今日は東京都知事選挙の日。投票に行く前にインターネットで候補者の一人、外山恒一の政見放送を視聴した。いや、面白かった。彼の政治的立場は選挙制度というものを少数派の抑圧装置であるとして、直接行動に訴える古典的なアナーキズムなのだが、面白かったのはその語り口である。伝統的な大道芸人、たとえば蝦蟇の油売りとか、バナナの叩き売りとか、そういった人たちの磨き上げられた語り口を彼は継承している。ストリート・ミュージシャンというのが彼の肩書きらしいが、ストリート・ミュージシャンも一種の大道芸人であるから、その肩書きは正鵠を射ている。投票所は私の母校、相生小学校である。投票の後、しばし校庭の桜を眺める。
桜はまだ頑張っている
間もなく店仕舞いをする誠龍書林でオール半額セールをやっていたので、以下の本を購入。喜多方ラーメン小法師で葱ラーメンを食べてから、シャノアールで読書。私の隣に座った若い男がチョコレートパフェを注文して、それを抱えて食べながら雑誌(「アエラ」か何か)を読んでいたが、あまり見栄えのよいものではなかった。私はたまたま珈琲を飲んでいたのだが、もしクリームソーダであっても、彼と私の品格の差は歴然としていたはずである。チョコレートパフェとクリームソーダのどこか違うのかといぶかしく思う人がいるかもしれないので説明を加えておくと、クリームソーダが基本的に「飲む」ものであるのに対して、チョコレートパフェは「食べる」もので、それもかなり長い時間をかけて例の長いスプーンでパフェを口に運ぶ動作を繰り返さなくてはならない。見ていて気忙しいし、本を汚す恐れもある。チョコレートパフェは本を読みながら食べるものではない。
H.J.ラスキ『信仰・理性・文明』(岩波書店)
山田耕筰『自伝 若き日の狂詩曲』(大日本雄弁会講談社)
J.ネルー『インドの発見』上下(岩波書店)
8時を数分過ぎた頃、TVでは「石原慎太郎当選」のテロップが流された。開票が始まってすぐならまだしも、まだ開票が始まってもいないのに出口調査の結果を根拠にしてそんな先走りをしてよいものだろうか。節操がないことはなはだしい。これはある意味、選挙制度の否定である。選挙は不要。世論調査があればいいということになるからだ。
二文の3年生で1年生のとき私の基礎演習の学生だったY君からメールが届く。昨日のフィールドノートで私が「たかじ先生」という呼称を提唱したことに対するコメントで、実は、当時の基礎演習のクラスの学生たちは私のことを「たかじ」と呼んでいましたとのこと。そうじゃないかなと薄々気づいてはいたが、やっぱりそうであったか。思うに、「たかじ」というのは何となく苗字のような語感がするのではないか。たとえば「あわじ」「つかじ」「うかじ」「かわじ」…これみんな苗字である。「たかじ」はこの類の言葉に感じられるのではなかろうか。なお、彼らが「たかじ先生」ではなく「たかじ」と言っていたことに関しては、親しみの表れとして好意的に受け取っておくことにする。そういえば、私がこのフィールドノートにときどき劇評を書いている、娘の大学の演劇研究会の面々も私のことを「たかじ」と呼んでいるらしい。
桜はまだ頑張っている
間もなく店仕舞いをする誠龍書林でオール半額セールをやっていたので、以下の本を購入。喜多方ラーメン小法師で葱ラーメンを食べてから、シャノアールで読書。私の隣に座った若い男がチョコレートパフェを注文して、それを抱えて食べながら雑誌(「アエラ」か何か)を読んでいたが、あまり見栄えのよいものではなかった。私はたまたま珈琲を飲んでいたのだが、もしクリームソーダであっても、彼と私の品格の差は歴然としていたはずである。チョコレートパフェとクリームソーダのどこか違うのかといぶかしく思う人がいるかもしれないので説明を加えておくと、クリームソーダが基本的に「飲む」ものであるのに対して、チョコレートパフェは「食べる」もので、それもかなり長い時間をかけて例の長いスプーンでパフェを口に運ぶ動作を繰り返さなくてはならない。見ていて気忙しいし、本を汚す恐れもある。チョコレートパフェは本を読みながら食べるものではない。
H.J.ラスキ『信仰・理性・文明』(岩波書店)
山田耕筰『自伝 若き日の狂詩曲』(大日本雄弁会講談社)
J.ネルー『インドの発見』上下(岩波書店)
8時を数分過ぎた頃、TVでは「石原慎太郎当選」のテロップが流された。開票が始まってすぐならまだしも、まだ開票が始まってもいないのに出口調査の結果を根拠にしてそんな先走りをしてよいものだろうか。節操がないことはなはだしい。これはある意味、選挙制度の否定である。選挙は不要。世論調査があればいいということになるからだ。
二文の3年生で1年生のとき私の基礎演習の学生だったY君からメールが届く。昨日のフィールドノートで私が「たかじ先生」という呼称を提唱したことに対するコメントで、実は、当時の基礎演習のクラスの学生たちは私のことを「たかじ」と呼んでいましたとのこと。そうじゃないかなと薄々気づいてはいたが、やっぱりそうであったか。思うに、「たかじ」というのは何となく苗字のような語感がするのではないか。たとえば「あわじ」「つかじ」「うかじ」「かわじ」…これみんな苗字である。「たかじ」はこの類の言葉に感じられるのではなかろうか。なお、彼らが「たかじ先生」ではなく「たかじ」と言っていたことに関しては、親しみの表れとして好意的に受け取っておくことにする。そういえば、私がこのフィールドノートにときどき劇評を書いている、娘の大学の演劇研究会の面々も私のことを「たかじ」と呼んでいるらしい。