大橋社労士の気まま日記

仕事上のエピソードや日常の出来事、日頃興味を持ったことなどを随時ご紹介していきます。

モーツアルト

2007-01-27 19:45:09 | Weblog
今日(1月27日)はモーツアルトの誕生日です。1756年のこと。
そういえば、昨年は生誕250年ということで、それにあやかったイベントなどもあり注目度が高かったことが記憶に新しいところですね。クラシック音楽に興味のある方はもちろんのこと、普段はそんなに聴かない方も去年はモーツアルトの音楽をけっこう耳にしたのではないでしょうか。

さて、モーツアルトはよく「天才」と称されます。しばしば「努力肌」のベートーベンなんかと比較されたりもします(ベートーベンについてのことは12月16日の項を参照下さい)。

彼にはその天才ぶりにまつわる色々なエピソードが残されています。
2歳の頃にもうピアノが弾けたとか、5歳の時ピアノ協奏曲を作曲したとか、10歳ですでにオペラを書いたとか、交響曲をたった2時間で書き上げたとか・・。いずれも凡人ではできないようなことばかり。
とにかく頭の中には常に色々なメロディーがとめどなく流れていて、ただそれを楽譜の上に落すだけだから別に苦労も何もしないし時間もかからないというのが彼の見解ですが、もうその時点で天才の域ですよね。

彼の音楽を聴いていますと、今述べたような“メロディーの勢い”みたいなものを存分に感じることができます。これほど才能に満ちあふれた豊かな音楽を作れる作曲家はもうこの世に出てこないのではとまで思ってしまいます。理屈抜きで音楽の楽しさを存分に味わうことができるとも言えるでしょう。

よく「オススメの曲は?」と聞かれますが、これは一番難しい質問です。好みは人それぞれですし、またその時の気分によっても異なってくるからです。
ただ、しいて挙げればこの5曲。
「ホルン協奏曲第1番」「歌劇フィガロの結婚・序曲」「ピアノ協奏曲第22番の第3楽章」「交響曲第39番の第3楽章」「トルコ行進曲(ピアノソナタ第11番の第3楽章)」でしょうか。

モーツアルトってすごいなあ~、音楽っていいなあ~というのを実感させてくれること請け合いだと思います。何かの折にでもぜひ聴いてみて下さいな。
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なぜ国分寺なのか?

2007-01-21 13:22:09 | Weblog
(特に名刺交換をした際に名刺の住所を見て)よく次のように尋ねられる。「元々こちらの方なのですか?」と。
「いいえ。出身は愛知県です。」と答えると、判で押したように「なぜ国分寺で開業されたのですか?」とくる。

この質問は答えが非常に難しい。このブログを頻繁にご覧の方や私をよく知る人は、ここに至るまでの経緯が複雑であることはよくご存知のはず。まあ、つまりひと言で説明がつかないということですね。これは自分の生い立ちから学生時代のこと、そして卒業後の職歴から資格を取るまでの経緯なんかに至るまでのことを話さないと答えが出せないのです。

では、ここでなるべく簡単に説明いたしましょう。

大学を卒業後に入社した会社は東京が本社の会社でした。一人っ子の長男ということもあり、大学を卒業したら地元に戻る予定でしたが、時はバブル崩壊後の就職氷河期。もちろん自分の力不足もあったのですが、全く就職が決まらず、土壇場で何とか引っ掛かったのがこの会社(結局独立前までこの会社に勤めることになるのですが)。
で、どういうわけか最初の配属先が大阪に。総務部に配属になり、そこで任された仕事が「給与計算・社会保険事務・人事労務に関すること」だったのです。

入社後3年ほど経ち、そこそこ仕事にも慣れてきた頃。ふと考えました。「このままこの会社にずっといたとして自分はどうなるだろう?」と。別な言い方をすれば、この先課長になり部長になるという想像がまるでできなかったのです。
折しも会社の体制が変わり、少しずつ将来の不安も頭をかすめるようになってきました。

「とりあえず国家資格を取ろう!」と思いました。自分の今やっている仕事に近いものの方が取りやすいだろう。というわけで、調べてたどり着いたのが「社会保険労務士」。もし合格したら独立開業することしか頭にはありませんでした。
(実は受験を志すまでこういう資格が存在することを知らなかったのです・・。)

軽く志したものの、いざ勉強を始めてみると、これが非常に難しい。合格率8~9%ですし、仕事をしながらだとなかなか勉強時間が取れない。
で、結局資格を取るのに4年も費やしてしまったのです。

その間に自身は本社のある東京に異動となっていました。本当は会社(西新宿)に少しでも近い所ということで杉並区あたりに住もうと思っていましたが、とても家賃が高くあきらめることに。次いで、なるべく通いやすい中央線沿線で郊外の方でと思っていたら、当時の上司がネットで2~3物件を探してくれまして、それが国分寺だったのです。
何というか都会と田舎がごっちゃに混ざったような土地柄が何となく気に入り、また家探しにあまり時間もかけたくないので住むことにしました。

ですから、国分寺に住んでいるのはたまたまなのです。いわば偶然の積み重ねで何となく住み始めて住みついてしまったということなのです。
もっといえば、地元での就職がかなわなかった結果、大阪を経てたどり着いたのがここなのです。

では、「なぜ独立開業にあたって地元に帰らなかったか?」ですが、答えは簡単。仕事をする上でのつてや人脈が名古屋には全くなかったからです。開業したのは東京生活がちょうど3年の時。決して人脈がたくさんあったわけではありませんが、全くのゼロから始めるより1か2ぐらいから始められるかなあと思ったのです。
言ってみれば、これも偶然のつみかさねです。もし、大阪にいた時に合格していれば大阪で開業していたことでしょうし、そもそもその場合、東京(国分寺)という地に足を踏み入れることはなかったでしょうから不思議なものです。

「たら・れば」を言ってはいけませんが、もし社会に出て最初に与えられた仕事が経理的なことだったら会計士か税理士になっていたかもしれませんし、飲食関係の部門だったら今ごろ飲食店を経営しているかもしれませんから、人生とは本当にわからないものです。
だから、今から5年後とかに今まで全然住んだことのない土地で、全く違う仕事をしている可能性だってあるわけですね。

簡単に・・と言っておきながらけっこう長くなってしまいましたが、ご理解頂けましたでしょうか?
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もう12年

2007-01-17 09:14:50 | Weblog
そう、あの阪神大震災から今日でもう12年になるんですねえ。
なんだかつい最近の出来事のような気がしますが・・。
当時は私(←大学生でした)、京都に住んでいましたので、決して“遠くの出来事”ではございません。

幸か不幸かその日は試験休みで実家に帰省していたので、大地震の揺れそのものは体験しておりません。
ただ、下宿や街が何となく心配で(この時点ではあれほどの大被害になっているとはまだ情報が入ってなかった)すぐにすっ飛んで帰ったことを覚えています。といっても、新幹線はじめ交通機関がマヒしていたので、ずいぶん大回りした上にすごい長時間かかって移動しました。

京都の街はそれほど大きな被害もなくわりあい“普通の状況”でしたが、そう安心したのもつかの間、テレビをつけてみて神戸の街の被害の深刻さに大変な衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えています。

街じゅうが火の海、高速道路やビルは根こそぎなぎ倒され、という状況に目を疑いました。日頃慣れ親しんでいるよく知っている所だからこそ現実が信じられませんでした。

関東地方でも「そろそろ大地震が来る」と言われて久しいですが、まだまだ真剣味が足りないような気がします。特に都内を歩いていますと、(阪神大震災の現地での実体験者としての目で見て)「あっ、ここ危ないな!」という箇所が山のようにあります。実際に被害が起こってから結果を論じたり責任のなすりあいをしても遅いですよ!
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賀詞交歓会

2007-01-16 12:05:30 | Weblog
昨日は社労士会武蔵野支部の「賀詞交歓会」でした。
まあいわゆる新年会の大きいやつだとイメージ下さい。

来賓に国会議員さんや市長さんや都議会議員さん、行政機関(社会保険事務所とか労基署など)や東京都社労士会のエライ人なんかも集まります。
もちろん我々武蔵野支部の現役社労士も大勢参加しています。総勢120名ほどのけっこう大々的な新年会です。ちなみに会場は、吉祥寺のホテル東急インです。

で、私は恐れ多くもその会の「司会者」! しかも去年に引き続き2年連続。
来賓の紹介とか肩書きなんかが長くて舌噛みそうになる(笑)。
とりあえず、サプライズ的なこともなく順調に進行し、大きなチョンボもなく2時間余りの会も何とか無事に閉会することができました。
さすがに飲み食いは満足にできなかったですね~(→その分、二次会でガツガツ食いました!(笑))
まあ、自身2回目ということもあり、去年よりは落ち着いて司会できたかなあって思います。が、こういうのって自分の評価と他人の評価は得てして違うものなので、さて実際はどうだったことやら・・。

ご参加のみなさん、そして事前準備などで一緒にお手伝いしたみなさん、何かとお疲れさまでした~。


(上)会場内の様子(ちょっと暗いかなあ・・)                     (下)司会中の私(あんまりうまく撮れてない?)
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東京のみたらしはなぜ4つ?

2007-01-12 19:50:22 | Weblog
東京(関東地方)で買う「みたらし」は一串にだんごが4つである。なんでだろう?
関西でも名古屋でもおおむね“5つ”だった。(そして、もう少し丸っこくて粒がひと回り小さめで、かつ味も色も“しょうゆっぽい”。)

角餅と丸餅、あるいはうどんのつゆの違い、さらにはウナギの裂きかたと焼きかたなんかの違いは関ヶ原がその境界線のようだが、こと“みたらしの団子の数”に関しては、どうやら静岡辺りに境界線がある模様だ。

まじめな話をする。なぜ「みたらし」という名前なのかという話である。
「みたらしだんご」の起源は京都の下鴨神社といわれている。ちなみに「みたらし」は漢字で書くと「御手洗」である。ここでカンのいい方はお気付きと思うが、神社の拝殿手前にあるひしゃくで手を浄める所も「御手洗(みたらし)」という。
昔々、下鴨神社の近くで団子屋を営むご主人が「縁日の時に神社の境内の中で団子を売ったら儲かるんじゃないか」と発案して実際に売り始めた。その場所が「御手洗(みたらし)」の近くだった故にその名がついたそうだ。(これには、諸説あるようだが・・。)
また、この団子屋の成功に我も続けと色々なお店が神社の中に“出店”してきたのが縁日の屋台の起こりとも言われている。

そして、だんごの数が“5つ”なのは「五体満足を切に願って」5つなのだそうだ。別に関東地方の団子屋さんにケチつけるわけではないけれど、この起源からするとおかしくはないか?
そもそも「うなぎを腹から裂くのは“ハラきり”を連想するから縁起が悪い」などと気を使う文化圏なのに、“4”では数が悪いではないか。

今回のテーマに「答え」をもってらっしゃる方がいましたら、ぜひレクチャー下さいまし。


ことのついでに「WANTED!」


これを関東地区のスーパーなどで見かけた方はいませんか?
いわゆる“カゴメソース”なのだけれど、「ウスター」ではなく「こいくち」。中部地方では普通に売られています。というか、こっちの方が人気がある。
しょうゆだって普通に「こいくち」を使っているのだからソースだってそれでいいじゃないか。と思う。実際、このソースはとてもおいしい。
こっちで容易に手に入らないので、しょうがなく実家に帰るたびに持ち帰ってきている次第。
情報求む!
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