざ)しが強烈なインパクトを放つ。
 「セデック・バレ」は、ゴールデンウィークに全国で公開。(2月2日配信)
http://eiga.com/news/20130202/3/


わたしはひと足早く台湾で売られているDVDを鑑賞しました。日本人の傲慢さや、日本軍が台湾の原住民を使って民族同士で闘わせたり、セデック民族の女性達が自害する場面はほんとうに苦しく感じました。大半がセデック民族の言葉で語られ、英語の字幕が付き、日本人は日本語を語るので、だいたいの内容は理解できました。深いところまで理解を得たいので日本での放映を楽しみにしつつ、関連する資料の再確認をしたいと考えています。

映画の主人公であるモーナ・ルダオを演じるのは、過日、玉山神学院をお訪ねした際に、タイアル民族の口琴をプレゼントしてくださったA教授の実兄だとか、玉山神学院卒業の牧師がけっこう出演しているなどの情報も興味深いものでしたが、2009年に研修にきて以来、わたしたちと交流を続けているルピ牧師がなんと霧社蜂起の際の生き残りとして山から強制撤去され、川中島というところに移住させられた子孫だとのこと。彼女は神学校卒業後、故郷のグルバン教会で牧師をされています。幸いに今回の旅行中に彼女の結婚式があったので参列させて頂きました。相手はブヌン民族の牧師。いい思い出となりました。

訪ねたところの中で、ブヌン民族が日本軍を相手に闘った「大分事件」を知りました。玉山への上り口に建つ南安遊客展示館と抗日英雄記念碑に馬遠教会のSuna牧師が連れて行って下ったのです。Suna牧師のお父様も日本軍に殺されたとのこと。展示館に書かれていた解説をディヴァン宣教師に翻訳して頂いたので載せます。

大分事件(ブヌン語Baungzavan or Maungzavan)
1895年(明治28年)、下関条約により台湾は日本に割譲された。1907年、日本は山地にある村落の統治に着手した。当時の台湾総督の佐久間左馬太は「5年理番計画」を立てた。政府の強硬な統治方法は、ブヌン族の強烈な反発を呼び、1915年(大正4年)にラクラク流域の各地でブヌン族による警察所攻撃事件が次々と発生した。
1915年5月12日にブヌン族はカシパナン警察所を攻撃して成功したことに自信を得て、同年5月17日に、大分社の頭目Aziman Siking「アリマン・シキン」とその兄Dahu Ali「ダホ・アリ」は56名の原住民を率いて、朝5時、食事中だった大分警察所を攻撃した。激戦の末、日本人の警察は死傷者を多く出し、12名の警察は殺された。その中のひとりである警察堀江長治はイシラ社に身を隠していたが、18日に逃げようとした時見つかって殺された。その後、原住民族はアブラァンの山稜線に集結して、通り道を破壊し、木を切って横に置いて、日本警察の討伐隊が来るのを阻止した。その後、高雄に逃げた。
こうした事件が発生したことにより、日本人は中央山脈の横断道路を造る事を決定した。それがブヌン族のを制御するための「八通関の越嶺の警備の道」であった。


原住民族の蜂起に関しては、より調べていこうと思います。


ある原住民村の壁画