ウクレレ漫談家の牧伸二さん(78歳)が多摩川に投身自殺!!
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130429/crm13042911520007-n1.htm
大学教授を小ばかにし、アカデミズムを嫌った太宰にしては珍しい写真を二枚紹介します。
まず一枚目は新潟高校(旧制)での講演の際の記念撮影の写真。
昭和15年(1940年)のものです。
次に同年に東京商大(一橋大)で行った講演の写真。
演題は「近代の病」となっており、黒板には「完全人」「無報酬」の文字が書かれています。
「無報酬」は最初「無償」と書いたものを直したものでしょう。
「近代の病」とはいかにも太宰らしい演題ですが、報酬を全く期待せずに善行に励む「完全人」を求めつつ、
世間の偽善の前で無力に崩れ去る様子は、「走れメロス」から「人間失格」への経路が示しています。
* 画像は『新潮日本文学アルバム 太宰治』(新潮社)から転載したものです。
『人間失格』のあとがきは「この手記を書き綴った狂人を、私は、直接には知らない」という文章で始まる。
そして「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・・・・神様みたいないい子でした。」という文章で終わっている。
『人間失格』は『HUMAN LOST』と密接に関係している。
太宰は鎮痛剤バビナール中毒で精神病院に入院させられた。
そこでの惨状を描いたのが日記形式の『HUMAN LOST』である。
これを読むと、太宰が精神病に偏見をもち、精神病院に入院したことを人間としての恥と思っていたことが分かる。
これは太宰の愚見であり、明らかな思想的な程度の低さを表している。
彼は文系の秀才であり、文学の天才ではあったが、科学音痴であったようだ。
精神病は科学的見地から理解されるべき身体と脳の病であって「人間としての恥」などではない。
この点で太宰は思い違いをしていた。
しかし、『人間失格』に見られる人間の偽善と俗物性への批判精神は優れており、その文学的象徴化の才能は天下一品である。
そして、実は精神医学は科学であると同時に「人間理解」という実存主義的側面も持っているのだ。
それは障碍者や社会的弱者への理解と愛情に裏打ちされたものであり、通俗的道徳や処世訓的倫理を超えている。
精神病者は「人間失格」の烙印を押されることが多い。
特に昔はひどかった。
精神病者への愛情と脳病理への科学的アプローチは臨床精神医学の両輪であり、決して切り離せないのである。
この点で、精神科医が太宰から学ぶものはおそろしく多い。
実際、太宰が好きで取り上げる精神科医は多い。
我々には人の不幸を喜ぶという普遍的心理傾向がある。
しかしそれには個人差があり、単なる妬み、羨望の段階から誹謗中傷、迫害といった嫌らしい段階にまで及ぶ。
人の成功や幸福を羨みつつも、現在の自分のささやかな幸福や楽しみで満足できる人は、他人の「不幸」をあからさまに「喜ぶ」ことはない。
せいぜい、「彼に比べたら自分はまだ幸せな方だ」と自分を慰める程度であろう。
それに対して、他人の不幸を積極的に喜ぶ人は、悪人というより偽善者の傾向が強い。
他人の不幸は、やはり積極的に喜ぶべきものではなくて、さりげなく「気の毒に思うべき」ものなのである。
この「さりげなく」という点が重要である。
というのも、押しつけがましい援助や慈善行為は偽善者の専売特許だからである。
私の大学時代の同級生で「人の不幸を喜ぶ」傾向が非常に強い奴がいた。
彼の性格は粘着気質で、些細なことを気にかけ、それをいつまでも根に持つ傾向がものすごく強かった。
彼は実家がキリスト教関係で自らも信者であり、唯物論を極端に嫌っていた。
つまり精神や心は物質とは別次元にある神聖なものと考えていたのである。
その彼が、嫉妬深く、他人の不幸を喜ぶという醜い心の権化だったのである。
どうやら、精神主義的心身二元論は醜い心の産物であるようだ。
天才と変人は紙一重というよりは一体です。
天才の中でも作家の中には特に変人・奇人が多いのは周知のことです。
次のまとめを参考にしてください。
http://matome.naver.jp/odai/2127105157538503901
優れた小説、独創的な作品を書くためには世間の常識に囚われていてはだめです。
自分の本能の赴くままに生き、才能をいかんなく発揮するのが天才というものなのです。