8時半、起床。
トースト、ハンバーグ、目玉焼き、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。
朝からボリュームのある食事になった。最初、冷蔵庫の中に残り物のカレーのパックを取り出して電磁レンジで温めたら、それはカレーではなくハンバーグであった。ハンガーグ本体がデミグラスソースの中に隠れて見えなかったのだ。温めてしまった以上食べねばならなくなり、成り行き上、目玉焼きを焼いてハンバーグに添えたらこうなったのである。
昼食は冷やす中華。今シーズン初である。個人的に秋の三大味覚は秋刀魚、カキフライ、松茸ご飯だが、夏の三大味覚はなんだろう。秋ほど熱心に考えたことはないが(「絶対食べたい!」というほどのものがないので)、冷やし中華は有力候補だろう。後の二つは、そうだな、鰻重(丼)とカキ氷かな。いや、鰻重(丼)は通年メニューだから、非該当か。冷やしソーメン+天ぷらあたりかな。どうしても冷やし系のものになりますね。
私が食後の散歩に出ようとすると、妻が神社(女塚神社)に旧いお札とお祓いの形代(ひとかた)を納めて来てと言う。
形代は手のひらにのるサイズの紙人形で、ここに氏名と年齢を書き、息を三度吹きかけてから、身体を撫で回す。つまり自分の分身を作るのである。
これを6月29日(日)にお焚き上げしてもらうのである。「非科学的」な行事であるが、「非科学的」なことは必ずしも悪いことではない。私はこれまでの人生で妖怪とか幽霊とかと出くわしたことは一度もない。ご先祖様の声を聴いたこともない。けれどその存在を否定しようとは思わない。そうした想像力ないし創造力は人間の社会、人々の生活を成立させている本質的な要素の1つであるからだ。ついでに言えば、「科学的」ということも一つの信仰である。
社務所は閉まっていたが(受け付けは15時50分まで)、賽銭箱の横にお札と形代を納める箱が置いてあった。
「ノザワBAKE」に寄る。ところが、今日はテイクアウトのみだという。「日曜日なのにどうして?」と聞くと「壁から水漏れがして・・・」と悲しそうにおっしゃる。それは大変ですね。ヴィクトリアスポンジケーキとプレーンビスケットをテイクアウトする。
駅の方まで足をのばす。サンロードカマタ商店街のアーケード。「ほしいもの、きっとみつかる」。ベタなキャッチコピーである。糸井重里(おいしい生活)以前である。その昭和レトロな感覚が痛いような、懐かしいような。
「テラス・ドルチェ」に入る。
店内に入るまではアイスコーヒーを注文するつもりだったが、冷房がきついので、ホットにする。上着を着て来て正解だった。それでも寒いけどね。これからの季節、あちこちで冷房がきつくなり、暑いのに上着が欠かせないというパラドックスが発生するのである。みんな8年前の震災の後の節電のことなどすっかり忘れてしまったようである。
帰宅して、書斎のパソコンに向かいながら、「ノザワBAKE」でテイクアウトしてきたビクトリアスポンジケーキを食べる。
夕食はラムチョップ、サラダ、揚げの味噌汁、ごはん。
ラムチョップの付け合せはズッキーニと玉ねぎのソテー。
本棚を整理していたら、こんな本が出来てきた。潮出版から1969年から70年にかけて出版された『講座 日本の将来』全8巻の第5巻である。当時購入したものではなく古書店で購入したものである。
巻頭論文の清水幾太郎「人間の条件」が読みたくて購入したのだと思う。清水の肩書きが「前学習院大学教授」となっている。この年の3月末に彼は定年まで10年近くを残して学習院大学を辞めたのである。
読みだしたら止められなくなり、長いものではないので、最後まで読んだ。彼の著作の多くを読んでいる私にはとくに目新しい内容のものではなかったが、文章の旨さに引っ張られて最後まで読んでしまった。清水の文章の内容については多くの人が論じているが、その文体についてはちゃんと論じたものがないように思う。 この夏に別のテーマで清水に関する原稿を書く予定にしているのだが、文体という側面から論じてみるのも面白い気がしてきた。
2時15分、就寝。