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穏やかな日々を

初代貴ノ花とタバコ

2018年01月21日 00時09分44秒 | 運動スポーツ
ウィキペディアより

貴ノ花 利彰(たかのはな としあき、1950年2月19日 - 2005年5月30日)は、青森県弘前市出身(北海道室蘭市生まれ)の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は花田 満(はなだ みつる)。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。「土俵の鬼」と謳われた第45代元横綱・初代若乃花の弟という血筋のよさに加え、細身で均整のとれた体格と甘いマスクから、角界のプリンスと呼ばれた[1]。大相撲の歴史上、また日本のスポーツ史上屈指の人気を誇った。位階は従五位旭日小綬章受章。

1993年1月場所後に次男の花田光司が四股名を「貴花田」から「貴ノ花」に変え、そして1994年11月以降の四股名であり後に一代年寄名跡となった「貴乃花」にして以降は、父の方は「初代貴ノ花」または「先代貴ノ花」と呼ばれている。

30歳で現役引退

1980年(昭和55年)1月場所は、7勝8敗と大関昇進後唯一の皆勤での負け越しを喫し、この頃から貴ノ花の限界説が危惧され始める。「次で負け越したら引退する」と、背水の陣で望んだ翌3月場所は5度目の大関角番を脱出し10勝5敗の成績を挙げ、なんとか面目躍如となったものの、この場所が貴ノ花の現役最後の2桁勝利となった。

1980年11月場所3日目、大関候補と呼ばれ日の出の勢いだった千代の富士に一方的に敗れ、この時の相撲を引き金に貴ノ花は引退を決意したと言われている。自分と同じく軽量の千代の富士にはかねてから特に目をかけており、「喫煙を止めれば体重は増える。自分は結局止められなかったが、お前は止めろ」とのアドバイスによって、千代の富士はきっぱりとタバコを止めたという。その後千代の富士は「貴ノ花関のおかげで横綱になれた」とも語っている。

なお、後年に「昭和の大横綱」へ成長した千代の富士が、1991年(平成3年)5月場所限りで引退を決意したのは、奇しくも貴ノ花の実子である貴花田に、同場所初日の初対戦で敗れた事がきっかけと言われている。また、千代の富士の現役最後の一番となった同場所3日目の取組相手は、これも同じく貴ノ花の愛弟子だった貴闘力であった。

その翌場所、1981年(昭和56年)1月場所では当時前人未到の、大関在位50場所目を迎えた(現在は大関在位65場所・共に歴代1位タイの千代大海と魁皇に次いで歴代3位)。しかし序盤から波に乗れず、6日目の対蔵玉錦戦を最後に、30歳11か月でついに土俵を去っていった(7日目は引退により不戦敗、成績は2勝5敗)。実は、貴ノ花自身は翌7日目の対戦相手である朝汐戦を最後の相撲として取りたかったそうだが、師匠の二子山は「引退を口にした者が相撲を取ることは許されない。満、引き際というのは肝心なんだぞ」と止められたという。貴ノ花が引退した際、二子山は「さあ、これで初めて兄と弟に戻って、うまい酒が飲めるぞ」と喜んでいる[12]。

朝汐が不戦勝の勝ち名乗りを受ける時、館内からは引退を惜しむファンから「たかのはなあ〜」の歓声が挙がっていた。この日の実況を担当した、当時のNHKアナウンサー:杉山邦博は「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた後に、思わず涙で言葉を詰まらせてしまった(この事から後に週刊誌などで「泣きの杉山」と書かれている)。その杉山の状況を察した、解説の玉ノ海は機転を利かせて、しばらくひとりで貴ノ花評を語り続けている。この場所貴ノ花は、力の衰えを感じそれを体重でカバーする為に禁煙を試みたものの、却って体調不安を起こす結果になった。[22]長年、頭からぶつかる相撲だったために頸椎を痛めているなど、満身創痍の状態での現役引退だった。ちなみに貴ノ花の子息である長男・3代若乃花は29歳2か月、次男・貴乃花は30歳5か月と、父親とほぼ同年齢の若さでそれぞれ引退している。

年寄時代

引退後に年寄・鳴戸を襲名し、二子山部屋付きの親方になる。1982年には藤島に名跡変更して初代若乃花の二子山部屋から分家独立し、藤島部屋を興した。後に長男の若花田(後の横綱・3代目若乃花)、次男の貴花田(後の横綱・貴乃花)が入門し、大きな話題になった。卓越した指導能力は折り紙つきで、他にも、後に大関となる貴ノ浪、関脇の安芸乃島や貴闘力など有力力士が育ち、藤島部屋は一気に有力部屋へと発展した。琴錦は藤島部屋の稽古について「あの部屋は稽古量が多い上に、一つひとつ中身が濃く無駄がない。最後の仕上げのトレーニングまで、若い衆だけでなく関取も含め全員でやっていた」と後年振り返っている[23]。しかしその反面、パワー相撲を得意とする巨漢力士の育成は苦手で、豊ノ海、五剣山は将来を大きく期待されながらも、大きな体を活かした相撲を身につけることができず、期待にこたえることができなかった。同じく巨漢であった摩天楼と藤ノ花は関取にすらなることができなかった。

1993年、兄である二子山の停年直前に年寄名跡を交換して年寄・二子山となり二子山部屋を継承、藤島部屋と二子山部屋の合併により二子山部屋は一気に大部屋になったが、当時の貴花田にとって数少ない強敵(通算対戦成績で負け越している)だった三杉里との対戦がなくなるなどの点が指摘された。そして1994年11月場所後に次男の貴乃花が横綱に昇進すると、二子山部屋は絶頂期を迎えた。1998年5月場所後には長男の若乃花も横綱に昇進し、兄弟同時横綱の壮挙が実現するが、その直後から若乃花・貴乃花兄弟の不仲や貴乃花の「洗脳騒動」など、周囲に暗雲が漂い始める。そして弟子の貴乃花が引退すると部屋を譲り部屋付きとなった(これを機に、二子山部屋は貴乃花部屋と改称)。

日本相撲協会では1992年に監事(現在の副理事)、1996年には理事に昇格し巡業部長となった。同年に年寄名跡『二子山』の譲渡金およそ3億円の申告漏れを指摘され、巡業部長の職を解かれたが後に復帰、2002年には審判部長、2004年2月から事業部長に就任した。

晩年・55歳で早世

2003年(平成15年)秋頃からあごの痛みを訴えるなど体調を崩していたため、入退院を繰り返しながら病気療養を続けていた。2004年(平成16年)夏頃に再入院してからは、喉が詰まって普通に話しする事さえままならない状態となり、相撲協会の職務を休みがちとなっていた。当初の病名は、公には「口内炎」と発表していた。なお入院時には北の湖理事長(1期目当時)を初め、相撲関係者からのお見舞いは殆ど断っていたという。

2005年(平成17年)1月30日には、自らスカウトした愛弟子の音羽山(元大関・貴ノ浪)の断髪式に入院先の病院から駆け付け、国技館内の好角家からは大きな拍手が送られた。しかし投薬治療が長く続いた影響か、この時の二子山の顔色は明らかに優れず、頭髪も薄くなっていた。また土俵に上がる際には、足がよろけて自力で登る事が出来ず、呼出の手を借りなければならない程、体調は相当に悪化した状態だった。昭和の大相撲を彩り、一時代を築いた人気力士だった頃の面影は殆ど失われ、まるで別人のように余りにも衰え窶れ果てた二子山の姿に会場の好角家は衝撃を受け、涙を禁じ得ない者もいた。

この頃から、彼の重病説などが囁かれるようになった事もあり、同年2月23日にはそれまでの口内炎の病名を改め、次男の貴乃花から「口腔底癌」であることが発表された(現役時代からヘビースモーカーとして知られ、これが一番の病因とも言われる)。その後二子山は意識不明の重体に陥り、3カ月後の5月30日に口腔底癌のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。55歳没。結果的に同年1月の貴ノ浪の引退相撲が、生涯最後の公の姿となってしまった。
自ら手塩に掛け育て上げた二人の愛息であり、愛弟子でもあった若貴兄弟の確執を巡るスキャンダルに悩まされ、貴乃花部屋の規模も衰えて関取不在の状況となり、憲子夫人とも2001年に離婚するなど、現役時代「角界のプリンス」と呼ばれた花形力士としてはいささか寂しい晩年であった。

6月2日に各界著名人、ファンを集めて告別式が行われた。6月10日、従五位に叙せられ、旭日小綬章を授与された(叙位・叙勲の日付は逝去日の5月30日)。6月13日には、両国国技館に於いて北の湖日本相撲協会理事長(当時)を葬儀委員長として日本相撲協会葬が執り行われた。戒名は霊友会からの「誠生院法憲祐幸智徳善士」と天桂寺からの「双綱院貴関道満居士」の二つが在る。

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