アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

永田方正

2011-10-24 12:50:01 | インポート
11月7日~8日開催の道南地区アイヌ民族フィールド・ワークの詳細案内をいたします。

11月7日 (月)
18:00 七飯教会集 夕食は三浦きょうこ(七飯教会牧師)さん手作りカレーをご馳走になります。
19:00 ミニ講演 「道南地区とアイヌ民族~宣教師J.バチェラーの歩みを手がかりに」 
      パワーポイントを用いて分かりやすく話しをします。担当:三浦忠雄(センター主事)
20:30 交流・就寝

11月8日 (火)
07:00 起床・朝食
08:00 函館へ出発
09:00 北海道アイヌ協会函館支部の方たちと交流(末広町4 まちづくりセンター会議室)
10:30 「愛隣学校」跡地、函館博物館見学
12:00 食事 (食後出発し、八雲にて北大がアイヌ人骨を発掘した跡地を調査=希望者)

以上の内容です。部分参加も歓迎。メールにてお問合せ下さい。


二風谷のチセを作っているところ。茅葺は屋根を最初に作るのですね(旭川での笹葺は壁からでした)。



引き続き道南地方のアイヌ民族関連のことを調べていると、1882年に函館県がアイヌ教育の「実地調査」のため永田方正を遊楽部に派遣、永田は学校を開設したとありました。

永田方正(ながたほうせい1838年-1911年)と言えば、『北海道蝦夷語地名解』(永田地名解 1891)の著者。アイヌ語地名を調べる度によく目に付く名前です。『地名解』は道内各地に自ら赴いてアイヌ民族から聞取った情報をもとに、約6千のアイヌ語地名を掲載しています(後に、推測に基づく解釈の多いことから批判もある)。
函館師範学校、札幌農学校、北星女学校、遺愛女学校などでも教壇に立った教育者ですが、日本人で最初に聖書を翻訳した人でもあるのです。1873年、彼が30歳、『西洋教草』と題して大阪文栄堂から翻訳出版。当時、彼はキリスト者ではありませんでした(函館に移った1900年に受洗)。
上巻―箴言、23章まで
中巻―レビ、申命、出エ、民数、ロマ、Ⅱテサ抄訳
下巻―四福音書抄訳
1873年とは切支丹禁止令の高札がとれた年で、その2ヵ月後の出版とのこと。英語聖書を持っていたとの推測がされています。

1881年、38歳の時に開拓使に招かれ、函館師範学校に勤め、翌年に遊楽部(現在の八雲町)で学校設立。出席13、学齢児童19とあります(1885年9月)。ここは函館県がアイヌ教育のモデルケース的な学校として位置づけていたようです。
永田は児童数の把握からはじめ、保護者らに就学させることがいかに「有益」「必要」かを「説得」。
1892年、聖公会が函館の元町にアイヌ学校を設置した年、その前年に設立された北海道教育会に「旧土人教育取調委員」が設置され永田方正の名がありました。翌年に、岩谷栄太郎と共に、「あいぬ教育法」を建議。その後の道庁のアイヌ民族教育の根幹となったと言われています。「あいぬ教育法」は小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』の資料編にありますので、後日、じっくり読もうと思います。

アイヌ児童の教育に関する問題も過去blogに書きました。少し、前から溯ってまとめると、
1872(明5)年、開拓使はアイヌ民族の風習をなくし、「内地人」へと同化する目的で、東京芝増上寺境内に開拓使仮学校を設置。しかし、1年足らずで行方不明、病気、帰郷のため、残ったのは5名。彼らは常に見世物にされ、不安や恐れおびえながら生活したといわれています。その後、明治政府はほとんどアイヌ教育をしませんでした。そこに宣教師バチェラーらが1888年に幌別に愛隣学校を設立(その後、前回記したように各地域に学校を設立)。
これらに刺激を受け、永田も動いたようです。
明治政府は「旧土人保護法」7、9条にそって、1901年より10ヵ年計画で「土人学校」を設立することにしました。
1901(明34)年、北海道庁令「旧土人児童ノ教科目ハ修身、国語、算術、体操、裁縫(女子)、農業トス」とし、歴史、地理、理科などを除きました。(永田「あいぬ教育法」もアイヌ民族に対してひどい書き方がされているが、修身、読方、作文、算術、そして、いわゆる職業訓練の5科とされている)。
しかし現場の教員たちの反対もあり、1908(明41)年に一旦、廃止され一般小学校並みとなります。ところが、1916(大5)年になって、「旧土人児童ノ尋常小学校修行年限ハ四箇年」とされます(1907年に尋常小学校6年制となっている)。わけは、アイヌの状況にとって長すぎるのはよくないとの勝手な言い分。しかも、一般の就学年齢が満6歳なのをあいぬは「心性ノ発達和人ノ如クナラザル」として満7歳からとされます。歴史、地理、理科も「就業年数四箇年ヲ以ッテ一層教科目を減少セシムルヲ要スベシ」とされて除かれます。
そして、「修身と国語とは国民的性格養成上特殊の地位を占むべく又国語と算数とは直に日常の生活に関して実用的知識の養成必須なるべく」と強調される。「旧土人は一般に勤務を厭い遊手徒食(これといって何をするわけでもなく遊びふけること)の弊に陥るの傾向あり」と書かれている。
これらはアイヌを劣っていると見なし、歴史を教えず、さらに劣等性を押し付け、同化政策を強いたものとなったわけです
(1901年から全道に25の設置があり、1940年にすべての学校が廃止)。



秋も深まってきました。
※小川正人著『近代アイヌ教育制度史研究』(北海道大学図書刊行会 1997)、福島恒雄著『教育の森で祈った人々』(北海道キリスト教書店 1985)など参考。