ナンシー・ヒューストン『天使の記憶』(新潮社、2000年)
例えば広島や長崎の原爆とか東京大空襲をまったく知らない世代や外国人に語る人たちがいる。私は聞いたことがないけれども、語り部たちの語る話は、もちろんそうした人たちの語りの能力にも左右されるところもあるのだろうが、たいへんなイメージ喚起力をもっているのだろうなと、私はいつも感心する。
言葉を耳で聞くということによって世界を想像するという経験が少ない私だけが不安に感じているのかもしれないが、私は映像なら問題なく伝わる悲惨さが言葉を聞くだけで本当に伝わるのだろうかと思ってしまう。
それは語る側の問題である以前に聞く側の問題なのかもしれない。たとえば『はだしのゲン』が描く地獄絵図を、言葉で語って、語られた言葉から、『はだしのゲン』が描く程度の地獄絵図をイメージできるのかということだ。どんなに語り部がリアルに語ったところで、言葉そのものに、あるいは聞く側のイメージ喚起能力が伴わなければ、伝えることはできないだろう。
なぜこんなことを(たぶん上記のような語り部をしている人たちからしたらずいぶんと失礼な奴だと思われるかもしれない)書くかというと、この小説でもそうなのだが、主人公の体験してきた悲惨さというものが、まったく伝わってこないからだ。似たような経験をアゴタ・クリストフの小説でも同じことを感じる。つまり私にそうしたイメージ喚起力が足りないのだろう。
この小説ではサフィーが体験したことが小説の原動力となっているので、そのところが理解できなかったら、彼女の行動がまったく理解できない、つまりこの小説が理解できないことになってしまうだけに、重要な問題である。にもかかわらず、小出しにされるサフィーの原体験のようなものは彼女の行動原理として伝わってこない。ましてや、なぜ突然アンドラーシュには心を開いたのかもさっぱり理解できない。登場人物の行動の恣意性ばかりが目に付く作品である。
この小説の二つ目の問題は舞台となっている時代の動きの描写がまったく登場人物の行動と連関していないということだ。サフィーやラファエルが生きるパリは1958年から61年にかけて、アルジェリア独立戦争でパリが混乱していた時代である。ところどころに挿入されるパリの様子やその原因となっているアルジェリアの状態がこの作品にどんな関係を持っているのかまったく分からない。ただたんにそういう時代にサフィーが生きていたというだけのものにしか見えない。作者としてはそうした時代状況を書き込むことで、この作品に社会性を持たせたつもりになっているのかもしれないが、まったく作品の外部のようにしか感じられない。
この作家はたくさんの作品を書いているしけっこう評価されている人らしいけど、観念的すぎると思うのは私だけだろうか。

言葉を耳で聞くということによって世界を想像するという経験が少ない私だけが不安に感じているのかもしれないが、私は映像なら問題なく伝わる悲惨さが言葉を聞くだけで本当に伝わるのだろうかと思ってしまう。
それは語る側の問題である以前に聞く側の問題なのかもしれない。たとえば『はだしのゲン』が描く地獄絵図を、言葉で語って、語られた言葉から、『はだしのゲン』が描く程度の地獄絵図をイメージできるのかということだ。どんなに語り部がリアルに語ったところで、言葉そのものに、あるいは聞く側のイメージ喚起能力が伴わなければ、伝えることはできないだろう。
なぜこんなことを(たぶん上記のような語り部をしている人たちからしたらずいぶんと失礼な奴だと思われるかもしれない)書くかというと、この小説でもそうなのだが、主人公の体験してきた悲惨さというものが、まったく伝わってこないからだ。似たような経験をアゴタ・クリストフの小説でも同じことを感じる。つまり私にそうしたイメージ喚起力が足りないのだろう。
この小説ではサフィーが体験したことが小説の原動力となっているので、そのところが理解できなかったら、彼女の行動がまったく理解できない、つまりこの小説が理解できないことになってしまうだけに、重要な問題である。にもかかわらず、小出しにされるサフィーの原体験のようなものは彼女の行動原理として伝わってこない。ましてや、なぜ突然アンドラーシュには心を開いたのかもさっぱり理解できない。登場人物の行動の恣意性ばかりが目に付く作品である。
この小説の二つ目の問題は舞台となっている時代の動きの描写がまったく登場人物の行動と連関していないということだ。サフィーやラファエルが生きるパリは1958年から61年にかけて、アルジェリア独立戦争でパリが混乱していた時代である。ところどころに挿入されるパリの様子やその原因となっているアルジェリアの状態がこの作品にどんな関係を持っているのかまったく分からない。ただたんにそういう時代にサフィーが生きていたというだけのものにしか見えない。作者としてはそうした時代状況を書き込むことで、この作品に社会性を持たせたつもりになっているのかもしれないが、まったく作品の外部のようにしか感じられない。
この作家はたくさんの作品を書いているしけっこう評価されている人らしいけど、観念的すぎると思うのは私だけだろうか。