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読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『天使の記憶』

2009年09月06日 | 現代フランス小説
ナンシー・ヒューストン『天使の記憶』(新潮社、2000年)

例えば広島や長崎の原爆とか東京大空襲をまったく知らない世代や外国人に語る人たちがいる。私は聞いたことがないけれども、語り部たちの語る話は、もちろんそうした人たちの語りの能力にも左右されるところもあるのだろうが、たいへんなイメージ喚起力をもっているのだろうなと、私はいつも感心する。

言葉を耳で聞くということによって世界を想像するという経験が少ない私だけが不安に感じているのかもしれないが、私は映像なら問題なく伝わる悲惨さが言葉を聞くだけで本当に伝わるのだろうかと思ってしまう。

それは語る側の問題である以前に聞く側の問題なのかもしれない。たとえば『はだしのゲン』が描く地獄絵図を、言葉で語って、語られた言葉から、『はだしのゲン』が描く程度の地獄絵図をイメージできるのかということだ。どんなに語り部がリアルに語ったところで、言葉そのものに、あるいは聞く側のイメージ喚起能力が伴わなければ、伝えることはできないだろう。

なぜこんなことを(たぶん上記のような語り部をしている人たちからしたらずいぶんと失礼な奴だと思われるかもしれない)書くかというと、この小説でもそうなのだが、主人公の体験してきた悲惨さというものが、まったく伝わってこないからだ。似たような経験をアゴタ・クリストフの小説でも同じことを感じる。つまり私にそうしたイメージ喚起力が足りないのだろう。

この小説ではサフィーが体験したことが小説の原動力となっているので、そのところが理解できなかったら、彼女の行動がまったく理解できない、つまりこの小説が理解できないことになってしまうだけに、重要な問題である。にもかかわらず、小出しにされるサフィーの原体験のようなものは彼女の行動原理として伝わってこない。ましてや、なぜ突然アンドラーシュには心を開いたのかもさっぱり理解できない。登場人物の行動の恣意性ばかりが目に付く作品である。

この小説の二つ目の問題は舞台となっている時代の動きの描写がまったく登場人物の行動と連関していないということだ。サフィーやラファエルが生きるパリは1958年から61年にかけて、アルジェリア独立戦争でパリが混乱していた時代である。ところどころに挿入されるパリの様子やその原因となっているアルジェリアの状態がこの作品にどんな関係を持っているのかまったく分からない。ただたんにそういう時代にサフィーが生きていたというだけのものにしか見えない。作者としてはそうした時代状況を書き込むことで、この作品に社会性を持たせたつもりになっているのかもしれないが、まったく作品の外部のようにしか感じられない。

この作家はたくさんの作品を書いているしけっこう評価されている人らしいけど、観念的すぎると思うのは私だけだろうか。

『夢でなければ』

2009年09月04日 | 現代フランス小説
マルク・レヴィ『夢でなければ』(早川書房、2001年)

『自由の子どもたち』の作家。アメリカでの生活が長く、それを活かして、サンフランシスコを舞台にした、なんか質のよいアメリカの小説でも読んでいるような作品になっている。

紹介文には「洒落たタッチのファンタスティック・ラブ・ストーリー」とあって、なるほどそうだろうけど、ラブ・ストーリーのほうよりも、突然の交通事故で植物人間になってしまった人間の肉体にとじめられた意識の苦しみや、癌を宣告された母親がまだ10才にもならない息子のためになにがしてやれるのかいろいろ考えて、手紙をかきしたためて、そのなかで息子に人生とはなにかについて語りかけるところこそ、この小説の深い味わいがあるのだし、たぶん作者も本当に書きたかった部分なのだと思う。「洒落たタッチのファンタスティック・ラブ・ストーリー」というキャッチフレーズに逆に反発して、そんなもん読むかいと敬遠されてしまうほうが、作者としては困るのではないだろうか。

登場人物の配置もじつに明確で、週末休暇にでかける途中に交通事故で植物人間になってしまい、意識だけがさまよい出るようになった研修女医のローレン、ローレンが事故に遭うまで住んでいた家にその後住むようになり、ローレンの肉体をもった意識と出会うことになる建築家のアーサー、彼の今は亡き母親のリリ、彼の共同経営者のポールといったところ。

この小説にはローレンの(いまはアーサーの)アパートから見える朝霧につつまれたサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジあたりを曳航する船の遠望やら、アーサーが少年時代をすごしたリリの家の花盛りの庭や海の描写があるが、その詩情にとんだ描写は、たとえばがん患者が死を宣告されて、命の限りということを意識し始めたときにはじめて見えてくる、細やかな自然の営み、もうじき自分がそこから立ち去ることになるけれども、それでも自分もその一部だったし、自分が死んだあとも永遠に続いていくだろう、自然の営みの一つ一つがいとおしいほどに綺麗に見えてくると言われる世界の描写に近い。

私も50歳を超えた年齢になると、死ということについて考えざるをえなくなる。死が怖いとは思うが、死のなにが怖いのだろうかと考える。肉体がなくなってしまうこと? 意識がなくなってしまうということ? 私は少年の頃からときどきふっと思い出したように、死ぬって怖いのだろうかと考えるときがあって、そのとき何が一番怖いのかとあれこれ思い巡らしたあとに、いつも思うのは、自分の肉体も意識もなくなってしまったあとにも、何十年、何万年と世界が続き、無数の出来事が起こるだろうのに、自分は何一つそれを知ることができないということだった。だから、そんなことは実際にはありえないだろうが、肉体が亡びたあとも、意識だけが残って、目のようにあれこれみて回れたら、死はまったく恐ろしいものではなくなるだろうなどとばかなことを考えていたりした。

結局、死の恐怖の問題は自分で折り合いをつけていくしかない問題なのだろうと思うが、こうした小説なりエッセーなりが、折り合いを付けるための導きとして役に立つこともあるだろう。死の恐怖と折り合いをつけるということ自体はそれぞれの「私」にしかできないことだが、そうであればこそ、みんながどんな風にして折り合いを付けているのか知ることは無駄ではないだろうと思う。

この小説は植物人間になっていたローレンが最後には意識を取り戻し、体も動かせるようになったとき、これまで遊体離脱してアーサーとともに生きていたローレンの意識が消滅してしまい、蘇生したローレンにはアーサーのことが誰なのか分からないという、オチがついている。

テンポもよくて読みやすい(たぶん翻訳のよさもあるのだろうと思う)小説だった。ただ、アーサーとローレン、アーサーとポール、最後あたりに出てくる刑事のビルゲスと同僚のナタリアとの会話のやりとりが、いかにもくどくてうんざりするところがあって残念だった。

『秘密』

2009年08月29日 | 現代フランス小説
Philippe Grimbert, Un secret, Grasset, 2004.
フィリップ・グランベール『秘密』(グラッセ書店、2004年)

自分の出生がナチスのユダヤ人ホロコーストに深くかかわっていたという「秘密」を知った若者がそれを物語として書くことで魂の救済をしていこうとするという形式をとった小説。体裁としては作者フィリップ・グランベールの自伝のようにも見えるが、実際の体験がベールになっているようである。

「僕」の両親は二人とも体育会系のマッチョな体格をしているのに、「僕」は病弱でひ弱な子どもで、パリのブール・ラベでスポーツ洋品店を経営している両親が第二次大戦中に隣のルイーズに店の管理を任せて疎開した先のアンドルで「僕」が生まれたと両親からは聞かされていたのだが、中学生のときにユダヤ人強制収容所にかんする記録映画を観て、裸の女性たちを笑った隣の少年と取っ組み合いのけんかになったことを知ったルイーズが真実を話してくれたのだった。この小説はそれをもとに「僕」が自分の誕生の真実を再構成していくという形をとっている。

戦争が始まる前に、「僕」の父のマクシムはアナと結婚をした。アナには弟のロベールがいて彼はタニアという水泳選手で理想的な身体をもった女性と結婚していた。マクシムは自分たちの結婚式のときにやってきたタニアに心奪われる。しかしそのときには何もおきなかった。そしてマクシムとアナのあいだにシモンという元気な子どもが生まれる、すくすくと育つ。

第二次大戦が始まり、タニアの夫のロベールは招集され、あっという間にパリはドイツ軍に占領され、ヴィシー体制が始まる。ユダヤ人狩りが行われるようになり、マクシムたちは自由地帯に逃れることにする。じつは彼らの苗字はGrinbergでユダヤ人によくある苗字なのだ。それをGrimbertというフランス人風の名前に変えて、偽のパスポートを作って、最初にマクシムと兄のジョルジュがサン=ゴーチエに向けて出発する。受け容れの準備が出来た知らせを受けて、アナとシモン、ルイーズとジョルジュの妻エステルが出発する。しかし自由地帯から数キロというところのあるカフェで待ち合わせをしているときに、ドイツ軍人がやってきて、本物のパスポートを見せてしまったアナはシモンと一緒に連行されてしまい、収容所送りになってしまった。

サン=ゴーチエには別ルートでタニアも来ており、ルイーズとエステルが到着して、アナとシモンのことを説明すると、マクシムは何週間も落ち込むが、ついにはタニアへの欲望に勝てず、二人は性的関係を結んでしまう。終戦後生まれたのが「僕」というわけである。

アナとシモンがその後どうなったかを知ろうともしないで一人で心の奥にしまいこんできた父をその秘密から「解放」しようとして、「僕」はホロコーストにあった人たちがいつどんな風にして殺されたかを記した記念館の資料を調べ、両親に伝える。

自分の腹違いの兄と母親がホロコーストにあったがゆえに自分がこの世に生を受けたということを知るのは、もちろん自分の責任ではないとわかっても、本当に辛いことだろう。人間の生き死にというのは、偶然に左右されているところがある。戦場での生死の分かれ目なんてそうだろう。決していい人だったから生き残ったわけでも、悪い奴だったから死んだわけでもないのだ。それは戦争という極限状況での生死だけでなく、日常生活における生死だってそういうところがある。だからこそ生き残ったものはそこに死者の無念を感じるのかもしれない。

マッチョな両親から生まれたひ弱な子どもというミスマッチや、「僕」がマッチョな兄を勝手に想像上で作り出して、夢想のなかで彼に助けられていたが、じつは本当に兄がいたのだという隠された真実を明かしていくという手法が、若い読者の興味をひきつけたのかもしれない。2004年の高校生によるゴンクール賞、2005年の雑誌『エル』の女性読者賞を得ている。フランスでもこういう風にして若い小説の読み手を増やしていこうとする努力がなされているのだろう。2007年には映画化もされている。

作者のフィリップ・グランベールは1948年生まれで、精神分析医のかたわら小説も書いているという人である。作者の個人サイトはないようなので、詳しくはこちらまたはWikipedia

『ある秘密』というタイトルで2005年に野崎歓訳で新潮クレスト・ブックスから翻訳出版されていた。


『魂の河』

2009年08月17日 | 現代フランス小説
Mireille Calmel, La riviere des ames, XO Editions, 2007.
ミレイユ・カルメル『魂の河』(XO書店、2007年)

8歳から小説を書き始めたというミレイユ・カルメルは45歳の女性作家で、すでに『アリエノールのベッド』『ルーヴ家の舞踏会』『レディ・ピラート』といった小説を200万部近くも売っており、10カ国以上に翻訳もされているらしい。現在、ボルドーを中心都市とするアキテーヌ地方に住んでいるとのこと。

この小説は百年戦争が始まる前のアンジュー伯がフランス国王よりもずっと強大な勢力を西フランスにおいて誇っていた時代のアキテーヌ地方のVという村での貴族男女の恋愛のもつれによる愛憎関係が、現代パリの作家モー・マルケ、神経科医ヴァンサン・デュティユル、このV村のシャトーの息子であった実業家のウィリモン・ガラジェそして彼の母親ヴィクトリア・ガラジェに乗り移ったという設定になっている。

モーは子どもの頃に破傷風にかかりその病後に痩せて骸骨のようになり、級友たちからいじめられ、それがもとで絶望的になって、18歳で画家や写真家のモデルになったり、ついにはコールガールになった。その悪循環から救ったのは20歳くらいのウィリモン・ガラジェで、彼が身請けをしてくれて、彼の女になったが、すぐにバレイに逃げ、そこで作家としての才能に目覚めたのだった。

彼女は職業作家になってそこそこ本も売れるようになり、パリのノートルダム寺院の近くに住むようになったが、黒い騎士と赤毛の貴婦人の幻覚に悩まされるようになる。あるときポン=ヌフで倒れているところを見知らぬ男性が助け、彼女のアパルトマンまで連れ帰って世話をしたのだった。それから彼女はポン=ヌフで彼女を呼ぶ男性の幻覚を見るようになり、ポン=ヌフが見えるアパルトマンに引越す。そこへ行っては男性を待つのだが、凍えそうになっている霧雨の降る日にまた見知らぬ男性に助けられ近くのカフェに入る。

この男性が神経科医のヴァンサンであった。彼はヴィクトリア・ガラジェの最後を看取ることになり、彼女から彼女が持っているアキテーヌ地方のV村のシャトーの相続人に指名されてしまう。

この冬パリでコールガールが殺される連続殺人があり、それはモーを探すウィリモンの仕業だったのだが、彼はV村のシャトーの相続人が自分ではなくヴァンサンになっていることを知ると、ヴァンサンにシャトーの管理を任された公証人をシャトーで殺し、きっとヴァンサンがやってくると待っていたのだが、そこに来たのはモーで、彼はモーを殺したと思い、自死する。モーはヘリコプターで駆けつけたヴァンサンに助けられる。

本当はもっと面白い内容なのだろうけど、読み始めてから1ヶ月以上もかかってしまうし、さすがにサスペンスは細部まで理解して覚えていないと、伏線となっているところがぜんぜん生きてこないし、うろ覚えになってしまって、結局どんな話だったかなーということになってしまった。

ミレイユ・カルメルのサイトはこちら

ミレイユ・カルメルの翻訳は『女海賊メアリ・リード』が草思社から4巻で出版されている。

『思いがけない贈物』

2009年07月15日 | 現代フランス小説
Francoise Bourdin, Un cadeau inespere, Belfond, 2007.
フランソワーズ・ブルダン『思いがけない贈物』(ベルフォン書店、2007年)

南仏の山の中に住むルイーズと息子のフロランの、ある年の冬休みの出来事を描いた小説。

女ざかりの33歳で、女優をしているルイーズ、10才になる息子のフロラン。夫で父親のグザヴィエは数年前に家族を捨てて家を飛び出したまま音信不通。フロランの世話は、家政婦で祖母役をはたしているファネリー。近所にはかつてアメリカ人のジェーンと結婚し、リズという女の子をもうけたが、この二人を交通事故で亡くし、傷心のまま生まれ故郷にもどってきて祖父がやっていたオリーヴ農園を引き継いだグレゴワール、彼の子ども時代からの友人で、医者をしているマルク、そして彼の妹でバツ一のミレイユ。そしてルイーズの同僚のステファン。

冬休みに入った12月21日。南仏アルルには珍しく雪が降り出し、今年はツリーの木を買わないと言われたフロランは母が『ル・シッド』をニームで上演しているあいだに、一人で山中にはいってツリーの木を切り出しに行くが、吹雪に遭難してしまう。たまたまオリーヴの木を監視にやってきたグレゴワールに助けられ、それ以来フロランはグレゴワールを英雄のように慕うようになる。だが、それまで面識のなかったルイーズは助け出されたフロランをグレゴワールの家に迎えにいっても、型どおりのお礼しかせず、二人の印象は悪いまま。

クリスマスは、ルイーズとフロランはファネリーと一緒に過ごす。グレゴワールの家にはマルクの家族がやってきて楽しく過ごすことに。26日の夕方、ルイーズがこれから『ル・シッド』の上演のために出かけようと愛車のポロに乗ろうとしたところ故障していることに気づく。修理工を呼んでいる暇もなければ、タクシーはこんな山奥まで来てくれない。しかたなくグレゴワールに助けを求める。彼はルイーズを送っていき、そのまま芝居を観ることになる。

28日突然ルイーズの夫のグザヴィエがやってくる。だが、他の女に子どもができるのでルイーズと離婚することを告げにやってきたのだ。フロランにたいしても冷たく当たり、ひそかに父親らしいことを期待していた二人はがっかりする。30日フロランが熱を出す。大雪になり、電線が切れたために停電し、孤立してしまったルイーズとフロランは真っ暗闇のなかで寝ようとするが、外の音が怖くて寝付けない。ついにまたグレゴワールに助けを呼び、こうした非常事態にも準備万端のグレゴワールの暖かな家で復旧するまで過ごすことになる。大晦日はマルクもやってきて四人で過ごす。ルイーズは医者をしているマルクの洗練された物腰に惹かれている。

1月1日に電気が復旧し、二人は自宅に戻る。ファネリーに願ってもない男二人を見つけたと冷やかされる。他方、グレゴワールはマルクがルイーズと二人だけの食事に誘うつもりだと先に言われてしまい、落ち込む。最後にはルイーズはグレゴワールを将来の相手に選び、ハッピーエンドになる。

なんだかテレビドラマのシナリオでも読んでいるような錯覚を覚える。著者のフランソワーズ・ブルダンという人はドラマのシナリオなんかも書いているというから、あながち的外れでもないだろう。最近は、ダン・ブラウンなんかの小説がそうだが、まるで映像化を当てにしたような小説を書く人が多いが、これなんかもその一つだ。南仏の人たちにとっては、ホワイトクリスマス自体が思いがけない贈物と言えそうだが、そうした異常気象を利用して、少年の遭難と救助をきっかけとした熊のようなグレゴワールと自分の魅力を自覚していないルイーズの恋愛という思いがけない出来事を二週間のなかに凝縮したこの小説は、それなりに面白かった。フランス語も読みやすい。

舞台となっているムリエスという村はアルルの東、アヴィニョンの南東にある。地図はこちら

『リンおじさんの孫娘』

2009年07月06日 | 現代フランス小説
Philippe Claudel, La petite fille de Monsieur Linh, Editions Stock, 2005.
フィリップ・クローデル『リンおじさんの孫娘』(ストック書店、2005年)

おだやかで、落ち着いた童画のような、それでいて最後には鋭いとげをもった物語だった。まるで抒情性にみちた一編の詩を読んでいるようだった。

ベトナム戦争で息子夫婦も家も失ったが唯一生き残ったまだ生後数ヶ月の孫娘のサンディユーSang diuを連れてリンおじさん(おじさんという言い方はベトナムの老人に対する敬称である)は船でフランスのマルセイユとおぼしき町に逃げてくる。

この町に着くと、避難民収容所に保護され、そこでしばらく暮らすことになるが、おなじ部屋に居るほかの二家族とはほとんど言葉も交わさない。リンおじさんの頑なな態度が食事の世話をしてくれる女性たちから疎ましく思われているのだろう。

ときどき通訳の若い女性を連れてやってくる担当の女性に部屋にばかり居ないで散歩をするように勧められ、外に出るようになるが、まだ寒い季節で、孫娘も一杯に服をくるみ、自分もたくさんの服を着こんで出かけるが、道に迷わないために同じ側の歩道しかあるこうとしないので、ぐるーっと一画を一周してくるだけの散歩である。

ある日、その途中で見つけたベンチに座っていると、大きな体、ごつごつした指をした男性が隣に座って、煙草を吸いながら、リンおじさんに語りかけるともなく自分のことなどを話す。リンおじさんは言っていることはまったく分からないにもかかわらず、この大男の言葉に惹かれる。

そのうち通訳の若い娘にBonjourという言葉を教えてもらい、このバークと名乗る大男と会うとこの言葉を交わし、次第に仲良くなっていく。ある寒い日にカフェに誘われ、たぶんレモンティーかなんかをご馳走になったリンおじさんはお返しがしたくなり、通訳を通じて係りの女性に煙草をもらえないかと尋ねる。配給としてもらえることになり、次の日にはそれを持って出かけ、バークにプレゼントをする。そうした交流の中で二人は互いに互いの妻や家族の写真を見せるようになり、バークがリンおじさんを海に連れて行った日に、リンおじさんはたまらなくなってベトナムと叫ぶ。それを聞いたバークは涙を流しながら、自分が何も知らない若造の頃に徴兵されてインドシナ戦争に出兵し、ベトナムの地でひどいことをしたと告白し、許しを請う。

リンおじさんは医者の診察を受け、健康状態に問題がないことが確認される。そのとき、医者が孫娘の診察をしてくれないので、リンおじさんが頼んで診察してもらうが異常はない。次の日、収容所が閉鎖されるという理由で、リンおじさんだけが移されることになる。車で町を移動し、城のような立派な建物に住むことになるが、そこでは一緒のテーブルで食事をする人のだれも口を利かず、広い敷地を散歩することはできるが、孤独にいたたまれなくなって、リンおじさんはついに塀を乗り越えて、バークに会いに行こうとする。だが、あまりの大きさにスリッパはちぎれ、服はぼろぼろになり、疲れ果ててぐったりしているところに、かつてバークの奥さんが働いていたという公園に居ることに気づき、いつもバークと会っていたベンチを見つける。広い道の向こう側から「Bonjour! Bonjour!」というかすかな声に気づいたバークがリンおじさんのほうへかけ寄ろうとしたとき、リンおじさんは車にはねられてしまう。幸い、リンおじさんは死を免れたが、孫娘のサンディユーは? サンディユーはじつは人形だったのだ。

最後の最後で孫娘のサンディユーはじつは大きな人形だったということが明かされるのだが、読者はずっと騙されてきた。たしかにどんな状況でも泣きもしないし、いつも寝てばかりいるという描写がされているので、そんなおとなしい赤ちゃんがいるのかな、じつは両親が爆弾で死んだときに、その爆風で耳が聞こえなくなったりしたということが、あとで明かされるのではないのかな、と思うこともあったが、まさか人形とは思わなかった。それにじつはリンおじさんは精神異常者だったのだ。たしかに一緒に住んでいた二組のベトナム人家族は収容所から移動するわけではないのに、リンおじさんだけが移動させられるのは変だし、リンおじさんを診察した医者がリンおじさんに言われるまで孫娘を診察しなかったのも変だなと思ったのだが、まさかこういう設定だったとは。

リンおじさんの内面を描写するように書かれている地の文章も普通だったし、バークが延々と自分ひとりでしゃべっていたのも言葉が分からないのだから当たり前だと思っていた。だが、二人があるレストランで食事をするときに、リンおじさんがサンディユーにもスープを飲ませようとしたらこぼして服を汚したという描写があったり、周囲のお客が二人をじろじろ見ていたという描写があったのも、後から考えた、なるほどと納得がいく。

しかしそういうことを抜きにして、祖国も家族も奪われ、言葉の分からない、誰も知り合いのいない町で暮らすリンおじさんの哀しみはひしひしと伝わってくる。そして一度病院から逃亡しようとしたリンおじさんが、たぶん麻酔薬か鎮静剤を打たれて寝ているあいだにみた夢―リンおじさんがバークを連れて自分の村を案内し、彼の息子の嫁が作った料理をたらふく食べたあと、夕方になって、死をまじかにしたものが一人で訪れるという森の中の泉がわいているところに連れて行く場面は、美しい。

はらはらドキドキがあるわけでも、スリルとサスペンスがあるわけでもないのに、これほどまでに叙情豊かな文章が書けるというのもすごい才能だなと感心しながら読んだ。

フィリップ・クローデルという作家はとくにベトナムと関係があるような人でもなさそうで、ベトナム人からの調査はしたにしても、純粋に創作として作り出した哀しみの世界なのだろう。ペーパーバックス版の表紙絵(上の写真)は作者自身が描いたものらしい。

白水社なんかも、くだらない小説ばかり翻訳出版してないで、こういう抒情性にとんだ素晴らしい小説を出版したらどうなのかね、ホント。

ジュンク堂に行ったら、あった。『リンさんの小さいな女の子』というタイトルでみすず書房から2005年に翻訳されていたようだ。これ以外にも、フィリップ・クローデルの小説の翻訳は、『ブロデックの報告書』(2009年)、『子どもたちのいない世界』(2006年)、『灰色の魂』(2004年)がすべてみすず書房から出ている。


『自由の子どもたち』

2009年06月24日 | 現代フランス小説
Marc Levy, Les enfants de la liberte, Editions Robert Laffont, 2007
マルク・レヴィ『自由の子どもたち』(ロベール・ラフォン書店、2007年)

自由の子どもたちとは、第二次世界大戦でフランスを占領統治したナチス・ドイツに対抗して運動したレジスタンスの闘士たちのことを指している。

南フランスのトゥールーズ近郊の町でレジスタンスに参加していたジャノことレイモンと弟のクロードが、ナチス・ドイツにつかまって他のレジスタンス闘士たちとともにドイツに連行される途中にフランスが解放され生き残り、ジャノの子どもが18歳になったおりに行われた記念式典にともに参加したのを機会に、自分の過去を息子に語るという体裁になっている。

一貫してジャノの視点で書かれているが、もちろん彼が知りえなかった出来事まで書かれているので、きっと語りの現在を息子に語っている時点においており、解放されてからジャノが知ったこととしてそれらは語られている。

レジスタンス活動の回想だからと言って、決してフランスに自由を取り戻したのは俺たちだ式の勇ましいものというわけでもないし、逆にナチス・ドイツによる拷問や死刑がいかに悲惨だったかを売りにしたような文章になっているわけでもない。淡々とした語り方が、最初は、この「自由の子どもたち」というのが何を指しているのか分からなかったこともあり、まさかあのレジスタンスの話とは思わなかったというのが正直なところだ。

あまりにも淡々としているだけでなく、この主人公のジャノの性格なのだが、いまのフランスはナチス・ドイツに占領され自由もなく、しかも自分はレジスタンスの闘士としてつかまったらすぐにでも殺されてしまうような状況にあるという自覚がないのか、あるいはだからこそなのだろうが、時にはそうした現実から逃避するかのように、夢のような話になってしまうことがしばしば。

たとえば、マルセルというスペインからやってきた闘士がナチにつかまり裁判にかけられて死刑にされるという事件が起こる。裁判の様子や死刑執行の日の様子などもかなり克明に書かれているので、けっこう深刻な場面であるのだが、それからしばらくして、ジャノがダミラというイタリア人娘とカフェで待ち合わせする使命を与えられて出かけると、このダミラに惹かれてしまい、彼女とイギリスで幸福な生活を送っている自分を思い描いてしまう。そんな若者なのだ。

このレジスタンスの活動そのものがけっこう幼稚な側面をもっていたことも書かれている。このあたりのことは作者自身が意図的に書き込んだのだろうと思う。たとえば、ジャノの初めてのミッションが自転車泥棒だったり、ドイツ人将校を射殺することだったが、なんとかうまく射殺したものの、自分のしたことに驚いて拳銃を落としてしまい、貴重な武器を失ったとか、食べ物が十分にいきわたらず、闘士たちは貧しい食事を我慢していたが、ときどき我慢できなくなりレストランで食事をすることがあり、だがみんなが行くと一網打尽でつかまるので、けっして行かないようにと指示されていたのに、弟のクロードに、みんな指示を守って行かなかったら、僕たちが行ってもだれにも分からないよと言われて、行ってみると、みんなが居て、もう席が二つしか空いていなかったとか。

上記のマルセルに死刑判決を出した検事のレスピナスを殺してマルセルのかたきをうとうということになり、電話帳でレスピナスの住所をしらべて、張り込みをして、彼が毎日どれくらいの時間に帰宅したり家を出たりするのかを調べて、暗殺の場所や時間を用意周到に準備したつもりだったのに、いざ決行という直前にジャノは電話帳に載っていたこのレスピナスというのが同姓同名の別人だったということに気づき、あと一歩というところで別人を殺さなくて済んだ、などなど。

しかしこれを滑稽と思うのはまさに歴史の流れということを無視しているからだろう。いまから思えば幼稚なことであっても、そのコンテクストの中では必然性があったことなのだ。だから「私」は話の冒頭で次のようにいましめる。

「いいかい、私たちが生きていた状況というものを理解しなければいけないよ、大事なことなんだ、状況というものは、たった一つの文章だってね。この状況を離れたら、その文章は意味が変わってしまうのがたいていなんだから。」(p.17)

1961年生まれの作者のマルク・レヴィという人はずいぶんと行動派の人のようで、18歳でバカロレアを取ると同時にフランス赤十字社に入り、6年間交通救急師として活動をしたり、パリ近郊の県の責任者をしたりした。その間にパリ大学のドフィーヌ校で情報学や管理学を勉強している。またロジテック・フランスなんて会社を起業したりしているというからすごい。その後もいくつかの会社を興しているが、結局失敗して、29歳のときにパリにもどる。37歳のときに、将来息子が読んでくれるという予定で書いた「もし本当だったら」という小説がロベール・ラフォン書店に認められて2000年に出版され、同時にスピルバーグの目に留まり映画化された。それが『恋人はゴースト』(2005年)。

そういうわけで小説を出すたびにたいへんな売れ行きという人気小説家らしい。とくに『自由の子どもたち』は出版と同時にベストセラー入りをして、50万部を売ったとのこと。今年の6月25日には彼の第9作目Premier jourが出版予定というから、フランスではけっこうホットな作家のようだ。

マルク・レヴィのオフィシャルサイトはこちら

マルク・レヴィの邦訳はたくさんある。『夢でなければ』(早川書房、2001年)、『永遠の七日間』(PHP研究所、2008年)、『あなたを探して』(PHP研究所、2008年)、『ぼくの友だち、あるいは友だちのぼく』(PHP研究所、2009年)、『時間をこえて』(PHP研究所、2009年)がある。

Rien de grave

2009年06月03日 | 現代フランス小説
Justine Levy, Rien de grave, Stock, 2004, Livre de Poche 30406

久しぶりのフランス小説である。「私は祖母の葬式にジーンズで来てしまった」で始まるジュスティーヌ・レヴィの『たいしたことは何もないわ』である。1995年に『デート』という小説を出したきりなので、これが第二作のようだ。裏表紙を見ると、『ル・モンド』のジョジアーヌ・サヴィニョーが「明晰で硬い内容に、乾いた文体をもった美しい小説」と絶賛しているし、『マリアンヌ』のパトリック・ベッソンは「人を救うようなエクリチュールはかつてなかっただろう」と誉めている。

こういうのをフランス人は「乾いた文体」と呼ぶのかどうか知らないが、とにかくまったく破格の文体で、いわゆる自由間接話法というのでもない、とにかく本来なら直接話法の部分をそのまま地の文にしたり、接続詞のqueのあとに直接話法がきたりと、フランス語になれていない読み手にはこのjeはだれのことなのかtuはだれを指しているか訳がわからなくなることがしばし。しかしずっと読んでいると慣れてくるから不思議だ。

祖母の葬式にジーンズをはいていって場違いな思いをするが、それはそれだけ祖母の死が私=ルイーズにとって衝撃だったことを示しているという場面から始まる。おばあちゃんがジーンズはお尻が締まってきれいに見えるからいいねと言っていたことなどを回想しているので、最初はこの人はおばあちゃん子だったのかなと思ってしまうが、そうでもなく、話は母親の癌が進行していて、抗がん剤のために髪の毛が全部抜けてしまい鬘をしていると告白しに来たときのことだとか、さらにいまの恋人のパブロとセーヌ川に浮かぶ船のなかでのパーティーで初めて出会ったこと、前夫のアドリアンといざこざと離婚、ボナパルト通りにいまのアパルトマンを見つけたこと、さらに話は過去にさかのぼって、アドリアンと離婚する前の病気と妄想(たとえばアドリアンがルイーズの父を殺したがっている、ルイーズを彼の武器にしたがっているなどという妄想)のこと、2年前からドラッグ中毒になり、必死に昔の自分を取り戻そうともがいているルイーズの精神状態の克明な描写、8ヶ月ぶりの父親との再会、そして時はいまに戻り、パブロとの生活が彼女に救いを取り戻したことで終わる。

何箇所か読み応えのある場面がある。たとえばパブロとの船のパーティーでの出会い。

「パブロとは船の上で出会った。私の気に入った若者、まだパブロという名前も分からなかった若者がやってきて、船の上でパーティーやっているんだ、おいでよ、ゾディアックがあるんだ、僕が連れて行くよと言ったとき、これは罠だわと私は思った。このゾディアックが近づいてくるあいだ、私はどうやって逃げたらいいんだろう、海のどまんなかに閉じ込められているときに人はどうやって逃げるんだろうと考えていた。」(p.79)

「昼食の時間だった。みんなテーブルの周りに座っていた。そんなふうに、彼らと、こんなにくっついてすわり、水と空のあいだにつかまって、食事をしたり、おしゃべりをしたりしなければならないことがあまりにも耐えがたかった。何を話し、どんなふうに答え、赤面したり、耳たぶを押えてその赤みを和らげようとしたり、自分の手、足、髪の毛をどうしたらいいのか分からないのだ。お腹がすいてないの、有難う、と言って、一人で後のソファーにいて煙草を吸っていた。」(p.80)

「目が覚めたときみんな私のまわりで赤ちゃんのように惚けて寝ていた。このパーティーはシエスタのようなものだ。私は日陰とアスピリンを探しに、そしてコンタクトレンズを着けに下に下りた。船室のなかに私の気に入った若者が寝ていた。でも平気だった、だって私は彼のことを愛することはないし、私の中にあるこの空虚のために、かつてアドリアンを愛したようにはもうだれも愛することはないということが分かっていたからだ。彼が私の気に入っているのは果物や歌のようなものだ。私も彼の気に入っているのだと思う。いや彼は眠っていなかった。目を開け、私を見つめると起き上がり、何か言ったが私には分からなかった。なに?彼が繰り返したが、相変わらず私は理解できなかった。私は小さな浴室にはいった。突然、彼の腕が私の回されるのを感じた。彼は私の顔を彼のほうに向け、キスをしてきた、まるでそれしかすることがないかのように。」(p.82-83)

さらにドラッグ中毒になっているルイーズがクリニックに入る直前に父親と会う場面は、作家の父親の前ではいい子でいなければならないルイーズの心の叫びのようなものが感じられる。

「助けて、パパ、私は声にならない声で、優しいパパの目をドラッグ中毒の私の目でしっかり見据えながら言った。助けて、私はつぶやいた。助けて、私たちを近づけるはずなのに、こんなに私たちを遠ざけてしまったこの悪行から私を救い出せるのはパパしかいない。いまはもうおしゃべりをすることもできなくないし、こうして会うのは一年ぶりだし、二年前からパパの視線を避けているし、そして子どもというものは大きくなって恋をして両親を忘れてしまうものだから私も遠ざかっていたとこの二年間パパは思い込んでいるけど、私は恋をしたけど、私には十分な人ではなかったし、その彼は私を愛してくれたけど、私が他の誰かになるか他人になるのを望むような人だった、私は遠ざかっていたのではなく、パパから逃げていたの、パパがいつか見破るんじゃないかとびくびくしていた、でもいまはほら考えを変えたばかりよ、反対にパパには知ってもらわなければ、絶対にそうしてもらわなければ、目の奥で私は叫んでいるのよ、これが私よ、ルイーズよ、助けて、閉じ込められているの、私を助けて、救い出し、そこから引き離すことができるのはパパだけだわ、パパはなんでも分かっているし、なんでもまとめることができる(...)」(p.132-133)

しかし父親と話をしているあいだにドラッグがきれてきて、我慢ができなくなる。
「ボーイがコーヒーを持ってくる。私はポケットの中でディナンテルを手探りする。そっと親指のつめでカプセルをとりだす、また一つ、もう一つ。パパがピスタチオのアイスクリームを欲しがる。パパは頭をボーイのほうに向ける、一瞬、よし、それで十分、カプセルは私の口の中、舌の裏、すこし待つ、そうしなかったらゼラチンのカプセルから粉が出てきて、苦い味に私は顔をしかめるだろうから。私は微笑む。すでに微笑んでいた。しかし私の微笑みは変わって凍りついたようになるだろう。コーラを一口飲む、もう一口。10分後には調子よくなっているだろう。」(p.135)

最後にルイーズはパブロと生きることに新たな希望を見出すのだが、それはパブロの生き方が大いに気に入るからだ。パブロの生き方とは、ルイーズによれば、闘牛のようにつねに闘いのために走り回って疲れることを知らない人間のそれだという。

「たんなるすきものじゃないわね、パブロは、と彼のことをとても気にっていた祖母は言っていた。彼は気取っているんじゃなくて、演じている。演じるというのは私の祖母がいった言葉だが、気取るというのとは正反対のことだ。彼は頭を低くして突進する。彼は牡牛のようなもので、獲物を楽しませなければならない。なぜなら彼の獲物は壁だから。そこが私の気に入った。彼の中のこの永遠の闘牛のようなところ、一人の中に闘牛と闘牛士がいるところが。彼は怖いものなしだ。自分も、人生も、他人も、悪さをされることも、私が前進するのを妨げるすべても。大事なこと、それは走ることだ。これは彼がいつも言っていること。生活を毒するのは、到達ラインを考えすぎることだ、あとで、失ったり、もう走れなくなったりしたときに、考える時間はたくさんできる。私は彼と一緒に走るのが大好きだ。彼は時間にはかぎりがあるということを知っているけれども、そこから一つの物語をつくろうなどとは考えていない人々がもっている力強さがある。」(p.177)

読み始めの頃はいったいなに?的な印象をもっていたが、きわどい描写のなかに現代フランス人の不安な心的状態をこれほどぴったりとで描いた人も珍しいのではないだろうかと思うようになった。

ジュスティーヌ・レヴィの小説翻訳は、Le rendez-vousが『わたしのママ』というタイトルでディスカヴァー・トゥエンティワンという出版社から2008年に出版されている。

国末憲人の『サルコジ』を読んでいたら、この作者のことが書かれていた。しかもサルコジの新夫人であるカーラ・ブルーニがらみで。

「最も騒ぎになったのは、仏哲学者ラファエル・エントヴェンとの結婚だった。
もともとカーラが付き合っていたのはラファエルの父の作家ジャンポール・エントヴェンだった。2000年夏、カーラはジャンポールと一緒にバカンスでマラケシュにyはってきた。その先で合流してきた息子ラファエルとできてしまい、帰りはラファエルと一緒だった。
ラファエルは幼なじみの妻ジュスティーヌと離婚し、カーラを妻とした。間もなく長男オーレリアが生まれた。ところで、ジュスティーヌの父は著名な哲学者ベルナール=アンリ・レヴィで、本人も将来を期待される新進作家である。ジュスティーヌは夫を取られたこの事件を元に、小説『何てことない』を04年に発表した。」(87ページ)

『聖骸布の仔』

2009年02月23日 | 現代フランス小説
コヴラルト『聖骸布の仔』(中央公論社、2006年)

『片道切符』でゴンクール賞を受賞したコブラルト(コヴラールと表記してあることが多い)の最新作で、あの竹下節子さんが翻訳をしているので、これはこれはと思いつつ読んでみた。竹下さんといえば「バロック音楽はなぜ癒すのか」のことをここでも何度か触れているが、私ももとから音楽が専門の人かなと思っていたのだが、音楽は余技みたいなもので、専門はカトリック史、エゾテリスム史なのだ。だから十字架に磔にされて殺されたイエスが三日目に復活したときに墓の中に残されていた遺体をくるんだ亜麻布についていた血痕から取り出したイエスの血液をもとにしてイエスのクローンが作り出され、そのクローンを政治的に利用していこうとするアメリカの大統領周辺の動きを描いたこの小説の翻訳は、竹下さんをおいてほかにはなかっただろう。翻訳の話はどうも竹下さんが出版社に持ち込んだ話のようでもある。

この小説の元になっている聖骸布というのは、イエスの遺体を包んでいた亜麻布のことで、そこにはイエスが流した血のあとや全身のシルエットが残されていたことから、この亜麻布が聖骸布として、いわゆるキリスト教のさまざまな聖遺物のなかでも最高度に重要なものとみなされている。多くの画家が描いてきたイエスの顔もこの聖骸布に映写されたように残っていたものをモデルにして描かれてきたらしい。この小説の中でもこのシルエットにイエスのクローンとされるジミーの顔を重ね合わせてみているが合わないなどという会話も出てくる。

聖遺物というのはいろんなものがあるようで、たいていの大きな教会や大聖堂にはなにかしらの聖遺物が安置されている。もともとキリスト教は、巨木とか巨岩などを信仰の対象とする日本の神道なんかとはちがって物質崇拝を拒否したところに成り立っているので、聖遺物などを信仰の対象とすることはないのだが、人間というもの目に見えるものを信仰の対象にするほうが楽なのだろう。

で、この小説ではこの聖骸布に残されていた血痕から取り出したイエスの血液をもとにしてイエスのクローンが作り出されるという話が出発点になっているのだが、もちろん結論からいえば、このクローンによってできたジミーは、じつはある負傷した植物人間になった美人女性兵士を看護師がレイプしたことで生まれた子で、彼がイエスのクローンだと思わせるために彼が女性のくじいた足を治したとか自動販売機からドーナツがお金を入れなくても出せたとかそのほか奇跡を起こしたかのように見せかけるための裏工作がなされていた。

まぁ大方の読者はそんなことは現実にはありえないということは承知の上で読んでいると思うのだが、ではなにが面白いのかといえば、2030年頃の近未来として設定されている世界とりわけアメリカが嘘のクローンをつくってイエスの再来を偽造しなければならないほどに終末的な様相をしめしているということだ、あたかも宗教――キリスト教の没落と期を一にするかのように。そこで聖骸布から復活したイエスとしてジミーを利用しようとするアメリカ政府内部の動きが出てくる。

読みようによっては、ダン・ブラウンばりの政治的科学的サスペンス読みものにも見えるが、ほんとうは宗教と科学、宗教と政治といった問題圏のなかに一石を投じようというようなたくらみがあったのだろうと思う。ただ、どうもそういった問題にうとい読者の一人である私にはやはりどこでイエスのクローンという話が嘘だったと暴露されるのかというところにしか興味が向かわなかったのも確かで、上のような問題圏を射程に入れた論評というものも読んでみたいと思わせる小説であった。

『第三の嘘』

2009年02月07日 | 現代フランス小説
アゴタ・クリストフ『第三の嘘』(早川書房、1992年)

A「この小説、面白かった。」
B「そう? でもじつはこれはこういうことだったんだよ。知ってた?」
A「うそ! もしそれを知っていたら、もっと面白かっただろうね。」

私はこういう会話はありだと思う。しかし、

C「あーあ、この小説、わけ分らん。ぜんぜん面白くない。」
D「そう? でもじつはこれはこういうことだったんだよ。知ってた?」
C「うそ! もしそれを知っていたら、面白かっただろうね。」

こんな会話はありえないと思う。つまりなんの説明もなしに面白く思えなかったけど、人から説明を聞いて(解説を読んで)面白くなる、なんてことはありえない。それは小説が面白いのではなく、人の話(解説)が面白いということにすぎないからだ。

『第三の嘘』は後者のケースである。まず、『悪童日記』『ふたりの証拠』とで三部作になっているという話自体が人を馬鹿にしている。しかも同じ三部作と言っても、それぞれ独立に読んでも面白いというのなら話は別だが、『悪童日記』を読んでいなければ、『ふたりの証拠』も『第三の嘘』も話が分らない。というか『第三の嘘』は前二作を読んでいても、チンプンカンプンで、もうめまいがしてきそうなほど訳が分らない。訳者の堀茂樹は解説で「本書を前二作と対照して注意深く読まれる読者には」と書いているが、注意深く読むことを要求するなと言いたいし、もし注意深く読んだ結果としていったいなにが浮かび上がってくるのかと言っても、なにもない。

リュカやクラウスの不幸はいったいどこから由来していたのか? 『第三の嘘』を読む限りでは、両親と双子のリュカとクラウスが幸せに暮らしていたところに、父親が妻と双子を捨てて、アントニアという女のところに行こうとしたことで発狂した妻がピストルで夫を殺したうえに双子の一人のリュカの脊柱に障害を負わせてしまったことが原因であるようにしか読めない。そこには『悪童日記』にあったようなナチスドイツの侵略も戦後にソ連による侵略支配もまったく影を落としていない、というか関係ない出来事として描かれている。

いったい訳者が絶賛する理由がいったいどこにあるのか、私にはさっぱり分らない。『悪童日記』はたしかに面白かった。それはすでに書いたから繰り返さないが、その面白さは、『第三の嘘』の解説に転載されている浅野素女さんによる作者へのインタビューで作者が語っている意図がそのまま実現されていることから来ている。つまり「何食わぬスタイルで人間世界の現実をきびしく暴く辛らつかつ残酷な情景もしくは寸劇を、一貫性のある形でいくつも連続させる」ことを目指し、そのために「語り手――単一の”ぼくら”という意識において一体化している双子の兄弟――が、あらゆる主観性を、あるいは少なくとも、感じやすさのあらゆる痕跡を、情け容赦なく強引に排除し去った小説」を書こうという意図が実現されているから面白かったということなのだ。

しかし残りの二作は、いったい何を書こうとしてるのか、なぜこんな形式をとっているのかもまったく伝わってこないし、物語そのものとしても、どこがいったい「驚愕」なのかと言いたくなるような、陳腐な世界でしかなく、それは解説からもまったく理解できない。

訳者の堀茂樹は第三作の『第三の嘘』で三部作が完結したということになっているが、完結してはないという疑問を感じており、作家の佐藤亜紀が同じことを言っているとか、フランスでもそうした評判が立っているとして、なんか鬼の首でも取ったようなことを書いているが、だからどうだというのだ。