世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

わが母の人生行路!(その2)

2012年02月29日 | Weblog

私は中学1年まで伊平屋島で過ごしたが、母は私を連れて沖縄本島の石川へ移転した。そこでは“飴玉作り”と“ハチャグミ”(沖縄方言・・・小麦に強烈な圧力をかけて膨らまして黒糖で練って小さなボール球くらいにした沖縄お菓子)作りで生計を立てた。毎日、飴玉をむさぼり、ハチャグミを食べて登校した。とても美味かった。友達に飴玉とハチャグミをあげて得意になった日々であった。元気者の母は疲れも知らず毎日お菓子作りに勤しんだものである。50代の頃である。まさか、そういう母が認知症になるとは夢にも思わなかった。石川では数十年、過ごし、私が高校生になるのを見込んで中学3年の2学期には那覇へ転校させた。石川中学に3年の1学期まで在籍した。城岳中学校(私達が3期生で廃校になった)から受験し那覇高校へ合格した。その頃は天下の優秀校で沖縄では第一級の進学校でもあった。那覇高校生というと他高校生が羨ましがった位、羨望の的の高校であった。私たち那覇高校生は意気揚々と闊歩したものである。それから3年生になり大学受験を控え朝夕・夜中まで受験勉強に明け暮れた。そのあおりで、私は肺結核に罹ってしまった。闘病生活2か年。無事、退院し日々の日常に戻った。卒業は2期下の1年生(1年生が3年生になり)と共に卒業した。それから私の波乱に満ちた人生が始まるが、母の人生行路がメインだから割愛する。那覇では10名くらいの炊事の仕事をして生計を立てた。母の手、一つで私を育ててくれた。今、認知症の母を思うと独りでに涙が出てきてやるせない思いがする。