ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK(Vol.21・23)その1

2016-06-12 07:33:58 | 日記
もうすっかりお忘れでしょうが(笑)「BEATNIK」シリーズ再開です♪
まずは、表紙を飾っている甲斐さんのシビレる言葉から…

「ほんとにこんなに来てくれて、みんなに感謝します。ありがとう。
BIGGIG…ライブハウスっていうより
大きなガーデン・パーティーって感じだね
シャンパンのかわりに歓声か?花束のかわりに拍手ね」

「今年もかなりの数のイベントがあったけどね
でも、これは正真正銘、招待者抜きの、ホントに買った人たちの人数です
何となく皮肉が多いか
OK、ちょっと客席を明るくしてくれる」

「場所がどんな状況かっていうのを考えるのは
これが終わって、歩いて帰る道の上でいいから
とにかく、みんな一緒にこの場所にいる。OK!?」

「大きな傷口のひとつやふたつ誰だってあるし、それを成長という
苦しい時もあれば、つらい時もうれしい時も上下いっぱいあるよ
アップも、ダウンもね」(8/7 BIGGIG 甲斐よしひろ)

…という訳で、1983年9月号は「BIGGIG」特集
上記の言葉は、ライブMCの抜粋みたいで

「ちょっと…明るく…」の後には
「【安奈】をやるからね。【安奈】を。いいかい!
そのままちょっと点けっぱなしにしとくからさ
みんなで一緒にやるよ」との言葉が続き

冒頭の「花束のかわりに…」の後には
「ずっと2年近く、マスコミから遠ざかってます
復活と呼んでもいいし、何と呼んでもいい
でも、ここに来ている人数全ては
これは10時間で売り切れた人数です」と話され

「いいかい?これが、どれだけの場所か…」と最後の言葉へ続き
「その、アップの時からダウンの時に行った時に作ったヤツをやります」と
【観覧車'82】が演奏されたようです

BIGGIGについては、以前にも書かせて頂いたので
重複する部分もあるかと存じますが
今年の8月7日、野音での甲斐バンドライブに向けて
もう一度、おさらい(予習かな?)の意味をこめて…(笑)

この機関紙Vol.18で、アルバム「GOLD」が特集された時に
インタビューの中で甲斐さんが「BIGGIG」について語っておられます

「イベントをやる時には、例えばスタジアム、球場ね
それからどっかの郊外の広い敷地
あとはまあ、僕らがやったみたいな非常に珍しい花園ラグビー場
つまり、広い所で、見晴らしのいい所でやる訳よね」

「スポンサーなしで、孤立無援でイベントやるかっていうとそんなことない訳よ
みーんなヒモ付きでさ、スポンサー付きでね
しかも4万から5万人集めたって言っても
実はその半分以上は、色んな所でチケットがバラまかれてるよね」

「甲斐バンドってのは、花園もそうだし、箱根もそう、全くのヒモ付きなし
つまり、赤字だったら自分達が背負う。だから必死よ
ただイベントやりましたっていうんじゃダメだってことくらい
自分達が一番よく知ってるからね」

「花園で大暴動大会やった後に
どっかで厄介だなっていう部分があった、自分の中に…
しばらくイベントやりたくねえなって感じがありましたよ
だけど、その間見てるとさ、みんなやってるものって
何も考えないで、球場とかさ、金がかかんなくていい
同じものの色の塗り替えでさ
結局、ほとんど失敗してる訳よね」

「それじゃあ、俺達アイデアあるし、プランもあるから
後は国ときっちりコンタクト取れるかどうかよね」

当時の甲斐バンドのマネージャー・佐藤剛さんによると…
この「アイデア」というのは、1980年12月
翌年1月に発案された「花園ライブ」よりも先に

「新宿西口都有地、1日300万円」とのデータと共に
「新宿で、毎週土曜日には必ず
甲斐バンドがイベントをやってるってことが出来たらいいなあと
漠然と思っていた」ことを差すらしい

「お客さんが面白いなと思って来てくれる所じゃないとツマンナイ
バンドもノれる、一番絵になるんじゃないって状況とか場所とか考えちゃう」

「ここだったら、ビルに囲まれてて、そのビルの一角の中で
ある時間帯からバーッと浮かび上がったみたいな感じで
2時間半なら2時間半、ステージやって、その後はまた元の闇
そういう意味じゃ真夏の一瞬、ドリーミングなものかも知れないけど
だからこそ観たいよねという部分」

「昔、ピンクフロイドがボンベイでやったビデオがあるんだけど
ああいう夏の闇の中でエネルギッシュに浮かび上がる
幻想めいたステージってやれるんじゃないかって発想だよね」

「もちろん、僕らはどっちかっていうと幻想チックじゃなくて
音が、パワーが、はっきり前に出て来るバンドだからね
緊張感、テンション、全部出します
NYからのボルテージも全部持って来て、そこに出します
古い歌もやります【テンション・ノイローゼ】もやれば【シネマ・クラブ】もやるよ
その辺どんどん見せちゃうよね」

もっとも、そのイメージが出来上がったのは、1982年の暮れのことで
1983年になってから、実現に向けて
ディスクガレージの中西健夫さんが動き始められ

「都庁がOK」を出した時点で、イベント実施日とチケット発売日が決まり
「ぴあ」5月20日号で「5月23日から発売」と発表した後

ブロック指定という会場の作り方、2万人の待機場所
通行人がライブを見ようとした場合など会場横の欄干の問題、騒音ETC…も含め
警察から許可が下りず「やんわりとした中止勧告」まで出され(汗)
警察と市役所をタライ回しにされるという事態に…(汗)

ちなみに、我が家の資料には
現金書留による販売は、5月23~28日まで、全席の70%
残りは電話予約による販売で、5月29日のみとなってますが

当の甲斐バンドのメンバーは、NYでレコーディング中(苦笑)
「虜」のレコーディングの際から、ライブ活動を休止する状態が続き
【シーズン】がCMに起用されていた以外、シングルも発売されておらず
マスコミに取り上げられる機会が少なくなっていたにも関わらず
「発売2時間で完売」(笑)

中西さんから、この連絡を受けられた佐藤さんが
「凄いねぇ…甲斐バンドって、やっぱりパワーあるんだ」と
他人事のようにおっしゃったのも無理からぬことですね(笑)

「あそこでイベントやるのは、この国では僕らが一番
マイルス・デイビスがやったけど
彼は非常に金のかかるミュージシャンだから、照明もあってなきもんよね
マイルスが出て来て、パッとライト当てりゃ絵になる」

「僕らだって、パッと出て来てバーッと当てりゃいいよ
だけど、意識の差があるよね
向こうは観光みたいな気分
俺達はこの国でずっと生きて行かなきゃいけない
これ一発で失敗こいたらさ、来年からもう生活できない
家族みんな路頭に迷う…そういうシビアな気分よね」

「その部分の差は、照明も、スタッフも、PAも、もちろん演奏も
色んな部分を含めて見せるっていうトコははっきりあるね」

このインタビューの時の甲斐さんの思いが、冒頭のMCに込められ
暑い熱い一日のライブ・パフォーマンスになったんでしょうが

そのイベントについてのメンバーの皆さんの会話がなかったら
イベントはおろか「甲斐バンド」自体がなくなっていたかも知れないと思うと
なかなかフクザツな気がします…
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする