アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

札幌農学校植民学の世界(その3)

2010-03-08 07:15:12 | インポート
井上勝生さん講演の続きです(最後)。

1882年(明15)に当時開拓使勧業課御内用係であった内村鑑三が復命書「千歳川鮭魚産卵地および石狩川鮭漁の景況実地視察」を書いています。内容は千歳アイヌに鮭漁を許すように願うもの。アイヌは昔より鮭を漁して常食としていたのだから、禁漁にすればほとんどの千歳アイヌが餓死せざるを得ないか、法を犯すかの二つだ。アイヌ民族の漁法では持続可能なものなので(今風に!)、漁を許すべきだと実際に千歳に調査に行った内村は千歳アイヌの現状を見、データーを調べて書いているといいます。(山田伸一「千歳川のサケ漁規制とアイヌ民族」2004)
結局は、札幌県は漁を禁止し、その後、内村は札幌を去ったようです。

内村とアイヌ民族の接点ですね。前回の北大での講演(2008/01/12)でもこのことを言っておられたので井上さんの論文「札幌農学校植民学と有島武郎--『星座』と千歳川アイヌのコスモス」(北海道大学大学文書館年報)を調べて読んだ覚えがあります。内村とアイヌ民族についてはもっともっと調べていきたいです。

過去ブログ(2010/2/3)にも書きましたが、有島武郎が狩太にある450町歩の広大な私有農場を小作人に解放した1920年に札幌時計台の二階にて「アイヌ教化団後援会」の主催で演題「惜しみなく愛は奪ふ」の講演をし、300人からの聴衆に「多大の感動を与えた」とありました。J.バチェラーとの接点があったのです(仁多見巌訳「ジョン・バチェラーの手紙」P315)。

井上さんは、今回の講演に1892(明25)年2月6日の北海道毎日新聞記事を持ってきて、北海道禁酒会アイヌ矯風部の演説会の模様を紹介。会場の北水協会には開会前から聴衆でいっぱいになり、400名以上が来て、四分の一は立ち見で身動きが出来ないほど盛会だった、と。学者やバチェラーに加え、アイヌ民族からは有珠のパロピタさんが講演。一同「アイヌ種族に対して深き同情の感」を起こさせたという内容ですが、当時の札幌の人口を調べると26,022人。その内の400名とは大変多い人たちが聞きに来たということですね。それは人々が、薩長閥がやりたい放題のことをやったために、アイヌに同情心を持っていたからだと井上さんは語ります。薩長閥の批判は帝国議会においても追求されます。
帝国議会の議事録は一般のわたしたちでも読めるそうです。


飯豊頂上から朝日を眺める(息子の写真)

この春、高校を卒業する(ことを切に願う)次男とじっくりと話し合っています。自分という器の大きさ、限界、ありのままの形。他者との境界線の引き方、感性だけではなく知性を使うこと、などなど。とても有意義で豊かな時間を与えられています。
彼は樹木医になりたいと春からひとり東京に行きます。その前に高校の3年間のまとめと、人間関係の持ち方を整理出来ていることは家族にとって必要だったと実感しています。

さて、
こどもの喧嘩を一瞬で止める方法をこのあいだテレビで見ました。(時短生活 夢の大実験)
どうすると思いますか?答えはいたって簡単。カメラを向けて「はい、チーズ」とシャッターを押すだけ。
ケンカが一瞬に止まり、子ども達は「作り笑い」。
どうして?と聞くと、びっくりしたとか、かわいく映りたかった、ですと。
最近、息子の高校で女の子が写真を撮る際、メガネをはずし満面な笑顔で写真を撮るのを「勝負顔」というらしい。何に勝負しとんだっ!