世界一健康長寿のニライの風来坊

豊饒を齎す理想郷は海の彼方の蓬莱島!ニライの島夢郷!!その桃源郷を求めて南の風来坊は今日も迷走する。

子供の観た「新修・美栄橋碑」 

2006年01月21日 | Weblog

この碑は、かつての旧スーパーナハ跡地の近くに建っています。資料によると那覇が発展するにつれて川が浅くなり橋も狭くなったので川を浚い(さらい)橋を架けました。1,735年10月4日に工事が始まり、翌年2月6日に竣工した事が書かれています。この橋は明治25年に改修されましたが、去った大戦で破壊され碑だけが残っています。昔、那覇は、幾つかの島から出来ていて交通が不便であったので冊封使(さっぷうし=さっぽうし)が、来沖した時には船橋を架けて首里に迎えた様です。それで時の王が「長虹堤」(ちょうこうてい=海中道路)を築かせたのだそうです。 (6年 Y君)

 安里(あさと=地名)から牧志(まきし=地名)までの間に三つの橋が架けられ、その中の一つが「美栄橋」(みえばし)だったそうです。昭和52年4月8日に那覇市の史跡に指定されています。 (父 Y)

<学習の手引き>・・・尚金福王(しょうきんぷくおう)の時代に造られた「長虹堤」(ちょうこうてい)とは、何だったのでしょうか。調べてみましょう。

{参考資料}:現在の道路から当時の長虹堤の姿を想像する事は出来ない。当時描かれた絵で、その姿を想像するしかない。15世紀半ばに作られた昔の海中道路が長虹堤。今の道路の両側が昔は海だったとは想像すら出来ない。道の両脇には建物が建ち並んでいる。旧安里橋から続く道である祟元寺橋は手前の道の右側にある。 長虹堤跡の道。突き当たりが祟元寺橋。現在の長虹堤、ここがかつて海中道路だったとは誰も信じないだろう。唯一痕跡を見せているものが民話「七ツ墓」に登場する岩礁。ダイナハの横に今もビルの陰に残されている。「七ツ墓」の前を通り過ぎると道は久茂地川に行き当たる。川には旧美栄橋が架かっていたが現美栄橋は北東側に移動している。この場所にはモノレールの美栄橋駅が出来ている。現在残されている「長虹堤」はここまでである。ここから先のイビガマまでは道筋は変わり全く残されていない。沖縄で海中道路というと、勝連半島の海中道路が有名であるが昔も昔15世紀すでに「長虹堤」という海中道路が築かれていた。現在は町並みの中に埋もれてしまい海中道路の面影は全くないが道筋そのものは残されている部分がある。「長虹堤」は、昔、那覇は浮島と呼ばれていた。15世紀半ばの第一尚氏の尚金福により首里と那覇を結ぶ長虹堤といわれる海中道路が造られた。これは那覇東村にある冊封使の宿泊施設である天使館と首里を結ぶ道(宿道)の一部で崇元寺橋(当時は安里橋)から松山のイベガマまでの道である。約1キロ程の距離があった。  (沖縄地理学会 資料より)