「さようなら」大和言葉のやさしさをしみじみ思う受話器を置きて アメリカ 冷順子 伊藤一彦選 特選 海外作品特選 (NHK全国短歌大会入賞作品集より)
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大和言葉「さようなら」は「またね」とはちょっと違う。ちょっと突き放しているところがある。アメリカ語では「グッバイ」(神さまがみもとにいますように)「See you again」。さようならはもう一度会おうという約束語ではない。切り捨てられた感がある。断崖に来ているという切なさがある。「運命がそういうならばそうしましょう」「そうと決まったのならばそれに従いましょう」「右と左に別れて行きましょう」のニュアンスがある。潔さもある。情を去留に残さないところもある。爽やかな溌剌とした挨拶語でもある。南の島には「思うわよ」という別離の際の挨拶語もあるらしい。「あなたのことをずっと思って暮らします、あなたもそうしてね」という約束だろうか。
作者はアメリカ在住。何をするにしても遙かな遠い国の故国を思う気持ちが高まっていることだろう。やわらかいやさしい平仮名のたった五字「さようなら」が受話器を置いた後でもこころを離れていかない。これにやさしくされている自分を思う。しょっちゅう使いこなしている言葉も身の置き所次第ではこうも密度が違うのだ。
死は訣別である。さようならである。過ぎ来し方に潔く告げられたらどんなによかろう。これで溌剌を取り戻して勇躍して次へ進んでいけるのなら。