仏陀の説法の中に、「第一の矢は受けても、第二の矢を受けず」というのがありました。第一の矢は外から自分に向かって発射された毒矢。それに対して第二の矢は、みずからがみずからに放つ毒矢である。
良寛禅師はそれを「禍を受けるべきときは禍を受けるが宜しく候」「これはこれ禍を逃れる妙法にて候」と受け止められたようだ。
「禍転じて福となす」というように積極果敢にはできないが、回り回っていずれ「福となる」こともありうるのである。「福は寝て待て」はしかしあまりにも消極的だろうか。「転じる」というのは「足場を変えて見てみる」ことかもしれない。「それがあったために、今日がある」「その災禍があったために今日の繁栄がもたらされている」ということはよく有る話だ。
第二の毒矢というのは恐怖心を持つという毒矢なのかもしれない。
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