アサヒの黒生はエビスの黒生より旨い。
この画像に写っているのはアサヒの黒生500cc缶とデスクと猫の置物とPCである。
PCのモニターにはさっきこのブログに投稿した記事(「花桃2013」)が映っている。
今夜(深夜1時)この黒生を呑むんや。
アサヒの黒生はエビスの黒生より旨い。
この画像に写っているのはアサヒの黒生500cc缶とデスクと猫の置物とPCである。
PCのモニターにはさっきこのブログに投稿した記事(「花桃2013」)が映っている。
今夜(深夜1時)この黒生を呑むんや。
直前の記事で2005年に撮った花桃の写真をupしたが、それは300万画素の古いデジカメで撮ったものである。
それと先月の末に1000万画素のデジカメで撮った紅白の桃の花の写真を対比してみよう。
こんなにも違うんやねー。
ちなみに画像のサイズを大きくしたのは画質の良さを分かりやすくするためである。
同じサイズにしても2005年の画像はこんなに鮮明ではない。
やっぱりカメラはいいものでないとね。
桜は散ってしまったが、今満開なのは桃の花である。
特に紅白の桃の花は美しく、見事である。
次にupするのは2005年の4月に私が埼玉県の三郷で撮った写真である。
紅白と言っても、厳密には白、ピンク、赤の三色花弁が咲き誇るのが、この樹である。
とにかく、吸い込まれるような美しさがあり、傍らを通り過ぎる時、つい見とれてしまった経験のある人も多いと思う。
これからは、八重桜、ハナミズキなどが楽しみである。
19世紀の末から20世紀にかけて精神医学は哲学と積極的に対話するようになった。
精神医学はその生誕時から、身体病理派と心理派に分裂しており、それが依拠ないし参照する哲学も唯物論的なものと精神主義的なものに分かれていた。
ただし、高次の思考は常に二元論を弁証法的に乗り越えようとする。
それゆえ、真正の哲学は心身二元論を乗り越えた高次の視点から精神と脳、精神病理と身体病理を統合的に捉えようとする。
しかし、この統合的姿勢は、けっして精神を物質に還元してしまうものではなく、精神と脳のを一つの生命システムの協力的契機として理解するものである。
しかし、この理想はなかなか実現しにくい。
多くの精神医学者は、精神病を脳の生理的病変に還元しようとする唯物論的哲学を好み、補助ないし慰めごととして精神療法を取り入れるだけである。
それに反発したのが、フロイトに始まる精神分析とビンスワンガーを元祖とする現象学的精神病理学である。
彼らは広い意味での心理派に属すが、みなれっきとした医者であり、脳と身体の病理に通じている。
今日の日本では木村敏とか斎藤環といった精神科医がそれにあたるが、彼らが書く哲学的、文学的著書の背景には医師免許が頑として控えていることを忘れてはならない。
しかし、木村にしろ斎藤にしろ、彼らの生理学的、薬理学的、脳病理学的説明を全く欠いた、精神分析的、精神病理学的叙述は誤解を招きやすい。
心理派や人間学派の人たちは、「脳の病理や薬理学や分子生物学(精神病の遺伝子的次元)を顧慮しているつもりだ」とは言うが、あまりに心理的叙述に偏りすぎている。
やはり、ここには真の「哲学と精神医学の関係」はない!!
哲学と精神医学の有益な関係づけはシステム論的方法による脳と精神の理解に基づいたものでなければならない。
そのためには、脳と精神の両方を世界内存在ないし社会内存在として統合的に捉え、個人が社会的環境の中で自己を確立していく際の脳の働きを顧慮しなければならない。
近年、脳科学は脳を単なる生物的存在としてではなく社会的存在として理解し、「社会脳」という概念を提唱している。
治療を第一に考える精神科医は、「脳と精神のどっちが重要か」と問う前に、目の前にいる患者の苦悩と病態を直視しようとする。
「そんなことはみんなやってるだろ」と言われそうだが、意外とそうではない。
ほとんどの精神科医は、マニュアルに従って診断し、薬を処方し、精神療法は省略するのである。
それにつけこんで、もぐりの精神病治療家が自己流のカウンセリングを宣伝したりするが、その効果は皆無である。
システム論的資質のある精神科医が目の前の患者の苦悩と病態を直視する際、必ず脳の病理、ならびに精神病理学に基づいた症状学が顧慮される。
そして、実際の治療は、精神療法(認知行動療法)と薬物療法の見事な二人三脚となる。
そして、学問的には、生物学的精神医学や精神分析や現象学的精神病理学といった相異なる見方を単に統合したり折衷したりするのではなく、臨機応変にそれらを使い分けるのである。
そして、その使い分けは、一人の患者に対してなされる。
これは簡単なようで難しい。
事実、木村敏も斎藤環もラカンもフロイトもみなできなかった。
それを「やろうよ」と最初に言ったのはヤスパースであった。
そして、ヤスパースの姿勢を現代に生かし、多元主義の方法を確立し、それを治療の場に生かそうとしているが、アメリカの精神医学者ナシア・ガミーである。
彼は「実存主義的な生物学的精神医学」の可能性を多元主義の方向で模索している。
ちなみに、ガミーは、イラン生まれの精神科医で現在タフツ医療センターの精神医学教授をしているが、タフツ大学でデネットの指導の下哲学の修士号を取得している。
ガミーの主張こそ今、「哲学と精神医学の関係」を考える際の模範である。
ちなみに、日本では京都大学の精神科教授の村井俊哉の動向に期待がもてる。
木村敏はだめだよ。
*参考文献として挙げとくもの
ナシア・ガミー『現代精神医学原論』村井俊哉訳、みすず書房、2009年
ナシア・ガミー『現代精神医学のゆくえ』山岸洋、和田央、村井俊哉訳、みすず書房、2012年
哲学と精神医学はけっこう関係が深い。
一部には経験科学としての精神医学に思弁的な哲学が関与することを嫌う人もいるが、それを積極的に評価する人もいる。
精神医学は非常に歴史の浅い臨床医学の一分野であり、他の分野に比べると未熟である。
精神病に対する200年以上前の医学の対処は非常にお粗末で、滑稽なものが多い。
古くは「悪魔憑き」と呼ばれた狂気としての精神病も、今日では脳の病気として認められ、薬物療法を中心とした医療処置の対象となっている。
しかし、精神病を単なる悪魔憑きから「病気」ないし「医学的疾患」として認め始めた当時の医者たちの対処は不合理なものであった。
精神病が純粋の精神の病ではなく、身体の何らかの生理的病変である、と考えたところまではよいのだが、瀉血とか水攻めとか回転いすでグルグル回して毒素を身体から排出させる、という発想が主流をなしていたのである。
ここには精神と物質、心と身体、心理と生理の関係についての粗雑な理解が表れている。
つまり心身関係、心身問題に関する理解がお粗末なのである。
心身問題は哲学に属する難問であることは広く知られているが、哲学を軽視する姿勢が、狂気に直面した医学者たちに上記のような滑稽な反応を引き起こしたのである。
当時の医学者たちは、「狂った精神」を一種のモノとして捉え、それが身体の生理的過程に毒素として作するから、それを物理的方法によって排出させるのだ、と考えたのである。
これは17世紀に始まるデカルト的物心二元論の精神病理解への応用に他ならない。
デカルトの物心二元論ないし心身二元論は一見合理的なように思えるが、人間を全体として捉えることには全く役立たないし、精神と自然の統合的理解を阻害する元凶なのである。
デカルト的二元論に則ると、「正常な精神」は物質とは別次元の神聖な超自然的、超動物的存在と受け取られるが、「狂った精神」は動物並みのものとして物質と同次元に置かれてしまう。
また、デカルト的二元論は自然科学の領域から精神的要素を排除することをもって「合理的」とみなすが、この思想は自然科学全般や医学一般には適合しても、精神医学には適合しなかったのである。
そもそもデカルト哲学は、精神科学や人間存在の全体性の理解や社会的問題には極めて弱い。
それゆえ、一見合理的に思え、精神医学にも適合しそうなデカルトの心身二元論は、精神医学に最悪の影響を与え、精神病の治療を妨害する元凶となったのである。
しかし、17世紀の心身二元論は今日に至るまで精神医学の方法と精神病の本質の理解に影響を与え続けている。
我々はそれを解体して、精神医学の真の科学基礎論、ならびに哲学と精神医学の適切な関係を築かなければならないのである。
*長くなるので、続きは次の記事に書きます。