八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

第9回『探題塚(福岡市西区)』

2012年03月14日 13時41分32秒 | インポート

本日もとても良いお天気です。

こんにちはI権禰宜です。

さて本日ご紹介するのは・・・

福岡市西区にある探題塚

そもそも福岡市西区には鎌倉幕府が3度目の蒙古襲来に備えて築城した探題城(浦城・鷲尾城・姪浜城)がありました。

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場所は現在の愛宕山辺りで、鷲尾愛宕神社のケーブルカー跡地がその場所であったとされます。

幕府の九州長官である鎮西探題は、平時は博多で政務を執っていましたが、いざ有事の際にはこの探題城に籠って戦う事を想定していたようです。

結局幕府が警戒した3度目の蒙古襲来は無かったものの、鎌倉幕府が滅亡する際に探題城も落城してしまったと言われています。

その後、室町幕府によって探題城は再建され、室町幕府の九州長官である九州探題が在城したと言われます。室町期はだいたい足利将軍の一族である渋川氏が九州探題職を世襲したため、探題城はいわば渋川氏の城といって良いでしょう。

しかしながらこの渋川氏。べらぼうに数の多い足利一門の中でもとびきりの名門だったのですが、悲しい哉その家格に反して実力が全然伴っていませんでした。

少弐・菊池・大内・大友等の北部九州の大族の戦乱に巻き込まれてしまい、みるみるうちに衰退してしまいます。名目上は九州全土の長官なのですが、実態は肥前東部~筑前西部の国人領主規模にまで落ちぶれてしまいます。

それでもなんとか戦国時代の中頃まで続いていたのですが、1534年に最後の探題である渋川義長が大内勢に討たれると、ついに九州探題・渋川氏は滅亡してしまいます。

・・・と、ここまでが一般的にいわれる渋川氏の最期なのですが、探題城のある姪浜には渋川氏滅亡後のお話が伝わっています。


渋川義長が討たれた後、渋川氏は一族(弟もしくは従弟とも)の尭顕が家督を継承し九州探題を称して挙兵します。

しかし強大な大内氏の前に敢え無く敗北。姪浜にある万正寺山(探題山・光運寺山・興雲寺山)で自害したと伝わります。

その後、万正寺山には尭顕を祀る塚が建立されました。それが本日ご紹介する探題塚です。

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姪浜小学校の近くの山道を少し進むと・・・

『埴安神社 探題塚』と書かれた石碑があります。

ここが探題塚です。

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現在の探題塚にはお堂が建っています。

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額には「探題将軍」と書かれていますね。

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堂内に掲げられている騎乗の武者図。

果たしてこれが渋川尭顕を描いたものかは分かりませんが、ここにも「探題将軍」と書かれています。

渋川尭顕の名前はそれほど多くの文献に出てくるわけでは無く、実在したかどうか今一つ不明な人物ではありますが、青柳種信の「筑前国続風土記拾遺」等にその名が見えます。

なんでも尭顕が自害した際は赤い血では無く白い血が出た・・・とか、痔の治癒に御利益のある神様だとか(※痔では無く「瘧(おこり)」とも)・・・とかく謎の多い人物です。

「最後」の九州探題・渋川尭顕。

現在でも地元の人から「探題さま」と親しまれ、その塚も大切に祀られています。

I権禰宜