先々月、玉名の母の実家へ盆参りに行った帰り、河内経由で山越えしたので久しぶりに「檜垣のこぼし坂」を下った。
檜垣とは平安時代の女流歌人で、様々な伝説が残っており、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある。檜垣は晩年、白川の畔の今の蓮台寺辺りに草庵を結んでいたが、深く信仰していた金峰山西麓「霊巌洞」に坐す岩戸観音に閼伽の水を供えるため、約15kmの山道を日参したという伝説がある。その山道の最も急峻な難所で檜垣の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。
しかし、これには異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという説。その寺は廃寺となり痕跡も残っていないという。前に一度、雲厳禅寺のご住職にそのことをおたずねしたことがあるが聞いたことがないと仰っていた。文献にも見出せないので確かめようがない。
(注)小法師:若い僧侶または寺の雑事をした賤民
こぼし坂から遠く有明海を望む。
こぼし坂の胸突き八丁。湧水が旅人の喉を潤していたのだろう。
熊本市設置の案内板が立てられている。
檜垣とは平安時代の女流歌人で、様々な伝説が残っており、世阿弥の能「檜垣」のモデルでもある。檜垣は晩年、白川の畔の今の蓮台寺辺りに草庵を結んでいたが、深く信仰していた金峰山西麓「霊巌洞」に坐す岩戸観音に閼伽の水を供えるため、約15kmの山道を日参したという伝説がある。その山道の最も急峻な難所で檜垣の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。
しかし、これには異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという説。その寺は廃寺となり痕跡も残っていないという。前に一度、雲厳禅寺のご住職にそのことをおたずねしたことがあるが聞いたことがないと仰っていた。文献にも見出せないので確かめようがない。
(注)小法師:若い僧侶または寺の雑事をした賤民
こぼし坂から遠く有明海を望む。
こぼし坂の胸突き八丁。湧水が旅人の喉を潤していたのだろう。
熊本市設置の案内板が立てられている。