八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

第15回『室町御所(京都市上京区)』

2013年05月07日 13時53分00秒 | インポート

大型連休も過ぎ去って・・・

境内に穏やかな日々が帰って来ました。

こんにちは。禰宜です。

さてさて。今回も遠くに行ってきました。

今回は京都

京都・・・1000年の都です。ただし、それだけに京都は有名な観光地。

そこで普通の観光客があまり注目しなさそうな場所をうろうろしてきました。

Photo

『室町第(洛中洛外図屏風より)』

題して『将軍様のお家(跡)散策ツアー』

・・・

先ずはスタート地点ですね。

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烏丸丸太町の交差点を起点として・・・

烏丸通、つまり京都御所のすぐ西側の道をずいーっと北上していってみましょう。

烏丸通を北へ少し進んで西側にある町内の名は武衛陣町

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その武衛陣町にある学校の一角に・・・

『此の付近、斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址』

・・・の石碑が建っています。

つまりここ一帯は越前・尾張・遠江の守護大名・斯波氏の邸宅及び足利義輝邸の跡地です。

元々はこの辺りの地名から烏丸邸とか勘解由小路邸と称していたのですが、斯波氏が代々『兵衛府(武衛)』の官職に就いたため、その邸宅も武衛陣と呼ばれるようになりました。

室町時代の斯波氏は守護大名の筆頭格として、大いに勢威を張りましたが、応仁の乱を境に衰退、やがて在京生活を断念し領国・尾張へと去ってしまいました。

そして斯波氏が武衛陣を放棄した後、この地に邸宅を構えたのが室町幕府13代将軍・足利義輝(1536~1565)です。

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足利義輝像(光源院蔵)

将軍の邸宅・・・つまりここも幕府の跡(※室町後期以降になると幕府のある場所は「室町」じゃないんです)です。

義輝は12代将軍・義晴(1511~1550)の長男として生まれ、僅か11歳にして将軍職を継承、父義晴の遺志を継いで幕府再興に奔走するものの、30歳にして反対勢力によって自害に追い込まれるという悲劇的な人物です。

剣術に秀でた将軍として知られ、その最期は床に何本もの刀を突き刺し、攻め寄せる敵兵を自ら斬り捨て、刃こぼれすると床の刀を抜いてまた斬る・・・という中々剛毅なエピソードが伝わります。その華々しい最期から人気の高い人物ですね。

死に際が華々しいから人気というのもアレですが・・・。

この義輝の弟が室町最後の将軍・足利義昭(1537~1597)です。

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足利義昭(「古画類聚」より)

・・・お兄さんよりちょっとふっくら気味。

義昭は義輝が自害に追い込まれた際、反対勢力によって命を狙われる(実際に義昭の弟は殺されています)のですが、辛うじて都を脱出。父と兄の遺志を受け継ぎ幕府再興を目指し、紆余曲折あって当時新興大名であった織田信長(1534~1582)を頼ります。

あとは皆さんご存知の通りですね。

信長は義昭を擁して上洛し、都に残る反対勢力を駆逐。ついに義昭は15代将軍(※反対勢力によって担がれた義輝・義昭の従弟である14代将軍・義栄はついに京都に入れないまま死去。本拠地に入れなかった征夷大将軍は鎌倉~江戸の全39人の将軍の中で彼だけです)に就任します。

信長は将軍となった義昭の為に、義輝の邸宅を拡張新築して二条城を築きます。

義輝邸の跡地ですから、「この二条城」は有名な「あの二条城」とは全く別のものです。

・・・「二条に無いのに二条城とはどういう事だ」とか気にしてはいけません。

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旧二条城跡」って刻んでありますね。

この石碑も武衛陣碑の近くにあります。

つまり武衛陣→義輝邸→二条城・・・という風に変遷していった訳です。

ところで実は織田信長は元々斯波氏の家来でした

斯波氏の家来であった信長が武衛陣跡に城館を建築する。因縁めいたものがありますね。

さてそんな武衛陣町から烏丸通に戻ってずんずん北上しましょう。

途中には・・・

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有栖川宮邸(別の場所から移築)や・・・

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和気清麻呂を祀る旧別格官幣社・護王神社・・・

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禁門の変」で有名な「禁門」・・・所謂「蛤御門」などがあります。

因みに「蛤御門」の名称は、普段滅多に開かなかったこの門が、江戸時代後期に京都を襲った火災の際に開かれた事から名付けられました。

え?なぜそれで蛤御門かって?

口を閉じている蛤を火に炙ると開くじゃないですか(笑)

さてさて・・・

蛤の門を過ぎてさらに北上すると烏丸今出川に出ます。

烏丸今出川の交差点を西に進むと最初にぶつかる交差点があります。

そしてこの時ふと右を向いてみましょう・・・床屋さんがあるはずです。

そう・・・

そここそが今回の終点・室町幕府跡です。

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是より東北足利将軍室町第址

・・・と刻んでありますね。

かつての面影は微塵も残っていませんが、紛れもなくここから東西一町南北二町の広大な領域が「室町御所」・・・つまり「花の御所」でした。

この花の御所を建てたのは有名な室町幕府3代将軍・足利義満(1358~1408)

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足利義満像(鹿苑寺蔵)

タレ目が印象的ですね。

因みに彼の息子の4代将軍・義持はタレ目な上にもみあげがすっごいです。

義満は日本史上の中でも最大級の権力を掌握した人物です。

まぁ義満をよく知らない人でもあの「金ぴかの例のお寺」を見れば、その権力がいかほどのもか分かると思います。また意外と知られていませんが、100mを超える七重塔も建てたりしています。

現在、強大な権力の花を咲かせた室町幕府の面影はほぼありません。

かつての日本の中枢・室町御所。

今日も観光客が足を運ぶ訳でもなく、のんびりとした日常が流れています。

禰宜


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
禰宜様こんにちは。あっ、護王神社ですね。懐かし... (山南敬助)
2013-05-07 22:23:58
禰宜様こんにちは。あっ、護王神社ですね。懐かしいです。(^^)


高校の修学旅行の際に、班別行動の際に待ち合わせた場所なんです。確か、京都御所の前だったかと。(^^)
お写真は舞殿(神楽殿)…でしょうか?そちらがとても綺麗でしたので、じっと見続けていた記憶があります。
確か、十二支の絵が描かれていたような記憶があるのですが…。舞殿の拝殿側だったでしょうか?大和(軍艦)のお写真があったような記憶もあります。
※実は、護王神社のお隣にあります、京都ガーデンパレスに2泊しておりまして、班別行動の際に参拝してみたいなぁと思っていた場所でした。


神道(陰陽五行説)に関係していたかと思うのですが、晴明神社の方にも参拝いたしました。(^^)
また京都に行ってみたいです。
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山南様 (禰宜)
2013-05-10 12:28:49
山南様

護王神社はそれこそ蛤御門の前にあります。確かに毎年の干支が描かれた大きな絵馬が飾られてますね。
御茶屋さんも併設されていてホッと一息入れるには良い神社かもしれません。

京都は行けば行くほど新しい発見のある街です。ぜひまた足を運ばれてみてくださいね。
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