ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK26

2016-03-18 07:59:36 | 日記
「甲斐バンドライブ10年」特集にピックアップされた11本のライブ
6本目は、1979年9月2日のNHKホールです

FMファン9/17号の記事には…奇妙な胸騒ぎがした
それは圧倒的な期待感でもあり、唐突であるがゆえのとまどいでもあった
甲斐バンドがNHKホールでコンサートをやるという
そして、そのライブをFMとNHKテレビ(!)で放映するという

「なぜ、テレビに出る気になったのか?そして、なぜNHKなのか?」
こういう問いかけ方はあまり愉快ではないだろうとは思ったのだが
彼はストレートな姿勢で答えをくれようとした

「俺たちが、どういう顔をして、どういうことを思い
どういうバンドであるかということを多くの人に知って欲しい
これは早くから思っていたんだ
だから、デビューした頃は何回かテレビに出たこともある」

「ステージでの息づかいを理解してくれて
俺たちのテレビへの不信感を打ち破ってくれる人と出会えたら
いつだってテレビに出る気はあった」

「彼がやろうと言ってくれるのなら
失敗しようとどうなろうと、やってみようと俺は思う」
あの甲斐よしひろを、これほどまでに突き動かした「彼」とは
NHKディレクター、湊剛さん

湊ディレクターは「サウンドストリート」や
テレビの「ヤングミュージックショー」などを担当し
NHKがニューミュージックやロックの分野で時代に取り残されなかった
いや、ある意味で先駆的な役割を果たし得たのは
この人の力に負うところが大きい

「番組は、関わっている者のやり方、考え方が入らなければならないと思う
私は、シングル指向の番組しかない中で、LP指向のテレビ番組を作りたい
人生も、目まぐるしいシングルではなく
LP指向の生き方をすべきだと思うから」

「収録のための準備は、今までのどのコンサートよりも
コミュニケーションが上手くいった」
それから、と湊さんはニコッと笑い
「俺たちは、35歳と26歳とで、男と男の戦いをやっているんだ」…と記されてます

サンストの放送中に、甲斐さんが
「俺をジュークボックス代わりにして歌わせる」とか(笑)
「俺じゃなくて、湊剛が気に入ってる曲をかけます」とか(笑)
度々、そのお名前を口にされたり

「HEROは1位になったのに、感触はどこがダメなんだろう?」と
「怒ってるみたいに」疑問を投げかけられ
「突然来て、突然帰って行った」り(笑)
公私に渡って、おつき合いなさってたんですよね?

このライブ番組の中でも、湊さんがインタビュアーを務められ
「俺たちがテレビを拒否してるんじゃなくて
テレビが俺たちを拒否してるんだから
コンサートをキチンと伝えて貰いたい」という
甲斐さんの考えに応えておられました

ただ「一番問題になったのは、音のことでしたね。うるさくないか?
それに、会場を壊したりしないか?…大変でした」と湊さん(苦笑)

かつて、泉谷しげるさん達のコンサートに
NHKホールを使われたのが湊さんで
その時にトイレットペーパーを全部ホールで放り投げられたらしく(笑)
それ以来、ホールの使用が出来なくなってしまっていたため
「甲斐バンド」という「反社会的なイメージを持たれていたバンド」が
NHKホールでライブをやるのは「すんなりと行かなかった」ようです(笑)

でも、イチ一般視聴者としては、ホールの使用云々よりも
NHKのスタジオではないにしろ、国営番組(笑)のイベントを
「ベストテン」の生中継に開放することの方が
もっと大変なことみたいに思えるんですけど…?(笑)

余談ですが、別の雑誌記事には…
甲斐よしひろに言わせると
コンサートでアーティストと観客が一体になるなんてあり得ない
ライブはエネルギーの燃焼のし合いなんだそうだ

1年ほど前に同じNHKホールで、デビッド・ボウイ公演があったが
会場の熱気は、その時をはるかに上回るエキサイティングなもので
クィーン、ロッド・スチュワート、ビリー・ジョエルなどに
充分、匹敵するものであった

次々とぶつける味わいのある甲斐の歌を聴いていると
日本のロックのエキス、存在感を感じるのである
演出、ステージの飾り、一切なし。ハッタリもなし
ただひたすら演奏し、歌い、聴かせる
春のツアーよりも荒々しかったという印象
甲斐は変に落ち着いてしまうより
荒々しければ荒々しいほど新鮮でパワフルである…と書かれてるんですが

長岡さんがツアーを休まれることになり
セッション・メンバーがいらしたとはいえ
デビュー以来初めて、メンバー3人だけでステージに立たれた訳で
その戸惑いを吹き飛ばす意味でも気合いが入っておられたんでしょうね?

続いては、1980年8月10日の箱根ピクニック・ガーデン
新譜ジャーナル11月号の記事より…

いきなり「漂泊者」で始まるなんて思ってもみなかった
この作品(うた)でスタートすることは危険だということは
誰もが判っていたはずなのに
甲斐バンドは、あえてそれをやってしまった
ファンの興奮は予想以上に凄まじい
もう頂点に昇ってしまった奴がいっぱいいる

僕が心の中につけられた傷跡として、今でも思い出せるのは
後半の最も盛り上がった「ポップコーンをほおばって」の最中に
甲斐が突然、ギターのネックを持ち、地面に叩きつけ
そのギターが真っ二つに折れた瞬間
僕の胸は異様な痛さを味わったということ

さらに、2度目のアンコールの際に歌われた
「漂泊者」がすごくクリエイティブで、そのメッセージだけが
針のように胸に突き刺さって来たことである

奥さんには知る由もなかったんだけど
当時の甲斐さんは、結婚生活が破綻してしまわれたことは元より
それを「口に出来なかったことの方が苦しかった。限界だった」そうで
後になってから、文字通り「血を吐く思い」で
この曲を歌われていたことに気づき、かなり落ち込んだらしい

この書き手の方は…
甲斐バンドのファンは誰もが変な連帯感など存在しえない場所
(そう誰もが独りという立場)で
甲斐よしひろの歌を「自分の歌」として叫ぶ勇気を持っている
だからこそ「漂泊者」のリフレイン「誰か俺に愛をくれよ」の部分を
全員が総立ちで歌っても全然気持ち悪くないのだ…と記されてます

以前にもご紹介しましたが、別のインタビューでは…
1年くらいかけて準備しないといけないと言われる規模のイベントを
3ヶ月足らずで準備なさって、なおかつ「絶対に成功させようと思った」ことで
「不安でいっぱいだった」と甲斐さん

「前の晩まで、俺、気負ってたんだ
ものすごく気負った漂泊者を歌おうと思ってた
そのまま突き進んだら、ああいうステージにならなかったと思うよ」と話され

前夜のリハーサルを終えられた後に
徹夜で開演を待っていらしたファンの方々を見かけられ
「ホテルに帰ったら、気負いなんて全くなくなっていた
カッコつけてやろうなんて思わなくなったんだね
ただ一生懸命歌えば、それでいいんだと思ったんだ」とおっしゃってました

MCが少なかったことについても
「初めてのビッグイベントだから
何か喋ろうかとも思ったんだけど
結局、よく考えたら喋ることなんて何もないんだよね(笑)

僕らが伝えなくちゃいけないことは
このイベントが今日、今晩、ここだけでしかやれないものなんだってこと
それだけだった。それには言葉なんて要らない
ハートが伝わればいいと思った」と答えていらっしゃいますが

先の記事には…甲斐がアンコールで出て来た時に言った
「今日と同じステージを、このスタッフで、このメンバーで
何年続けられるか判らない
もしかしたら、あと2年で力尽きるかも知れない
でも、俺たちはギリギリまで、ぶっ倒れるまでやるからね!」という言葉が
僕の心に今も響いていると書かれてます

長岡さんが休養から復帰されることなく、甲斐バンドを脱退なさった時
春のツアーでの「最後の長岡さん」を記憶に刻めなかったことで
奥さんの「今夜限り感」が切実になり
それ以来、こういったイベントだけじゃなくて
同じツアーの中でも毎回それぞれのステージを
じっくりと味わおうと思ってるみたいなんだけど

いかんせん、熱狂してライブにどっぷりと浸り
せっかくの記憶がぶっ飛んでしまうというジレンマが…(笑)
まあ、甲斐さんも「良いライブは忘れるようにしてる」そうですし
ホントに大事なことは、自然に記憶に残るとの説もあるらしいしね(笑)

余談ですが、記事の最後に…
手元にこのイベント当日のデータのメモがある
舞台設営が、4トントラックのべ40台、クレーン車2台
260人の人員が、3日間かけて行われた…(中略)とか

スタッフが全員で500人で、客のツアーバスが300台で
総観客数が24000人だ…といったことが
ズラーッと書かれてあるんだけど
こんなものが人の心を動かすものじゃないことは、とっくに知っていた

…と記されてますが、奥さんは
そういう「規模」だけで語られることについての言葉だとは思うけど
甲斐さん達が良いライブをするために
これほど大勢のスタッフの方々が、見えない所で
ステージを支えておられたことは、ちゃんと書いて欲しいんだとか…

確かに、記事には触れられてませんが
このイベントの前だけでなく、ライブが終わった後にも
大変な撤去作業がおありだったんでしょうね?
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