声にすればネコナデ声のような彼の文体の背景には、各地の郷土史家の協力をあおぎ、20年30年の成果を召し上げる、その目的があったんだろう、だから、ちょっとしたものができるはずだ。
この手口を駆使したのが民俗学の柳田国男、日本中の教員を動員して資料や記録を蒐集、その結果、日本では山犬が人間の子供を育てた例はないという結論、ところが、あの南方熊楠、この古文書のここのところ、あの記録の何年の条に、オオカミがヒトの子をそだてたという記載がある、国家権力を動員して調査したのが、ミナカタのデッカイ・アタマひとつにやられてしまったのだ。
南方には不思議な話しがあり、熊野の山中で植物採集をしたのだが、死んだ母親があらわれ、
「クマクスや それは あの山の あの木のかげにはえているよ」
その通りだった、かつての日本には、こういう話しが頻繁であった。
さて、司馬は、中国の各地を旅し、いくつかの紀行をものにする、この頃はうまくやっていたのだろう、そして、台湾の李登輝さんと対談し、台湾人の立場と、
「台湾人として 生まれた悲しみ」
これは、台湾を共産中国の一部としている中国共産党指導部の逆鱗(げきりん)に触れるものになった。
ところで、司馬遼太郎は、これが言いたいがために我慢してきたのか、それとも、たんなるグーゼンか、たまたま、こういうメッセジーを発信してしまったのか、どっちだろう。
世渡り上手の千慮の一失か、それとも、生きるために我慢に我慢を重ねた男の「最後の一句」だったのか、それにしても、当時の週刊朝日のスタッフは、よくぞ支えてくれたものだ、朝日新聞にも公平な本当のインテリがいるようだ、いや、大半がこころやさしいリベラリストなんだろう、彼らの意見が朝日の主流になることを願っている東京市民が多いのではあるまいか。
自由でオシャレで都会的、東京の市民と朝日新聞には美しい思い出があり、ニッポンの一番良質な世界があったのに、この20年30年は、ザンネンなありさまだった。
それにしても「台湾人としての宣言」、台湾の人々の喜びは、どれほどのものであったか。
今回の故宮博物館展は、彼らの感謝のひとつかもしれない、そう、作家司馬遼太郎の「最後の一句」に対する返礼だ、東洋の男たちの千年の夢三千年の誇り、堂々たる礼儀と気品は滅びてはいなかった、これこそが宝の宝、
「ああ いいなあー」