「錦町開基百年記念史 百年の星霜」に以下の記述があります。
屯田兵が上陸した時の様子です。
愛知県西春日井郡豊場村出身の高桑吉衛門は、
父庄三郎母セイ、妻たま、弟兼三郎、妹つね、てると共に
明治30年5月19日屯田家族の移送船団武州丸に乗り愛知県知多湾の武豊港(たけとよ)を出港、
5月25日湧別浜に到着したが時化のため上陸できず船内に2日間待機して
27日に食糧も底をついてきたため艀による上陸を決行した。
「5月の末だというのに、家の裏の日陰には消え残りの雪があり、
黒々とした枝が強い風に吹かれて音を立てて揺れていて、
言い表すことの出来ない淋しさと、不安に胸を曇らせた」
「我々の落ち着く所は何処だろうと見渡すと
ただ風だけが吹きすぎる広漠たる原野でただ茫然として
棒を呑んだように立ちつくしてしまった」
港がなかった当時は上陸するのにも命がけだったのでしょう。
その苦労を伝える記念碑です。
場所は道道204号線の終点あたり、湧別市街地外れ港の近くの道路横。
遠軽から向かうと右側、大きい記念碑なのですぐにわかると思います。
※飛び飛びで続いてきた湧別町の話題はこれで終わります