旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

ちょっとモンゴルの勉強 其の八

2006-08-18 12:15:35 | 歴史
■20世紀初頭のモンゴル人達は、辛亥革命に際して漢族が清朝皇帝の位を奪い取って、大汗の位の継承者として侵略して来る危険を逸早く察知しており、当時としては最良の後ろ盾となるソ連を指導者とする事で、ソ連からも中国からも侵略されない独立を手に入れたのです。略奪好きのロシア軍でも、見渡す限りの大草原から奪い去る物はそれほど見付けられなかったでしょうから、彼らがモンゴルを欲した唯一の理由は満州征服の前線基地と、その尖兵として使える現地の若者であったようです。しかし、ソ連の傘下に収まる事を潔しとしない勢力も居て、彼らは日本の援助を頼りにソ連からも中華民国からも独立した国を建てようと運動していました。満州国を維持したい日本にとって、隣国モンゴルの情勢は重視すべきものではありましたが、それは海洋国家日本を大陸の深奥部に引きずり込まれる罠ともなる危険な要素でもあったのです。満蒙国境は権謀術数の渦巻く複雑な歴史を刻む舞台となったのですが、何故か戦後の日本では余り語られる事が無いようです。安彦良和さんの漫画『虹色のトロツキー』が、祖国の独立を願う日本人とモンゴル人の両親を持つ若者を描いて大きな衝撃を与えたのはちょっとした事件でしたなあ。

■1930年代末期には、内モンゴルの東部が満州国の支配下に入り、西部は王公徳王が日本の援助を受けて「蒙疆連合自治政府」を樹立して独立運動が続きましたが、日本が敗れて大陸を去ると、ヤルタ会談で「外モンゴルの現状維持」は決定済みであったので、問題の焦点は内モンゴルの去就に絞られて、ソ連と北京政府の思惑に挟まれたモンゴル人達の中には、フトクトの「内外モンゴル合併運動」やボインダライの「内モンゴル人民共和国臨時政府」等の動きが錯綜しました。しかし、1945年の6月から、日本の敗退を見越して既に中ソ条約の交渉が開始されており、そこで満州国のソ連利権・外モンゴルの独立問題・新疆の「東トルキスタン共和国」独立問題に関する取引が合意されていたのです。即ち、外モンゴルは独立を維持してソ連の支配下に留まり、新疆は中国領として承認されるが、満州問題は玉虫色で残されたのです。戦後の中ソ国境紛争は、済し崩しに満州利権を失ったソ連の未練と恨みを原因として繰り返されたとも言えますし、日本があまりにも満州国を手前勝手に傀儡化してしまって、戦後交渉に耐える現地の政府が生まれなかった悲喜劇に中国共産党が付け込んだ結果とも言えそうです。

■ソ連型の社会主義国家が崩壊した後の経済的混乱を終息させる特効薬は無く、ロシアはマフィア経済の闇が広がり続けて世界に拡大し続けていますし、東欧諸国はEU加盟に国運を賭けていますが、ヴェトナムやキューバのように東西冷戦の代理戦争を請け負って政権を維持していた国は、ソ連の指導と援助を失うと同時に光明を失いました。モンゴルも乏しい国富をロシアのマフィア経済に食い荒らされる危機に直面しているような話が聞こえて来ます。米ソの対立構造が解消された後に、自分達が所属すべき組織を見出せない国の窮状が早期に解決される可能性はまだ見えないようです。

■モンゴルは、常にロシアとチャイナとの間で一見内部分裂を起こすようでありながら、権謀術数を尽くして独立を守り抜く努力を続けて現在に至っているとも言えそうです。日本が介入して来た時期には日本の思惑も利用し、ロシアかチャイナかの究極の選択を誤らずに生き残ったモンゴルは、チンギス汗の時代から外交上手な国だったのかも知れません。それは、峻険な地形に守られたチベットの暢気な外交姿勢とは異なり、一望千里の平坦な草原地帯で生存圏を維持する民族の宿命が鍛えた技術だったのでしょうなあ。

■現在、モンゴル国に220万人、中国の内モンゴル自治区に350万人、ロシアのバイカル湖東岸のブリヤート共和国に30万人、そして遠くカスピ海西岸のカルムィク共和国に10万人が、近代国家が定める国境を越えて民族のアイデンティティの紐帯を維持するのはモンゴル語文化とチベット仏教の信仰だけです。1979年に初めてソ連とモンゴルを初めて訪問したダライ・ラマ14世は、旅行中に立ち寄った当時のブリヤート自治共和国で、チベット語で祈祷するモンゴル人達と交流し、ウランウデの仏教寺院の威容に感動していらっしゃいます。この寺院が建立されたのがスターリン時代の1945年であった事に驚嘆もなさったそうです。ソ連の崩壊でチンギス汗礼賛は解禁されましたが、ロシアに新たなイヴァン雷帝が出現しないとも限りません。今の所はモンゴル国の独立は安泰のようですが、急速に進む近代化の波が草原文化と素朴な遊牧民の生活形態を根底から破壊する危険性が高まっているのも確かです。独立という民族の宝を守る事と、民族の伝統文化を守る事との悩ましい鬩(せめ)ぎ合いは主権国家の宿命的な課題でありますから、その根幹が教育政策である事には国の区別は無いのでしょうなあ。

■1991年のソ連の崩壊で社会主義の看板も安心して下ろせるようになって、92年には国名を「モンゴル国」に変えて議会制民主主義と市場経済に移行する新憲法を制定し、93年には選挙で大統領を決めて、経済復興に邁進できる時代を迎えたのです。正直で元気なモンゴル人の中には、漢族族と見るとちょっと態度が狂暴になる傾向が見られますが、かつて毛沢東が「百年もすればモンゴルは自主的に中国に復帰するだろう」と放言した事に対する確固たるNOの反応だと考えれば納得は出来ます。地図を見るとモンゴル国と中国内モンゴル自治区との国境線は滑らかな曲線で括れる形をしているのですから、遠い将来において国境が変更されるならば、毛沢東の予言とは逆の形になるのではないかと想像したくもなりまうが、国境はどんなに僅かでも移動変更される時には、大量の流血を見るのが決まりなので、当事者双方に軽挙盲動は厳に謹んで頂きたいものでありますなあ。でも、経済協力圏だの共同開発計画だの、甘い誘惑はこれからますます強まって行くでしょうから、早めに私利私欲に走る上層部の腐敗を排除して法律的な予防策を講じておくべきでしょう。

虹色のトロツキー (1)

中央公論新社

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ちょっとモンゴルの勉強 其の七

2006-08-18 12:15:21 | 歴史
■その好機は案外早く到来して、中国側がソ連の援助目当てで頼りない第一次国共合作を決めるのを見澄まして、ソ連政府の指導を選択して援助を受けたモンゴル人民義勇軍が、1921年7月11日に「人民革命」を起こして再び独立を回復します。資本主義経済が確立していた訳でもないモンゴルですから、マルクス主義もレーニン主義も関係なく、ロシアとチャイナを天秤に掛けてロシアに乗ったというだけの話です。

■同年11月には「ソ蒙友好同盟条約」が締結されて軍事援助を中心にソ連型の政府が名目だけですが、成立しました。外モンゴルを失った中国は激怒したのですが、さすがにソ連には刃向かえず、国境を固めて内モンゴルを死守すべく漢族の植民を強化し始めます。この辺の事情を押さえておかないと、後の満洲独立、日本・朝鮮・チャイナからの巨大な移民の動きは理解出来なくなりますぞ。現在の内モンゴル自治区で、間も無くモンゴル族が貧しい少数民族になってしまう事態を、満洲帝国を悪し様に語る人々はどう説明するのでしょう?勝てば官軍、昔取った杵柄で毛沢東大好き、中国大好き、社会主義万歳!の気分で北京政府のやる事は黙認するのならば、東アジアの近代史はぐみゃぐにゃに曲がってしまいます。勿論、盧溝橋事件以降の陸軍内部で盛り上がった出世競争熱は大問題ですが……。

■外モンゴルの独立は、国境の外に同じ民族が取り残される結果となって、皮肉な事に民族の分断状態を深刻なものにしてしまう結果となりました。しかし、モンゴルには同時にソ連と清王朝を継承したと自称する中華民国に対処する南北両面作戦を実行する力は無く、チャイナの勢力圏に留まって漢化政策に耐えながら民族の統一を維持するか、内モンゴルを切り捨てて国家の独立を果たすかの究極の選択が迫られていたのですが、それを民族の意志で決定できる状態ではなかったのでした。そしてモンゴルは、長年の経験からチャイナとの縁を切る決断をしたのでした。

■日本で関東大震災が起こった翌年の1924年、孫文は1月30日に開催された第1回全国代表者大会で「連ソ・容共・扶助工農」の3大政策を発表して、第一次国共合作が成立します。これは全てコミンテルンの指示に従ったもので、当初は米国をモデルとして多民族民主主義国家を標榜していた孫文がソ連の社会主義理念に共鳴した結果です。この人物の言動や行動に思想的な一貫性を求めても意味は無いようです。この9年前に、日本が「対華二十一箇条要求」を発表して世界中から顰蹙を買った事件が起きていますが、その原案は覇権争いを続けた孫文と袁世凱の双方が日本の援助を得ようと裏交渉で乱発した空手形を参考にして書き上げられているので、日中交渉の集大成として成立したようなものです。この餌に釣られて裏交渉を不用意に表に出してしまった日本は反日運動の盛り上がりに仰天してしまいます。

■中国共産党の謀略も盛んで、満洲建国に危機感を持っていたソ連も、大陸に利権を得たい米国も、この反日運動を大いに利用したようです。日本としては典型的なマッチ・ポンプ式の稚拙な外交政策によって謀略の餌食になった典型例のようなものです。モンゴルでは同年5月20日に54歳でボグド汗が死去。旧勢力を懐柔する役割を果たしていたボグド汗の後継者は選ばれずに、6月3日には共和制に移行した上で、11月のモンゴル人民共和国成立に至るのである。これ以降、モンゴルはソ連から新しい技術を導入して急速な近代化を開始しましたが、それは同時にロシア語教育の採用をも意味していました。モンゴル文字は急激にキリル文字に書き換えられてしまいます。イデオロギー教育は一夜にして転換出来ますが、言語文化の回復は非常に困難な仕事であり、現在もモンゴル文字は完全には復活していないのですなあ。記して銘すべき事態であります。

■文字を持たぬ遊牧の民だったモンゴルは、チベットの高僧パスパを元朝の「帝師」に迎えたフビライがチベット文字を基礎とする縦書き文字を公用語として制定したのが文字の最初で、このパスパ文字は霊験あらたかだったかも知れませんが、速記性に欠ける文字で甚だ不便だったので、通商用に普及していたウイグル文字を参考にして縦書きで左から右へと行を進めて書くモンゴル文字が定着していたのでした。しかし、世界で最も民族問題に精通していた?スターリン同志の指導で、母音が七つ有る縦書きのモンゴル語が、母音が五つしか無い横書きのキリル文字に強引に転換されてしまったのです。こうした悲劇が50年も続いた後に、ソ連崩壊で民族教育の復興が試みられて早速小学校からモンゴル語を教えようと張り切ったものの、教材も教師も消え去った現実の壁は想像以上に厚かったようです。

■仕方が無いので、低学年にはキリル文字を教えて高学年にはモンゴル文字を徐々に教えるという折衷策を採っているとも言われますが、どこかの国が、漢字文化に大鉈を振るって教養の欠片も無い国民を大量生産し続けている喜劇と好対照の話ではないでしょうか?
外モンゴルを奪われた北京政府は、スターリン同志に民族融和策の手本を示す為か当て付けかは知りませんが、内モンゴル自治区の民族学校ではモンゴル語を学べる体制を維持し、国内発行の紙幣にも小さいながらチベット文字等と並べてモンゴル文字を印刷して流通させています。勿論、その内モンゴルでも漢化政策が進んで、モンゴル文字の学習者が間も無く消滅するだろうと容易に予測出来るのですが……。

ちょっとモンゴルの勉強 其の六

2006-08-18 12:15:06 | 歴史
■時代は駱駝や馬の時代から、汽船と汽車の世の中に変わっていたのが運の尽きで、ロシアは馬と船を利用してどんどん東に進み始めてシベリアへの道を開いたのは16世紀の事でしたなあ。日本はまだ戦国時代です。17世紀には清朝の北辺に接触し、18世紀にはカムチャツカ半島とアラスカに達したロシアは、清朝の衰退に付け込んで南下を続けて日本海に臨む沿海州を手に入れてしまいます。何と、1705年にロシアは清に対して貿易を求める一方で、ペテルブルクに「日本語学習所」を設立しています!目的は何だったのか、よく考える必要が有ります。1727年にはキャフタ条約が結ばれて、分裂状態だったモンゴルの頭越しに、清朝とロシアが勝手に国境線を画定してしまいます。どうせ「外国人の土地」なので、清王朝の世宗雍正帝は気前良くモンゴル人の故地をロシアに渡してしまいました。

■それでもハルハ部やジュンガル部は健在で西はバルハシ湖南岸からカシュガル、ヤルカンド、コータンなどのオアシス都市も握っておりましたぞ。特にジュンガル部のアルタン汗は清王朝を大いに苦しめるほどの大勢力になっていました。しかし、1757年に清は大軍を発してジュンガル部を掃討し、積年の恨みを晴らすべく虐殺を始めます。イスラム教徒も反乱を起したので西部地域を征討して回った清朝は「新疆」という支配地の名称を始めて使います。この頃の清王朝は内憂外患に苦しんで地力を使い切ってしまったようなものです。イスラム教徒も後のモンゴルと同様に、外国の西トルキスタンと国内の東トルキスタンに分断され、それが現在の中央アジア諸国と新疆ウイグル地区とに分かれることになるのですなあ。

■1792年にラクスマンが日本にやって来ます。日本は開国か攘夷かで内戦状態に陥りますが、最短時間で幕藩体制から近代明治国家への脱皮を果たします。そして、ロシアが清朝崩壊に乗じて満州を奪わんとした時に、辛くも日本が立ち塞がってアムール川の北まで押し戻したのは1905年の事だったのです。それが世に言う「日露戦争」で、ロシア帝国とすると世界最強のバルチック艦隊を対馬海峡に沈められ、世界最強の陸軍も難攻不落の旅順要塞を落とされた上に奉天会戦にも敗れ去るという言い繕いようの無い惨敗なのでした。その相手が黄色人種だった事でロシアは面目丸潰れとなって、欧州諸国から笑われる屈辱を味わいます。

■日露戦争の雪辱と太平洋岸の不凍港を求めて満州と朝鮮半島に襲い掛かったスターリンが、名匠エイゼンシュテインに命じて撮影させた大作映画が『イヴァン雷帝』だった事を忘れてはなりません。1946年に完成された一部カラーのこの作品は見事な芸術性を世界に見せ付けましたが、モンゴル兵を盛大に追い回して殺戮する単純明快な作品を期待したスターリンは、内面の葛藤を見事に描いたこの芸術作品を観て激怒してしまいます。映像の芸術性とシナリオの奥深さを無視してしまえば、猜疑心の強い残虐な独裁者でしかないイヴァン雷帝の映画は、思い当たるところが山ほどあるスターリンにとっては、自分を批判している作品としか思えなかったのでした。国家事業として編纂したソビエト連邦百科事典の主要項目を全部自分の目で点検し、恥ずかしくなるような美辞麗句が並ぶ自分自身の項目に、更なる礼讃文を書き加えられる異常者ですからなあ。

■エイゼンシュテインの同僚だったプドフキンが撮影した『チンギス汗の後裔』(日本での公開名は『アジアの嵐』)という作品の方が分かり易く、悪辣な英国商人の姦計によって偽の蒙古王に仕立て上げられたモンゴルの猟師が、民族の怒りによって覚醒して数万の蒙古軍を指揮して英国勢力を草原から駆逐する作品だったそうです。この昭和5(1930)年の作品に描かれた民族解放運動の裏に隠されたソ連の謀略に気が付く観客はおらず、草原の合戦場面が日本でも人気を博したと伝えられていますから、歴史の勉強は大切ですなあ。因みに、1963年に中国で撮影された『農奴』という作品は、封建領主の搾取に苦しむチベットの農奴に同情を示すチベット仏教の高僧が、実は搾取の親玉だった事を知った農奴が叛乱を起こすという誰にでも分かる、誠に単純な筋書きになっています。社会主義政権が製作する映画は常に分かり易く自己宣伝と自己陶酔が作品に満ち溢れているというわけです。政権崩壊後に見直しますと、なかなか笑えて楽しめるのですが、題材の事件を実際に体験した人々は絶対に見たくないのだそうです。

■辛亥革命で清朝が倒れた1911年の12月1日に、モンゴルはさっさと活仏ホトクトをボグド汗に即位させて独立を宣言しています。周辺諸国に使節団を派遣して独立と「共戴」年号の制定を伝える勢いを示しますが、白ロシア軍と中国軍閥が侵攻してモンゴルは分裂と占領の危機に陥ってしまいます。1915年7月にロシアと中華民国との間でキャフタ条約の期限切れが確認され、問答無用で中華民国の形式的宗主権の下での「高度自治」だけが認められたのも束の間、ロシア革命が起こると中華民国はモンゴルの自治権を取り消して併合しようとします。ですから、モンゴル人達の国家的な目標は常にチャイナからの独立に集約されるのです。

イワン雷帝

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