徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

寺原(てらばる)界隈

2021-09-13 20:35:52 | 熊本
 熊本城城下町のうち、古町地区は旧藩時代の町名が残り、新町は町名こそ変わったものの、旧町名を表示して町の歴史を後世に伝えていこうという姿勢が見える。
 一方、同じく城下町でも京町や坪井(寺原を含む)地区ではそんな姿勢は全く感じられない。われわれ住民もほとんど知らない旧町名とそこに込められた街の歴史を掘り起こしていきたいと思う。
 今回は手始めに、寺原界隈を歩いてみた。参考にしたのは下の熊本市歴史資料である。

京町観音橋前を橋を渡らず北へ行くと、京町中坂の下から東に南北の通りが二筋ある。御歩行小路(おかちこうじ)である。北側の通りを東へとれば寺原糸橋である。真っ直ぐ北へ行けば家鴨丁(あひるちょう)に出、京町瀬戸口坂の下に出会う。それより真っ直ぐ北へ出れば西寺原舟場村への口へ出る。この口は長岡内膳忠重の請持ちである。この瀬戸口の下から東進すれば北は坪井田畑へ出る小道、直進すれ足軽屋敷の袋丁、そこから南へ折れまがれば寺原大工町の町家である。そして大工町の中程から東へ細い小路を行けば待中橋があり、この橋の向こうは東寺原(俗に向寺原)である。
侍中橋を渡った東寺原の北は東西三筋・南北一筋の足軽屋敷や杣方屋敷(そまかたやしき)その向こうは田畑になる。足軽屋敷の東の一郭に東西二丁・南北二丁の侍屋敷があり、明暦期ごろまでは百姓屋敷であったが、天和年間には有吉四郎右衛門の下屋敷が設けられた。
自川県下では第一大区七小区になり、御座打丁(ござうちちょう)・川東寺原・材木丁・小姓小路(こしょうこうじ)・家鴨丁・中ノ丁・榎丁・寿勝寺丁・同北丁・峰雲院前丁・同南丁が属した。(熊本市歴史資料より)



寺原大工町:大工職人たちが住んでいたことからその名が付いた。現在、寺原地区のメイン道路。


家鴨丁:あひるを取り扱う商人でもいたのか?京町、坪井、新町などには鳥町あり。


材木丁:材木商があったことからその名が付いた。


電信柱に残る旧町名「材木丁」


峰雲院前丁:古刹峰雲院の前の通り。


峰雲禅院:寛永9年(1632)開山。開基は細川家家老・有吉頼母佐英貴。 有吉家とその一門の菩提寺。


小姓小路:小姓組屋敷があったことからその名が付いた。


明治から昭和初期、坪井川土手、今の庚申橋の袂辺りに町芸者たちが住みつき「土手券」と呼ばれた。





大正7年頃の熊本市地図(一部)右下辺りが寺原地区。

バベットの晩餐会

2021-09-12 22:42:17 | 映画
 昨日の深夜、BSプレミアムで映画「バベットの晩餐会」を放送した。時間的に見るかどうかちょっと迷ったが、「デジタルリマスター版」に惹かれて見始め、とうとう最後まで見てしまった。これでこの作品を3回見たことになる。前回、前々回の印象と全く変わらないまさしく名画だと思う。どこかの評論に、この映画を貫いているのは「静謐と清貧」と書いてあったが、そのとおりだと思う。この歳になると静かな映画が好ましい。いかにも北欧らしいどんよりした天候の寒村にひっそりとつつましく暮らし老いゆく人々。鬱々とした毎日はいつしか親しい友にもとげとげしい言葉を吐くようになる。何だか身につまされるようだ。クライマックスの晩餐会の料理は、ほとんどベジタリアンに近い僕には食材を見せられると「ウッ!」となるが、晩餐会の参加者たちがだんだん幸せな表情に変わっていくところが何ともいい。

【あらすじ】
 19世紀後半、重苦しい雲と海を背景にしたデンマーク・ユトランド半島の小さな村。牧師である老父と美しい姉妹、マーチーネとフィリパが清貧な暮しを送っていた。姉妹の元には若者たちや、姉にはスウェーデン軍人ローレンス、妹にはフランスの有名な歌手アシール・パパンが求愛するが、父は娘二人に仕事を手伝ってもらいたいと願い、また姉妹も父に仕える道を選び、申し出をすべて断り清廉な人生を過ごしながら年老いていく。父亡きあと、姉妹の元に家族を亡くしてフランスから亡命してきた女性バベットが、パパンの書いた手紙を携え家政婦として働くようになる。父亡きあと、村人の信仰心の衰えに気付いた姉妹は、父の生誕100年を記念したささやかな晩餐会を催して村人を招待することを思い付くが――。(TCエンタテインメントの作品情報より)




見頃を迎えた「番所の棚田」とその将来

2021-09-11 21:14:42 | 熊本
 山鹿市菊鹿町の観光名所「番所の棚田」はもうやがて彼岸花が見頃となり、1年で一番美しい季節を迎えます。
 菊鹿町観光協会の情報によりますと、例年、その名のとおり秋のお彼岸(9/20前後)に見頃を迎えるのですが、今年は例年より少し早めの開花傾向にあるそうです。8月末から早いところで少しずつ開花を始め、9月10日~20日頃に見頃を迎えるものと予想されるそうです。
 ここ10年ほど、毎年この時季に見に行きますが、気になるのは、年々、休耕田が増えつつあるように思われることです。一昨年、現地で地元の方から気になるお話を伺いました。それは、農家の高齢化や後継者の問題で棚田の維持管理が難しくなりつつあるというお話でした。全国各地の棚田も同じ状況にあるようですが、棚田は先人たちが営々と築き上げてきた伝統文化であり、美しい景観を維持し、国土保全の機能をも有しており、各地で棚田維持のための様々な工夫・努力が重ねられているようです。
 そういう現実を認識したうえで今年も見に行きたいと思っています。

【過年度の様子】












宇土櫓を反対側から見れば…

2021-09-10 20:47:36 | 熊本


 国の重要文化財である熊本城宇土櫓は現在、復旧工事を前に発掘調査が行われている。
 熊本地震前は自由に立入りできた平左衛門丸も工事関係者や発掘調査関係者以外は立入りが出来ないので、いつも上の写真のアングルでしか見ることが出来ないが、現在の状況がどうなっているか反対側のアングル写真で確認してみると。

 もうやがて発掘調査も終了し、復旧工事が始まるようだ。


頬当御門虎口の崩れた石垣越しに眺めると


発掘調査が行われている平左衛門丸西側

秋田県のタミウタ

2021-09-09 18:50:02 | 音楽芸能
 ブログ「案山子の日記」さんの記事に掲載された美しい田園風景が心をとらえて放さない。ここは秋田県南西部の自然豊かな農村。行ったこともないのにとても懐かしい。これが日本人の原風景なのだろう。ご本人の了解を得て転載させていただいた。






 実は、秋田県はまだ行ったことのない数少ない県の一つ。民謡ファンとしては、民謡王国と言われる秋田県に一度は行ってみたいものだ。「秋田おばこ」や「生保内節(おぼないぶし)」などを始め、数多の秋田民謡のうち、僕が一番最初に触れた秋田民謡は「おこさ節」。小学生の頃、三橋美智也の歌で流行っていて、叔父がよく「オコサデ オコサデ ホントダネ」と口ずさんでいたのを憶えている。ほかにも「どんぱん節」や「長者の山」などは耳にする機会が多かった。
 今日は舞踊団花童による下の2曲を再生してみた。

   ▼喜代節(秋田県仙北市の民謡)


   ▼飾山囃子(秋田県仙北市の民俗芸能)

お寺の掲示板

2021-09-08 22:25:15 | 
 普段の散歩だけでは運動不足だなと思い、今日は久しぶりに本妙寺の階段のぼりに挑戦しようと車で出かけた。参道の桜馬場の脇に車を停め、胸突雁木に向かい張り切って歩き始めた。いくつかの塔頭を過ぎ、延寿院の前まで来た時、ふと掲示板に目を向けた。そこには
 「老骨にムチは打てない 砕けそう」
と書いてあった。
 お寺の掲示板にはよく胸に刺さるようなことが書いてある。今日もハッとして肩の力が抜けたような気がした。一番上の清正公像まで登る勢いだったが、胸突雁木を登るにとどめることにした。
 帰りには小萩山のふもとまで山道を車で廻ってみた。車窓から見える秋の草花たちが美しかった。


本妙寺塔頭・延寿院


胸に刺さるお寺の掲示板


美しい秋の草花

出水神社(水前寺公園)の大鳥居

2021-09-07 20:34:02 | 歴史

 ひと月ほど前、ブログ「津々堂のたわごと日録」さんが「この鳥居の写真は水前寺公園入口の出水神社大鳥居と思われるが?」という趣旨の記事を書いておられた。僕は最初、北参道の鳥居ではないかとコメントしたが、昔の出水神社は今よりだいぶ北側にあったというご指摘をいただいた。
 とても興味があったのでいろいろ調べてみた結果、津々堂さんが言われるとおり、水前寺公園入口の出水神社大鳥居に間違いないようだ。
 まず、この写真は絵葉書の「熊本百景」シリーズの1枚なのだが、熊本県博物館の資料によると、この絵葉書が販売されたのは明治後期~大正初期だということ。

 次に下の写真、同じく絵葉書「熊本名所」シリーズの1枚。これは熊本軽便鉄道の安巳橋―水前寺間が開業後であることがわかる。軽便鉄道の開業は明治40年(1907)12月だが、前方に見える水前寺公園入口の大鳥居は明らかに石で造られている。この大鳥居は明治43年(1910)に細川幽斎公の没300年を記念して建立されたもので、継ぎ目のない御影石で造られ、当時は西日本一の大鳥居と言われていたという。



 ということは一番上の写真は木造であり、明治43年よりも前、さらに軽便鉄道が開業する前、つまり明治40年以前の大鳥居だと思われる。高さ10㍍はあろうかという巨木の大鳥居は、絵葉書になるほどの出水神社のシンボルだったことがうかがえる。



 われわれにはなじみの深いこの石の大鳥居は残念ながら平成28年(2016)4月の熊本地震により倒壊し、106年の歴史を終えた。しかし、その石は公園内の石碑などに再利用されているという。
 2年後には阿蘇・西原村の出水神社保有林のヒノキを使って大鳥居が再建される予定。



 水前寺の参道で行われた「水前寺活性化プロジェクト・参道カフェ」で水前寺地区の弥栄を祈り、踊る舞踊団花童(2014年11月)。前方が水前寺成趣園正門。

夜の京町散策

2021-09-06 18:27:34 | 熊本
 晴れた日はまだ日中は暑いので、週に数日は夜に散歩することにしている。普段見慣れた町の風景も夜になるとまた違った表情を見せるから面白い。

    新堀橋の上から西方を眺める。金峰山を始めとする西山の連なりを望む。下は県道熊本玉名線。

    新堀橋の上から反対側に目をやれば、監物櫓石垣の復旧工事の足場が。石垣だけでも来年までかかりそうだ。

    新堀の古刹愛染院は肥後細川藩初代藩主忠利公ゆかりの寺。熊本地震で被害を受けた本堂を建替え中。

    裏京町の草分天神。加藤清正公による熊本城築城時に草むらから発見された祠を祀る。現在は加藤神社末社扱い。

    県道四方寄熊本線(旧国道3号線・豊前街道)と交差する牛縊坂(うしくびりざか)。かつての枡形道路の名残り。

江戸のリアルウーマン ~歌麿が描いた女たち~

2021-09-05 17:47:39 | テレビ
 4年ほど前に放送された「江戸のリアルウーマン~歌麿が描いた女たちの物語~」がBSPで再放送された。檀れいさんのナレーションに聞き覚えがあるので初回の放送も見ているのだろう。ただ、その頃は今回フィーチャーされた「難波屋おきた」の時代より30年ほど前、鈴木春信が描いた「笠森おせん」らの第1期美人画ブームの方に、より興味があったためかブログにも取り上げていない。
 「難波屋おきた」は浅草寺観音堂裏の水茶屋「難波屋」の娘として生まれ、13歳頃から店に出たようだ。15歳の時、喜多川歌麿の目にとまり肖像画のモデルとなる。以降、看板娘として18歳頃までは活躍していたらしいがその後の消息はよくわからないという。
 歌麿が繊細に描く「難波屋おきた」は「寛政の三美人」の一人。江戸中の人気を集めた茶屋娘おきたの日常を通して、江戸の女たちの実像を描こうというのがこの番組の趣旨。
 世は、奢侈(しゃし)に対する幕府の規制が強まった、いわゆる「寛政の改革」(1787~1793)の時代。絵師たちは知恵を絞って幕府の規制を逃れようとした。絵にモデルの名を記載することが禁止されると、右の絵のような「判じ絵」が流行った。
 左上に暗号のような絵が描かれている。すなわち「菜二把」「矢」「沖」「田」を表している。
 江戸後期、浅草寺境内では越後獅子が人気を博していたが、文化年間(1804~1817)にこれを題材として長唄が作られ、さらにその替歌として浅草寺界隈の賑わいを唄う端唄「浅草詣り」が作られた。
 江戸端唄の笹木美きえ師匠によれば「浅草詣り」の歌詞には一部差別的表現が含まれるので、歌詞を変えて唄われる場合も多いという。下の映像で「浅草詣り」を踊るはつ喜月若さんはこの時19歳。難波屋おきたが活躍した年齢とほぼ同じである。


鈴虫放生祭

2021-09-04 22:14:34 | 歴史
 防府天満宮のフェイスブックに今日行われた「鈴虫放生祭」のことが紹介されていたので懐かしくてシェアさせてもらった。
 と言ってもこの祭りのことは知らない。近年になって始められたようだ。ただ、天満宮境内の春風楼に上る坂のことを地元の人が「鈴虫坂」と呼んでいたことは憶えている。
 幕末の女流歌人であり勤王家としても知られる野村望東尼(のむらもとに)が防府天満宮の大専坊に宿泊した際、鈴虫の音に聞きほれたことから「鈴虫坂」の名が付いたという。この祭は望東尼の没後150年を機に始まったらしい。
 防府時代住んでいた社宅から、まだ幼かった子供たちを連れて近くの桑の山によく登ったものだが、その途中に野村望東尼のお墓があった。海・山・川の自然に恵まれ、防府おどりや天満宮の裸坊祭にも参加したり、濃密な2年と10ヶ月を過ごした。あれから40数年が過ぎた。




2019年の「鈴虫放生祭」

女郎花(おみなえし)

2021-09-03 19:57:00 | 日本文化
 雨がやんだ後、寺原田畑へ散歩に出た。降った雨が湯気となって湧き上がるようなまるで蒸し風呂状態。辟易しながら土手道を歩いていると道端に可愛らしい女郎花の蕾が顔をのぞかせていた。
 母がまだ書道をやっていた10年程前、師範から与えられた課題の中に、与謝野晶子の女郎花の歌があったことをふと思い出した。毎回、僕が課題を拡大コピーして母に渡していたのでよく憶えている。

 「山裾の小松が下の赤土に 乏しく立てる女郎花のはな」

 この短歌はその時初めて知ったのだが、女郎花という艶めかしい名の花が乏しく立っている状態とはいったい?としばらく考え込んだことを思い出す。初秋になると秋の七草のひとつであるこの女郎花の歌が必ず思い出される。


まつり囃子がきこえる

2021-09-02 20:31:11 | 熊本
 今日、藤崎八旛宮例大祭で御神幸(随兵)に使う甲冑の虫干しが行われたというニュースをテレビが報じていた。既に中止が決まっているが、毎年の習わしとして行われたという。ニュースを見ながら「そうだよな、もう9月だものな。」と思いながら、昨年に続く中止にあらためて寂しさを感じた。
 例年だと、参加団体のまつり囃子の練習が熱を帯びてくる頃。今年もまつり囃子がきこえるような気がする。
 昭和5年9月、熊本から行乞の旅に出発した種田山頭火が、人吉の宿で藤崎宮御神幸のまつり囃子を懐かしがる気持がよくわかる。






異説「こぼし坂」

2021-09-01 21:29:47 | 歴史
 先々月、玉名の母の実家へ盆参りに行った帰り、河内経由で山越えしたので久しぶりに「檜垣のこぼし坂」を下った。
 檜垣とは平安時代の女流歌人で、様々な伝説が残っており、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある。檜垣は晩年、白川の畔の今の蓮台寺辺りに草庵を結んでいたが、深く信仰していた金峰山西麓「霊巌洞」に坐す岩戸観音に閼伽の水を供えるため、約15kmの山道を日参したという伝説がある。その山道の最も急峻な難所で檜垣の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。
 しかし、これには異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという説。その寺は廃寺となり痕跡も残っていないという。前に一度、雲厳禅寺のご住職にそのことをおたずねしたことがあるが聞いたことがないと仰っていた。文献にも見出せないので確かめようがない。
(注)小法師:若い僧侶または寺の雑事をした賤民


こぼし坂から遠く有明海を望む。


こぼし坂の胸突き八丁。湧水が旅人の喉を潤していたのだろう。


熊本市設置の案内板が立てられている。