日伊文化交流会

サークル「日伊文化交流会」は板橋区で生まれ、元東都生協登録サークルとしてイタリア好きの人たちが集まり楽しく活動しています

LCI文化セミナー「現代のイタリア語ができるまで」に行きイタリア統一の歴史とイタリア語の成り立ちを聞きました(2019.3.17)@吉祥寺LCI

2019年03月21日 | イタリア関連の催し

LCI文化セミナー「現代のイタリア語ができるまで」に行きイタリア統一の歴史とイタリア語の成り立ちを聞きました(2019.3.17)@吉祥寺LCI



イタリア語の成り立ちを知るには まずイタリア統一の歴史から...ということで な なんとこのセミナー当日の3月17日
イタリア王国の成立記念日(1861年3月17日)ではないですか!! そんな日にセミナーをぶつけるなんて凄い( ゚Д゚)

さて 1815年のイタリアは サルデーニャ王国(サヴォイア家) ロンバルド-ヴェネト王国(オーストリア帝国) 教皇領 両シチリア王国等々があり まだ統一はされていませんでした

さてここで早速クイズです~♪ それぞれの王国の紋章を当てるのに...1つしか当たらなかった(;・∀・)

カルボナーリ(Carboneria)などの秘密結社(le società segrete)などの独立を望む人たち 1820年の革命(Rivoluzioni anni '20)がオーストリアによって弾圧されます
次にはマッツィーニ/Giuseppe Mazziniが「青年イタリア(Giovine Italia)」という秘密結社を発足させますが さてここで「マメ―リの賛歌(l'inno di Mameli)」(1847) 
のちにイタリア国家となる Goffredo Mameliの作曲した歌を紹介いただきました 
思わず口ずさんでしまいました♡ ← イタリア文化会館でよく流れていたので覚えてました
この歌詞には古代ローマ(スキピオ等)の引用もあったのですね
"l'inno di Mameli"は こちら (音が出ます)

そして 第2の国歌ともいわれる ヴェルディ(Giuseppe Verdi)の「ナブッコ(il Nabucco)」(1842年スカラ座初上演)も登場しました 
オーストリアからの批判を避けながら 独立の支持を遠回しに謳っていたのですね

"VIVA VERDI
"のVERDIは 実は Vittorio Emanuele Re di Italia の頭文字でしたね(^.^) 
これを道のあちこちに落書きをして 暗に統一を指示していたのですよね

1848年はそして重要な年となりました パレルモ自由党 (シチリアが独立) ピウス9世(教皇領)がトスカーナ大公国との統一に同意 そして
アルベルト憲章(Statuto albertino)」(Carlo Albertoによる)が発布されました これはとてもシンプルな81章だけの憲法ですね

またこの年にはヴェネツィア共和国(サン・マルコ共和国)が誕生し オーストリア軍を5日間だけ追放した「ミラノの5日間(5 giornate di Milano)」が起きました
そのドキュメンタリー映画の一部を見せていただいたのですが 映画かなと思ったら なんとドキュメンタリー!! 実に真に迫っていました 
市民たちが倒した馬車等で道をふさいだり...すごい迫力のシーンでした

カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイアがオーストリアに宣戦布告し 「第1次独立戦争(Prima guerra d'indipendenza italiana)」が勃発しますが 
彼はロンバルディアだけの占有を望んでいたため 敗北してしまいます

1849年 新しい王 サヴォイア家のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世/Vittorio Emanuele Ⅱが立ちますが  
ヴェネツィアもトスカーナも オーストリアによって共和国を廃止(aborire)させられてしまいます 
ブルボン家も教皇を支援し シチリア独自立憲を廃止し もとの両シチリアに戻ってしまいます 

1852年 カブール伯爵(Camillo Benso conte di Cavour)が ブロンピエールの密約でフランスと協定を結びます 
対オーストリア戦への軍事支援のかわりに ニース(Nizza)とサヴォイア(Savoia)をフランスに割譲というものでした

そして第2次独立戦争 ガリバルディ(Gioseppe Garibaldi)のアルプス猟兵士団(i cacciatori delle Alpi)が 最初の勝利を得ます 
1859年の ヴィッラフランカ(ヴェローナ)の休戦(Armistizio di Villafranca)によって サルデーニャ王国はロンバルディア エミリア・ロマーニャ トスカーナを占有し
ニースとサヴォィアはフランスに割譲され ヴェネト州はオーストリア領にとどまります

そしてガリバルディの動きを 地図を見ながら見てゆきました 
テアーノの会合(Incontro a Teano)でもって ガリバルディはエマヌエーレⅡ世に 両シチリア王国を割譲します



1860年 イタリアは サヴォイアの下で統一しますが ラツィオ ヴェネト トレンティーノはまだでした
1861年に最初のイタリア国会が開かれ トリノ(Trino)が イタリア最初の首都となりました 
サヴォイア家の紋章が三色旗の中に描かれていますね

そしてヴェネトがオーストリアからイタリアに戻され ナポレオンⅢ世もローマから撤退し イタリア軍はラツィオを併合します 

第一次大戦後 1919年にトレンティーノを併合し(annessione) 1946年6月2日 国民投票で王制廃止が決定し(北部は共和政優勢 南部は王政支持派が優勢) 
ウンベルト2世を筆頭に イタリア王家は全員国外追放されてしまいます
こうしてイタリアは共和政に移行するのですね 

そして1948年には イタリア共和国憲法(La Costituzione della Repubblica Italiana)が施行されます
厳格で139条と長い憲法でした 国旗の3色のサイズも同じと決められました


ちなみに 「ヴェラーノ墓地(il Cimitero del Verano)」には 歴史的人物の墓が多いのだそうです
無料ツアーもあり 国歌を作ったマメ―リ(Mameli)の向かいに ガリバルディのお墓があるそうです

参考: "Che storia!" (Bonacci editore) ← イタリアの歴史がわかりやすく書いてある本です♪

       *       *       *

休憩をはさんで いよいよ 「現代のイタリア語ができるまで」に入ります!!

ローマ帝国時代は ラテン語(latino)でした 
俗ラテン語(latino volgare)は ラテン語(latino)と 各地域の話し言葉が混ざったもので 様々な地域ごとの「俗語(un volgare)」がありました
ラテン語はフォーマルな書き言葉で学識語(lingua colta) 一方で 俗ラテン語は話し言葉でした

ここで 俗語最初の文書(960d.C.)という 「Placito Capuano」という モンテカッシーノ(ラツィオ州)の司法判決の文書の写真を見せていただきました 
なんと貴重な!!

この文書の中で 証言のところだけが田舎の俗語(volgare)で書かれており それも読んでいただきました この俗語(volgare)が のちに 各地の方言(dialetto)となってゆくのですね

そして1300年代 ダンテ ボッカチオ ペトラルカの作品は フィレンツェの俗語(volgare di Firenze/il fiorentino)で書かれたのですね 

ダンテの俗語論(De Vulgari Eloquentia)(1303~05)も 紹介していただきました 

ダンテは 文学に使える高尚な俗語(volgare illustre)は 俗語の中では見つけられなかったのだそうです 
 
さていよいよ ダンテの「神曲(Divina Commedia)」(1357~62, 1472)登場です!! ← 実はこの前日 友人宅のパーティーで
 この神曲の本を初めて見せていただいたのです 注釈がたくさんあって難しそう...
最初のタイトルは「Comedia」で のちにボッカチオが賛辞の言葉としてDivinaを使ったのだそうです

これはフィレンツェ俗語(volgare fiorentino)で書かれており 手書きで広まり(印刷技術がまだなかった) やがて多くの作家や詩人がフィオレンティーノ俗語で書くようになり 
イタリア文学での言葉となり ダンテは「イタリア語の父(padre della lingua italiana)」と呼ばれますね ← 語学学校で何度も何度も習いましたね~💛


こうして「1300年代のフィオレンティーノ」が 書き言葉と文学に使う言葉となりましたが その後 1400年代にギリシャ語やラテン語が見直される時期を経て
1470年代に 再びフィオレンティーノ俗語が復活し 印刷技術(stampa)も生まれます

そして1500年代では 文学ではどの俗語を使うべきかの大討論があり 1300年代のトスカーナのフィオレンティーノ(il toscano fiorentino del '300)が勝ちました
つづり字法(grafia)も変わり ラテン語のh x tiがなくなります 
ここで句読点(punteggiatura)が豊かになり アポストロフィ(l'apostrofo)も生まれました ← へぇ~

その後 地域(州)ごとに話し言葉が変わり 仏・西語特有の語法も入ってきます 
1612年に クルスカ・アカデミー(Accademia della Crusca)が 1300年代のフィオレンティーノをもとにした辞書を初出版したそうです 

そして1800年代になると 中産階級(la media borghesia)が生まれ 俗語よりも高尚な言葉が必要となります 
そしてイタリア統一を経てなお 話し言葉の統一はまだまだでした
1868年に 最初の文部大臣が アレッサンドロ・マンゾーニ(Alessandro Manzoni)に 新イタリア語の普及の課題を提示し 書かれたのが
言語統一について(Dell'unità della lingua e dei mezzi di diffonderla)」(1868)という条約文書です

ここでマンゾーニは 1800年代に中産階級が話していたフィオレンティーノ(il fiorentino dell'800 parlato dalla borghesia)を選び さらに 
他の俗語(volgari)は すべて方言(dialetti)と認定されたとのこと 

ここで質問したのですが dialetto(方言)のもとは 各地で話されていたvolgari(俗語)なのですって*

 * 参考: fiorire molti volgari (quelli che poi diventeranno i moderni dialetti) とありました
( 出典: "Come è nato l'italiano" )

1870年に 新イタリア語辞書が編纂され 他にも トスカ―ナ出身の教師を全国に派遣したり 子ども向けの本を改訂しました

いいなづけ(I promessi sposi)」(1825~27/Manzoni)は 今でもイタリアの学校で読まれているそうです

そして "sciacquare i panni in Arno"という 方言や外国語を洗い流して イタリア語をきれいにする運動が起こり この本が
完璧な模範となります

そして フィレンツェ出身のカルロ・コッローディ(Carlo Collodi/1826-1890)の 「ピノッキオの冒険(Le avventure di Pinocchio)」(1883)も
有名になりますね ← 私はこれは音源で聞きました

また 1800年代の読み書きのできない人々(l'analfabetizzazione)の問題も 義務教育等(obbligo di frequenza)の解決策で 徐々に減ってゆきました 
当時の学校は 70人クラスで 学校も不足していました 

1900年代になると アメリカに移住した移民と イタリアに残った親戚が手紙をやりとりしたり 
南から 工業化の進んだ北に移住した人たちが 移住先の方言を身につけたりしながら イタリア語を普及し
やがて 雑誌 映画 ラジオ そして50年代からはテレビ(Carosello等)によって さらに普及してゆきました
ラストの方言当てクイズも 今度はバッチリでした♪ 

次回は 6月16日(日)の開催です

お知らせは こちら

 ← Veronica先生と

何度やってもなかなか頭に入らないイタリア統一の歴史を わかりやすく説明していただき さらに イタリア語の成り立ちの歴史を知り またvolgare(俗語)からdialetto(方言)が生まれたことも知って嬉しいです(^.^)


LCI文化セミナー「現代のイタリア語ができるまで」は こちら

参考: "Come è nato l'italiano"* は こちら
ここには 1200年代はフェデリコ二世のいた シチリアの俗語(il volgare siciliano)が イタリアのもっとも重要な俗語だったとあります 時代によるのですね~)

素晴らしいセミナーを開催してくださいましたLCI様に 心よりお礼申し上げます




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