フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

1月31日(水) 晴れ

2024-02-01 14:05:29 | Weblog

8時、起床。

バタートースト、つくね団子汁、目玉焼き、ソーセージ、サラダ、牛乳、珈琲の朝食。

昨日のブログを書く。背後の窓辺にチャイがいる。

「今日で一月が終わりますね」

「歳時記」には「一月尽」という季語は載っていない。季節の移ろいを伴う言葉ではないからというのが理由らしいが、なんだかつまないに理屈に思える。一年の最初の月が終わるというのは何かしらの感慨があると思うのだが。

成績付の作業を終えて(「ライフストーリーの社会学」以外)、1時半頃、昼食を食べに出る。

車道の真ん中に手袋の片方が落ちている。車道は厳しいかな。

今日のランチは矢向エリアで、と昨日から決めていた。

「ノチハレ珈琲店」へ行く。

ドアを開け、一瞬、満席かと思ったが、入口横のカウンター席が空いていた。

マヨたまトーストとアイスカフェオレを注文する。

美味しい。どうやったらこの熱々トロリ感が出るのだろう。

食事を終えて、持参した『ショージ君、85歳。老いてなお、ケシカランことばかり』を読み始める。著者が母校(早稲田大学)を久しぶりで尋ねる「遠ざかる青春 懐かしき早稲田の町を歩いてみれば」を最初に読む。既読感がある。2018年に書かれたエッセーなので、初出のときに読んでいるのかもしれないと思い、念のためブログ内検索をかけてみたら、1年前、本書が出版されたときに購入していることがわかった。やってしまった。ただ、珍しいことではない。

支払いのとき店主さんから「マヨたまトーストはうまく作れるようになりましたか?」と聞かれる。前回、来たときに、マヨたまトーストを家で作るのは難しいという話をしたのである。私は勘違いしていたのだが、あらかじ卵とマヨネーズを溶いたものをパンにのせて焼くのではなく、マヨネーズでパンの周辺に土手を作り、そこに卵を落とすのである。でも、それだと、目玉焼きになって、クロックマダムみたいな出来上がりにになってしまわないのだろうか。

まぁ、自分で上手く作れなくても、ここに来れば美味しいマヨたまトーストが食べられるのだから、それはそれでいいんじゃないかと思う。

矢向駅に戻る途中の道に小さな子ども用の手袋の片方が落ちていた。

矢向駅前から「パン日和あろや」に電話して、席が空いていることを確認して、いまから伺いますと伝える。

線沿いの道を歩く。

創価学会の「幸文化会館」という建物がある。「幸文化」とは「カルチャー・オブ・ハピネス」の意味ではなくて(知らない人が写真だけみたらそう誤解するだろう)、川崎市幸(さいわい)区にある文化会館という意味である。

10分ほどで「パン日和あをや」に到着。

先客はいなかった。

ホットチョコラとチーズパンを注文する。「ノチハレ珈琲店」のマヨたまトーストとアイスカフェオレと合わせて本日の昼食である。

マダムにマヨたまトーストの話をしたら、私の話と私が「ノチハレ珈琲店」で撮った写真からマヨたまトーストを作ってみてくれた。ベースになる食パンが違うから、同じ触感というわけにはいかないが、だいたい再現できていた。マヨたまの部分を熱々トロトロにしようとするとパンが焦げてしまうというジレンマは、「弱火で長めに焼く」ようにすればよいのではとのアドバイスを受けた。そうか、いままで「強火」で焼いていたな。

4時過ぎに蒲田に戻る。矢向エリアでの滞在時間は2時間ほどだった。

帰宅して、少し横になってから、今日が締め切りのレビューシートのチェック。

夕食は鱈のソテー野菜あんかけ、蓮根のきんぴら、ごはん。

食事をしながら『ジャンヌの裁き』第2話(録画)を観る。検察審議会がそんなこと(再捜査みたいなこと)までやるのかという点でどうも無理があるドラマのように思える。

デザートは苺。

今日の午前中に注文した本が夜には届いた。

 中島道男『清水幾太郎の闘い』(東信堂)

著者は私と同い年の奈良大学名誉教授で、これまでデュルケイムやバウマンやアーレントや丸山眞男の研究書を出されてきた方だが、本書は書きおろしで、清水幾太郎に関する論文も発表されていなかったように思う。なので清水研究におけるオールド・ルーキーの登場に大いに驚いた。

「本書の狙いは清水の思惟構造をとらえようとすることである。そのためには、個々の政治的・社会的出来事に対する清水の清水の時事的な発言・対応といった、表面に現れたものだけでなく、その由って来るところを見ないといけないだろう。「左」だからよい、「右」だから悪い(あるいはその逆)といったとらえ方ではなく、清水の思想をとらえなければならない、というのが本書の立場である。」(「序章 読解のスタンス」より)

これまでの清水研究の中では庄司武史のスタンスに近いといえよう。庄司が清水の思想の本質にプラグマティズムを見ている点も共有している。ただし、庄司が本の中であまり多くの頁を割かなかった清水晩年の「右傾化」についても相応の頁を割いている点が目を引く。

「ここでは、「右傾化」ではなく、「国家の前景化」と呼ぶことにしたい。「右傾化」であると指摘すればもう批判できた、という安直な見方に陥らないためにも、「国家の前景化」の方がより適切だと考えられるからである。晩年の清水においては、国家が前景化しているのだ。」(「第4章 国家の前景化」より)

その通りだと私も思う。ただし、本書がカバーしている清水の著作リストの中に最晩年の著作『「社交学」ノート』が入っていないのはいささか気になるところである。清水はそこで自身が主宰した「清水研究室談話会」をケースとしてスモールグループにおける「社交」の重要性について語った。一方に「国家」という大きな集団を置き、他方に「社交」というスモールグループを置いた(清水は「家族」に対して過度な期待をすることをよしとしない)。現代人にはこの両方の集団へのコミットメントが必要なのだと。この両極性、そのバランスというものは、清水晩年の思惟構造を捉えるためには見逃してはならない点だろうと私は考える。

じっくり読んでみたい本であるが、300頁を越える本なので、電子書籍版があるとありがたい。

風呂から出て、23時59分に締め切られたレビューシートのチェック。

今日の日記を付けて、1時半に就寝。

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