ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK27

2016-03-19 10:57:10 | 日記
「甲斐バンドライブ10年」特集も残すところ4本になりました
まずは、1980年12月9日の武道館ライブについて
「'81青春カタログ8月号」の記事から…

今年の始めに放映されたNHKの「ヤング・ミュージック・ショー」の中に
甲斐よしひろの凛々しいまでの「若気」が見事に捉えられていた
去年の12月8日9日の2日間に渡って行われた武道館コンサート

9日の日の楽屋…アンコール前に楽屋に戻って来た彼が
何気なくテーブルに置かれた「夕刊フジ」に目を落とした
新聞には一面に「ジョン・レノン射殺される」と報じてあった

ギョッとした表情で、カメラに向かって
取り繕いようのないひきつった笑いをした後
彼はその新聞を両手で破り、部屋の隅のゴミ箱に捨て去ったのだ
そして、ステージに上がった彼は
「逝ってしまったジョン・レノンのために」と一言前置きして
「100万$ナイト」を全身で歌ったのだった

…って、甲斐さん笑っておられましたっけ?
新聞をカメラの方に向けられた後、もう一度じっとご覧になって
「信じられない」みたいに首を振りながら破かれてたような気が…?

ちなみに…当日は、その訃報の詳細を知らず
甲斐さんの言葉に驚かれた方が多かったんだとか…
まあ、ネットニュースなんてない時代ですもんね(笑)

ともあれ、記事は続き…ジョン・レノンを否定したのではない
涙を流して、感傷の中に浸ってしまうことを拒否する
ジョンの死が、自分が全身全霊をかけて乗り越える対象であるということを
瞬時の内に決意して
それを引き受ける…そんな行為のようだった
それこそが「若気」だと思うのだ

ジョンの若い頃もそうだっただろう
「俺たちはキリストより有名だ」と言って、袋叩きに合い
フィリピンでは、ガードマンさえ付けて貰えず
学生たちに包囲されたことがあった

事が起きた後で、フィリピン大統領からの謝罪の言葉に対して
ジョンは「フィリピンに大統領なんていたっけ?」と切り返してみせた

不遜だったのだ。あらゆる権威に対して不遜だった
そして、不遜であることの「落とし前」をつけることがバネになっていた

「ビートルズの時代」という写真集に、リバプールの不良少年だった4人が
時代と共に変わっていく様が克明に残されている
中でも、若かった頃のジョンがいい
ジーンズに革ジャン、全身にバッチのようなアクセサリーをつけて
エルヴィス・プレスリーのポーズを真似るジョンの笑顔には
「若気」の持つ陰と陽が、まるでエルヴィスのR&Rのように踊っている

甲斐よしひろは、武道館の打ち上げの後
込み上げる何かを振り捨てるように
「時代が必要としなくなった奴は死ぬんだ」と吐き捨てていた
若気のなくなってしまったジョンを拒否したのだろう

そして、かつては銃を向ける側だったジョンが、逆に撃ち殺されるという
惨めさとやりきれなさを拒否したのだろう
それは、自分自身の若気に賭けることでもある…と結ばれてます

ただ、その後のサンストで甲斐さんは
「60年代を代表する音楽シーンの幕がひとつ降りた
これは、かなりショックだった」と話されていて
「拒否」というのは、悔しさや無念さの裏返しだったんじゃないかと…?

続いては、1981年9月13日の花園ラグビー場
その前夜に取材された「FMステーション」のインタビューで…

去年、色んなゴタゴタやスキャンダルがあって、感性がボロボロになった
まるで、片足を引っ張られて、剥ぎ取られてという感じでね
そういう状態の中で残るのは
自分の感性を信じていくことでしかなかった

甲斐バンドが、甲斐よしひろが、ものすごく元気になって行くためには
今までの音の繰り返しじゃダメだったんだ
去年までの歌をもう一度、自分の中で爆発させるためには
もうひとつ強力でボルテージの高い曲を作る必要があった

今までのパーカッションの曲は
ストーンズやトーキング・ヘッズのやり方を真似ることでしかなかった
でも、どっちも日本人の血じゃないからね
そういう意味からすると、今回、サウンド的に見たら
日本というより世界的にも例がないパターンじゃないかな?

詞はものすごくシンプル。メロディも詞もバンドの形態も
ギリギリの核で行きたかった
ぜい肉を削ぎ落とした感じでね
俺としては会心の作品だと思ってる
これであと10年間やって行ける自信が出来たもの

俺たち、去年から1年間もヒットシングルがないんだよ
だけど今回のコンサートには、2万人集めた
俺たちは観客動員数では、今や日本史上最高のロックバンドなんだ
でも、それがどうしたって言うんだ?結局、昨日までのことよ

「今回の曲」というのは「破れたハート…」のことだ…と田家秀樹さん
1枚のシングルヒットなどよりずっと
深くて太い繋がりを持ったバンドだという自信に近い認識
それは、この日のコンサートにも充分に出ていた

「最もハードでホットなスポーツ
ラグビーの汗が俺たちにはピッタリ」ということで決まった会場
1曲目の「破れたハート…」で総立ち、2曲目の「翼あるもの」では
1万人以上が一斉にステージ前に殺到、失神者が続出
上空には、常時数百枚のビニール座布団が舞うというパニック状態になった

このコンサートを見ていたある評論家は、客席の熱狂を「混乱」と呼んだ
それに対して甲斐よしひろは
「腹の中では、もっと来い、もっと来いというようなことを
呟いてたみたいな気がする」と言っていた

ここ10年の日本の野外コンサートの中で
アーティストサイドが「暴動」という表現を使って憚らないコンサートは
唯一これだけと言っていいかも知れない…と書かれてます

別の記事によると…「混乱」とおっしゃった方々は
「いつも客席全体を強姦するつもりだから」という
甲斐さんの言葉がお気に召さなかったらしく
「熱狂」と呼ばずに「混乱」と呼び
コンサートの「手落ち」と表現されたんだとか…(苦笑)

「コンサート会場のゴミを拾えば、全て美徳になるって、どういうことだと思う?
ゴミ拾いとコンサートとは関係ないはずじゃないか」と甲斐さん
ロックコンサートをも「茶の間」の価値観でしか見られないマスコミ
「ゴミを拾う」という「美徳」がないと
コンサートそのものを評価できない評論家たち。甲斐は拒否すると記され

9月18日の新宿厚生年金での抜き打ちコンサート(笑)で
甲斐さんが「花園は素敵でした」とおっしゃった後
「コンサートにルールなんてないと思う
ステージは俺たちの生きる場所で、客席はみんなの生きる場所だ
俺はここで死ぬ気でやる
みんなもそこで目一杯やって欲しい」と話されたことについて

「客席とステージ、この立場さえ崩さなければ
どんなに騒ごうと構わないという彼の言葉は
花園の「共感」を「混乱」としか表現できなかった
マスコミへの挑発でもあった」と結ばれてます

ゴミじゃないけど、花園の終演後にビニール座布団(笑)を拾ったのは
奥さん達だけじゃなかったようだし
かつて、紙テープの「後片付け」をなさった
吉田昌佐美さんみたいな方もいらっしゃるんですけどね(笑)

それはさておき、その新宿ライブは
「1週間前に新聞とラジオで1度だけ告知されただけである」と亀和田武さん

亀和田さんの推理(笑)によると…
「いつも同じ顔触れのファンに最前列を占拠されている状態が
長い間続いていたんじゃないか?
そしてその見慣れたファンのリアクションに
バンド側が食傷し始めたのではないか?」ということで
「いつも後ろにいるファンにも最前列で見るチャンスを…といった
人道的な配慮もあったかも知れない」んだとか…(笑)

まあ、実際に皆さん大慌てでチケットを買いに走られたみたいだし
いつもは1階の前方だった方が
この日は2階席という「シャッフル」が起こったそうです

ただ、奥さんは、甲斐さん流の「テーゼとアンチテーゼ論」にのっとって
数万人規模のライブの後には
いつものホールに戻ってやりたいという意味もあったんじゃないかと…?

「花園のステージでレゲエ調に生まれ変わった安奈は、1度きりで終わり
翼あるものがラストナンバーに、漂泊者が最後の最後に演奏され
オープニングを100万$ナイトで飾るという
大胆なプログラムだった」との記事もあり
花園を体験できなかった方への「救済」とは違っていたのは確かですね

ラスト1本に選ばれたのは、82年6月17日の品プリ・ゴールドホール
人工芝を敷いただけ、椅子なし、ロープが張られたコンクリートむき出しのホールで
半年間の休業明けのツアー初日、甲斐さんは
「初めて半年間のインターバルを取って、この場に出て
どれだけの照り返しを得られるか、そればかり考えていた
インターバルを取った甲斐がある」と話され

「新譜ジャーナル9月号」の記事にも
アンコールの「観覧車'82」を最後にホールの照明が点いて終了…と思ったら
そのままの状態でメンバーが再び登場
もう一度「破れたハート…」を歌い始めた
このライティングも何もない
ステージまでむき出しの演奏を引き合いに出すまでもなく
今まで以上にダイレクトなステージではなかったかと思う
ガレージで演奏することは誰もが出来るが
広い会場をガレージのように感じさせてくれるグループは滅多にいない

ステージと客席がお互いに「半年間待って来た
そして、今、ここにいる」という思いを分け合っていたに違いない…と記されてます

この初めてのオール・スタンディング形式については
甲斐さんの「海外でやってるのに
日本ではなくてオカシイと思っていた」との言葉に始まり(笑)
ディスクガレージの中西健夫さんが奔走なさって(笑)実現した訳ですが
これが後の飛天ライブに結びつくんだから
やっぱり甲斐さんって「持ってる」んですよね(笑)

さて、この「ライブ10年」企画の最後に田家さんは
大会場でのイベントと地方のホールと
本質的な意味で、客席とステージの関係は変わらないから
これ以外のコンサートにも様々なドラマがあったはず
ただ、やはり際立って目立つシーンがいくつかあり
ここに取り上げたのは、そんな特筆モノの場面だ

「伝説」というのは、体験した者が体験してない者たちへ語り伝える中で
生まれて来た話で、そんな話を伝えて行く語り部たちは一人ではない
甲斐バンドには、全国の会場に自分の言葉を持った語り部たちがいて欲しい

雑誌の性格もコンサートと同じく、その時だけのものかも知れない
始めから残そうと思って作られてはいない
だからこそ、そこには「現在」がある
こうして抜粋してみると、甲斐バンドのその瞬間の息使いが伝わるかも知れない

甲斐よしひろは、終わってしまったコンサートの話をほとんどしない
だからこそ、その時その時の「現在」を語った雑誌の
インタビュー記事に意味があるのではないだろうか…と結ばれてます

地方の語り部から聴いた話や資料をもとに
ゆるゆる書かせて頂いてることにも
多少は意味があるのかなあと…(笑)
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