1
自利と利他。山の頂上を目指しているときの姿が自利。修行時代だ。自らを叱咤激励させて向上を図る。修行が成って山を下りて人の中へ進んで行くときの姿が利他である。
2
ところがこれがなかなか向上しない。麓をぐるぐる回っているだけで、高くならない。山頂に着かない。着かないうちに人生の日暮れになってしまう。すると一生がただ自分を鞭打つだけで終わってしまう。
3
利他のための自利なのに、自利だけで人生を使い果たしてしまう。利他を一つもなしえないうちに死ぬことになる。利他をする力がついてこなかったのだから、実力行使が出来なかったのだ。おれはなんのために生きたのか、と悲しく寂しくなる。
4
人は人のために生きている。大乗仏教はそう説いている。だから、自己の悟りが到達点ではない。悟りの内容を具体化して実践すること、そこからが仏道の励みだとしている。悟りまでは一人乗り自転車であるが、実践はそうではない。多くの人を乗せて彼岸に渡さねばならないから、船旅になる。
5
自己(じこ)という己を生きるのではない。他己(たこ)という己を生きるようにならなければならない。自己を回る円周から抜けて出なければならない。そして他己という大きな円周を回るのだ。
6
そうすると自己の円周を回っていたときの悲しみ苦しみが変質をする。それがそれで終わりではなかったことが知らされて来る。他己の円周への準備だったことに気づかされてくる。一回り大きくなったのだ。
7
山頂に到達しなかった修行者はどうすればいいか。犬死になのか。苦心惨憺して自己完成を目指した苦労は報われないのか。彼は山を下りて衆生済度を実行しなかったのであるから、片道切符だったのだ。ワンウエイだったのだ。
8
往相廻向をすませたら、彼に待ち受けているのは還相廻向である。往相は往き道、還相は帰り道。廻向とは振り向けることだ。貯め込んだ力を他者に振り向けることだ。
9
浄土往生を果たした者というのは自利に甘んじることはない。極楽浄土の極楽を楽しんでいるだけだったらそれは自利である。悟りに達した者のすることではない。彼はすぐさま引き返して衆生済度に献身するはずである。
10
これでワンウエイが解ける。
11
自利と利他は長い道程である。この世の自利を越えてあの世へ渡るとそこからが利他になっている。
12
そこからがいよいよ活動の時期になる。
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あの世での利他活動に必要なエネルギーは、この世での自利を遮っていた苦しみ悲しみが与えてくれる。とすれば、ここは電力の発電所だったということになる。
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さぶろうは今朝はこんなことを考えていた。ヘリコプターで一気に山頂まで運んでもらうという手段もあるらしい。そうするとあとは山を下って利他の修行に出て行けるという考えだ。しかし、それができる人は幾つもの前世で自利の修行を積み重ねた者でなければなるまい。