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旅限無(りょげむ)

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北の原爆50年史 其の伍

2006-10-14 08:52:05 | 歴史
米軍の仁川上陸作戦に応じて北朝鮮国境に15個師団を密かに集結させながら、北朝鮮軍が総崩れで敗走する戦況を見ていた中国共産党は、9月23日に「中国人民は常に朝鮮民族の側に立って戦う」との宣言を出し、ソウル奪回直前の25日には人民軍総参謀長代理の聶栄臻(じょうえいしん)大将はインド大使のパニッカーに「米軍の38度線越境を黙過せず」と警告を発する。しかし、如何なる外交上の深謀遠慮なのかは不明だが、インド大使はこの第三次世界大戦に直結する危機的メッセージを米国に伝えなかった。

■米国とのパイプを持っていなかった北京政府がインドを通じて重大なメッセージを発したのでしたが、これをパニッカー大使が握り潰したのは、既に始まっていた「チベット解放戦争」によって自国の北側に急速に増大した中国軍の圧力に対して、米軍を本気で怒らせて中国軍をコテンパンに打ち負かして欲しいというどす黒い欲望が隠されていたのかも知れません。チベットを見捨てたばかりか、北朝鮮も韓国も、否、下手をすると世界を見捨てることになり兼ねない危険な思いつきだったかも知れません。この時のインドの仕打ちを深く怨んで北朝鮮が、インドの宿敵であるパキスタンと手に手を取って核弾頭ミサイルの開発をしていたとしたら、何とも恐ろしい因果を感じてしまいます。


9月末日、マッカーサーはワシントンに「朝鮮全域での作戦許可」を求める電報を送るが、ワシントンは38度線を越える事を躊躇(ちゅうちょ)する。マッカーサーは北進停止を承知するが、李承晩大統領は断固越境北進!半島武力統一!を主張。総兵力44万を率い、戦死者5千500人、戦傷者1万6000人に抑えられたマッカーサーは勝利を確信して、10月1日、北朝鮮軍総司令部に向けて降伏勧告を放送。同時に韓国語のビラ250万枚を、命からがら逃げ帰った2万5000人の敗残兵が呻いていた北朝鮮の空に散布。この日は、中華人民共和国の国慶節に当たり、建国一周年記念祝賀会の席で周恩来首相は「北朝鮮軍の最後の勝利を確信する」「帝国主義者が隣人の領土に侵入するのを傍観しない」との反米演説。その記念式典の会場となった天安門広場で、米陸軍のバレット大佐と日本の謀略機関の一つ日高機関が、105ミリ迫撃砲で中国共産党要人達の列を狙った暗殺未遂事件が発生。北朝鮮からの2度目の参戦要請に応じて、毛沢東は翌2日の政治局会議で参戦を内定し、即日スターリンに打電。

■米国としては北朝鮮の後ろに控える中国が邪魔で、北朝鮮としては韓国を保護している米軍が何としても邪魔。この構図の半分は、1972年2月21日のニクソン訪中から消え始めて、同年9月29日の日中国交正常化、1992年8月24日の中韓国交正常化によって完全に消滅してしています。しかし、朝鮮戦争の休戦状態が続く限り、北朝鮮にとって「米国が邪魔」の状態がずっと続いているというわけです。


10月3日に周恩来から「国連軍が38度線を越える場合は介入する」との警告を聞いたインド大使のパニッカーは、今回は本国に伝えて職責を果たす。この重大な警告は英国経由でワシントンに達した。朝鮮戦争に国連軍として参加していた英国も、医療隊を派遣しながら分離独立したばかりのパキスタンとのカシュミール紛争に神経を尖らせていたインドも、朝鮮半島での米ソ直接衝突の危機を注視していた。

■インドとパキスタンの両国は、後に核保有国となって核軍縮が夢でしかない現実を世界に示すことになります。住民の圧倒多数がイスラム教徒で支配層がヒンズー教徒という大英帝国が遺した歪(いびつ)な人口構成が、分離独立後の両国にとっては絶対に譲れない問題となって紛争が繰り返されています。何時の間にやら、カシュミールの北東部には「中国領」が出来てしまい、三つ巴の領土争いになっていますが、関係3国全部が核保有国と言う珍しくも危険な場所になっています。第三の核兵器はカシュミールで使用されるという噂が絶えません。

其の六に続く


北の原爆50年史 其の四

2006-10-14 08:51:24 | 歴史
南下した北朝鮮軍が韓国国民の協力が得られなかった理由は、兵士の多くがロシア語か中国語しか話せなかったからだとも言われるが、断固抗戦の意志を固めて待ち構える釜山には、増強された米陸軍8万5000・韓国軍9万2000・海軍3万6000・空軍3万7000が、強力な後方補給基地と化した日本を背にして陣取っていた。しかし、北朝鮮軍による集中攻撃を受けて孤立する危険が迫った大邱市からの後退が指令された9月5日からの3日間は、釜山市内の難民達が恐慌状態となって先を争って船で日本領対馬に脱出しようとする騒ぎが起こる。

■最近、韓国の某市で「対馬は韓国領だ」とする決議をしたのだそうですが、本当に第二次朝鮮戦争が勃発したら、人口4万人の日本領対馬にそれに匹敵する難民が押し寄せる可能性は有ります。竹島占領のやり方に味をしめて、対馬に触手を伸ばして軍事的な後背地を求める気分が韓国内に膨らむ前に、竹島を奪還してきっぱりと領土領海問題に決着を付けておくべきでしょうなあ。


9月11日、北朝鮮軍の攻勢に綻(ほころ)びが見えると釜山側の反撃が始まる。日本の神戸と横浜からは仁川上陸部隊の主力第1海兵師団と第7師団が、集合地点の済州島西方海上を目指して出航し、大潮の満潮時に当たる9月15日午前6時27分、261隻の国連軍上陸作戦部隊が「仁川上陸作戦」を開始。北朝鮮人民軍の主力3個師団を壊滅させて上陸作戦は成功するが、マッカーサーの戦略の核心は、上陸部隊のソウル侵攻に驚いて釜山の橋頭堡に張り付いている北朝鮮軍が退路を断たれるのを恐れて北上すると読んで、これを南北から挟み撃ちにして殲滅しようという計画であった。しかし、釜山攻撃を命じられていた北朝鮮軍は一向に仁川上陸作戦に反応せず、予測した北上行動を開始せず。彼らはマッカーサーが予想した以上の消耗と混乱の中に有り、仁川の情報も得られぬまま兵力の8割を韓国内で強制徴募した新兵で補って戦闘に駆り立てている状態であった。マッカーサー戦略が空振りに終る寸前の9月22日、北朝鮮軍第13師団参謀長李学九大佐が投降して主力は無くなり、他の人民軍兵士は散り散りに逃走。

■「米軍は介入しない」と信じ込んでいた金日成にとって、この仁川上陸作戦は驚天動地の出来事だったようですが、もしかすると、開戦前の1950年1月にナショナル・プレスクラブでの「アリューシャン列島からフィリピンまでを防衛線にする」という米国務長官アチソンの演説を真に受けていただけだったのかも知れません。韓国内に駐留米軍が居たのですから、いくらアチソン演説に朝鮮半島が含まれていないからと言って、米国が自国の兵士を見殺しになどする筈は無いのです。こんな勘違いをするのは、自分が兵士を平気で見殺しにしてしまうからだとしか思えません。その典型的な例となったのが、釜山を目前にして袋の鼠となった北朝鮮軍でしょう。

■しかし、絶対に間違いを犯さない金日成ですから、自分の間違いを認める筈も無く、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という理屈で、上陸部隊が出発した神戸と横浜も憎いし、何よりも日本が憎いという乱暴な逆恨みも出て来ます。同じ民族が殺し合う恐ろしさは、釜山攻撃に無理矢理参加させられた「8割」の韓国人の姿に結晶しているように思えます。


上陸から14日目の9月28日にソウル奪還。この段階までに死者43万人以上、罹災者300万人以上。追い散らされた北のソウル守備隊は韓国の民間人からも追われる身となる。ソウル占領中に北朝鮮労働党の中央は、民間人暗殺を目的とする決死隊を送り込んで「反動粛清」に励んでいた。金日成自身は、この時既に鴨緑江まで逃げ去って幻の「日本軍10万人上陸説」に怯え切っていた。この根も葉も無い噂は南北双方が繰り広げていたラジオによる謀略宣伝放送の産物であった。

■1990年9月28日に、日本の自由民主党・社会党と北朝鮮の労働党が調印した『共同宣言』の第1項に書き込まれた悪名高い「戦後45年間朝鮮人民が受けた損失について謝罪し、償うべきだと認める」という文言には、国連軍の兵站基地となった日本に加えて、この時に金日成自身を心底怯えさせた「幻の日本軍10万」に対する方向違いの意趣晴らしが有ったような気がします。それは思い出す度に増大する恥ずかしさを裏返したものなのでしょうが、自分を見捨てたソ連や最終的に救ってくれたものの恩着せがましい北京政府、ましてや名誉挽回の為には休戦を破って正面から挑まねばならない米国になどに言えない居丈高な物言いです。それが何故か日本に対しては何の遠慮もせずに言えるのが不思議です。

其の伍に続く

北の原爆50年史 其の参

2006-10-13 08:13:20 | 歴史
■1950年の朝鮮戦争に戻ります。
7月1日 米歩兵第21連隊第1大隊406人を先遣部隊として、後続部隊も続々と釜山に上陸して北上開始。中国共産党は、7月7日に北京で国防軍事会議を開き東方辺防軍の創設を決定。同日、ソ連代表欠席のまま国連安保理で16箇国が参加する国連軍を編制。翌8日にはマッカーサーが国連軍最高司令官に任命される。東京で戦略を練っていたマッカーサーから、7万5000人の警察予備隊の創設と6000人の海上保安隊増員計画を指示する書簡が吉田茂首相に届くのはこの日の午前中であった。

■ここから日本の再軍備が始まり、吉田茂の交渉術によって日本は軽武装国家として独立し経済成長の道を進む事になるわけですが、朝鮮戦争に参戦せずに済ませて以来、米国自身が押し付けた武装解除憲法を盾にし続けて60年近い棚ボタ平和を享受することになりました。本格的な武装を拒否した日本は当然のこととして核武装などは考えもしない「世界唯一の被爆国」の立場を政治的に利用するようになるのですが、世界はそれとはまったく逆の方向に進んで行きます。朝鮮戦争が始まった時、米国に続いてソ連が原子爆弾の開発に成功していましたから、最悪の場合はソ連が1949年8月29日に実験に成功したばかりの原爆まで持ち出して支援してくれると考えていたかも知れません。


短期決戦の当てが外れた北朝鮮軍は食糧不足と兵の疲労に苦しみながらも、金日成の「祖国解放記念日8月15日までに釜山占領」指令に従って釜山の橋頭堡に押し寄せるが、釜山の手前に横たわる洛(ラク)東江(トンガン)で戦線は膠着状態に入る。金日成の口車に乗った事を後悔したスターリンは、米ソ直接対決を避けて、ソ連軍顧問団全員に沿海州への撤収を命令。唯一にして最大の後ろ楯を失った金日成は恐怖の余り自暴自棄になったが、北朝鮮人民軍副参謀総長・李相朝らは北京で毛沢東と周恩来に援助を懇願する。毛沢東は一人参戦の決意を固めるが、同調者は無く反対論と消極論が大勢を占める。

■中国で建国50周年を記念して製作された毛沢東の伝記大河ドラマには、朝鮮戦争に参戦するかどうかを幹部達が議論する場面が出て来ます。核兵器を所有する米軍に対して開戦する無謀さを指摘する林彪将軍に対して、毛沢東が机を叩いて「敵に原子弾が有れば、我が方には手榴弾が有るではないか。」と怒鳴ります。普通の感覚ならば爆笑を誘う演出かとも思えるのですが、国家の威信を懸けて制作した記念すべき「正しい歴史」ドラマですから、絶対に笑っては行けない実話なのだと思われます。しかし、伝説化していた毛沢東戦術は既に時代遅れとなっていたのは確かです。この時の経験から、毛沢東も原子爆弾の開発を決意するに至るわけですが、ソ連に見捨てられて半狂乱になっていた震えていた金日成には、そんな贅沢な夢は見られなかったでしょう。

■藁をも掴みたい北朝鮮軍の使節に対して援軍を送れない毛沢東は、「ソ連との事前協議の有無」を何度も確かめて、地図上で反撃作戦を指示します。9月8日に北京から戻った使節団の報告を聞いた金日成は、「中国の指図は受けない!」と拒否した上に、北京に泣き付いた事実を隠すように緘口令を布いたそうです。この時の毛沢東からの指示の中には、米軍の仁川港か元山港への上陸の可能性が高いとの正しい指摘が含まれていましたが、実弾を一発も撃ったことが無い森林パルチザンの連隊長上がりの「霊将」には理解不能であったようです。


8月31日、疲労の極に達して消耗していた北朝鮮軍9万8000名が、橋頭堡の釜山に最後の総攻撃を開始。これより少し前の8月25日に、俄か編成の警察予備隊の第一陣が、北海道に駐屯していた米軍第7師団の朝鮮出兵と入れ替わりに、蛻(もぬ)けの殻になったばかりの師団キャンプに入る。移動中の臨時列車内で米軍将校から米国製のカービン銃を配られて、その扱い方を教えられる程の慌ただしい創設劇であった。この時、樺太において日本人共産主義者で編成したソ連軍2個師団が配備されているという噂であった。朝鮮戦争が宗谷海峡に飛び火するのではないかという恐怖の中で、日本軍北海道守備隊が着任。

■スターリンが北方四島ばかりでなく、北海道の東半分を要求していたのは有名な話で、北朝鮮軍の南下に合わせて宗谷海峡を圧し渡って来たら、日本は素手で立ち向かわねばならなかったのでした。しかし、第二次大戦で受けた深い傷を癒さねばならなかったスターリンは、東欧に衛星国を並べるのに忙しく、持ったばかりの核爆弾の扱い方にも慣れていませんでしたから、北朝鮮の始末は弟子の毛沢東に丸投げする心算だったようです。

其の四に続く

北の原爆50年史 其の弐

2006-10-13 08:11:50 | 歴史
ソ連軍に逮捕された後、アムール川沿岸のビヤツクエ村に連行されて軟禁状態に置かれて思想教育を受ける。1942年のノモンハン事件に際してはソ連軍大尉の階級で熱心に偵察活動を行って忠誠心し、スターリンの粛清で有力な朝鮮人指導者が殺害された後も、ソ連極東方面軍第88特別狙撃旅団の大尉として生き残る。1945年9月19日にソ連船プガチョフ号で元山港に上陸。

■一時は中国共産党軍の兵士となり、ソ連軍の覚えも目出度い傀儡国家の元首となったものの、似たような経歴を持つ諸先輩やら、ずっと半島を出ずに独立運動に挺身していた有力者がうじゃうじゃしている真っ只中に33歳の若造が帰国したのですから、ソ連の威を借りなければ怖くて何も言えない立場だったのは想像に難くありません。


朝鮮半島では、結成以来内部抗争ばかり繰り返すので1928年にコミンテルンの命令で解散させられていた朝鮮共産党の残党が復活し、1946年2月8日にソ連の命令で「北朝鮮臨時人民委員会」が結成される。その委員長に若き金日成を据えるが、貫禄不足で一向に組織を抑えきれず、同年7月には南北に分かれて労働党が結成される。1948年2月、北では中国帰りの延安派とソ連派の主導権争いを内包したまま朝鮮人民軍が創設され、南では南北分断選挙に抗議した勢力が起こした「済州島事件」が5月に発生し年末まで悲劇が続く中で、8月15日に大韓民国樹立が宣言される。これに対抗して9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立して38度線が実質的な国境となり始める。

■1945年10月に米国から30年ぶりに李承晩が帰国して、こちらは勿論米国の後ろ盾で親米・反共主義を貫いて左右両派が入り乱れる政治的な混乱の中で、48年5月に米国主導で半島の南側だけで初の選挙を実施して大韓民国の初代大統領に就任しています。北も南も凄まじい対立と複雑な合従連衡が繰り広げられたようですが、何だか朝鮮族の性格が一気に噴き出しているような印象が有ります。痩せても枯れても選挙を実施した南の大韓民国に比べて、ソ連の豪腕によって首領に据えた出自が怪しい金日成では収まらない北には、「南北統一」という一発大逆転の発想が生まれ易かったのでしょう。親分のスターリンと兄貴分の毛沢東に泣き付いて、「絶対に成功する」と軽々しく約束して始めたのが第一次朝鮮戦争と言うわけです。


南の韓国側は軽装備の4個師団が貼り付いていたが蹴散らされ、肝心のソウル市内では完成したばかりの陸軍の将校クラブで祝賀パーティが盛大に催されて夜通しの酒盛りをしていた。翌日には金日成首相がラジオ放送で「売国逆徒李承晩傀儡政府の攻撃に対して反撃を開始した」と宣言。開戦3日後にはソウルが完全に占領されたが、金日成がスターリンに確約した人民蜂起はまったく起こらなかった。逆に、介入が懸念されていた米国の反応は素早く、6月27日にはトルーマン大統領が「朝鮮半島に地上軍派遣。台湾海峡に第七艦隊出動。インドシナの仏軍支持」を声明。29日にはマッカーサー元帥が東京からソウルの南に位置する水原空港に飛来し戦況を視察し、仁川上陸作戦の構想を固める。この構想には在日米軍の大量投入と、その穴を埋める為の日本再武装案が含まれていた。

■日本海軍が仕掛けた真珠湾奇襲攻撃も日曜の朝でした。情報収集を怠って不意打ちを喰らって右往左往してから大規模な報復攻撃に出るのが米国のお家芸みたいですが、欧州のドイツ東西分断にせよ朝鮮半島の南北分断にせよ、米国は戦時中からソ連を見誤っていたとしか思えません。あまりにも間抜けぶりに、米ソ間で世界を不安定にしておく密約が有ったのではないか?などという謀略話が出て来るのも仕方が無いでしょう。それにしても、この時のトルーマン大統領の声明は重大な意味を持っています。朝鮮半島ばかりでなく、台湾防衛に加えて後に大戦争となるヴェトナムへの介入が予告されているのですから……。何はともあれ、金日成が強引に始めた朝鮮戦争は、日本に自衛隊を産み、沖縄を要塞化させたのは確かです。

■GHQ占領下の日本では1948年の11月12日に極東軍事裁判が終了しています。「人類の平和に対する罪、殺人の罪、通例の戦争犯罪と人道に対する罪」によって絞首刑7名・終身禁固刑16名・禁固20年と7年各1名の判決が下っているのが、「靖国参拝問題」の遠因です。新しく制定された「平和に対する罪」を犯したとされたのが「A級戦犯」で、戦争を指導した責任者と認定された人々でした。靖国参拝問題は、そのA級戦犯が「合祀」されているのが良くないという騒動なのですが、第一次朝鮮戦争はまだ「休戦中」なので、軍事裁判は開かれていないのです。防戦に回った韓国軍の兵士だけで50万人が死亡したと言われ、北の戦死数と南北の市民がどれほど犠牲になったのかは今も分からないそうです。200万人だとか400万人などという数字も囁かれる驚くべき3年間の殺戮だったのは確かですから、この戦争の「首謀者」は間違いなく死刑判決を受けるはずなのですが……。

其の参に続く

北の原爆50年史 其の壱

2006-10-13 08:02:49 | 歴史
■青天の霹靂(へきれき)というのは、思いもよらない事が突然起こる事を意味する言葉ですから、10月9日の北朝鮮が実施した核実験のニュースを耳にした時には使えない慣用句ということです。特に、日本政府がこの慣用句を使ったりすると、これはもう喜劇としか言いようがありません。分断国家の片方の大韓民国よりも、実は日本の方が北朝鮮との「距離」は遥かに近かったとも言える事情もたくさん有りますし、何よりも「未必の故意」によって日本が原爆製造に協力していたとも言える状況証拠まで有るのですから、地震波がどうのこうの、大気中のアイソトープがどうのこうの、プルトニウム型かウラン型か、などなど的を外した空騒ぎをしているのも困ったもので、それ以上に「対話と圧力」(実質的には対話だけ)など忘れたように「制裁だ!」と興奮している政治家・評論家・専門家の発言を聞いていると、「何を今更」の思いが強まるばかりであります。

■以前に朝鮮戦争に関して少しばかり調べた事が有りますので、それを下敷きにして北朝鮮がどうして原爆を欲しがるのかをじっくりと考えて見たいと思います。

1950年 11月30日。トルーマン米国大統領が記者会見で「米国は朝鮮半島で原爆を含むあらゆる武器の使用を考慮中である」と発言。

■歴史の中に北朝鮮の核兵器誕生の端緒を探れば、トルーマンのこの一言にぶつかります。言わずと知れた「朝鮮戦争」、否な予感を込めて正確に言い直せば「第一次朝鮮戦争」が膠着状態に陥った時に、総司令官だったマッカサーとその上司だったトルーマン大統領との間で責任の押し付け合いをしている時の「歴史的失言」とも言われる発言でした。


1950年、6月25日の日曜日午前4時、ソ連軍事顧問団が細部まで練り上げた「先制打撃作戦計画」通りに、38度線一帯に展開していた北朝鮮人民解放軍7個師団兵力8万人余が一斉砲撃の後に5箇所から越境攻撃を開始。同時に38度線から南100キロまでの東海岸3箇所に特殊部隊が上陸。17個師団に匹敵する各種部隊がソ連のT34戦車150輌を先頭に一斉にソウルを目指して進撃を開始。

■これが第一次朝鮮戦争の始まりです。歴史の先回りをしてしまえば、1967年5月の朝鮮労働党中央委員会第4期第15回総会を発端とする粛清クーデターまでの金日成は、決して神がかった独裁者ではありませんでした。超能力と人徳を兼ね備えた伝説の(老)将軍本人だとして、ソ連の強力な後ろ盾を得て帰国した33歳の金日成の地位はまったくのソ連頼みで実に不安定なものだったようです。大看板の「抗日パルチザンの英雄」というのも怪しいもので、これまでに判明した事実は満洲帝国の建国から崩壊、そしてソ連が侵攻して来る大動乱の中で育った、当時としてはありふれた前半生を送ったようです。


本名・金成柱。漢方医だった父親の都合で7歳の時に満州に移住し、吉林の中学校を中退して中国共産党東北抗日連軍第2軍2路軍6師長として朝鮮人兵200人の遊撃隊を率いて活動。日本の関東軍討伐隊に追われて20人程の部下と共にハバロフスク付近を彷徨中にソ連国境守備隊に逮捕される。

■清朝時代には、民族の故地として異民族の移住を厳禁していたのに、今では200万人と言われる朝鮮族が旧満洲地域に暮らしている理由の一端が金日成の幼少期にも関係していることが分かります。そして謀略と内戦の中で毛沢東率いる中国共産党に参加するというのも、当時の若者としてはそれほど珍しい話ではないようです。

其の弐に続く

日英同盟を懐かしむ 其の参

2006-09-06 18:24:30 | 歴史
■米国で変な大統領が変な選挙で選ばれたのは喜劇ですが、その米国が「米国抜きの秩序」を絶対に許さないのは悲劇ですなあ。何の文句も言わない日本は、可愛いペットの名誉を得ていることを、小泉さんを支持する5割の国民は喜んでいるのでしょう。ちょっと理解に苦しみますが……。

② 国連、北大西洋条約機構(NATO)、核拡散防止条約(NPT)、世界貿易機関(WTO)などは、核不拡散、非民主的ながら裕福な中国の増大する役割、イスラム過激派などの問題に対応できていない。

■その全てを統括する立場に居座っているのが米国です。国連などは小僧か下僕扱いではないですかな?NATOを作った張本人の米国は、クリントン時代にはユーゴ空爆を命じて欧州内の共食いをやらせましたし、NPTの言う事を一切聞かずにイラクに攻め込んだのは誰でしかな?WTOは原住民から奪った広大な土地に戦車みたいなトラクター類を入れて収穫する農産物を耕地の狭い国々に無理やり買わせる組織ではないですかな?背骨付きのビーフも含めて…。


③ ブッシュ政権の単独行動主義はこの問題を加速させ表面化させた上、少なくとも(国際社会による)共通の効果的行動を妨げてきたと考えられる。

■良くぞ言って下さった!日本からもこれくらいの意見が出ても良いはずなのですが……。


④ 国連安全保障理事会の構成は、もはや世界の力のバランスを反映していない。国連は汚職や関連機関の効率の悪さで弱体化した。
⑤ NATOは冷戦後の役割を見いだしておらず、WTOは新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)が行き詰まった。(ロンドン 共同)
産経新聞  9月6日

■大英帝国はアジアを食い物にした帝国主義の権化であるのは確かですが、世界の海を支配する能力を独占していたのは紛れもない事実で、強大な海軍力を整え始めていた近代日本にとって、黒船を送り込んだ米国を牽制するためにも、「日英同盟」は良い選択でした。今の英国は完全に米国の支配下に組み込まれてしまっているので、今は昔の物語なのですが……。英・米・日の三大海軍国が世界の海を分割統治するには、日英が組んで米国を太平洋と大西洋から圧迫するのが一番良かった時代が、確かに有ったのです。以下、ウィキペディアからの引用と改編。


1902年(明治35年)に締結された第一次日英同盟は、
① 締結国が他の1国と交戦した場合は、同盟国は中立を守り他国の参戦を防止すること、
② 2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦すること
また、秘密交渉では、日本は単独で対露戦争に臨む方針が伝えられ、イギリスは好意的中立を約束した。条約締結から2年後の1904年には日露戦争が発生した。イギリスは表面的には中立を装いつつ、諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ等で日本を大いに助けた。

■こうした厳然たる事実を無視した困った連中が、ろくな同盟国もないままに対米戦争を始めたのでした。外交・諜報・兵站・通商破壊の素人が戦争を始めれば、餓死・玉砕・特攻に辿り着くのは当然でしたなあ。わざわざ真珠湾まで隠密行動で接近して空爆したのに老朽軍艦だけ沈めて燃料タンクも修理ドックもそっくり残して凱旋した時から、ヘマは始まっていたと言われています。空母を沈めに行ったのに、その行方を最後まで探り出せなかった大日本帝国海軍でありました。そして、芸者さんも知っていたミッドウェーの奇襲作戦……。


1905年締結の第二次日英同盟では、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。

■広大なインドと朝鮮半島とのバーター取引とは、英国も喰えない欲張り者ですが、日露戦争の恩義はそれだけ大きかったわけです。後に満洲問題の調査に訪れたリットン卿も英国人でした。リットン報告書は落ち着いて読むと、要求事項に「日時の規定」が無い文書だったそうで、日本の外務省に空返事しておくだけの腹黒さが有れば、時間稼ぎは可能だったという説も有りますなあ。それは日英同盟が失効した後の事ですが、何となく米国の独走を予感していた英国の温情だったような気もする話です。


1911年締結の第三次日英同盟では、アメリカが、交戦相手国の対象外に定められた。ただしこの条文は自動参戦規定との矛盾を抱えていたため、実質的な効力は期待できなかったが、これは日本、イギリス、ロシアの3国を強く警戒するアメリカの希望によるものであった。また、日本は第三次日英同盟に基づき、連合国の一員として第一次世界大戦に参戦した。

■参加したのは海軍の駆逐艦のみ、残念ながら陸軍は第1次大戦の実情を知る機会を逃したのでした。日清日露の常勝神話を大真面目に勉強していた軍部のエリート達は、世界の大変化を知らなかったというわけです。この第三次日英同盟の頃には、米国は隠しもせずに日英両国からの挟み撃ちを心配していました。本当に怖かったのだそうですなあ。当時は日英領海軍の戦力を合計すると軽々と米国を凌駕してしまったので、二正面作戦を強いられたら米国の海外権益は消滅する危機を感じていたようです。


大戦後の1921年、国際連盟規約への抵触、日英双方国内での日英同盟更新反対論、アメリカとの利害の対立、日本政府の対米協調路線を背景にワシントン会議が開催され、ここで、日本、イギリス、アメリカ、フランスによる四カ国条約が締結されて同盟の更新は行わないことが決定され、1923年8月17日、日英同盟は失効した。

■それからぴったり20年、日米間ですったもんだを続けた揚句に真珠湾攻撃となったわけです。いろいろと考えさせられる課題が詰まった過去の歴史という気がしますなあ。

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日英同盟を懐かしむ 其の弐

2006-09-06 18:24:01 | 歴史


複雑で見通しの難しい状況について、こうした白黒をはっきり分ける論法は、ブッシュ政権がこれまでも好んで使ってきた。ラムズフェルド長官の場合は、イラク政策をめぐる政権への批判を1930年代のヒトラーとの宥和(ゆうわ)論に重ね合わせて、「歴史に学ぶべきだ」と反論していた。イラク政策をめぐる米国内の不満は、イスラム教の宗派対立を背景とする紛争が拡大して、駐留米軍の撤退時期が見えないいらだちに集約されている。

■歴史に鑑みて間違った宥和政策を糾弾するのなら、核保有国のインドやパキスタンはどうなるのでしょう?イスラエルに対する特別待遇にも説明が必要になりますなあ。地球温暖化、エネルギー供給の不安定化、世界各国での農業基盤の破壊、余剰武器の裏取引等等、米国の好き放題な暴走を黙って見ている国際社会も、「間違った融和策」を採っている可能性が有りますぞ。


こうした不満を十分踏まえて、ブッシュ大統領は「現地指揮官や外交官の報告」を理由に、「内戦」の段階には達していないと強く否定。「イラク戦争こそが、いまや21世紀のイデオロギー闘争の中心だ」と訴え、「勝利の日まで米国の撤退はない」と断言した。イラクへの駐留継続という政治決断は、テロ攻撃の活発化による米兵の被害拡大を避けることができない。ブッシュ大統領は「イラクでの勝利は厳しいものであり、より多くの犠牲をともなう」と強調。イラク戦を第二次世界大戦でのノルマンディー上陸、ガダルカナル島攻略といった戦局の節目となった難関にたとえて、国民の愛国心に訴えかけた。産経新聞 - 9月2日

■いえいえ、現状は「硫黄島」に限りなく似て来ておりますぞ。クリント・イーストウッドが立派な作品を完成させているのも皮肉なメッセージになりそうですなあ。1人のテロリストを殺害するのに、何人の米国の若者が死んでいるのでしょう?ノルマンディー上陸作戦にはベルリンという最終目標地点が有りましたし、ガダルカナルは東京を目指しての反転攻勢の開始地点でした。ガクダッドを廃墟にしてしまった米軍は、何処を目指して砂漠を走り回っているのでしょう?喩えるならば、栓が取れている炭酸水入りの瓶を鷲掴みにして瓶の口に親指を突っ込んで瓶を乱暴に振り回しておいて、手を除けたら中身が噴き出すぞ!と言っているような理屈なのですが、本当に手を離したら、一体、何が飛び出して来るのでしょう?


英国のシンクタンク、国際戦略研究所(IISS)は5日、国際情報に関する報告書「戦略概観2006」を発表。この中で2001年の米国中枢同時テロから5年、国際テロ組織アルカーイダは組織力が低下したものの、テロリストは世界に拡散したため、武力による壊滅はもはや難しいとの見方を示した。欧米で共同して広範な対策を講じなければ、国際テロに打ち勝つのは難しいと指摘している。

■付いて行きます下駄の雪、と揶揄されたブレア政権ですが、さすがは世界有数の情報組織を持つ英国です。「もうダメだ」という実に分かり易い結論が出ているようですなあ。


報告書によると、2001年のアフガニスタン戦争以降、アルカーイダが世界に散らばり、欧米では自国で生まれ育ったテロリストが増加した。こうした自国産の「内なるテロリスト」が自発的にテロを実行する傾向が生まれていると分析、昨年7月のロンドン地下鉄・バス同時テロなどをその例に挙げている。こうした傾向に拍車をかけるのがインターネットによるイスラム過激思想の広がりで、「情報収集や法規制でテロ活動を見抜くことはできても、武力で壊滅させることは困難だ」と指摘している。

■インターネットの基礎理論と技術は日本製との事ですが、これをパクって世界規模の商売にしたのは米国です。インターネットが無ければ夜も明けない世の中に買えたのも米国でしたなあ。そして、その上手な使い方をテロリストに教えたのも米国です。


このため、欧米間でテロ対策の戦略を集約させ、統一した対策を早期に構築させることが必要だとしている。欧州は、かつて植民地だったアジアやアフリカ各国から移民を受け入れている。建国からの移民国家である米国と異なり、欧州では、イスラム系移民らが既存の社会になじめない場合に過激思想に走りやすいとして、テロを生む可能性が大きくなっているという。イスラム過激派の拠点はアフガニスタンからイラクに移り、「イラクの武装勢力に加わって帰国した者が欧州の治安に影響を与える」と警鐘を鳴らしている。イラクでは武装勢力が治安部隊にも浸透しており、宗派抗争が「内戦」に発展することも懸念されている。若いイスラム系移民がイラクに向かわないようにするためにも、欧州は移民社会の融合に努める必要があると論じている。

■ブッシュ大統領の演説に満ち溢れるしどろもどろの空元気に比べて数段上の冷静な分析のように思えます。移民⇒2世誕生⇒差別⇒心の故郷⇒イラク⇒帰国、この連鎖を断ち切らないと欧州は再び「アーリア人神話」や「十字軍神話」が横行する民族浄化の地獄と化す危険が有ります。


「戦略概観2006」巻頭の「展望」のポイントは次の通り。

① 国際システムの問題は、ブッシュ米政権が1期目の戦略で指導的役割を果たせなかった一方、国際社会も米国を中心としない秩序を構築できなかったことにある。

日英同盟を懐かしむ 其の壱

2006-09-06 18:23:31 | 歴史
■外交と言えば「日米同盟」の一点張りだった小泉プレスリー首相が退陣して、少しはアジアも考える様子の安倍政権が誕生しても、情報と核の傘は米国頼みの日本の立場は変わりそうにありません。懸案の「集団的自衛権」も具体的に研究することにしているそうですから、米国からの注文が既にたっぷりと届いているのでしょう。「岸の孫」と聞いて台湾あたりでは変な期待が盛り上がっているような印象ですが、舌足らずな発言にはくれぐれも御注意願いたい安倍ジュニア候補であります。強運の小泉政権が踏み切った海外派兵の後始末も、参院選に辛勝すれば丸ごと安倍政権に押し付けられるのですから、ご苦労様なことです。

ブッシュ米大統領は8月31日、ユタ州での米国在郷軍人会で行った演説で、米中枢同時テロ(2001年)から5年間続くテロとの戦いを「21世紀最初の戦争」と位置づけ、イスラム過激派を相手に自由と民主主義を守る「イデオロギー闘争」がこの戦争の本質だと訴えた。米国の基本理念である「自由と民主主義」の防衛を明確な戦争目的に掲げることで、ブッシュ政権は駐留米軍の早期撤退要求を含むイラク政策への批判を退けたい構えだ。

■直接的な原因になっているアフガン戦争当時の反ソ支援作戦において、ムジャヒディーンの若者が持ち帰ったのは「自由と民主主義」ではなくてCIA直伝のテロ技術と闇の武器商人達とのコネクションでしたなあ。真紅の軍服が自慢だった英国軍が、野暮ったいカーキ色の軍服に変えたのは、19世紀にアフガン戦争で酷い目に遭ったからだとか…。褐色の荒野で真っ赤な兵隊さんは格好の標的になって山岳地帯でばたばたと狙撃されたのだそうですなあ。次にアフガニスタンに乗り込んだのが、服ではなく旗が真っ赤なソ連でした。マルクスが前提にした大規模な工業も無く、レーニンや毛沢東が打倒した豊穣な農地を独占する地主階級も居ないアフガニスタンで、社会主義革命は何の役にも立たずに看板の掛け変えをする度に大量の血が流れて軍閥が乱立したのでしたなあ。

■呼ばれもしないのにソ連の「敵の敵は味方」という単純な理由で介入した米国は、国境を越えて結集したムジャヒディーンを立派な国際的なテロリストに育て上げて野に放ったというわけです。


演説は9月11日に迫った同時テロ5年に向けて、大統領が行うキャンペーンの幕開けとなった。在郷軍人会の年次総会という舞台で、対テロ戦の先頭に立つ「戦時の大統領」を国内に印象づけることが、演説の主眼だったといえる。戦うべき相手として、大統領はイスラム教スンニ、シーア両派の過激派を挙げて、これらを「自由の敵」と定義した。テロ組織や活動家を国内にかくまう国も同列だとして、かねて批判を強めるシリア、イランにも言及した。

■ホメイニ革命、イラン・コントラ事件という両極端な対イラン戦略を持っていた米国はイランをどうして良いのか分からずに放置し、とうとう核保有国になるまで手を拱(こまね)いておりました。イランと米国の軍隊を月面にでも送って、心行くまで大規模破壊兵器で打ち合って欲しいくらいですが、このままでは何の理由も無い日本も巻き込んで対イラン戦争が始まりそうな気配ですなあ。イラクに攻め込む理由があれだけ支離滅裂だったのですから、イランが相手となったら随分とスジの通った言い訳が用意されるでしょうから、日本は断る方法が無いのではないでしょうか?自分で開発した油田を自分達の手で爆破するのでしょうか?


こうした敵の目的は「自由の躍進を阻み、世界に暴政とテロという暗黒の構想を植えつけること」だと語った。そのうえで、国際テロ組織アルカーイダから、イランのアフマディネジャド政権まで含めたこれらの敵を「ファシスト、ナチス、共産主義者、その他20世紀の全体主義者に連なる後継者だ」と述べた。敵をナチス・ドイツなど“絶対的な悪”にたとえる論法は、最近ではラムズフェルド国防長官も使っており、ブッシュ政権の理論武装とみてよいようだ。

■でも、ヒトラーは原爆の開発を停止しましたぞ。天文学的な予算を注ぎ込んで原爆を開発し、息も絶え絶えで今にも倒れそうな大日本帝国に投下したのは誰だったでしょう?共産主義者のソ連が満洲と樺太で追い回した日本人の数と、米国の飛行機が爆弾と機銃掃射で追い回した日本人の数、さてどちらが多いでしょう?何だか米国の読み書き能力が地に堕ちている悲しくも恥ずかしい現状を自ら露呈しているような稚拙な論法ですなあ。かのフセイン大統領が受けた教育の中に、「神様は世界に2つの余分な物を創造された。それは蠅とユダヤ人だ」という知識が有ったそうですが、ブッシュ大統領が超一流大学で学んだ世界観というのはどんな物なのでしょう?

レバノン内戦の復習 其の八

2006-08-26 09:31:52 | 歴史
■今よりも露骨にソ連が暴れまわっていた国連ですから、「国連監視団」の派遣に関しても最後まで反対し続け、採決は棄権しています。この時に決定された監視団というのが、エクアドルのプラーサさんを団長にした総勢94人!今回の「ヒズボラ戦争」でレバノン国境をこの人数で「監視」するなどというのは悪い冗談だと分かりますなあ。イスラエル国境線の5倍もあるシリア国境にこの人数をばら撒いて、「違法な兵員や武器の侵入を防ぐ」のだそうです。いくら役立たずの国連でも、これでは案山子の役にもならないと恥ずかしくなって後に600人に増員したそうですが、案山子は案山子ですから、「侵入の形跡は無し」と臆面も無く報告しています。迎え撃つ米軍は「国境は穴だらけだ!少なくとも3000人が武装して越境している」と怒ります。今回のヒズボラ戦争で、米国やイスラエルが国連を初めから馬鹿にしていたのには、ちゃんと理由が有るのですなあ。

■そうは言っても、国連や国際世論に気兼ねしつつレバノンに空輸した米国の武器は、そっくり反政府勢力の手に渡ったそうですから、米国も間抜けでしたなあ。


6月16日、米国防総省は海兵隊1個大隊の地中海派遣を発表。

6月18日、ダレス国分長官は「海兵隊を乗せた第6艦隊がレバノン近海にあり、正式の出動要請が有れば応じる」と発表。

6月19日、マケルロイ国防長官は「原爆使用の可能性」を示唆。

■朝鮮戦争が泥沼化してマッカーサーが原爆使用を進言し、国連軍最高司令官を罷免されたのが1951年4月11日ですから、たった7年で米国は原爆使用を躊躇しない国に変貌していた事になります。レバノン出兵は朝鮮戦争よりも厳しい状況下で決断されましたし、黒幕のソ連が先に「原爆使用」を予告していたのですから、米軍も原爆使用も有り得ると言わざるを得なかったのでしょうなあ。このレバノン派兵が決ったほんの5年前に停戦となった朝鮮戦争は、38度線一帯に展開していた北朝鮮人民解放軍7個師団兵力8万人余が一斉砲撃の後に5箇所から越境攻撃を開始し、同時に38度線から南100キロまでの東海岸3箇所に特殊部隊が上陸。17個師団に匹敵する各種部隊がT34ソ連戦車150輌を先頭に一斉にソウルを目指して進撃を始めて始まったのでした。

■それを迎え撃った「国連軍」は、米陸軍8万5000・韓国軍9万2000・海軍3万6000・空軍3万7000という威容を誇っていたのです。ところが、米軍の助けを待っていたレバノン国軍の兵力は、たったの6000人!しかもその3分の2がキリスト教徒で3分の1がイスラム教徒という、何とも危なっかしい構成になっていました。エジプトがシリアから救援を求められれば、生まれたばかりの「アラブ連邦共和国」軍の初陣となって他のアラブ諸国も協力せざるを得なくなりますし、ちょうど朝鮮戦争でチャイナが果たした役割をソ連が演じる事になったでしょうなあ。因みに、朝鮮戦争では「義勇軍」を自称する中国人民解放軍は最初に8万人、続々と増員されて3個軍団36万人に膨れ上がったのでした。イラクが陸路を開放したら世界最強のソ連陸軍が怒涛の進撃を見せたでしょうなあ。

■当時の国連事務総長はハマーショルドさんでした。米軍が第6艦隊の派遣を決定した6月中旬から自らレバノンに飛んで「古典的な予防外交」を実現しようと頑張っていました。レバノン紛争を純粋な国内問題に封じ込め、何とか中東を東西冷戦から切り離そうとしたのですが、そのためにはナセル大統領の言いなりになってピエロの役を演じなければならなくなってしまいます。エジプトは平然とレバノンには軍事援助してないのだから、米軍は直ぐに手を引くべきだというナセル提案に従って米英両国に撤収を要請します。国連事務総長の耳となり目となっているはずの「国連監視団」は、僅かな人員で丸腰でしたから、国境線の極一部を昼間だけ歩き回っているだけでした。米国はまだ「エシュロン」システムを持っては居ませんでしたが、シリアとベイルートの間で交わされる電話の会話を盗聴していました。その結果、シリアから武器や工作員が流れ込んでいる事実を知ります。

■ナセル大統領はレバノン紛争を解決するためには、親米派のシャムーン大統領の任期を延ばさず次期大統領にシャハブ将軍を就けるという条件を在カイロの米国大使館に伝えます。アラブの盟主を自認する人物らしい立派な「内政干渉」なのですが、米英両国はこのナセル提案を真面目に協議して、シャムーン大統領に今後も米国の援助を続けると保証して納得させようとします。レバノンに最も大きな影響力を持っていたフランスの大統領はド・ゴール将軍だったのですが、このレバノン紛争の時期は地中海対岸のアルジェリアで独立運動が盛り上がっていて、レバノンどころではなかったのでした。英国は一応フランスに断ってレバノン紛争の処理に当たっていたのです。この年の9月19日にアルジェリア共和国臨時政府が成立してフランスの植民地支配は事実上終るのです。

■世界の目がレバノンに集中しているのを利用して、死角となっていたイラクで軍事クーデターが発生!7月14日の事です。アブドル・カリム・カセム准将を中心とした国家主義者の将校たちが、「支配階級の腐敗堕落」を理由に国王のファイサル2世、皇太子、首相ヌリ・サイドを皆殺しにして政権を奪取したのです。さて、このカセム准将という人物を担いだ集団の中には何故か共産主義者が紛れ込んでいたそうです。ろくな資本主義も発達していないアラブの王国の共産主義者ですから、正確には親ソ派と言うべきでしょうなあ。王国から王族が消えれば勿論後は無政府状態の大混乱が始まります。まるでバグダッドが陥落してサダム・フセインの独裁体制が崩壊した後の様に……。


レバノン内戦の復習 其の七

2006-08-26 09:31:38 | 歴史
■元々、中東諸国の国王たちは、英国か仏国の都合に合わせて分割された「王国」の飾り物として担ぎ出された人達ですから、互いの主権や領土をまったく尊重していません。全地域が元々「オスマン・イスラム帝国」の領土だったのですから、再び帝国が復活させて自分がスルタンになる野望を持っている人物が跡を絶ちません。57年4月のヨルダン動乱で、もしもフセイン国王が追放されていれば、エジプトが乗り込んで来る前に、サウジアラビアとシリアとイラクが雪崩れ込んで領土を切り分けて奪い去ったと考えられます。そうなればヨルダン川の東岸に緩衝地帯が欲しいイスラエルも電光石火の「自衛軍事行動」を開始して渡河作戦を実施したことでしょう。そんな動乱になったら、シリアは迷わずレバノンを呑み込みますなあ。

4月13日、ヨルダンで宮廷クーデター発生

4月21日、イラク軍がヨルダンに侵攻。

4月25日、核装備の米国第6艦隊が出動。ヨルダンのフセイン国王は米国の直接介入を要請せず!ソ連との国交樹立案を葬る。

5月7日、リチャーズ米特使は「15箇国がドクトリンを受け入れた」と発表。

■ヨルダンはその後、明確に親米路線を取ってイスラエルとも上手に付き合って、中東戦争でも最低限度の付き合いで形だけの出兵をしたり、PLOを追い出して平和共存の道を進んでいるようです。こうして57年のヨルダン危機は一応の決着を見るのですが、国王追放に失敗した残党が逃げ込んだシリアに危機は飛び火します。シリアは王国ではなく大統領制を取っていますが、軍部の急進派がヨルダンに刺激されてソ連に代表団を送り込みます。軍事援助だけでなく軍事訓練や貿易拡大まで盛り込んだ協定を結んだのも、5億ドルの経済軍事援助協定に調印したのもクワトリ大統領ではなく、アフィフ・ビズリという軍人でした。米国が大統領を取り込むのを防ぐためにシリア駐在の米国大使館員を追放してシリアを一気にソ連陣営に押し込もうとする軍部に対して、クワトリ大統領は米国の反撃を恐れてエジプトのナセルに身元保証人になってもらいます。

■こうして58年2月1日に誕生したのが「アラブ連合共和国」というシリアとエジプトの連合国家でした。ナセルとしては、この連合は単なる「第一歩」でしかなく、巨大なアラブ連合国家を樹立するという大計画を吹聴するほど彼の大言壮語は留まるところを知りませんでした。ナセルの意図を測りかねた世界の国々は、ソ連の影響力を脱して本当にアラブ・ナショナリズムを実現するのではないか?と予測する者も居たそうですが、シリアが連合前に残したソ連との協定は生きているのですから、ソ連が中東に本格的に介入するだろうとアイゼンハワーとダレスは考えました。NATO加盟国のトルコが危険だと、ちょっと強引なコジツケをして米第6艦隊を東地中海に派遣します。そして西欧に展開していた戦闘機部隊をトルコのアダナ空軍基地に進出させます。

■アイゼンハワー・ドクトリンの記念すべき「デヴュー戦」になるはずの出兵でしたが、標的になったシリアがヨルダン、イラク、サウジの関連参加国に「脅威を感じるか?」と聞いて回り、何と全員が「心配していないゆよ」と答えます。ヨルダンのフセイン国王は御丁寧にイタリアにバカンスにお出掛けになって安心の度合いを分かり易く示したのだそうです。つまり、デヴュー戦の頃から米国は中東流の二枚舌三枚舌の駆け引きに翻弄されていたという事でしょうなあ。引っ込みが付かない米国は悔しさ半分にCIAを使ってシリア陸軍の一部にクーデターを起させようとしたり、トルコの強硬派を焚き付けてシリアに侵攻させようとしたそうです。米国の御先棒を担ぐとトンデモないことになる見本のような話です。

■米軍の東地中海進出は、最も望ましくない現象を引き起こしてしまいます。国内が騒然としていたレバノンの中で、反米勢力が「そら見たことか」と危機感を煽り、エジプトから武器を密かに運び込んで蓄え始めたのでした。ヨルダンからシリアに飛んだ火種は、思いがけずレバノンで埋もれ火となっていたというわけです。そして、レバノンが火を噴くのです。国土の北と東はシリアで、海岸から南を眺めればエジプトが見えるようなレバノンですから、政府はアラブ連邦共和国などという物騒な隣人を望んではいませんでしたが、是非ともそれに参加したいと切望していたナセルのシンパが増加していたのでした。


1958年5月10日、レバノンで暴動が発生し全国的な内乱状態となる。

5月13日、レバノンのシャムーン首相は英米両国に48時間以内の軍事援助を打診。米国は大義名分が立たないと逡巡するが、英国は即日軍事援助を閣議で了承し、野党労働党も黙認。ソ連タス通信は中東戦争の危機を警告。

レバノン内戦激化し、米国は第6艦隊所属の海兵隊を倍増して待機させる一方で、武器をレバノン国軍に空輸開始。レバノン在住の邦人救出のため西独に輸送機を送って待機。

5月22日、レバノン政府は国連安全保障理事会に対してアラブ連合による内政干渉に関する討議を緊急要請。会議は紛糾。

6月11日、国連監視団の派遣決定。


レバノン内戦の復習 其の六

2006-08-26 09:31:19 | 歴史
■アラブやイスラムで鉄の団結を演出した中東諸国でしたが、この時期には既にそれぞれの思惑は大きく違っていたのでした。父親が暗殺されたヨルダンのフセイン国王は自分も地位と生命を米国に守って欲しくて堪りませんでしたし、米国を商売仲間と思っていた石油成金のサウジのサウド国王も腰が引けていました。形だけは「親分」に担がれていたナセル大統領こそが、中東諸国の心配の種だったのでした。そんな時にソ連の威を借りるようにして北京政府が中東情勢に関与します。1957年1月8日の「中ソ両国政府共同声明」がそれでした。

両国は、英、仏、イスラエルのエジプト侵略が失敗に終ったが、米帝国主義はこの機に乗じ、中近東における英仏の植民者の地位にとってかわり、この地域の民族独立運動を弾圧し、この地域の人民を奴隷化しようとくわだて、またこの地域で侵略と戦争準備の政策を懸命に推し進めようとしている……これがすなわちアイゼンハワー・ドクトリンなるものの本質である。……中ソ両国は米国の政策を強く非難するとともに、この地位の国々に対する侵略と干渉を阻止するために中近東諸国人民の必要とする支持を引き続き与える用意が有る。

■中ソの反発が逆効果になったのか、12週間も議論し続けた米国議会は「アイゼンハワー・ドクトリン」を承認します。3月9日に大統領が署名して正式な国家戦略となります。その頃の世界は前年10月末に勃発したスエズ動乱の余燼が燻っていたのでした。


1月13日、スエズ動乱の責任を取って辞職したイーデンに代りマクミランが首相に就任。

1月30日~2月1日、サウジ国王とアイゼンハワー大統領が会談

2月1日、ソ連は米英仏に対してソ連を加えた4カ国による「中近東の平和と安全の維持宣言」を提案。

2月17日、北京政府がソ連の「維持宣言」に賛成を表明。

2月26日、仏のモレ首相とピノー外相がワシントンを訪問

3月13日、英・ヨルダン友好同盟条約が破棄される。

3月20日、英首相マクミランがバミューダでアイゼンハワー大統領とダレス国務長官と会談。

4月2日、米・サウジ基地協定調印。

■ここに出て来るサウジアラビアの「基地協定」こそ、ウサマ・ビンラディンが「聖地を汚した」と糾弾している米軍基地の駐留根拠となっている約束事です。ビンラディンが生まれる直前に米軍基地は置かれていたのですなあ。こうした流れの中でアイゼンハワー大統領は中東に特使を派遣して「ドクトリン」支持を取り付けようと動き出します。そして、レバノンのマリク外相が正式に賛同の意を示して、「国際共産主義」の攻撃を受けたら、米国に軍事・経済の援助を要請すると発表してしまいます。遠くフェニキアの時代から、地中海貿易を生命線とする商人国家の伝統を継いでいるレバノンは、王権であろうとイデオロギーであろうと、国際的な対立が起こっても決してどちらか一方の組しないのが国是でした。しかし、当時のレバノンは史上稀に見る危機的な状況になっていたのでした。レバノン政府は、大統領・外相・陸軍最高司令官はキリスト教徒、首相と下院議長はイスラム教徒が就任するという民主国家としては特殊な形態を取ってバランスを維持している国でした。

■しかし、この米国お気に入りの中東随一の民主的な商人国家の人口バランスが崩れ始めたのです。原因はイスラム教徒の出生率の高さと、中東戦争による難民の流入です。民主主義の基本は多数決ですから、やがてレバノンはイスラム教国家となり、日の出の勢いだったナセルのアラブ・ナショナリズムに席捲されるのは目に見えていました。スエズ動乱直後からあれこれと盛大に援助し始めたソ連を利用して中東全域を支配下に置こうとするナセルの野望がレバノンにとっては最も恐ろしい敵だったのですなあ。これまた民主国家の体質で、時流に乗って勢いの有る思想が大流行して国論が形成される傾向が有りますから、一見イスラム教文化を越えるナセル大統領の「アラブ・ナショナリズム」に魅力を感じるキリスト教徒まで現われたのでした。ですから、レバノン政府は、米国政府が掲げる「国際共産主義」との対決という看板を借りて、ナセル主義の予防線を張ろうとしたのです。

■アイゼンハワー・ドクトリンを承認したい、時のレバノン大統領はシャムーンで、この人が52年に当選した段階から米国のCIAからの援助を受けていたのは周知の事実で、そのままレバノンを親米国家に導こうとしていたものですから、ドクトリン受け入れと同時に58年に切れる自分の任期を強引に延長しようとしたものですから、その本音が露骨に見えてしまったのです。議会では、緩やかな米国からの援助を受けながら、どっち付かずに生き延びる方策を取るべきだという声が多く、ナセルとソ連を刺激するのは得策ではない!との意見が出されます。しかし、4月7日にシャムーン大統領の提案は議会で承認されました。勿論、裏で米国が何をしたのかは分かりませんが、黙って指をくわえて眺めていたはずは有りませんなあ。

■ドクトリン承認の議決を受けて、数名の議員が抗議の辞職して「国民統一戦線」を結成します。この動きの裏にエジプトやソ連が居なかったとは思えません。年が明けて58年になると、何処かから運び込まれた爆弾がレバノン各地で炸裂し始めるのです。前掲の年表は「4月2日、米・サウジ基地協定調印」までで終っていましたが、それに続く4月13日にヨルダンで大事件が起こっています。ナセル主義に共鳴していた首相のサリマン・ナブルシがソ連との国交樹立を表明すると同時にエジプトの支援を受けて親米派のフセイン国王を追放しようと企みましたが、その動きを察知した国王が軍部を抱きこんで宮廷クーデターを敢行!軍上層部を含めたナブルシ一派はシリアに逃れて打倒フセインの誓いを立てます。首都アンマンでは暴動が起こり、国王は戒厳令を布告!全政党を解散して独裁権を握ります。

レバノン内戦の復習 其の伍

2006-08-24 10:11:07 | 歴史


……中東は、ユーラアシアとアフリカへの入り口となっている。この地域にはまた、現在知られている全世界石油埋蔵量の3分の2がある。……もしこの地域の諸国が独立を失い、自由を敵とする外国勢力に支配されるならば、それは、この地域にとってばかりでなく、他の多くの自由諸国にとっても悲劇であり、その経済生活は窒息状態に陥るであろう。……ソ連から誘いの手を伸ばされた自由国家は、仮面の陰にひそむものを見なければならない。エストニア、ラトビア、リトアニアを思い起そう。ソ連は、1939年に当時独立国であったこれらの諸国と相互援助協定を結んだ。しかし1940年にはこれら諸国はソ連に併合されたのである。ソ連はまた第2次世界大戦中行なった厳粛な誓いを破り、東ヨーロッパ衛星諸国の支配を続けているのである。……国際連合は、エジプトにおいて停戦と外国軍の撤退を達成することができた。しかし、ハンガリーの場合には事態は別であった。……

■アイゼンハワーの世界戦略は、「トルーマン・ドクトリン」を拡大して中東地域へ適用しようというものでした。面白いのは、トルーマン・ドクトリンの基本を考案したディーン・アチソン前国務長官自身が、「アイゼンハワー・ドクトリン」に価値を認めず、中東に対する米国の介入に反対だったという点です。こうしたキャピタル・ヒルでの中東論争とは無関係に、米国資本は確実に中東石油を支配していたのですから、当時の米国は随分と頭でっかちだったのでしょうなあ。


米国5大石油会社(メジャー)は1955年末、12億9000万ドルの固定資本を投下。これは中東石油に投下された全資本の47%。各産油国の石油生産に占めるメジャーの支配率は、以下の通り。
サウジアラビア=100%
バーレーン=100%
クウェート=50%、イラン=35%、イラク=24%、カタール=24%

■100%に達していない国々には、西欧州の資本が入っていたという事です。日本も慌ててサウジやイランに食い込もうと必死だった頃の話です。独自の資本を持っていなかったアラブ諸国は、欧米諸国に馬鹿みたいに安い料金で採掘させていた事に気が付いて、正当な料金を要求したりOPECを結成して団体交渉を始めるわけですが、欧米諸国は値上がりした採掘料金を武器販売で取り返してしまいました。その先頭に居たのが米国ですから、中東から膨大な量の原油が運び出されて米国は大儲けし、産油国に支払った料金は武器を売りつけることで回収する。米国は往復商売で暴利を貪ったというわけです。その入り口となったのが「アイゼンハワー・ドクトリン」だったというのは皮肉な話ですなあ。


①国家の独立維持に役立つ経済発展に関し、米国が中東地域の一つの国家または国家集団と協力し、これに援助を与える権限。

②米国が中東地域のいかなる国家または国家群でも希望すれば、軍事援助と協力を与える権限。

③これらの援助と協力は、国際共産主義を信奉するいかなる国からの公然たる武力侵略に対して、米国の援助を要請する国の領土の保全と政治的独立を守るために、米国軍隊を使用することを含む。

■まだ正気だったアイゼンハワー大統領は、こうした強大な軍事力の使用に関して、国連憲章や国連安保理の権限に完全に従う旨を付け加えています。50年も前の政治文書の「国際共産主義」を「イスラム原理主義」に置き換え、国連重視の但し書きを削り取ったらそのまま現在の中東政策に使えるというのも、米国の外交戦略には進歩などなかった事の証拠かも知れませんなあ。一時日本でも多くの本が出版された「ネオ・コン」勢力にしても、ネオという割には50年前のドクトリンの単純な焼き直しのようです。米国は50年間変わらないのに、関係各国は随分と変わったものです。


1957年1月9日、英国新首相マクミランは「米大統領は、中東で発展しつつある力のギャップを見てとり、ようやくソ連浸透の増大の危険を感づいて、自由世界の防衛におけるこの危険な裂け目を塞ぐため、議会に権限を要請した」

■先々代のチャーチル首相がルーズベルトにヒトラーの危険性をしつこく説いて参戦に引きずり込み、大戦後は「鉄のカーテン」演説でソ連の脅威を早々と警告した英国が、この頃には健在だったようですなあ。マクミラン首相はこの声明を発表した1週間後、BBC放送で「英国は米国の衛星国に甘んじはしない!」の一言を付け加えるガッツを持っていたのでした。イラク戦争の際に見せたブレア首相の米国追随姿勢は、隔世の感が有りますなあ。アラブ側も同様に大きく変わりました。「アイゼンハワー・ドクトリン」に対してエジプトのナセル大統領、サウジのイブン・サウド国王、ヨルダンのフセイン国王、シリアのクワトリ大統領は、発表の10日後にカイロに結集して「中東に権力の空白など無い!」「いかなる外国勢力の影響下にも入らないぞ!」と威勢の良い事を叫んで見せたのでした。このカイロ会議にイラクとレバノンが参加していない事に注意が必要です。

レバノン内戦の復習 其の四

2006-08-24 10:10:49 | 歴史
■英国を追い出したエジプトは、今と変わらずガザ回廊からイスラエルにちょっかいを出す悪戯者を援助していたのですが、イスラエル軍に反撃されると呆気なく敗退してしまいます。恥も外聞も無く英国に武器援助を頼み込んだと言うのですから大したものです。あまつさえイスラエル側に肩入れしている米国にも強請(ねだ)ったのは更に大したものです。勿論、両国は呆れつつ拒絶します。同年に開催された平和の祭典?バンドン会議の場で、エジプト代表は北京政府を代表して出席した周恩来首相に武器を売ってくれ、と頼んでいます。しかし、全面的にソ連から武器を購入、それも足元を見られて高値で売りつけられていた北京政府は、今とは違って他国に分けて上げられるほど武器に余裕は無かったのでした。バンドン会議も看板とは違って随分と物騒な相談をしていたわけですなあ。

■それならば、という事でバンドン会議から帰って来てから1箇月して、エジプトは本家のソ連に武器援助を頼み込みます。当時のエジプト駐在ソ連大使はソロドさんで、スターリンに話を通すと、何と!最新式の戦車も飛行機も上乗せして武器弾薬を渡してくれるとの返事が来ます。勿論、貧乏なソ連ですから無料ではなく、エジプト特産の綿花と米とのバーター取引です。ソ連としては頼りないシリアに続いて大国のエジプトとの協力関係は渡りに船となって、アラブのナショナリズムを応援して中東地域に影響力を及ぼそうと決意します。その証明として、エジプトには「アスワンハイ・ダム」建設の援助を申し出るし、アラブ諸国に潜ませている共産主義ネットワークに活動自粛を命じます。勢いに乗ってリビアとスーダンにも大使館を設置してアフリカから中東までの広範囲に勢力圏を広め始めたのでした。

■意気上がるフルシチョフは、56年10月に勃発したスエズ動乱に際して、軍事介入の意志を明らかにしたばかりか、ロンドンとパリに「ミサイルを撃ち込むぞ!」と恫喝して見せます。ブルガーニンソ連首相は英国政府に「中東和平を守るために第3次大戦も辞さず」という訳の分からない書簡を送ったそうですなあ。同じ内容の脅迫文はアイゼンハワー大統領にも届いていました。米英両国はソ連の脅迫文を一笑に付して拒絶したのですが、たまたま外交折衝で収まったスエズ動乱が、何となくソ連のお蔭様で終結したような印象を世界に与えてしまったようです。この時のソ連の遣り口を、何処かの国が見習って今でも踏襲しているわけです。

■アイゼンハワー大統領はこうした「誤解」を予防するために、「アイゼンハワー・ドクトリン」を発表します。英仏軍の強引で稚拙なスエズ動乱は、中東諸国に新しい時代の幕開けを知らせたようなものでしたから、フルシチョフの自己宣伝が広まれば、中東原油の大部分とスエズ運河とパイプラインが丸ごとソ連の支配下に置かれる危険が高まったのです。米国が英仏が空けた穴を埋める動きを強めて行きます。フランスはベトナムでも大きな穴を空け、イギリスはパキスタンに大穴を空けて去り、それらも全部米国が穴埋めしなければならなかったのでした。朝鮮半島に開いた穴は予想外だったようですが……。55年1月5日に提出されたこの「アイゼンハワー・ドクトリン」は、最近のブッシュ政権が掲げる中東民主化戦略の元になっているような印象が有ります。

■そんな大戦略を展開して始めた米国でしたが、どうも中東情勢には疎かったようで、スエズ動乱の直後、貧乏なエジプトでは直ぐに食糧・燃料・医薬品が欠乏して大変な事になっていたのに、ダレス国務長官もフーバー国務次官もエジプトからの援助要求を拒絶してしまいます。当時のナセルは冷戦構造自体を利用しようとしていたので、ソ連の手駒になる心算はまったくなかったのですから、米国がさっさと手厚い「人道援助」をしておけば、第2次中東戦争は起きなかった可能性が有ります。米国の無知を嘲笑うかのように、ソ連は医療機器や医薬品、そして6万トンの小麦を満載した船を送ります。米国議会はまだ呑気に構えていたのですが、アイゼンハワー大統領は中東を重視してドクトリンを発表したというわけです。


中東は……第1次世界大戦以来、自治と独立を目指して着実に進歩がみられ、米国は、これを歓迎し励ましてきた。米国は、中東のすべての国家の完全な自治と独立を全面的に支持する。……ロシアの中東支配意欲は、中東におけるソ連自体の経済的利害関係に根差しているものではない。ソ連は、スエズ運河に対して依存していない。1855年には、ソ連のスエズ運河通航量は、全体の1%にも満たなかった。ソ連は、中東のおもな天然資源である石油を必要としていないし、そのための市場を提供することもない。事実、ソ連は石油の大輸出国なのである。……世界の共産化という、ソ連のすでに発表ずみの目的を考慮すれば、ソ連が中東を支配しようと希望しているのは、容易に理解できることである。……

■これが本当に50年前の文書なのか?と思える内容です。勿論、ソ連は「世界の共産化」を達成できないまま消滅したので、中東のアラブ・ナショナリズムを強引に社会主義人民革命理論と貼り合わせるような主張は消えてしまいました。しかし、人民解放理論のイデオロギーよりも、石油と言う「商品」を人質に取って世界を恫喝する方が、よほど効果的だという単純な事実を70年代の「石油危機」で産油国は知ってしまったわけです。アイゼンハワー時代には「世界の共産化」を阻止するために戦っていた米国の方でも、「石油危機」に便乗する立場にさえ自分を置いておけば、存分に甘い汁を吸えるという当たり前の事に気が付きました。アイゼンハワー大統領が最後の演説で警告した「軍産複合体」の中枢から大統領が選出されるのは、時間の問題だったのでしょうなあ。世界の石油資源で大儲けし、世界の紛争地に武器弾薬を売り付けて暴利を貪る二つの米国資本のど真ん中にブッシュ王朝は君臨しています。

レバノン内戦の復習 其の参

2006-08-24 10:09:51 | 歴史


1945年5月、英国主導で「アラブ連盟」結成。参加国はエジプト・シリア・レバノン・イラク・ヨルダン・サウジアラビア・イェメン。エジプトを中心にアラブ・ナショナリズムの台頭を見る。

1948年5月14日、イスラエル共和国成立。同時にパレスティナ戦争勃発。
1949年2月24日、イスラエル・エジプト休戦協定調印。
同年3月30日、シリア軍部のクーデターにより政情不安となる。
同年5月11日、イスラエルが国連に加盟。
同年8月14日~17日、シリアで再びクーデター発生。
同年12月13日、シリア国内で暴動。
1950年1月3日、エジプト総選挙でワフド党大勝。
同年1月9日、コロンボでイギリス連邦外相会議。
同年1月23日、イスラエルがエルサレムを首都と決定。
同年4月24日、ヨルダンがエルサレムのアラブ人地区を併合。

■英国の「二枚舌外交」が引き起こしたアラブ・ナショナリズムの高揚とイスラエル建国という巨大な矛盾が、この年に決定的なものとなってしまいます。英国の置き土産となった「アラブ連盟」は、第1次中東戦争に敗れた事から俄かに軍事同盟へと変質して行くのは当然の成り行きでしたなあ。


1950年の4月13日、エジプトの提唱により「アラブ連盟」本会議でアラブ集団安全保障条約が締結され、52年8月23日に発効。

■面白いのは、第2次世界大戦中も戦火に巻き込まれなかった中東地域は、戦後の東西冷戦構造の枠組みには入っていなかったのです。ソ連は帝政ロシアの時代からトルコ侵攻に失敗し、イランでもアフガニスタンでも南下に失敗した経験から、中東地域は英仏両大国の縄張りだから手を出さない事に決めていたからでした。貪欲なスターリンも、中東のアラブ諸国を東欧諸国のように支配しようなどとは考えもしなかったのでした。

■英国が中東地域での支配力を失って行く中で、エジプトのファルーク王から対英独立闘争の武器援助を頼まれたスターリンは、火中の栗を拾おうとはせず、あっさりと拒絶しています。一方の米国は中東原油に目をつけて貪欲に手を伸ばしていたのでした。


1951年3月7日、イラン首相暗殺。
同年3月15日、イラン議会は石油の国有化法案を可決。
同年3月29日、エジプトが英国に完全撤兵を要求。
同年6月20日、イランはアバダーン油田を接収。
同年7月20日、ヨルダン国王暗殺。
同年10月8日、エジプトが対英条約破棄を宣言。13日には英米仏土がエジプトに「中東共同防衛案」を提示。

同年10月16日、パキスタンで首相暗殺。
同年12月24日、リビア独立。
1952年1月、エジプトで反英暴動。
同年2月、米・パキスタン援助条約締結。15日、トルコがNATO加盟。

同年7月23日、エジプトでナギブのクーデター。26日、ファルーク王亡命。9月7日、ナギブ内閣成立。

■米国の暗躍ぶりがよく分かります。英仏の影響力が減衰して力の空白地帯となって行く中東地域で米国は親切面をして裏側からあれこれと介入していたのです。エジプトのクーデターは、実質的には陸軍大佐のナセルが起したもので、彼の台頭は米国CIAの強力な援助が有ったことは明らかとなっています。この成功体験によってナセルは「アラブの盟主」の顔を持ちながら、米ソを天秤に掛けて手玉に取ろうと無謀な賭けに出ます。米国に先を越されて遅れを取ったソ連は政情不安のシリアに目を付けます。衛星国のチェコスロバキアから戦車を輸出して西欧諸国の中東支配を終らせたのが1954年だったのです。ソ連からの援助が中東に流れ込み始めたのに対抗する目的で、英国は55年のバグダッド条約を結ぶわけですなあ。トルコとイラクを利用して、シリアを北と東から圧迫しソ連に通じる陸路と海路を遮断しようとしたのでしょう。

レバノン内戦の復習 其の弐

2006-08-23 12:32:17 | 歴史


1955年1月1日 米軍が南ベトナムに直接援助を開始。
同年2月24日 バグダッド条約締結(トルコ・イラク相互防衛条約)後に英国・イラン・パキスタンも参加。
同年4月5日 英国首相チャーチル辞職。
同年4月6日 インドのニューデリーで諸国民会議開催。
同年4月18日バンドンでアジア・アフリカ会議開催。
同年5月5日 パリ協定発効し西独主権回復、翌日NATOに加盟。
同年7月18日米英仏ソ4巨頭会談がジュネーブで開幕。
同年8月 モロッコ暴動が激化。
同年9月13日 ソ連・西独が国交樹立声明。20日に東独主権回復。
同年10月 英国主導の中央アフリカ連邦設立。
同年11月22日、バグダッド条約参加国が中東条約機構(METO)結成。

■米ソの対立は決定的になっているのは明らかで、双方の草刈場となる「第3世界」が冷戦構造を超克する平和の希望のように語られる向きも有ったようですが、その夢は1年も持たなかったようです。


1956年1月1日 スーダン独立
同年2月14日 ソ連で第20回共産党大会(秘密報告でフルシチョフがスターリン批判)

同年3月2日、モロッコ独立
同年3月10日、キプロスで反英デモとゼネスト。
同年3月20日、チュニジア独立
同年3月23日、パキスタンイスラム共和国成立。
1956年4月17日、コミンフォルム解散。
同年6月13日、英軍のエジプト撤退完了。
同年6月29日、米国が西独と軍事援助協定を締結。
同年7月26日、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言。
同年8月16日、第1次スエズ運河国際会議。
同年10月20日 ポーランドのポズナニで暴動、政変はゴムルカの 10月革命で終息し、ソ連の駐留を承認。

同年10月23日、ハンガリー事件(ブダペストで反政府デモが起き翌日ソ連軍が出動、ナジ首相就任。30日に自由選挙実施を決定。ソ連軍撤収するが翌11月1日にナジ首相がワルシャワ条約機構脱退を宣言すると再度侵攻して首都を制圧。カダル政権誕生)

同年11月6日、イタリア共産党書記長トリアッティがソ連支持。
同年11月11日、ユーゴのチトーがソ連を非難。
同年10月29日、イスラエル軍がエジプトの侵攻しスエズ動乱勃発。31日には首謀者の英仏軍がエジプトを攻撃。11月2日、国連緊急総会で即時停戦決議。5日、ソ連が武力介入を示唆。21日、国連警察軍ポートサイドに進駐。12月22日、英仏軍撤退。

■こうして時系列を追ってみますと、欧州の退潮が如実に分かりますなあ。米国の支援でやっとナチス・ドイツを破った欧州諸国は、ソ連と言う強敵の出現にますます米国の後ろ盾が必要になってしまいました。欧州諸国の中で英国だけはその新しい事実を素直に認めたくなかったようで、「7つの海の支配者」を自負して「陽の沈まぬ世界帝国」を築いた歴史にしがみ付こうと、アジアとアフリカの国々を独立させて傀儡政権を作って連邦を維持しようとしています。そんな英国の世界戦略が最も深刻に破綻した場所が中東でした!