仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

正しい絶望のすすめ㉞

2018年04月09日 | 正しい絶望のすすめ
超世(ちょうせ)の悲願ききしより
われらは生死(しょうじ)の凡夫(ぼんぶ)かは
有漏(うろ)の穢(え)身(しん)はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり  (『帖外和讃』親鸞聖人)
「超世の悲願」――阿弥陀仏の願い
「有漏の穢身」――煩悩から離れることができない身

浄土に往生することにこころが定まることは、今がどのような状態にあっても浄土に生まれていくわたしであると、わたしの尊厳が明らかになることです。

お盆で、あるご家庭へ出勤したときのことです。お盆ということで、嫁いだ娘さんもお連れ合いと二歳前と五歳前の男の子、そして三歳半の女の子を連れて帰省しておられました。
 お勤めは『正信偈』です。聖典をお配りして一緒に読経しました。幼児は抱っこ、他の二人の子は文字が読めないので、黙って正座していました。
 読経中、幼児がまず初めに動き、女の子が幼児の相手をしていました。でも最後までしっかりと正座していました。その隣は上の男の子です。二〇分間ほどを最後まで正座して沈黙を守っていました。わたしは途中からじっとして動かないその子が気になっていました。子どもが親に言われることなくじっとしているほうが不自然です。子どもがじっとしているのには何かあるはずです。
 わたしは、その数日前に読んだ新聞の投書欄に掲載されていた話を思い出しました。それは次のような内容でした。
 「近くのスーパーへ買い物に行ったときのこと。混雑する店内で小さな男の子が走り回り、その後をママが追っている。よく見ると、そのママは三人の子どもを連れて買い物に来ていて、動き回る下の男の子二人を静かにさせようと必死になっていた。
 レジを待つ間、ママは一番下の男の子のポケットに鍵を入れながら、〝家の鍵だから絶対になくさないでね〟と言っている。続いて、お兄ちゃんのズボンの後ろポケットにも何かを入れた。〝ママの携帯電話、持っていてね〟と話しかけている。
 大丈夫かなと思ったが、何とその途端に二人は静かになった。時々ポケットを気にしながら、神妙な顔で順番待ちを始めたのだ。静かになった子どもたちにも感心したが、そうなることを見抜いて大切なものを預け、子どもに責任を持たせたママの行動にも驚いた」とありました。親の見事な知見です。
 わたしは、この投書欄の話を思い出し、坊やが動かなかった理由があるにちがいないと思い、お勤めが終わったあと、坊やに訊ねました。
 「ぼく、偉いねぇ、ずうっと正座していたね。どうして最後まで動かないでいられたか教えて…。」
その坊やは、少し考えて、「前のときは動いてばかりいたから、今日は動かないって決めたんだ」とのこと。短い時間でも、思いを通した行動はなかなかできるものではありません。「坊やは、えらいなぁ、ホントにえらい」と、新聞の投書のことを引き合いにして話をさせていただきました。
「願いが自分の行動を貫く」。なかなかできないことです。わたしたちは、しっかりした願いを持っていても、場所やそのときの条件、境遇によって、その願いそのものが変わってしまいます。
 仏教では、わたしの願いや行為を「有漏(うろ)」であると説きます。しっかりと決心しても、いつの間にか心変わりをしてしまいます。つまり漏れ変わってしまうのです。
わたしたちは他人に裏切られるのではなく、わたし自身に裏切られ迷いの世界を流転してきたのです。
それに対して、阿弥陀仏の願いと行為は「無漏(むろ)」であり、変わることはなく、裏切ることはないということです。
 仏教の基本は、わたしの有漏の心を断念して、何が大切であるかを〝明らかに見究め(諦め)〟ていくことです。ところが浄土真宗という仏道は、有漏の心こころしか持ち得ないわたしを摂取してくださる阿弥陀如来の願いと働きに開かれて生きる仏道です。
親鸞さんの作と伝承されている数多のご和讃に、『帖外九首和讃(ぢょうがいきゅうしゅわさん)』と呼ばれる九首の和讃があり、その中に次のご和讃があります。
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏(うろ)の穢(え)身(しん)はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり
              (『帖外和讃』)
 わたしの称える南無阿弥陀仏のお念仏は、その阿弥陀仏の悲願のたまものです。
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