日々

穏やかな日々を

どうして、こんな家に

2021年05月17日 07時18分08秒 | ものがたり

どうして、こんな家に生まれただろう。

ケンカばかりの父母の姿がいやだった。

いや、正確に云えば、父が母をいじめていた。

いや、もっと正確に云えば、暴言を言う父の前に座らせられて、身動きが出来ない。

少しでも動けば、ゲンコツが飛んで来る。ちゃぶ台がひっくりかえる。

 

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母の祈り

2017年12月29日 19時56分25秒 | ものがたり
清水アキラさんの息子さんの番組を見る。
弟の事を思い出す。
尾道の刑務所に入っていた。
数々の怪奇な事をして最後は強盗殺人未遂で、尾道の刑務所に入った。その弟に面会に行った。
その弟は四十二で死んだけれど、覚せい剤の恐ろしさを体験した。
ゴールは見えないという坂上忍さんのコメントが身にしみる。
母の悲しみが、分かる。
弟が死んだのは、今の私の歳の頃だから。
老いて子に先立たれる親の悲しみを母は体験したんだと思う。
だから私は、子が早死にしないように祈った。
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こんな自分でごめんなさい

2017年06月17日 00時41分45秒 | ものがたり
性同一性障害ではと思う。
自分が女であることがいやだった。
男に生まれればよかったと何度も思った。
中学時代が一番そうだった。
でも、そんな不可能なことで悩むなんて
とそれも嫌だったから
女であることであきらめる。
男っぽい女
自分のことをそう思ってきた。
まず、成人式の時、振り袖など、もってのほか、
スーツもいやだった、ので、
ぶかぶかのセーターにグレーががったジーンズを履いて
すがすがしく成人式に出席した。
そういう自分が好きだった。
竹を割ったような性格、それが自分だと友に言っていた
陰口などもってのほか
ぐずぐず人の悪口を言うなんて女々しいと軽蔑した。
女の子の仲良しグループなんか目もくれない
そんな集団はいやだった
一匹狼的自分をOKしていた。
まあ、とにかく男っぽい自分であることが
自慢だった。
体も嫌いだった。
時に乳房
かっこわるいと思っていた。
ないほうがいいと思っていた。
邪魔だった。
といっても、しかたがないと無理にあきらめた。
ほんとに現代だったらほんとに男になる手術を受けたかもしれない。
そしてそしてそして
男性に恋したことはなかった。
恋に恋するって思春期の乙女チックと自分では言っていたけど。
男の子とは、すぐ親しくなって、友達になれた。
友、か、兄か、弟かの感情に似ていたけど
なんせ女の私だから
そう、親しくなる男の人には、勘違いされて困った。
そんな、好きじゃないのに、、、、、と言い訳がましいことになるので
勘違いされたと気づくと離れていった
残念・・・・・って笑いながら、そんなんじゃないのにってことも言えずに。
ところが女性にはほのかな恋心?のような
憧れに似た先輩想い?
かわいがるかわいい後輩?
なんか、普通の友情ではないなにかを感じて
急接近した。
そして、深く親しみを感じて友の家に入りびたりになったりして
多くの時間を共有した。
ところが、その友はあっさり、私にさよならをして
音信不通、こちらから逢いに行っても
そう喜んだ様子はなく
裏切られたような感情が沸いた。
ああ
まさに、いまでいう、性同一性障害。
今でも、ますます、女である自分が嫌いだ。
乳などないほうがどんなにいいかと思ってしまう。
ほんと、若いころは、男に生まれればよかった~と何度思ったことだろう。
じゃあなぜ結婚したの?
夫をもって、子を3人も産んだの?と言われると困るけど
まあ、生き物なら子を持って、後世に生を残さねばと結婚は受け入れていた。
けれど、恋した自分とは思えない、
たまたま、縁あって、結婚した、絶対この人ではと思ってはいなかった。
だがしかし、おとめの姿をしているから
そう、邪険にもできず、普通の恋愛的感情を無理に作り上げていたかもと思う。
今は、結構、男言葉で、家族から非難を受ける。
ますます、爺っぽくなっている。
あはははは~と苦笑いの婆であり
こんな自分でごめんなさい。なのだ。
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ただ

2017年06月16日 13時09分24秒 | ものがたり
ニートになった子どもを見ているぐらいなら
海に身を投げて死にたい
彼女はこう言ってぽろぽろ涙をこぼした。
夫と離婚もした
子どもと夫と大喧嘩をするから
自分が別かれればいいと思って
子どもと一緒に家を出た。
でも、子どもは外に出ようとせず
ニートのままだった。
どうすればいいのか?
自分がなにかを子どもに言うと
ほっといてくれと大声。
もう、私は何も言えずただ黙って
家事をし仕事をし
一日がくれる。
子どもがもし働いていたとしても
私はもくもくと今と同じことを繰り返していただろうけど
死にたいとは思わないだろう。
涙も流さないだろう。
と彼女はまた、涙をぽろぽろ流した。
何のために生きているのかと。
子どもは38歳だ、まだ若い、きっと、立ち直ってくれるだろうと
それだけを信じようと努力した。
でも、もう、くたびれた・・・・・・

私も一緒に泣いた、泣けてきた、ただ黙って二人泣いた。
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子どもの誤飲、たばこ最多 おもちゃのみ死亡事案も

2017年01月02日 01時52分00秒 | ものがたり
子どもの誤飲、たばこ最多 おもちゃのみ死亡事案も
2016年12月27日 (火)配信共同通信社

 厚生労働省は26日、2015年度の病院モニター報告で寄せられた「子どもの誤飲事故」286件のうち、たばこの誤飲が63件(22・0%)で2年連続最多だったと発表した。医薬品・医薬部外品が48件(16・8%)、プラスチック製品が40件(14・0%)と続いた。死亡事例は1件で、9カ月の男児が直径10ミリ程度のおもちゃを誤飲し、呼吸困難を発症した事案。
 厚労省は「誤飲があれば直ちに医療機関を受診してほしい」とし、特に子どもにおもちゃを渡す際は、誤飲の可能性がある点に留意するよう呼び掛けた。
 全国16施設の協力医療機関のうち、8施設の小児科が診察した事例をまとめた。たばこの誤飲の中には、車内のドリンクホルダーにあった吸い殻入りのコーヒーを飲んでしまった事例などがあった。
 一方、公益財団法人「日本中毒情報センター」が収集した家庭用品の吸入事故とみられる事例(1201件)では、殺虫剤が269件で最多だった。
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ある時のある一瞬の記録

2015年12月19日 23時01分45秒 | ものがたり
私は救急車に乗せられた。
びっくりした。
なんで?私?
あの方でしょ、私は大丈夫。
私はそう思いながら、なぜ車がぶつかってきたか分からなかった。
気が付いたら、車体が回転していた。
あー、もうだめか~
命は大丈夫かもしれないけど、もう、終わる、かな?という変な覚悟的感情。

私は、なぜか、中央線を越えていた。
目の前にはさっきまで何もなかった道路に車があって
ぶつかってきた。
そう、突然カーブから、家の影から、車が飛び出してきた。
その車がぶつかってきたと思っていた。
でも、それは、私の思い込みで
本当は、私が加害者。
中央線を瞬間的には見出し、1秒も経たない間に、
家影から現れた車にあたったのだ。

私の車は多分一回転くるっと回った。
どん、どん、どん、どん、と、4回車はダウンドした。
トランポリンでジャンプしたときのような柔らかな衝撃?
そして車が止まったときは
宙に浮いていた。

シートベルトに乗っかった形で、宙ぶらりんになっていた。
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ナース

2014年11月27日 12時12分35秒 | ものがたり
私には愛情がなかった。

その人は言う。

仕事はお金さえもらえばよかった。
食べることに苦労したくはなかった、
「でも、怠けてはいけないと思う、一生懸命どんな仕事でもやる
仕事に尊卑はない、どんな仕事でもありがたくさせていただく」と思っていた。

それで、この会社に勤めて、総務の仕事につけた時は、ありがたいと思った。

一生懸命、遅くまで残り、徹夜まがいのこともしたし、泊まりの出張にもよく行った。

結婚ができて、子どもも二人、核家族で頑張った。

夫を愛してきた、子どもも愛してきた、と思っていた。

でも、それは形にミスがないように、気を配っていたに過ぎないと、
本当は人間嫌いで、暗い性格なのに、明るく振舞って、他人様のお世話大好きな顔をして、

気づいてはいた、それが、無理に演じるピエロだと。

今、父にいじめられていた母、母をいじめていた父を嫌い
抱きしめてくれなかった母に同情せず、
ひたすら、家を出ようとしていた思春期、
でも、年老いた父母は自分が看ようと、覚悟はしていて、
その、見返りに、子たちの面倒をみてくれる存在として、
表には出さない打算の若いころ・・・・・・・・・

その人は言う。

還暦を迎え、逝った母と父を思い、長期の病気のわが子を抱えて
やっと、自分の薄情な心を知った。

子は当然親として義務をはたす対象の存在だったとしかかんじていなかった
成長した子達の行く末は自分たちでやってくれれば
母なる私は外国に行って、貧しい国の貧しい子たちのお世話ができればなんて
大それたことを想像していたけれど、
それは、心からの愛情ではなくて
自分を認める体裁ではなかったか?

その人はそう言って
今までの自分を振り返っていた。

子の一人は離婚して、男やもめになっていて
子の一人は難病で
残った一人の子はまだ結婚せず・・・・・・・・・・

その人には、姉と兄がいた。

でも、遠いところにいて、疎遠になっている
でも、甥と姪は幸せそうな様子で、仕事に頑張っている。

私は優等生、人生の優等生、どんな波にも負けなかったとその人は言う。

ナースはその物語をだた聞いていた。
その人が今糖尿病で闘病し、初めて、自分には本当の愛がなかったと気づき
人々のふれあいの尊さを知ったと語っているその姿を、じっと見つめていた。

ナースは自分にもそんな似たところを感じながら
ただ、うなずいて。


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ナース

2014年11月17日 10時19分31秒 | ものがたり
「少女の頃、泣いてばかりいた自分。
12歳、小学校を卒業、両親の不和で泣いた。
それから、初恋をして、叶わず泣いた。
それから、夫の不倫で泣いた。
私も不倫して泣いた。
子どもが死亡して泣いた。
もうこれ以上泣く事柄はないと思って泣いた。
でも、今、また、泣いている。
今の私は、何もかもが悲しい出来ごとになって、泣いている。」

そんなお方に出会った。

「不和だった両親は、今はなんなく生きていて
離婚して一人ぼっちの私より幸せそう。
私は今、定年前、腰痛があって、普通に働けなく
不安ばかりがつのっていく。
そして、涙ばかり出てきて、仕事も休みがちです。」

このようなお方に、名医はどう答えるのだろう
名カウンセラーはどう、対応するのだろう

ナースは、とりあえず、腰痛の軽減のため、受診を勧めた。
不眠については、今まで通りの受診継続で、様子をみていく。
そして
悲しくなったときは、泣きましょう。
泣いて泣いて、涙を流して、自分の不運を泣きましょう。

でも、あなたには、大卒の息子がいて、その子の子どもの頃の苦労を思い出しましょう。
可愛かった太った男の子の笑顔を思い出しましょう。
今、自分の足が元気なのを思い出しましょう。

そして、空の青さや、海の深さ、雪の輝き、月の明かり、風の心地よさ。

ナースはその方の手を握った思いでそれだけが言えた。

今、また、その方を思い出すナースだった。
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松江と椿 ぜひ読んでみてください。

2012年10月09日 10時44分17秒 | ものがたり
松江と椿 ぜひ読んでみてください。
http://peshimane.s3.zmx.jp/kenkyu/pdf/2005s.pdf#search='%E6%9D%BE%E6%B1%9F%E8%97%A9+%E6%A4%BF+%E9%8A%80%E5%BA%A7+%E5%85%AC%E5%9C%92'

上↑にはぜひ、写真もありますので、覗いてください。

松江国際文化観光都市建設法の目的
第1条
この法律は、松江市が明媚な風光とわが国の歴史、
文化等の正しい理解のため欠くことができない多く
の文化財を保有し、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
の文筆を通じて世界的に著名であることにかんがみ
て、同市を国際文化観光都市として建設し、その文化
観光資源の維持開発及び文化観光施設の整備によっ
て、国際文化の向上を図り世界恒久平和の理想の達成

「神々の国の首都」松江における緑豊かな文化的景観の継承
林 秀 樹
1, はじめに
人間の営みから生まれ、育てられてきた「文化的景観」が注目を集めている。平成16(2004)
年には、文化財保護法が改正され、人々の生活または生業および地域の風土により形成された景観を文化的景観として位置づけ、文化財の一つに加えた。また、「美しい国づくり」めざし「良好な景観」をまもり育てる景観法が成立した。
「知られざる日本の面影」や「怪談」などで日本を世界に紹介した明治時代の小説家、小泉八
雲(ラフカディオ・ハーン)が亡くなり、平成16(2004)年10月で100年を迎える。小泉八雲は、明治23(1890)年松江市へ中学校の英語教師として赴任し、積極的に県内各地を探訪した。その後、旧松江藩の藩士の娘だった小泉セツと結婚し、松江とのゆかりが深い人物である。小泉八雲没後100年の記念行事が、松江市を中心に数多く開催され、多くの市民が小泉八雲を偲んだ。
小泉八雲は、出雲の国「松江」を「神々の国の首都」と呼び、この地方に残っていた日
本の古くからの文化伝統を体感し、水と緑の調和した美しいまち「松江」を賞賛している。
八雲は、目覚めを告げる早朝の鐘の音や物売りの声、宍道湖から発生する霧や夕焼けの太陽の色を愛で、自宅の日本庭園でのくつろぎから、松江の心象風景を多くの著作で紹介し
ている。
ここでは、小泉八雲と「歴史並びに文化的景観」について、考えてみたい。
2, 国際文化観光都市「松江」
松江という地名の由来は、意外と新しく、慶長16(1611)年に堀尾
吉春が亀田山に城を築き、白潟・末次の二郷をあわせて松江と称したこ
とに始まる。松江という名称は、宍道湖に面した風景が中国浙江省松江
に似ていることから名付けられたと言われている。
江戸時代には、堀尾氏3代、松平氏10代の城下町として栄え、都市の基礎が築かれた。
明治4(1871)年、廃藩置県によって県庁が置かれ、明治22(1889)年4月、全国の3
8市とともに市制を施行し、松江市が誕生した。当時の市域4.78平方キロメートル、
人口35,513人であった。
その後、昭和9年から35年にかけて8回にわたり周辺の村を合併、また、公有水面の
埋め立てなどを経て、現在の市域となっている。平成17(2005)年3月には、平成の大
意宇杜合併により、5町1村と合併し、人口211,500人、面積572平方キロメートルの
県都に生まれ変わる予定である。
この間、昭和26(1951)年には、松江国際文化観光都市建設法が制定され、奈良市、
京都市と並んで国際文化観光都市に指定された。ここにも小泉八雲が松江の水と緑の美し
さを賞賛し、世界に情報発信した成果がうかがわれる。
昭和40(1965)年には、松江市市民憲章が制定されたが、第1項に「きれいな水とみ
どりにいろどられた美しいまちにしましょう。」と謳われている。小泉八雲の意志を継いで、
その後も、水と緑が調和したまち「松江」のまちづくりが今日まで連綿として進められて
いる。
3, 古事記、出雲風土記の時代から受け継いだ緑
松江市のある出雲地方は、古事記にも多くの記述があるように、古代出雲文化圏を形成
し、古墳や神社などの多くの歴史的遺産が残されている。スサノオノミコトがヤマタノオ
ロチを退治する話は、古事記に書き残された出雲を舞台とする一大神話である。
松江市の郊外には、スサノオノミコトがまつられている八重垣神社があり、境内地の背後
には、スギの巨木やヤブツバキなどが生い茂っている小さな森がある。その森の中には水
が枯れることなくわき出ている「鏡の池」があり、恋占いや良縁を祈る若者の参拝が絶え
ない。小泉八雲は、八重垣神社の参拝を紀行文として残しており、この森を聖なる森と崇
めている。
森は、古くから「佐久佐女(さくさめ)の森」と名付けられ、大切にされてきた。神話
の時代からの守り育てられた森が、現代の「松江市緑のマスタープラン」にも重要な緑として位置づけられている。
天平5(733)年に編纂されたといわれている「出雲風土記」は、唯一編纂年代がわかっている完本の風土記である。その中に、都市のシンボルツリー原点となる森の記述があり、現在もその小さな森が「意宇杜(おうのもり)」として、残されている。
出雲風土記の一大叙事詩である「国引きの神話」では、国引きを終えた神が、杖を立てて「おえ」と国造りの完了を宣言する。今でも、大きなプロジェクトが完成すると記念樹を植栽する。この意宇杜(おうのもり)は、日本の記念植樹の事始めであろう。
現在の意宇杜(おうのもり)は、かつてそびえ立っていたタブノキが風雪で倒れ、小さ
な樹林となってしまっている。しかし、出雲国庁の遺跡が点在する松江市郊外に2000
年近い歴史ある杜は、地域住民の手で守り、受け継がれており、いつかは大木として蘇る
と期待される。
昭和41(1966)年から、意宇杜(おうのもり)周辺で出雲国庁跡の発掘が始まり、昭
和46(1971)年には、これらの遺跡が国指定の史跡に指定された。このような経過を受
けて、古代出雲文化を引き継いだ文化遺産の保存展示を求める県民のニーズが大きな高ま
りを見せた。
風土記植物園
東京銀座の出雲ツバキ
そのため、古代を偲ぶ古墳公園として、市民の憩いの場として、さらには、歴史を学ぶ
場として、昭和47(1972)年に「八雲立つ風土記の丘」が開園された。公園面積は、4.4ヘクタールとなっており、園内には島根県内では最大規模の古墳「二子塚古墳」があり、新たな歴史景観と21世紀に引き継がれる美しい緑が創出された。
「八雲立つ」とは、出雲にかかる枕詞であり、出雲風土記のはじめに出雲と名付けた所以と記されている。ラフカディオ・ハーンの日本名「小泉八雲」の名もこれにちなんでいる。この
「八雲立つ風土記の丘」には、出雲風土記に記されている植物を植栽展示し、風土記の時代の自然と人間生活の関わりを学ぶことができる「風土記植物
園」が併設されている。
4, 出雲発東京銀座の修景緑化
先に述べた八重垣神社の門前にあるツバキは、縁結びのツバキとして有名である。小泉八雲も八重垣神社の紀行文の中で、「なお、一つ見ておくべきもの」として、このツバキを紹介している。
推定の樹齢は400年を超えるといわれている、ご神木である。このツバキは、根元付
近で、2本の幹が合体している。また、時として葉脈が二つに分かれる連理葉を生ずることもあり、「連理玉椿」としてあがめられている。
また、ツバキは、松江市の「市の花」に選定されている。古く藩政の時代から椿油を殖産産業として市民生活と密接に結ばれるとともに、連理玉椿や松江城山公園内の椿谷、大名茶人「松平不昧公」の茶道における茶花として、市民に親しまれていることから、昭和49(1974)年に市の木「松」と併せて選定されたものである。
東京銀座は、徳川幕府が慶長8年から海岸埋め立て造成したまちである。松江藩が、今の銀座七丁目から八丁目付近を普請けしたことから、その地は出雲町と名付けら、通りは出雲通りと呼ばれていた。明治5(1915)年その地に花椿を商標とした化粧品会社が創業された。その椿の商標は、松江の八重垣神社の玉椿をモチーフにしたといわれ、出雲通りには出雲椿の街路樹があったことから、近年は旧出雲町界隈の通りが「花椿通り」と呼ばれるようになっていた。
平成5(1993)年、歩道の改修に伴い、再び出雲椿を銀座花椿通りに植栽することとなった。東京で最もにぎわいのある銀座の街路樹として、東京の修景緑化に出雲椿が寄与している。小泉八雲の言う「神々の国の首都」から日本の国の首都に緑が送られたのである。
5, 松江市の都市公園づくり
湖畔公園の夕日
雲と夕日が絵巻物のように変化。小泉八雲の描写のうまさにより「日本
三大夕日」の一つに。
明治の松江城と桜
松江市における都市公園の始まりは、昭和32(1957)年3月に城山公園、嫁が島公園及び北公園(当時は北運動公園といった。)の開園である。それまでも市民の憩いの場としての公園はあったが、都市公園として位置づけられたのは、これが最初である。
その後、昭和34(1959)年3月には、小泉八雲が湖に沈む夕日を絶賛した宍道湖湖畔に末次公園および白潟公園が開設された。
昭和40(1965)年12月には、松江国際文化観光都市建設計画
公園事業として、江戸時代からの苑地である楽山を公園として再整備が始められ、この頃から市民のあいだで体力増強の気運が高まったことから、楽山公園内に松江市の公園では初めてのテニスコートが設けられた。
昭和46(1971)年12月には市民のレクリエーションの場として、また、体育向上に寄与するため、松江総合運動公園が都市計画決定され、大規模な公園づくりが本格化した。
平成の時代に入り、機能性や効率性を追い求めていた昭和の終わ
りの反省から、潤いややすらぎ、快適性を求める声が高まり、小泉八雲が絶賛した宍道湖の景観を守る県民運動が起こった。そのため、島根県では、平成3(1991)年に「ふるさと島根の景観づくり条例」を定めた。宍道湖の景観を生かしたまちづくりとして、市内の河川や松江城の周辺に巡らされた堀の水と緑のネットワークづくりが開始された。
神々の国の首都と称せられる松江の緑豊かなまちづくりは、時代の要請を機敏に察知し、
市民の協力と理解を得て、日々進められている。
6, 江戸時代からの緑の継承
・城山公園
宍道湖の北、標高28メートルの亀田山に松江城が立っている。この城は、関ヶ原の戦
いで手柄を立てた堀尾吉晴が、慶長1 2(1607)年から5年の歳月を経て建設したも
のである。鳥が羽を広げたように美しいことから別名千鳥城と呼ばれ、天守閣の最上階か
らは松江の景色が一望できる。明治維新後、最後の藩主松平定安が島根県に譲渡されたが、明治23(1890)年には再び旧藩主松平家に払い下げられたが、昭和2(1927)年に松平
家から松江市に寄付されたものである。
写真でもわかるように明治の終わりには、桜が植えられ、市民の憩いの場となっていた
ようである。桜の名所としての城山公園は、平成の今日まで引き継がれており、平成2年
(1990)年には、日本さくらの会により「日本さくら名所100選」に選定された。これ
は、毎年桜の咲く4月には、毎年「お城まつり」が開催され、桜の花の下でのお茶会や安来節新人コンクールや郷土芸能などの各種イベントで賑わっている。
城山公園が正式に都市公園として位置づけられたのは、昭和27(1952)年3月に都市計画決定してからであり、昭和31(1956)年に歴史公園として供用開始した。
・楽山公園
楽山公園は、江戸時代の松江藩主松平家の別邸として整備された林泉苑地を都市公園としたものである。
江戸時代の楽山は、藩の公称「御立山」通称「お山」と呼ばれた。寛文元年に二代目藩主綱隆が整備したもので、弁財天の祠を配した小島に修景を施した弁天池を中心に、天満宮など数社を祀り、御茶屋を設けた。山内には、このほか馬場、弓場、鷹場、薬草園、花
畑等を配置した。この苑地は、論語の「知者楽水、仁者楽山」からの雅名を「楽山臨水」とし、茶室である御茶屋に「楽山御茶屋」「臨水御茶屋」と称した。
今日残る各地の藩主別邸は、参勤交代で江戸を往復する中で、江戸の大庭園に刺激され、
回遊式庭園を造成するなど人工的な造園を施したものが多いが、楽山は、自然林の美しさ
を取り入れた自然風致苑であった。公称「御立山」とは、「お留山(おとめやま)」であり、
現代の風致保安林のように伐採を制限し、御立山奉行が森林の管理に当たったと言われて
いる。
楽山は、藩主の別邸であり、通常は一般には公開されていなかったが、
苑地内の社寺の縁日など特定の日には一般に開放され、多くの行楽客で
にぎわったという。さらには、楽山内の各茶屋は藩主専用のものであったが、苑内の神社の参道には、一般庶民の飲楽の場として御茶屋を設け、門前町として整備されており、現代
のテーマパークの様相を呈していたと思われる。
明治維新後は、御茶屋も撤去され、社寺も移転した。楽山の荒廃を惜しむ地域住民は、松平家に協力し「楽山保勝会」を組織し、維持管理に努めていたが、昭和13(1938)年に松平家から地元の川津村に寄付され、楽山公園として、市民憩いの場となった。都市公園としての位置づけは、さらに月日を要し、昭和32(1957)年3月に松江城山公園に次ぐ二番目の都市公園として、都市計画決定がなされ、昭和41(1966)年に都市公園として供用開始している。21ヘクタールの面積を誇る総合公園として、市民憩いの場となっている。
国体開催時の運動公園
岡本太郎作「神話」
日本の都市公園の始まりが、明治6(1873)年の太政官布告による公園の設置であるが、
最初に指定されたのは、当時庶民の物見遊山の場であった東京の浅草や飛鳥山であったこ
とを考えると、松江の楽山は、都市公園指定が遅れたとはいえ、明治のはじめから公園の
体をなしていたものと思われ、文化的景観としての偉大な遺産と言えるものである。
6,スポーツの祭典「くにびき国体」の開催と公園づくり昭和57(1982)年島根県で第37回国民体育大会が開催されることが決定した。昭和40年代後半から、島根県内で
は、県民のスポーツへの関心が高まり、各都市では野球場等の運動施設を中心とした運動公園の整備が始まっていたが、この国体開催が決定されたことから一挙に運動公園の整備
が促進された。
県庁所在地である松江市では、国体の開会式を挙行できる運動公園の整備が急務の課題となった。
そのため、昭和48(1973)年12月に松江総合運動公園が国体の主会場となるべく都市計画決定され、本格的な運動公園としての整備が着手された。昭和51年(1976)年に野球場を中心に開園された。引き続き陸上競技場等の整備を進め、昭和57(1982)年の「くにびき国体」では、主会場として「このふれあいが未来をひらく」をスローガンに盛大な開会式が挙行された。
運動公園の中央広場には、島根県とのゆかりの深い芸術家である岡本太郎が制作したモニュメントが設置された。全国から「神々の国の首都」松江にやってきた多くのスポーツマンを迎えた高さ6メートルのモニュメントは、「神話」と名付けられた。20世紀にできた新しい「神話」を小泉八雲が見たらなんと表現しただろうか。
この運動公園は、今でも市民の健康とふれあいの場として利用されているだけでなく、
多くのスポーツ大会が開催され、松江市活性化の拠点の一つとして活用されている。
くにびき国体から約20年経過した平成16(2004)年には、全国高校総合体育大会が
島根県を中心に開催されることとなり、平成15(2003)年度には50メートルプールや
温水プールを持つ中国地方でも有数の県立プールや全天候型のテニスコート等が建設され
るなど、運動公園としての施設の充実が図られている。
7,宍道湖を巡る水と緑のネットワーク「水の都松江」
松江は水の都と称されるように、日本で6番目の大きさを誇る宍道湖に面し、中心市街
地には、大橋川や天神川が流れ、松江城を取り巻くように松江堀川が水をたたえている。
かつては、どぶ川と化していた松江堀川も周辺の下水道の整備を集中的に行い、また、
平成6(1994)年から清流ルネッサンス21事業を実施したことにより、大幅に水質改善
され、松江堀川本来の姿を取り戻した。
県庁庭園と松江城
日本の代表的庭園家重森完途作
松江堀川の浄化にあわせ、水辺の植栽を進めるなど修景緑化を進め、平成9(1997)年
度から松江城周辺の堀川を巡る「堀川遊覧船」が就航した。年間利用者数は30万人を超
え、まちの緑と水を活かしたまちづくりが、大きな観光資源とている。
小泉八雲が絶賛した宍道湖の夕日を鑑賞するベストスポットには、松江湖畔公園が整備
されている。この公園は、昭和34年開園した都市公園であり、城山公園に次いで古い公
園として、市民だけでなく、観光客も多く訪れていた。
公園の一角には、平成11(1999)年に島根県立美術館が開館した。この美術館は、水
をテーマにしたコレクションで名高いだけでなく、夕日の美術館として、日没の変化にあ
わせ閉館時間を変えるなど、ユニークな運営で利用者からの支持が高い施設である。美術
館の開館にあわせ、公園の再整備をはかり、治水を担当する国土交通省、都市公園を整備
する松江市および美術館を建設する島根県の連携のもとに、水辺とふれあい、水と緑が調
和した湖畔公園として開園した。また、宍道湖の北岸には、アール・ヌーヴォー様式のル
イス・ティファニー庭園美術館が開園するなど、宍道湖周辺の公園化が進んでいる。
8,松江市・緑豊かな景観の継承と展望
松江市の緑の基本計画によると「松江市の緑としては、宍道湖や大橋川の水、
郊外の緑や都市内の先人たちから引き継いだ城山や楽山の緑などがあり、全体と
しては、水と緑の自然環境に恵まれた都市である。」と述べられている。都市公園
の整備では、平成15(2003)年度末で一人あたりの公園面積11.6平方メー
トルと全国平均を上回っている。
しかし、松江市の全景写真を見てわかるとおり、城山公園や楽山公園などの歴史的遺産
と松江総合運動公園などの郊外の大規模な都市公園に負うところが大きく、市街地の緑が
少ないのが実態である。
松江堀川の周辺では、水と緑のネットワークづくりが始まり、街路樹やポケットパークなど町の中心部にも緑が整備され始めた。
これら、松江市街の緑豊かな景観を守り育てるためには、市民参加が不可欠であるということから、松江のまちなかの緑について考え、実践していく「グリーンフィンガー倶楽部」が結成された。
市民参加型の文化景観の育成は、21世紀の松江を緑豊かなまちとするための、大きな力となると思われる。
歴史が培った文化的景観を守り育てることは、小泉八雲が「神々の首都」と賞賛した「新しい八雲立つ出雲のくにづくり」に他ならない。


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ものがたり「いのちゃんの夏」

2012年04月26日 23時54分38秒 | ものがたり
ものがたりいのちゃんの夏



ぼくは、いのしし年に生まれたので、「いのちゃん」と、おかあさんはいう。
だいたい、一番ぼくの味方でないといけないのに、どうしてそんな!?
といつも思うのだが、おかあさんもいのしし年生まれなので、
自分のことを「おいのちゃん」という。
「おいのにまかせとけ」
とか
「おいのにまかせろ」
とか言っていつもぼくを助けてくれるから、
文句が言えない。
だからぼくは「おい、いの」といってやる。
そうするとかならずおかあさんは「おいのちゃん」でしょ。
といって、かならずかならず言い換えさせる。
そのときのおかあさんは、
それはそれはかわいい声だ!
いのししってそんな声ださないよって思うけど。

そんなおかあさんでも
ひとつだけどうしてもできないことがある。
これだけはどうしてもぼくができなくても、助けられない。

もうすぐ夏がくる。
夏が来るとプールが始まる。
今年来るとぼくは3年生だから、3回目だ。
今までは、まだ、泳げない友達がいたので、
ぼくは、気が楽だった。
でも、その友達もスイミングスクールに行って、泳げるようになった。
でもぼくはスクール行っていない。
おかあさんは、「泳げなくったって平気、だって、おかあさんも泳げないんだから」
といって、スクールに通えと言わない。

ぼくはいやだ、もし、通えといわれても、ぼくはいやだ。
「いやだいやだ、こわいこわい。」
これにはわけがある。

ぼくが、2歳のとき、海にみんなで遊びに行った。
その時、ぼくはおかあさんの背中におんぶされて、船を待っていた。
海まわりの観光船に乗るため、海に突き出た船着場で待っていた。
ぼくは安心してきょろきょろまわりを見渡していた。
すると突然、ぼくは水の中、ぶくぶくぶくぶく、
「つめたーい、」
「息ができなーい!」
なにがなんだかわからなかった、
まわりは青くぼーとして、
ぼくは一人ぼっちになった。

気がついたら、ぼくはお父さんにだっこされて、
息ができるようになった。
近くにおかあさんがいて、「わーーー」と言っていた。

みんなはなにもなかったように船に乗り、
船底から海を見ていた。
おかあさんもにこにこしていた。
ぼくはなんにもいえなかったし笑えなかった。
だからぼくはそれから水の中に入れなくなったのだ。

「あーーー、いやだいやだ。」

でもだれも、ぼくが、水がどうしてきらいか知らない。
だって、おかあさんの失敗で
おんぶしていたぼくを海のなかに落としたのだから。

おかあさんは1度だけ、
おばあちゃんにぼくが落ちたことを話したことがあった。
「するっと背中からすべって落ちたのよ!」
(まるでぼくが悪いみたい)
「そしたら、港でしょ、5メートルぐらいはあったでしょ、あれよあれよと
沈んでいったんよ。」

それからぼくは
水に入れなくなったんだ。

プールが近づく、プールが近づく・・・・
どうしよう、どうしよう・・・・
ぼくはいつもイメージしながら、寝る。
広い海に一人、すいすいと泳いでいるぼく、わーい泳げたぞ!!
でもその日はなぜかこいでもこいでも先に進まない、
おかあさんの声が聞こる。
「いの、いの、がんばって、がんばって」
その時だ、おおきな黒い魚が近づいてぼくをおしあげた
やっと、海の上にあがって息ができた。
でも、それからまた、すすすーーーと沈んでいく、
たいへんたいへん、ばたばたばたばた、
いや、すいすい
いつものイメージトレーニングのクロールをする。
でも、だめ
くるしいーーーー
気が遠くなりかけたとき、ぼくの鼻の頭にふうせんができて
すっと息ができる。
あれっと目をあけると、黒いいのししが旗をふっている
すると、小魚たちが沢山集まってくる。
ぼくの鼻のさきには、すでに小魚が集まって、口から泡を出している。
ぶくぶく、聞こえる
そうか、わかった ぼくは小魚がつくった空気をすっているのか
そうするたくさん集まった小魚たちで、
空気のふうせんは大きくなった
ぼくがばたばたしてもこわれない
やったーと思った
ぼくはふうせんからもらった空気をふっとはいた
ふっとはいたら、ふっとすいたくなった
はいたらすっと沈む
そのとき、イメージした顔つけをしてみた
顔を横にしたら、鼻がふうせんにでた、
もっと横にしたら口も出た
そこで、はっと息をすった
あ、これ、はじめて!!

こんなふうにはいてすうのか
ぼくはうれしくなった。
そして、泳ぐのを止めて、
いつも、せんせいが言っている、
顔をつけたら、息をはいて、、、、、
顔を横にしたら、口をとがらせ、
魚のようにはっとすった。
そうすると自然にからだが横になって浮いてきた。
小魚たちは一生懸命に海の上の空気をすっとすって、
まるい風船のなかに空気をはいた。
ぼくが手を動かして前に進むと
ふうせんも前に動いた。
前のほうに黒いいのししがいる。
笑っているように見える。
黒いいのししは旗を持って、小魚たちをリードしていた。
ぼくはもう夢中になってすってはいてのクロールをした。
すっと軽くすって、ゆっくりはくと
ちっともせつくならない。
そうするぼくは海の上にでた。
もうふうせんはいらない。

しょっぱい水がときどき口の中に入ってくる
ごくんとのむ
でももうしずまない
ちかくに旗を持ったいのししは?と思って見渡すと
旗をくわえたイルカがいた
下のほうに足と毛が残っている
あ、いのししがイルカなった!!!!
そうか、イルカの祖先はいのししだったんだ?
そんなことがこころに浮かぶほど
ぼくは余裕だった。


「いのちゃん、よくやったね」
イルカがいった
ぼくも大きくなったらイルカになるのかな
だって、いのししどし生まれだから?

すいすいおよげる
ぼく。

たのしい いのちゃんの 夏

(おわり)










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いいお話に出会いました

2011年08月19日 10時24分33秒 | ものがたり
ひび割れ壷
水汲みの職人がありました。
 ふたつの壷を天秤棒にかけ 
 ご主人のために毎日水を運んでおりました。
 片方の壷にはひび割れがあり 水がこぼれて
 ご主人のもとに届くころには いつも半分しか残っていませんでした。

 もう片方の壷はいつも満足していました。
 なぜなら 自分の作られた目的を果たしていたから。
 ひび割れ壷はだんだんみじめになり 
 自分を情けなく思うようになりました。

 一年がすぎ 二年が経とうとしていました。
 ひび割れ壷は とうとう水汲み職人に話しかけました。
 「ごめんなさい。」
 「どうして謝るの?」と水汲み職人。
 「ひび割れたわたしのせいで毎日水がこぼれ、
 あなたの仕事を増やしてしまいました。」

 水汲み職人は 悩める壷に優しく声をかけました。
 「今度歩くときに 道端の花をみてごらんなさい。」

 いつもの丘に登った時 壷ははじめて
 道端に咲くきれいな花に気づきました。
 「あぁ わたしは今まで何を見ていたのだろう。
 自分の足らなさばかりに気をとられ
 こんなにたくさんの花がのびのびと咲いていることに 
 気づかなかったなんて…」

 けれど屋敷に着いたとき 
 やっぱり水は半分しか残っていませんでした。
 ひび割れ壷は思わずつぶやきました。
 「やっぱりわたしはだめだな…。」

 水汲み職人は とうとう言いました。
 「気づきましたか? 花はあなたの側にしか咲いていなかったでしょう。
 わたしはあなたのひび割れに気づいて 
 あなたの道側に種をまいておいたのです。
 歩くたびにあなたから水がこぼれるので 
 種が芽を出し、花が咲きました。
 わたしは毎日 ご主人の食卓に花を飾ることができました。
 あなたのおかげで… そのままのあなただからこそ…。」

いいお話に出会いました。
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ものがたり わたしがすき

2010年09月28日 07時58分37秒 | ものがたり
わたしはわたしがすきです
いまのままのわたしがすきです
一生懸命生きてきた
くたくたになるまで生きてきた
夫に多くのお金を使い
子どもに多くのお金を使う
一生懸命働いたお金のほとんどを
夫と子供のために使ったわたしがすきです
一生懸命働いているわたしがすきです
ののしられても
うらぎられても
たたかれても
むしされても
のりこえてきたわたしがすきです
だって自分を嫌いになったら
かわいそうじゃあありませんか
こんなに人のことを心配し
気にかけ
いのちを使ったわたし自身を
きらったらかわいそうじゃあありませんか

娘の夫が浮気をして娘をうらぎりました
なんてかなしいことでしょうか
娘がおちこまないように言葉をかけますが
ほんとうはわたし自身が傷ついて
この世をうらんでしまいます
なんてわたしは男運が悪いんだろうとおもいます
最後にこの世の男たちは
このような形でわたしを傷つけるなんて
まったく予想していませんでした
いやいやまだまだ
孫が20歳になるまで生きてはいないかもしれませんが
あるいは生きているかもしれませんが
孫の夫もまた孫を裏切っていくのでしょうか
結婚って信頼の上での契約です
男を信じていなかった私は
結婚は信じました
最後の思いでした
でも夫は結婚前の女と別れてはいませんでした
だから私は打ちひしがれて結婚を破棄しようとおもいました
でもおっとは承知しませんでした。
むこうと別れるといい
わたしとの別れを選びませんでした。

たった一人この世で信じた、信じようとおもった人、夫
が、
そのようで人であったことに失望し
いえ絶望し
私は幽霊のようになったのでしょうか?
顔はかわいらしく笑っても
心を男の心を試す女になっていきました
夫が裏切ったからその恨みからではありません
この世の男とはどういうものか
信じるに与えするものなか否か
確かめたくなって
結果、夫を裏切っていきました
罪の意識はありませんでした
確かめたかったのです
男とは信じるに与えする存在か否か

夫との関係は信頼のない単なる男女
セックスの相手でしかなく
ただたまたま同居している男でした
幸いに子もでき夫婦の形、家庭の形は維持できましたから
はたからは平和に家庭を守っている殊勝な女に見えたことでしょう。

男遍歴をするみだらな女になっていきました
でも
結果、私は、男とは信じてはいけない存在
かりそめの存在
動物的な存在
結果、私は、男が嫌いになりました

男たちは死んで行きました
初恋の人は62歳で、ボーイフレンドは25歳で
私を犯したあいつも28歳で列車事故に会い
そして夫は54歳で変死を遂げ


娘は今哀しみのどん底にいる

この世の男はわたしを不幸にしていった
わたしはなんて男運がわるいんだろうと

おしどり夫婦なんてこの世にいないんだ
みんな偽りの関係なんだ、
みんなみんな仮想の姿なんだ
そんな風に思っている

でもそんなわたしが好きです

なんていとおしいのでしょう
なんてかわいそうなんでしょう
そんなわたしをわたしが嫌ったらかわいそうじゃありませんか

男は信じるに足りる存在ではない
私のそばにいる男性は男性という皮を着た人間
姿は男だけれど、男ではない、
そしてわたしは女ではない
男でも女でもない人間の子ども時代のように
わたしは女でなくなっている
わたしが信頼する男性は男ではない
自然にそう思っている

しかし、人間は人殺しをする
恐ろしい存在
それはそれで現実だからそれを受け入る
しかたがない
だから私も人をあやめるかもしれない
そう思えてきてがそれでいいと思え
だからといって人を殺したからといって
いや男を殺したからといって
この世から男がいなくなるわけではないし
そんな男のままの存在で子をもうけ
男を信じないままこの世を送り
死んでいってもいいじゃあないか
男をなじることはやめよう
男は信じてはいけないのだ
信じたわたしがばかだったそんな歌の文句のように
生きて行けばいい
そうおもって生きているいまのわたしが好き
わたしを愛そう
わたしはいとおしい

この世の男は嫌い
それでいいじゃあない?
男性と話してないわけではなく、明るく一生懸命に話してはいるけど
その瞬間彼は男では無くなって性のない人間になっている

そんなわたし
それでいい

空のようなわたし

わたしがすき
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ものがたり 悦子

2010年05月31日 02時13分25秒 | ものがたり
悦子はいつか聞いたことを、手帳にメモしている。
「自分がいるから苦悩がある、自分がいなくなれば、これほど心地よいものはない」
夫は今心地いいのだろうか、苦悩なく、心地いいのだろうか・・・・・・・
夫はこの世にいない。



『14歳 夏 中学2年生 彼女は彼女の恩師に処女を奪われた』
という過去をいつも背負って生きていた。
彼女は彼を憎むことで生きていた。
彼女が彼を憎むようになったのは、彼の心が分からなくなってからだ。
「なぜ彼は私を拒否したのか?」
という問いが彼女の心を覆いだしてからだ。

14歳、中2の春、悦子は音楽の勝部先生に誘われて合唱部に入って練習をしていた。
でも その前、1年生の時からバレー部(当時排球部とも言った)に入っていた。
だが、合唱の練習をするようになって、バレーの練習に出る日が少なくなっていた。
バレーはまだまだ3年生の活躍の時、2年生はボール拾いが主な仕事であり、秋になってから頑張れば良かった。
だから、バレー部を止めたい気持ではなかったし、音楽の先生から誘われたことが嬉しくて
歌は楽しく歌えて、生き生きしていた。
合唱部は夏のコンクールに向けて練習をする。それが終わればもう練習はないのだから、悦子にはなんの矛盾はなかった。
そんなある日、担任の山下先生に呼ばれる。
「木村先生が今日当直で、話があるから、泊まりに来てほしいって言ってるので、行きなさい。」
木村先生はバレー部の先生で、私に話があるって、どういうことだろう?
そう思いながらも、悦子はやましいところはみじんも感じていなかったので、先生に呼ばれることは一種のうれしさもあって、夕食後、るんるんと自転車を走らせて、学校へ行った。
悦子は成績優秀な子であった。入学式の時は新入生代表で挨拶もした。
でも、まったく、むじゃきな子供であった。

当直室で木村先生は待っていた。
「あー、来たか。まあ、上がれ」
小さい机に向かって悦子は座り、先生は向かいの床の間の前に座っていた。
「おまえ、合唱部に入ったそうだな」
「はい・・・・」
「なんで、バレーやめるのか?」
「いいえ」
「ほんなら、合唱部はやめろ」
「・・・・・・・・・・・・」


今日も悦子は憂鬱であり、死をイメージしている。
いや、すでに死んでいるとまで思える。雨だからかもしれない。もう三日も降っている。
山陰の女であっても、せいぜい二日である、雨の暗さに耐えられるのは。
三日目となると憂鬱となる。
この雨の中、過去を思い出している。
今日は憂鬱な人に会う仕事だ。
だから、憂鬱なのだろうか?
そればかりではない、ゆうべの夜更かしもあたっている。
ゆうべはネットのニュースを見ながらブログを書いていた。
寝不足だから憂鬱だろうか?
そんなことを思いながら、憂鬱に耐えている。


白すぎる肌の真ん中に毛むくじゃらの場所がある
鏡の前でそれを発見した時、身震いした。
その少し上には貧弱な隆起が二つ
それを確認した時、身震いした。
悦子のコンプレックスはそこから始まった。
初めはそんなに不快ではなかったが
中学2年で処女を失ってからそれらをまじまじと見て
これはなに?これはわたし?これがどうなの?
と股間に鏡を挟んで見るうちに、その存在が不快になった。
際限なく不快になって、身震いするほど不快になった。
それから、自分に嫌悪し、嫌いになり、いやだと思い、
コンプレックスへと成長していったのだ。
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山陰道を走る

2010年04月17日 21時22分47秒 | ものがたり
わ――――――――と騒いだことあり
わ――――――――と一人で大声あげる

出雲市長浜~松江市への高速道路走行中
わ―――――こわいぃぃぃーと声あげる66婆の私

今日は長浜工業団地に出張
行きは9号線おっちらおっちら走らせて、
斐川町からのバイパスに乗る。
これも、緊張、初めてなので、どこまでバイパスなのか分からない
長浜団地に曲がるところの手前でバイパスが終わり
もとの9号線になるかどうか不明
と不安なるも、
新しい神戸橋を渡ると無事もとの9号線に合流。
やれやれ~
助かった~
と長浜に入る信号を発見(だがしかしうっかり見過ごすところ、工事中で道はくねくね~)
帰りは、同伴のお方の後ろを付いて、高速を走る
みんな速い
時に100kな私。
あれよあれよと同伴のお方は前に行ってしまう
道はゼットコースターのごとし
尾根から尾根に道は走り
長―――いトンネル次々と

しかし
早く着いた
43kmはあっただろうか
35分で松江に入る
行きは75分かかったのに
ゼットコースターにのれない私
こわくて心臓が止まりそうになるから
姫路の遊園地に乗ったのが15年前
それっきりこわくて乗れない高所恐怖症

この高速も畑や田んぼははるか下
家など判別できないほど小さくまた瞬間に通り過ぎるので見えやしない

は~~~~
ほんとにこわかった
かつ
850円高速代金払う
なんか損したのかなって思ったり・・・・

9号線をのったりのったり走って1時間以上かかった方がよかったかな~
なんも用事のない私
早く帰ったからってなんの得にもなりゃしない
しかし、高速はだいたいどこも山の尾根を走るか
前は空と小さな山のでこぼこを見るばかり
今どこを走っているのかてんで分からない
風情も何もあったもんじゃない
まあ、ひたすら目的地めざして飛ばす
飛ばすことの好きな人はきもちいいだろうな~とは思う。

これも慣れ慣れか~
まあ、後ろがつかえても、70kで走るかだ
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やはり私は考える・・・・・のです

2010年04月04日 01時36分08秒 | ものがたり
やはり私は考える・・・・・のです
胃に穴をあけて(胃瘻)
無理やり栄養を入れて
施設に入れ
長生きをさせ
精神性のない生き方をさせ
死までの数年で○千万使わせる。

【胃瘻(いろう)とは、主に経口摂取困難な患者に対し、人為的に皮膚と胃に瘻孔作成しチューブ留置し水分・栄養を流入させるための処置。病気により感染症を起こしている場合や、痩せすぎ等の場合には手術に留意が必要。】


それでいいのだろうか?

私はいやだ
生きた屍のようになって
ベットの上で横たわっているのは嫌だ
確かに
お風呂も入れてもらえ
おむつも替えてもらえる
人間的に介護してもらえる

でも嫌だ
いまさらおむつはしたくない
いまさらさらしものになるのはいやだ

胃瘻(いろう)までして生きたくはない

外国の死文化では胃瘻(いろう)までして生きさせるところはないときく

母が死したのは平成9年で、当時は食べれなくなったら胃瘻(いろう)というのは自然死から離れていない感覚があり
母には胃瘻(いろう)をしてもらった
歩けるのに、食べれない・・・・・・
つまり飲み込めなくなったのだ。
「もっと食べなきゃ、だめじゃない」
というのに
なかなか口を開けないのだ
母は腕~手の左半身不自由であったが、右手で一人で食事ができていた。
それが、なかなか食べなく、時間が来ても食事は多く残っている。
母の主治医先生は外科医で
看護職である私が四苦八苦して食べさせている
それでも夕食が食べれなくなって1週間も経つと
先生は胃瘻(いろう)しようと言ってくださった。
「あー 助かった」と思った。
家族が3度3度食べさせてやるわけにはいかないし、
病棟ナースの方も、長時間かかって食事介助はできないし
迷惑をかけたくなかったし。

おかげで母はやや元気になって
施設に入所。
「ぼけ」てはいなかったけど
私に対しては意思表示はほとんどなく
施設のリズムを黙ってこなしていた。

でも、
ゆっくりと
点滴のように
乳液様の栄養が胃に入って行く時は
非常に苦痛様の表情をして
硬く目をつむり
びくりとも動かず緊張して横になっていた。
それを見て私は母はこれでいいのだろうか
そんなにも胃に食物(流動食)を入れるのが嫌だろうか
と思った。

でも
母はまもなく逝った。
胃瘻(いろう)はしたけれど
心不全があったからか
歩行器で歩けていたけど
朝方逝った

死の数日前面会に行った時
施設のみんながなにやらテーブルに向かって楽しんでいるのを
歩行器につかまって
たったまま微笑みながら見ていた
母はみんなと手作業はしていない
手が不自由だからできないから
そんな時はベットに帰って腰かけたりしていたから
そんなふうにたったままみんなを見ていることはなかったから
「おや?おかしいな?」と私は思い
足を見るとかなり腫れていた。
おやおや腫れるほど長く立っていたのか?と思いながら
ベットに帰させた。

母の死はそれから1週間も経っていなかった。
朝4時から6時の間の見回りの間にこと切れていたとのこと。
だから、病院に運ばれることなく
人工呼吸器もつけられることなく他界した。
急死に近いかな~
きっと、心臓が生き切ったと思った
もともと心臓が弱かったから
急死できたかな?とも思ったり
それにしても、いつもと違うぞと思ってから、やっぱり~とも思ったけれど
それでも急死であって朝6時に電話があって時はびっくり仰天だった。

足の腫れ方が尋常ではなかったから
死は近かったにはちがいない
母は頑張り屋であったから「しんどい」ということは一度もなかった
施設にいることは自宅にいるよりも哀しかったに違いないとは思うけれど
父は母の介護はできないし、より高年齢だから
生活のために私は働かなくてはいけないし
施設にお願いするよりほかなかった。

母は69歳で脳梗塞になり
半身不自由になったが、ほとんど麻痺がわからないほどにリハビリで回復する
そして、12年間、私と孫と同居して、家事もしながら孫を見てくれた。
ありがたかった、母がいたから私は働けた。
私には42歳で産んだ子がいたので、
平成9年はまだ12歳であり、まだまだ、働かねばならなかった。
母が逝った歳は82歳、私は54歳。

母は急死であったが、老衰に近いほど生き切ったと思う。

そこで、胃瘻(いろう)は必要だったかと、考える。



母はベットに横たわってはいなかった。
でも、自宅で生活は無理だったのか?

考える66婆は自分はどうしようかと迷うから。

母の足の腫れは心臓症状だったかもしれない。

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