芥川龍之介の晩年は苦悶に満ちているが、意識の哲学にとっては非常に興味深い。
神経衰弱によって彼の意識がどのような変遷をたどり、最後に自殺に至ったかを分析すると、精神病理の奥底に人間の本質を理解する鍵が隠されていることが分かる。
周知のように芥川の実母は統合失調症(旧名 精神分裂病 さらに古くは 早発性痴呆)の患者であり、夭折した。
芥川自身は母親からの狂気の遺伝を恐れ、精神病発病を常に危惧していた。
精神病理学における病跡学の観点から多くの見解が提出されているが、芥川を統合失調症であったとみなすものとそれを否定するものに意見が分かれている。
芥川の晩年の作品には自己の病的体験が数多く描かれており、その中には統合失調症の幻覚・妄想状態を思わせるものもある。
「歯車」における半透明の歯車の幻視はその代表である。
また自己の分身を見る体験も述べられている。
しかし、精神医学の診断学を参照しつつ緻密に分析すると、彼の病態、というより「病的経験」は典型的な統合失調症とは違うことが分かる。
統合失調症の中核症状は論理的思考が破綻する「連合弛緩」であり、ほぼ論理的思考が不可能となり、文章が乱れ、会話は支離滅裂となる。
また、それに伴い感情が鈍磨し、周囲に対して無関心となり、不潔になる。
とりわけ未治療の場合、末期的症状として終日黙して座り、ぶつぶつと独り言を言い、ときおり独り笑いしたりして、いわゆる廃人の様態を示す。
芥川には上のような症状はほとんど、というか全くなかった。
また、統合失調症に特有の幻覚は、ほとんどが「幻聴」であり、芥川が体験したと言い張る幻視は稀である。
芥川にも幻聴らしきものはあったが、空耳程度のものであり、統合失調症に特有のすさまじく、執拗な批判性幻聴や対話性幻聴はなかった。
また、精神運動性興奮からの錯乱や暴力は全く見られない。
以上の点を顧慮すると、芥川の晩年は文字通り「神経衰弱」であって、内因性精神病ないし脳の機能障害としての統合失調症ではないと判定される。
「神経衰弱」というのは古い表現だが、現代風に言えば、「うつ」と「神経症」のミキシングであり、これが心身症的に先鋭化し、特に不眠症がひどいものとして定着し、ついには彼を自殺に追い詰めたものと考えられる。
また、彼が述べた幻視の体験は、多量の睡眠薬の服用がもたらした副作用によるものとみなせる。
しかし、彼にはたしかに母から受け継いだ「統合失調症の素質」があった。
それが神経衰弱の症状を「自己の自己性の危機」という様態へと先鋭化したとみなすことができるのである。
いずれにしても、彼の晩年の告白調の短編は、精神病理学的に極めて興味深く、このような体験を断末魔の様態で、文学の鬼の魂をもって描き切った彼の姿勢はまさに純文学の鏡と言うべき、あっぱれなものであった。
私が好きな彼の言葉に次のようなものがある。
「毎年一、二月になれば、胃を損じ、腸を害し、さらに神経性狭心症に罹り、鬱々として日を暮すこと多し、今年もまたその例に洩れず。ぼんやり置き炬燵に当たりおれば、気違いになる前の心もちはかかるものかとさえ思うことあり」(「病中雑記」から)。← 本当の精神病患者は自分を気違いとは認めない。そういう自覚=病識はないのである。
実は大学院の修士課程の頃、飲み友達にこの断片が好きだと言ったら、「そんなの読んでるとほんとにおかしくなるぞ」と言われたことがある。
そのころは「気違い」と平気で書けたが、今はパソコンでこのように変換できず、みんな「基地外」と書いている。
差別用語と認定されたのである。
それと直接関係ないが、実は芥川も太宰も医学と生理学と脳病理学に疎かったので精神病に偏見をもっていた。
そんな彼らの言葉をうのみにせずに、精神医学の診断学を学び、冷静に評定することが肝要であると思われる。