心と神経の哲学/あるいは/脳と精神の哲学

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哲学B1 文章講義(第44回目)

2021-01-30 06:42:43 | 哲学

今日は最終回であり、「4 真実在をめぐる巨人の戦い」について講義する。

 

哲学における「真実在」という言葉は、「真に存在すると言えるもの」と同時に「あらゆる存在の根源」を意味する。

また、哲学では昔から「現象と実在」ないし「仮象と真実在」という対置図式が使われてきた。

我々も日常、見かけの存在ないし外見的現象と物事の本当の姿、真相というものを区別している。

身近な対置例をいくつか挙げてみよう。

 

見かけの太陽の大きさ=30cmぐらい ↔ 直径が地球の109倍の実際の太陽の大きさ

異常者ないし悪魔憑きに見える錯乱した精神病者 ↔ 脳の内因的機能障害としての精神疾患の犠牲者=肝炎や膵臓癌や脳腫瘍といった医学的疾患の犠牲者

どう考えても優秀だと思われる東大医学部卒の東大病院心臓外科教授 ↔ 日大医学部に三浪の末入った私大医学部の心臓血管外科教授の世界トップの実力

 

等々、いくらでも見かけと真相の区別を挙げることができる。

ただし、上に挙げた三つの例はそれぞれ目の付け所が違う。

最初の例が最も分かりやすく、現象と実在、ないし見かけと真相の関係を表している。

実際、これは最もよく使われる。

また、コップの中の水の中で曲がって見えるストローの例とかもそうである。

これら錯覚であり、人間の直接の知覚は真実在、本当の現実に到達しないことが多い、ということを示唆している。

これを敷衍して行くと、死後の世界とか霊魂の不滅、魂の輪廻転生といった宗教的観念に至る。

残念ながら、これらの宗教的観念は思考上の錯覚、つまり妄想であり、夢想であり、それは詐欺として悪用されやすい。

 

ちなみに、偏差値盲信主義もこうした信念と似ている。

既成概念に囚われ、物事の真相を見極める姿勢を放棄すると、医者や学者や職業人全般の真の実力を把握できなくなる。

第三の例はそれを端的に示すものとして有名である。

ただし、多数決の原理と権威主義的思考によって未だ偏差値盲信主義は揺るがない。

 

ところで、テキストでは物質一元論が批判され、場が物理学上の真実在であることを強調している。

その際、アインシュタインの見解を援用している。

そして、最終的にはエネルギーの時空的パターンによって構成される「自己組織化する<場>」こそが、物質粒子や物体を超えた物理学上の真実在とみなされるのである。

これは常識の立場からはトンデモに思える。

君たちもそう思うだろ。

しかし、現実には物質一元論ないし物質根源論のほうがトンデモなのである。

そう思えないところに現象主義の落とし穴がある。

 

我々は物事を本格的に探究したり、教科書や専門書を読んで本気で学ばないと、現象に囚われて、上に挙げた例の左側を真相だと思ってしまう。

第一の例について、今日もはや左側を支持する人はいないが、この例の左側に当たるものを指示している場合がまだ大量に残っている。

第二、第三の例はその分かりやすいサンプルである。

 

俺は何でも知ってるよ。

私が間違えるわけがない。

そんなことあるわけがない。

僕だけは絶対だまされない。

そんな思想はトンデモだ。

 

こうした思念が君たちの頭の中にあるはずだ。

このテキストを読んでも、情報が物理的世界の根底にある根源的存在原理だ、と言われても、それはトンデモだ、と思っていないか。

そう思う人は、上の三例と同様の過ちを犯し、見かけと現象の誘惑によって自らがトンデモさんになっているのである。

トンデモなのは君たちの方だ。

君たちは色々な事柄に対して、まだ「地球は見かけ通り30cmぐらいだ」という見方を、現象主義的観点から適用してしまっており、その過ちに気づいていない。

 

このテキストの内容に疑念をもつ者は「月にウサギがいて餅をついている」ということを信じる過去の人と同様の観点からトンデモになってしまっているのだ。

それゆえ、君たちは春休みにもう一度、このテキストを読み直さなければならないのだ。

 

 

                  僕もその通りだと思うにゃ

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