今回は第1章の第2節「感情を馬鹿にするな それは理性の親分である」について話す。
我々は日常、理性と感情を対置させて、どちらかに優位を置く。
あまりに理性的な人は嫌われるし、感情に動かされてばかりいる人も嫌われる。
いずれにして、理性と感情は対極にある人間の心の要素とみなされている。
しかし、この節で私が言おうとしているのは、理性と感情のどちらを重視すべきかということではなくて、この対置図式自体を見直した方がいい、ということである。
見直すだけではなく、根底から切り崩すことが必要だ、とも言える。
とにかく、我々の素朴な日常的観点は理性と感情を北極と南極のように極端な対置関係に置き、両者の相互浸透性に目が開かれていない。
とにかく、我々は理性と感情の接点と融合性、ならびに両者の根底に存するものに目を向けなければならないのである。
しかし、この際、意外なことが判明する。
それは両者の根底に存するのは普遍的「感情」だというこである。
テキストではそのことを詳しく説明している。
要するに、一般に「理性と感情」という対置図式で捉えられている「感情」は、かなり狭い意味のものであり、もっと生命論的に深い意味での根源的「感情」現象に
目を開かなければならない、ということである。
これは哲学や心理学からだけではなく生物学や脳科学からも主張されていることである。
特に近年の脳科学では「感情」が人間の心におけるより普遍的な現象であることが強調されている。
それゆえ、結局、この節のタイトル通り、感情が理性の親分だということになるのである。
そこら辺の詳しい説明はテキストをよく読んでほしい。
以上の説明が抽象的だと感じる者は、この節に出てくる「頭でっかち」と「心でっかち」の対比を参考にしてほしい。
その際、次の文章が重要なので、引用しておく。
なお、「頭でっかち」という揶揄的表現は、必ずしも「知性に偏重して感性が貧弱だ」「頭だけよくて体力がない」「理屈ばかり立派で実際の行動力が伴わない」といったことを意味しない。「頭でっかち」の特例は世渡り下手の馬鹿正直である。嘘も方便や大人の狡猾な処世術が使えない青臭い理想主義である。偽善性が全くない純粋な少年の心を保持した青年の心である。権力や権威に逆らって社会的弱者を救おうとする非打算的行為である。こうした心性はすべて「頭でっかち」ということが知性偏重主義だけではなく、純粋な少年的意識や非打算的感情をも意味することを示している。このこともまた感情と理性が分断したものではなく、融合したものであり、感情が理性を包摂した心的上位概念であることを理解するためのヒントとなる。
軽薄な「理性 vs. 感情」という対置図式から「頭でっかち」を捉えるのと、感情を根底においてそれを捉えるのとでは、観点の深みに大差が出る。
我々の脳の神経活動に基づく認知機能は「感情」という普遍的な生命現象によって潤われているのである。
人間だけじゃなくて、僕ら猫もそうなんだにゃ。
猫の方が人間よりも深い心をもっているんだにゃ。