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北の原爆50年史 其の弐拾四

2006-10-21 09:09:03 | 歴史

12月25日、北朝鮮とソ連が軽水炉供与協定に調印。

■プルトニウムを容易に抽出できる黒鉛減速型原子炉の替わりに、燃料棒を簡単に抜き取れない軽水炉型を供与するというのは、ゴルバチョフ時代にKEDOを先取りしていたという事になります。しかし、この協定はソ連の崩壊によって実施されなかったようですから、米国が結果的に計画を引き継いだ格好になります。


1986年1月20日、米韓合同軍事演習(チームスピリット86)を理由に南北赤十字・経済・国会予備の3つの対話を北朝鮮が一方的に中断。

■日本では大したニュースにもならない日韓・米韓の合同軍事演習ですが、戦争準備を続けている北朝鮮にとっては自国が装備したくても出来ない優秀な大型兵器が惜しげもなく投入される演習は、文字通り「心胆寒からしめる」恐怖の対象でしょう。万一、日米合同艦隊が日本海に集合し米韓合同の陸上部隊が朝鮮半島に集結し始めたら、陸でも海でも兵力が集まった場所に迷い無く核ミサイルを撃ち込んで壊滅させねばなりませんし、後方兵站基地となる在日米軍基地と自衛隊駐屯地にも戦術核を使うでしょう。北朝鮮軍の構成が陸軍10に対して海空合計でも1という実態を見ても、第1次朝鮮戦争を再現して38度線を突破して怒涛の半島南下を計画しているのと思われます。それには何としても、事前に強力な援軍となる米軍を半島に近付けず、韓国軍の大半を壊滅させておかねばなりません。


1月、実験用の黒鉛減速型発電炉を運転開始。
4月26日、ソ連のチェルノブイリ原発で大事故。
9月15日~翌年10月15日、ドイツ企業が核燃料棒に使用する米国製ジルコニウムを北朝鮮に密輸出。

■世界中が放射能汚染に恐怖したチェルノブイリの大事故を挟んで、北朝鮮は何事も無かったかのように、同じソ連から供与された技術で原子力発電所の建設を急いでいた実態が分かります。事故当時、ソ連国内は勿論ですが、欧州の広い範囲に汚染物質が降下して農作物が深刻な影響を受けました。特に牧草の汚染が大変で、ガイガーカウンターが危険を知らせるほど汚染された乳製品がまったく売れなくなったものです。ドイツあたりから、汚染された「粉ミルク」が大量に国外に持ち出され、その行き先が北朝鮮だという噂が流れた事も有りましたが、核開発の片棒を担いで商売している企業が居たのですから、公民をまったく愛していない金親子ならば、恐ろしい汚染食糧を安価に仕入れて「贈り物」にするくらいは朝飯前でしょう。勿論、自分たちは常に特別食を用意させて……。

■そしてこの1986年には、95年完成を目指して5万キロワット級原子力発電所の敷地着工。96年完成予定の20万キロワット級原発が着工していて、政務院(内閣)に原子力工業部を設置。崔学根が部長に就任しているのですから、民を餓死させても構わないという断固たる姿勢が貫かれていた事が分かります。食糧援助も使いようによっては強力な武器になるのですが、武器というものは、須(すべか)らくそれを使う者が優れた技量を持っていなければなりません。トンデモない人が武器を持つと敵味方を間違えたり、使い方を間違えるので物騒で困ります。それは政治家ばかりの話ではなく、民主主義国家には「選挙権」と言う最強の武器が国民に与えられているのですから、よくよく考えてこの武器を有効に使いたいものであります。

■86年から北朝鮮は「スカッド改Bミサイル」の本格的な開発を開始しています。父子の権力委譲のために国内の権力基盤を固める粛清ばかりしている間に軍隊の質も数も、発展著しい韓国に対して隠しようもなく劣ってしまったからでしたが、それには核爆弾の開発には欠かせないミサイル技術が不可欠ですし、全面的に軍を現代化しなければなりません。それには軍人の再教育が必要ですから、これも結局はソ連に頼るしかありませんでした。この年から合計400名にも及ぶ大規模な軍幹部のソ連留学が始まっています。勿論、国外逃亡などの背信行為をする可能性が皆無の、激しい粛清という篩(ふるい)に掛けられた申し分の無い出身成分と資質に恵まれた将軍と将校級幹部ばかりでした。

■しかし、貧困独裁国家の悲しさで留学生達に給付された生活費は涙が出るほどの少額でした。留学生達はそれでも健気(けなげ)にソ連各地の軍関連の教育機関で熱心に勉強しました。偶に帰国する度にソ連でも人気の朝鮮人参などを鞄に潜ませて留学先に持ち帰り、ロシア人に売って小遣稼ぎをしていたのだそうです。クレムリンは中ソを両天秤に掛ける北朝鮮に対して全面的な信頼などしていませんでしたし、フルシチョフの「スターリン批判」以来のソ連批判に腹も立てていましたから、将来の軍事エリート達をスパイにするべく御得意の謀略工作を仕掛けました。日本の外交官や外遊好きの政治家がカモにされる「ハニー・トラップ」と呼ばれる色仕掛けに加えて、小遣稼ぎの朝鮮人参販売を重大な「密輸」犯罪だと言い立てて摘発して強迫したりしたそうです。


北の原爆50年史 其の弐拾参

2006-10-21 09:08:34 | 歴史
■しかし、日本から人を拉致するのは止めても軍事関連物資の密輸はどんどん増えていたのでした。

10月、大阪の日朝貿易専門商社「東明商事」が8回に亘ってマイクロ波周波測定器やICなど北朝鮮に不正輸出した事が発覚。

■これは氷山の一角で、最近も「ミツトヨ」という会社が効率的なウラン濃縮に欠かせない遠心分離機を製作するのに使う三次元測定器などと不正輸出した事件が発覚していますが、80年代前半にバレた北朝鮮への不正輸出を確認しておきます。佐藤勝巳著『北朝鮮「恨」の核戦略』からの引用です。


1980年10月、高周波発信機
   12月、デジタル電波監視機器
1981年中頃、レーザー光線(光通信)用特殊ダイオード
   9月、精密加工(計測・核融合)用固体レーザー装置
1983年2月、米国気象衛星受画装備→未納
   3月、日立製オシロスコープ
   3月、無線通信用高周波発信機
   5月、50kHz~50MHz周波数信号発生装置
   5月、最新鋭60MHz用ポータブル・シンクロスコープ

■並んでいる品物を見れば、北朝鮮が80年代前半に何をしていたのか、専門家の皆さんは大よその検討が付くのではないでしょうか?100円ショップに納入する雑貨や安売りスーツの類でない事だけは素人にも想像が出来ます。


11月19日、ジュネーブで米ソ首脳会談。レーガンとゴルバチョフが初顔合わせで戦略核50%削減などで合意。
12月12日、北朝鮮がNPTに加盟。

■この二つの事象は密接に関連していました。ゴルバチョフは必死でソ連経済の建て直しをしようと対米戦略に費やす莫大な予算を削減し、西側との経済交流を進めようと世界の緊張緩和に努力していたのです。その足元でソ連から全面的な技術供与を受けて原子力開発を続けていた北朝鮮の動きに深刻な不信感が生まれていたのでした。翌年にチェルノブイリ原発の大事故に見舞われる運命にあったソ連の目から見ても、北朝鮮の開発速度は異常に早く、親分のソ連に対しても重要な部分を隠蔽している疑いが濃厚になっていたのでした。欧州を挟んで米国と緊張緩和に向けて核軍縮に踏み出していたゴルバチョフにとって、ユーラシア大陸の東端に新たなキノコ雲が立ち上ったらすべてがぶち壊しになるからです。

■ソ連は北朝鮮に対して各関連の技術供与を全面的に引き上げると脅し、援助の継続と引き換えにNPT加盟を強要したのです。既にソ連と手を切って米国と結んで改革開放経済を開始して5年以上が経過した中国から北朝鮮が得られる物は何も無くなっていました。建国以来の北朝鮮の両天秤は完全にソ連に傾き、大きく遅れを取った韓国に追い付く為に軍事力強化に必死になっていたのです。核開発に加えてミサイル開発に関してもソ連に技術支援を求め始めるのもこの頃で、ソ連との海軍軍事演習も実施しています。ソ連も自陣営に取り込んで置きたい「ヴェトナム社会主義共和国」への援助物資を空輸するために北朝鮮を経由するようにもなっていたくらいにソ連と北朝鮮とは強く結び付いていたのです。

■ソ連にとっては軍縮交渉相手だった米国にとって、朝鮮半島は飽くまでも休戦中の戦争状態に変わりのない地域ですから、常時、最新鋭の軍事偵察衛星と民間衛星が監視しています。北朝鮮がNPTに加盟した後、米国の偵察衛星KH11が第3の原子炉と隣の再処理工場を撮影した映像を公開します。「KH」というのは米国の軍事衛星のコード・ネームで「キー・ホール(鍵穴)」の頭文字だそうです。


北の原爆50年史 其の弐拾弐

2006-10-21 09:07:51 | 歴史
■88年のソウル五輪開催が決定した韓国の全斗煥大統領は、対米・対日関係を修復し東南アジア諸国を歴訪、そして1983年にはソウルで列国議会同盟総会(IPU)を開催し86年には五輪の前夜祭としてソウル・アジア大会の開催も決定していました。そればかりか、社会主義国のソ連・中国とも関節貿易という手法で関係が急速に改善に向っていたのです。強硬な軍事政権のイメージが強い全斗煥政権ですが、実際には朴政権が敷いた国際化と発展の路線を上手に進んでいたというわけです。空前の経済発展をしながら世界に雄飛して行く韓国の姿を背後から眺めている北朝鮮が平静を保っていられるはずはありませんでした。

1985年1月7日、ジュネーブでの米ソ外相会議で、戦略核、INF、宇宙兵器の3分野での包括軍縮交渉開始で合意。
3月12日、米ソが包括的軍縮交渉開始。

■北朝鮮が軍事力強化のために全面的に依拠しているソ連が朝鮮戦争以来の宿敵である米国と次々と軍縮交渉を進めて行く様子を無視して、金日成は一発大逆転の切り札を求めて軍の現代化を進める一方で、その動きを隠すように韓国に対して宥和政策を次々に提案し始めるのでした。


5月28日、第8回南北赤十字本会議がソウルで12年ぶりに開催。離散家族相互訪問と自由往来を双方が提案。
7月30日、北朝鮮が88年の五輪大会の共催を提案。北朝鮮の鄭浚基副首相が「もしソウル五輪が強行されれば社会主義諸国と多くの非同盟諸国、第3世界諸国はこれに参加しないであろう。これらすべてを考慮し、われわれは南北が第24回五輪を共同開催することが賢明だとの見解に達した」と発言。

■五輪の共同開催に関する発言は、提案ではなく「強迫」です。強圧的な独裁権力は、誰に対しても絶対に頭を下げられませんから、こんな物言いになるのでしょうが、これでは誰もが耳を塞いでしまいます。朝鮮戦争が原因で南北に引き割かれた離散家族の一方、つまり北朝鮮側に入ってしまった人達は韓国側の家族にとっては悲しいことながら拉致被害者同然でしょう。在日の人々が「地上の楽園」がウソだったと分かっていても生活物資や現金を必死で送っても、肉親に会える機会が少ないのですから、韓国の離散家族は休戦ラインを挟んで絶望的な状態に堪えるしかないでしょう。そんな家族の心情も取引材料に使うのが北朝鮮という国のようです。06年時点でも、「自由往来」は実現していません。北朝鮮からの思想浸透によって韓国に居るよりも北で暮らせる人の方が幸福だと信じている国民が増えれば、「同胞救出」の小さな声は「民族統一」の大声に掻き消されてしまうのでしょうなあ。

■この85年という年は、日本の拉致事件にとっても大きな節目となった年でした。2月24日に北朝鮮の工作員・辛光洙が韓国で逮捕されているからです。聴取の中で原敕晃さんの拉致を認めて死刑判決を受け、後に特赦で北朝鮮に送還されて英雄扱いされたのは有名な話で、それ以上に有名なのが日本の土井たか子さんや菅直人さん達が、この拉致犯人の助命嘆願運動をしていたという事実でしょう。


1977年9月、久米裕さん(52歳)が石川県の海岸で拉致。
   11月、横田めぐみさん(13歳)が新潟市で拉致。
1978年6月、田口八重子さん(22歳)が東京都内で拉致。
   7月、地村保志さん(23歳)と浜本富貴恵さん(23歳)拉致。
   7月、蓮池薫さん(20歳)と奥土祐木子さん(22歳)拉致。
   8月、市川修一さん(23歳)と増元るみ子さん(24歳)拉致。
   8月、曽我ひとみさん(19歳)母のミヨシさん(46歳)拉致。
1980年6月、原敕晃さん(43歳)宮崎市内で拉致。
   夏、松木薫さん(27歳)石岡亨さん(22歳)スペインで拉致。
1983年7月、有本恵子さん(23歳)欧州で拉致。

■これ以外にも「特定失踪者」は100名以上と言われ、通常の失踪者から繰り入れられる人もいます。韓国に謀略工作を仕掛けるのに日本人に成り済ますと入国が簡単だというだけの理由で、こんな事を実行する国なのですから、国民が300万人餓死しようと、ソウル市が火の海になろうと水没しようと、あるいは日本にキノコ雲が立ち上ろうと、特に心痛も苛責も感じないでしょうなあ。取り合えず、85年以降に拉致事件はぴたりと止んでいるようです。
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北の原爆50年史 其の壱拾七

2006-10-20 12:59:57 | 歴史

1968年1月27日、第2次佐藤栄作内閣が『非核三原則』を決定。
7月1日、核拡散防止条約(NPT)に62カ国が調印。

■「持たず、作らず、持ち込ませず」の『非核三原則』が、北朝鮮の核実験によって揺れ動き始めているようですが、これは平和憲法と被曝体験とが結び付き、翌年から本格化する沖縄返還問題にも直結していた極めて政治色の強い原則だと思われます。「核抜き、本土並み」で沖縄返還を合意するためにも、世界的な軍縮の動きに乗るためにも日本の発言力を増す材料となるものでした。勿論、既に大陸間弾道弾が開発されている時代でしたから、米国の「核の傘」を前提とした気楽な奇麗事と言われてしまえばそれまでの話でしたが……。

■「持たず」と「持ち込ませず」は良いとしても、「作らず」という言い方には「作れるけど作らない」というニュアンスが有ります。ですから、核攻撃の標的になってしまったら対抗上「作らねばならない」と言わねばなりませんし、その前の段階でも「作るかも知れない」と表明する事も出来そうです。断固として核武装に反対している人達は、『非核三原則』の後に第四項目として「核攻撃されても文句を言わず」を加えて『四原則』にする心算の人が居るのでしょうか?そこまで徹底した無抵抗主義ならば既に宗教的な問題になりますから、議論は成り立たないでしょう。

■『三原則』で特徴的なのは「持ち込ませず」かも知れません。誰が持ち込むのか?と考えて見れば、米軍しか考えられないのですから、わざわざこれを加えたのは61年10月の「キューバ危機」からの連想が有った考えると、万一、一時的にでも親ソ政権が日本に誕生しても日本には東側陣営の核兵器は置かない、という意味になります。実戦で核兵器を使用した米国は、将来、日本に復讐されるのを非常に心配して占領政策を進めていましたから、核武装などしたら記念すべき第一発が米国本土を標的にすると思っていた可能性があります。

■被爆国として国際社会で発言するのならば、「持たせず、作らせず、持ち込ませず」とするべきだったはずですが、何故か一方的に核武装を自ら禁じて国際紛争の外に我が身を置いてしまったことになります。国連総会には毎年「核軍縮」を提案している日本ではありますが、何かと気を使って来た隣国が核とミサイルを持ったのですから、『三原則』も再考する時期を迎えたと言えそうです。議論の末に原則を堅持するとなれば、核兵器に負けない外交や政治姿勢が考えられるでしょうから、議論自体を封印しない方が良いと思われます。特に、断固死守を叫ぶ人の御意見を篤と聞きたいと思う人も多いのではないでしょうか?


1969年、金正日が党組織指導部副部長・宣伝部副部長に就任。

■建国以来最大の粛清が終った時、信じられるのは身内と肉親だけと考える金日成の個人崇拝を徹底させる体制が完成していました。宣伝部と組織指導部という党の中枢を1人で支配した金正日は「主体思想」を全国に浸透させるために全力を注ぎ始めます。この年の12月、金日成は「教条主義と事大主義を退治して主体を確立しよう」と演説しています。どちらがどちらと判然とはしませんが、教条主義と事大主義は、ソ連派と延安派の両勢力を意味しているのは確かです。


1970年3月31日、日航機よど号ハイジャック事件

■後にテロ事件・拉致事件・偽札犯罪などに登場するようになるハイジャック犯たちはこの時に北朝鮮に渡りました。革命家を自負する彼らの本当の目的地はキューバだったようですが、気楽に海外旅行になど行けない時代の悲しさで、決行間際になってキューバ行きの直行便が無いと知って困り果てたそうです。同じ社会主義国だから北朝鮮に行けばキューバ行きの飛行機が有るかも知れないと考えてハイジャックを実行したものですから、北朝鮮の事は何も知らず受け入れた側も困ったようです。穴だらけの日本の入国管理体制に付け込んで、何度も行き来していたとも言われていますが、韓国に対する謀略には日本人の身分が有利だと北朝鮮が知ってからは、何かと重用任務が命じられたと言われていますが、理系出身者がほとんど含まれて居なかったのは北朝鮮にとってはお気の毒でした。

■何も知らずに北朝鮮に入り込んだ世界革命を夢見ていた日本の若者も可哀想なものでした。彼らは日本で馴染んだマルクスもレーニンも毛沢東も棄てて聞いた事もない「主体思想」を熱心に学ばねばならなくなったのですから……。

其の壱拾八に続く

北の原爆50年史 其の壱拾六

2006-10-20 12:59:38 | 歴史

1966年、中国がミサイルによる核弾頭の爆発実験に成功。
1967年6月17日、中国が初の水爆実験。

■世界の目が中国の核武装に釘付けになっている間に、北朝鮮では激烈な権力闘争が起こっていました。66年に党組織指導部指導員という要職に、24歳という若さで就任した金正日は中央機関と平壌市の党組織を掌握して父親が準備していた大粛清の道を整えます。ソ連が引っ張って来た伝説の老英雄の名を持つ金日成は、自分と同じような出身者が作る「パルチザン派」と半島で抗日闘争をしていた「甲山派」の両派閥を巧みに対立させて自分の権力基盤としていました。パルチザン派は軍隊を掌握し、甲山派は労働党を握っていましたから、全権力を独占するためには両派を一挙に潰してしまわねばなりません。

■「千里馬」運動が進むと、経済優先か軍備優先かの激しい議論が起こります。その対立を利用して粛清を断行しようとしていた金日成は、たまたま宣伝用に制作された『一片丹心』という甲山派を称える映画に個人崇拝の傾向が見えるとして、67年3月から甲山派の粛清を始めます。そして5月に「朝鮮労働党中央委員会第4期第15回総会」が極秘裏に開催されるのです。萩原遼さんの『ソウルと平壌』(文春文庫)によりますと、この総会は「ブルジョワおよび修正主義分子たちの反党反革命策動を粉砕するための断固たる措置をとった」のだそうです。萩原さんの調査では、61年度の第4回労働党大会と70年の第5回労働党大会との出席者を比較すると、85人の中央委員の53人が消え、中央委員候補50人中32人、政治委員11人中8人、政治委員候補5人中4人という凄まじい数の要人が消えているのだそうです。

■67年から始まった粛清はパルチザン派を使って甲山派を撲滅するものでしたが、69年にはそのパルチザン派が「反党的軍閥」を形成しているという理由で粛清されるのです。こうして金日成に心底から忠誠を誓う人々だけが残って個人崇拝の独裁国家が誕生したというわけです。それを正当化するのが「主体思想」で、黄長さんが理論武装したものです。この黄さんにしても、67年当時、マルクス主義の基盤となっている「社会発展段階理論」を持っているという馬鹿馬鹿しい理由で追放され粛清されかけています。共産主義世界が出現するには、封建主義→資本主義→社会主義という段階を踏んで行かねばならないと論じられているのですが、金日成が進めていた政策は封建主義を打倒して一気に共産主義国家になるというものでしたから、間違っているのは金日成の方なのですが、黄長さんは命懸けでこの暴挙を正当化する「主体思想」理論を完成させます。

■ソ連にも中国にも世話にならずに共産主義国家を完成すると同時に、朝鮮半島の統一も実現しなければなりません。「主体思想」は濃厚な民族主義でもありますから、半島統一・民族統一という大計画は外せません。半島統一のためには何としても韓国に駐留する米軍を追い出し、韓国の国民に主体思想を浸透させねばなりませんが、民族統一となると、ロシア領や旧満洲に暮らす朝鮮族の事も問題になるのですが……。


1967年12月16日、最高人民会議第4期第1回会議で「10大政綱」提示。

「10大政綱」には、①自主、自立、自衛の強化と②南朝鮮革命と南北統一問題が含まれていて、南朝鮮革命勢力に関する言及も有るのだそうです。金日成と正日親子に共通するのはテロに関しては「有限実行」の姿勢を守る事だとも言われているのですが、この「10大政綱」も青瓦台襲撃事件の予告だったとする読み方も可能です。


1968年1月21日、青瓦台襲撃事件発生。
1月22日、米情報収集艦プエブロ号が北朝鮮に拿捕される。

■青瓦台襲撃事件は124部隊の特攻兵31人がソウル市内に侵入して警察署を襲撃した上で大統領官邸の青瓦台まで500メートルという地点で1人を残して射殺されたというものでした。大統領ばかりか政府要人を暗殺するという計画でしたが、この大事件の前年から「南朝鮮武装遊撃隊」を名乗るグループが列車事故を起こしたりして暴れまわっていたのだそうです。朝鮮戦争当時も、南に攻め込めば国内に潜伏している社会主義者が大挙して戦闘に参加すると信じられていたのですが、それに失敗してからは地道な地下活動への浸透が進められていたようです。青瓦台事件が起こった年の11月にも、韓国の東海岸に北朝鮮の特殊部隊が上陸する騒ぎが起こっています。その時は120人の大部隊で、御丁寧にもプロパガンダ用のパンフレットを大量に持ち込んで熱心に撒いたそうですが、呼応する人は居なかったようです。

其の壱拾七に続く

北の原爆50年史 其の壱拾伍

2006-10-20 12:58:46 | 歴史

1961年5月16日、韓国で朴正煕少将が軍事クーデター
7月6日、『朝ソ友好協力相互援助条約』締結
7月11日、『中朝友好協力相互援助条約』締結
9月11日、労働党第4回大会で「自力で核動力開発の科学的研究を長期的展望で進める」と決定。

■この段階で北朝鮮はソ連から実験用の原子炉を受け取る密約が出来ていたようです。北朝鮮の核武装計画を知っていたかのように、11月12日に朴正煕は訪米の旅に出て、途中で日本にも立ち寄って池田首相と経済援助などについて話し合っています。日韓米の結束が強まる時期に、ソ連の地質学者が大挙して北朝鮮に入って全土を隈なく探査した結果、東北部に優良のウラン鉱を発見します。この時の調査データを持っているロシアは、北朝鮮から好きな鉱物資源を好きなだけ巻き上げることが出来る立場になりました。有力なウラン鉱脈が発見されると、ソ連から原子力技術者を招請すると同時に、自国の技術者をモスクワに派遣して核開発事業が本格的に動き出すのがこの頃です。


1962年12月、4大軍事路線を採用。

■社会主義国家の特色である目標の列挙なのですが、「4大」の内容は全軍の幹部化・全人民の武装化・全軍の現代化・全土の要塞化というものでした。金正日時代の「先軍政治」も父親が打ち出した計画の焼き直しのように思えるほど、今も昔も変わらない北朝鮮の軍事優先体制が分かりますが、半世紀も頑張って実り有る実績は得られていないのも同じです。


1963年12月17日、朴正煕が韓国大統領に就任。

■この年からの16年間が「開発独裁」と悪口を言われるインフラ整備の時代が続きます。それが「漢江の奇跡」と呼ばれる大発展につながるのですから、朴政権時代の見直しがだんだん進んでいるとも聞きますが、盧武鉉政権の間は無理でしょう。さて、1961年10月にはキューバ危機が起こり、カリブ海の社会主義化は防いだものの、フランスがインドシナ紛争に手を焼いている内にヴェトナムが社会主義化する動きを見せ始めるので、米国はフランスの肩代わりをする決意をします。どちらもケネディ大統領の仕事でした。


1964年8月2日、トンキン湾事件。
9月、韓国はベトナムに派兵を決定し、73年まで延べ31万人。

■韓国の「猛虎部隊」と「白馬部隊」は優れた戦闘力を示して目覚しい軍功を上げてその名を高めました。朝鮮戦争を生き延びた若者が、紛争再発の危機感の中で軍人として鍛え上げられていたのですから、それも当然の話なのですが、日本の若者は「東京オリンピック」に夢中になっていました。この年の春、60年に金日成総合大学経済学部政治経済学科に入学して、映画ばかり観て過ごした金(ユーラ)正日が目出度く卒業して労働党中央委員会秘書課参事室に配属されています。金ユーラ青年が学んだ大学の総長が、韓国に亡命しているアノ黄長さんで個人講義をして下さったそうですし、絶賛された卒業論文は経済学博士の全勇植教授が書いたのだそうです。


10月16日、中国が新疆ウイグル自治区で最初の核実験に成功。北朝鮮は中国に資料の提供を要請。この年の2月、平壌の北90キロの寧辺に「原子力研究所」を設立。

■中国からは「原爆実験」の資料を求め、ソ連からは実験用小型原子炉を導入する北朝鮮の本音が透けて見える動きです。この時の「毛沢東の原爆」に関しては無数のドキュメント映画やドラマが制作されていますが、タクラマカン砂漠の空高く聳え立つ赤茶色のキノコ雲を見上げて大喜びする人民解放軍の兵士の姿や、実験成功の第一報を周恩来が発表するといくら制しても収まらない歓喜の声を上げる人民の姿が記録されています。日本の反核運動をしている人達の中から、こうした記録映像に対する不快感が表明された事が無いのが不思議です。


1965年6月22日、『日韓基本条約』締結。
8月、ソ連から導入した研究実験用第一号原子炉が臨海に達する。

■この頃は、間違いなく韓国は貧しく、北朝鮮は豊かだったと言われています。しかし、51年の予備会談から7回の会談を通じて締結された『日韓基本条約』には、無償経済協力3億ドル、長期低利の政府借款2億ドルの供与が明記され、民間の商業借款3億ドル以上の約束も結ばれたのでした。日本は敗戦国なので戦争で大損するのは仕方が無いことではありますが、GHQの調査によると朝鮮半島に残した日本の資産は莫大なものでした。


非軍事資産=南に342億円、北には446億円
軍事資産=南に31億円、北に12億円

■当時の金額ですから想像し憎いでしょうが、敗戦の年8月15日時点での日銀券の発行残高は302億円だったという数値が一つの尺度になるのではないでしょうか?半島の南は農業地帯、北は鉱工業地域として開発が続いていたので、東洋最大の水豊ダムを筆頭に大規模インフラが北側に残っていました。こうした資産を食い潰し、ソ連と中国からの支援も食い潰し続けたのが北朝鮮の戦後史だったとも言えそうです。

其の壱拾六に続く

北の原爆50年史 其の壱拾四

2006-10-19 21:35:48 | 歴史
■1955年10月に日本共産党の指導下に結成された「在日朝鮮人総聯合会」はこの帰国事業を後押しする事で金日成の組織として成長して行くことになります。「地上の楽園」は衣食住は保証され、教育も医療も無料だと宣伝されていたので、帰国を決意した人々は全財産を処分して体一つで船に乗り込んだそうです。その時に多くの人々が総聯に多額の寄付をして行ったのがこの組織が巨大化する原因となりました。華々しく始まった帰国事業は、現地から届く日用品や小銭を乞う奇妙な哀願調の手紙の増加で尻すぼみとなって終了しますが、日本に残った親族は帰国者が人質に取られた事を知るのはもっと後のことです。或る推計によれば、毎年1万3000人以上も訪朝する親族が持ち込む資金と送金とを合計すると年間600億円もの現金が流れていることになるそうです。控えめな推計でも300億円という金額が出ています。それ以外にも在日の人達が合弁事業などで投資する金額も含めると年間1500億円の資金が北朝鮮に渡っているとも言われています。

1959年6月20日。ソ連は中国から核技術者を総引き揚げ。
9月7日、北朝鮮は、中国・ソ連の両国と「核エネルギーの平和的利用に関する議定書」に調印。
1959年12月14日、日本から第1次帰還船が出港。

■フルシチョフのスターリン批判に毛沢東は激怒します。そのスターリンを見習って農業の集団化や大規模開発で大失敗を繰り返してたいのですから、スターリン批判を認めてしまったら自分に対する批判が燃え上がるのは目に見えているからです。大規模な土木事業や工業生産設備などのインフラ整備に協力していたソ連の技術者に帰国命令が出され、中国側もソ連に留学させていた将来のエリート達を急遽帰国させるのですが、北京に向うシベリア鉄道に乗り込んだ留学生達が紅茶に仕込まれた劇薬で殺害される事件が起こり、その報告を聞いた周恩来が椅子を蹴飛ばして激怒したとか……。

■この時から北朝鮮の二股外交が始まります。まずは中ソ両国から技術援助を受け、その後は緊張が高まるたびに絶妙のバランス感覚で両国に自国を高く買わせる交渉を重ねて行きます。技術の面では優勢だったソ連への留学は続行され、ソ連帰りと日本帰りの人材を取り込んで日本に僅かに遅れただけで原子の火を点火するのでした。


1960年1月19日、『日米相互協定』『日米安全保障条約』、
2月13日、フランスがサハラ砂漠で初の原爆実験。
4月1日、フランスが2回目の核実験。
4月27日、「4・19反政府デモ」により李承晩大都領が辞任。

■日米軍事同盟が誕生し、西側に核武装国家が増えて行く様子を見ていた北朝鮮は、間違いなく第2次朝鮮戦争は核戦争になると考えたはずです。先の休戦協定締結の際に、韓国の李承晩は調印を拒否していたのです。「北進統一」「滅共統一」を叫んでいた李承晩にとって、一度は平壌を陥落させたのですから、力押しで半島を統一できると考えていたわけです。しかし、肝腎の米国政府がそれを実行したら間違いなくソ連と中国が本格的に参戦して史上初の核戦争が起こると判断して強引に休戦に持ち込んだのでした。朝鮮戦争は韓国の釜山が包囲され、その後は平壌が攻め落とされるように半島の南端から北端までを戦火に巻き込みましたから、突然の休戦によって家族が分断される悲劇が起こり、休戦ラインを挟んでそれぞれの政権は敵対勢力を抱え込むことになりました。北朝鮮はレーニン・スターリン仕込みの相互監視・密告・粛清の三点セットで締め上げたので「帝国主義者」は絶滅してしまいましたが、韓国内には社会主義者が残ります。半島はずっと謀略戦が続きました。

■米国は腐敗がひどかった李承晩政権では反体制運動が高まり、北朝鮮の謀略に利用されると判断して見捨てます。その後を継ぐ人材として白羽の矢が立ったのが朴正煕少将でした。しかし、朴少将は大東亜戦争中に満洲軍官学校出身の岡本中尉だったという前歴を持っている人です。その縁で日韓関係が短期間に改善して日本から多額の資金と進んだ技術が導入されてソ連の援助で勢いの有った北朝鮮を圧倒する国力を充実させて行きます。しかし、北朝鮮からの謀略宣伝によれば、米国の傀儡・元日本軍人の大統領などという悪口も言えない事もなく、北朝鮮の方が朝鮮民族の正統な国家だという宣伝にも一理有るような気になるのも仕方が無いかも知れません。

■60年代に学生生活を送った韓国の人々は4月19日の「学生革命」を記念して「4・19世代」と呼ばれるようになり、一方の北朝鮮では同時期に発動された6カ年計画の大衆動員運動「千里馬」で苦労したので、「千里馬世代」と呼ばれます。この世代が現在の政治経済の主要なポストに座っている事に注意しておく必要があるでしょう。

其の壱拾五に続く

北の原爆50年史 其の壱拾参

2006-10-19 21:34:04 | 歴史
■さて、「休戦」協定が調印された後に金ユーラ君は久し振りに平壌市内に戻れまして、サムソク人民学校に転校して来ます。それから直ぐに再び転校して平壌第4人民学校を目出度く卒業したのが1954年の8月でした。成績は勿論、最優秀で抜群の好成績だったと「正しい歴史」には書かれているそうで、「ずば抜けた記憶力の持ち主」であり「偉大な努力家」でもあった将軍様は、校内のリーダーとして生徒達を熱心に指導していたのだそうです。まあ、その真相などどうでも良い事ですが、人民学校卒業の頃、金ユーラ君には新しいお母さんが出来ます。金聖愛という金日成執務室の書記をしていた綺麗な人だそうです。

■時代を先取りした?出来ちゃった結婚だったらしく、直ぐに義母弟の金平一が生まれ、立て続けに義母妹の金慶真、義母弟の金英一が生まれています。金日成の血を引いているので金正日は時間を掛けて失脚させているので、フィンランド大使などを務めた金平一を含めて権力中枢には入っていません。とは言っても最高権力者の子供達ですから、全員が平壌第一中学校・南山高級中学校・金日成総合大学という超エリート・コースを歩んでいます。兄弟の中でも陰惨な権力闘争が起こり、それが核開発が進む遠因にもなっているのですが、それは後の話です。


1956年3月26日。モスクワ郊外のドウプナ総合核研究所と「原子力協定」を締結。

■最初に選りすぐりの30名の物理学者を留学させるのですが、これ以降、200人以上がソ連に留学して原子力専門家となって帰国しています。フルシチョフの「スターリン批判」極秘報告は、1956年2月14日の第20回党大会で行なわれている事を再確認しておく必要が有ります。「主体思想」が誕生する直接の原因はソ連とのイデオロギー対立だとされているのに、スターリン批判の翌月に金日成はモスクワに出向いて核の研究施設を見て回っているのです。世は石油時代になっているので油田が無い朝鮮半島で原子力発電所を建設するのは分かりますが、電化は表向きの目的で副産物の核兵器の方が本当の目的だった事は後々判明するのですが……。


1956年10月19日、『日ソ国交回復共同宣言』

■戦後の回復期に入っていた日本は、まさか隣国が核開発を始めているとは思いもしなかったようです。「唯一の被爆国」と「憲法9条」が平和への祈りや国際親善へと国民の気持ちを動かして行ったのですが、現実の国際社会は米ソ両国だけに核兵器を独占させて置きはしませんでした。


1957年5月15日、英国がクリスマス島で水爆実験
7月6日、第1回パグウォッシュ会議開催。
7月29日、国際原子力機関(IAEA)発足。

■パグウォッシュ会議には日本の湯川秀樹博士や朝永振一郎博士も参加しているので、日本国民はこうした反核運動に共感したのでした。しかし、世界はパグウォッシュ会議の声に耳を傾けずに核開発をどんどん進め、この会議の存在は忘れ去られてしまいます。今でもパグウォッシュ会議は細々と続いている事を知っている人はほとんど居ないでしょう。


1958年9月8日、金日成首相が在日朝鮮人の受け入れ表明。

■この年の12月から始まる「地上の楽園」への永住帰国運動の中に、理系の知識と技術を持っていた人がどれほど含まれていたのか、詳しい資料が無いようです。後に明らかになった北朝鮮の「住民成分」階層分類における「日本帰還民」は51階級の中で第32階層になっています。その下には宗教者と犯罪者が並んでいるのですから、騙されて海を渡った人達のご苦労が偲ばれます。9万3000人と言われる帰国者の中で、人間扱いされた僅かな人達は特別な資産を賄賂に使えたか、特殊な技能や知識を金日成に捧げられた人だけだったはずです。後にパキスタンの「原爆の父」となるカーン博士も単なる冶金技術の研修生としてオランダに渡った事を考えますと、日本で身に付けた職能や知識が核開発に利用出来た人も少なくなかったと想像できます。

其の壱拾四に続く

北の原爆50年史 其の壱拾弐

2006-10-18 15:13:40 | 歴史


1953年7月27日、「朝鮮戦争休戦協定」調印によって38度線が「休戦ライン」となる。

■しつこいようですが、38線は決して「国境」ではありません。それは米(国連)軍と北朝鮮はまだ戦争状態が終っていない事を意味します。韓国では盧泰愚さんが大統領だった1991年9月17日に、南北同時に国連加盟を果たしたのでしたが、それは前年に韓国がソ連との国交を回復した流れに乗って行なわれた奇妙な儀式でした。本来ならば、この時に朝鮮戦争を完全に終結させる交渉が始まらねばならなかったのに、関連諸国がそれぞれの思惑で先送りしてしまったばかりに、今回の危機が生じたとも言えますなあ。この辺りの事情に関してはもっと先で検証してみますが、日本の中にもこの先送りを良い事だと思い込んでいる言説が見られるので、何度も注意を喚起しておく必要が有ります。

■間の悪い事甚だしい、誠に遺憾な「小さなニュース」が有りました。


米軍嘉手納吉などに配備される地対空誘導弾パトリオット3を沖縄県うるま市の米軍天願桟橋から運ぶため、沖縄県警は11日早朝、防衛施設局の要請を受け、配備に反対して桟橋のゲート前に座り込んでいた市民ら約50人を強制排除した。午前9時半、15台のトレーラーがミサイルの入ったコンテナをゲートから運び出した。
2006年10月12日 朝日新聞

実に素っ気無い小さな小さなベタ記事です。北朝鮮が核実験を実施したと発表した9日には、この座り込みははじまっておりました。問題のミサイルはPAC3と呼ばれる物で、北朝鮮に対する「圧力」の切り札とされています。勿論、その隣のもっと大きな核保有国に対する防衛にも役立つわけではありますが、米国の世界規模の再編に合わせて日本独自の防衛力を増強するために必要不可欠の迎撃兵器であります。

■10日の段階で、広島市では核兵器反対運動を続けている人達が平和公園で抗議の座り込みを始めていましたから、沖縄の港で行なわれていた座り込みとは奇妙な対照を見せいていたのでした。広島からは「北朝鮮の核実験は絶対に許せない!」との怒りの言葉が発せられ、全国の自治体からも同様の声が上がり、鳥取県の境港市は北朝鮮の元山市との友好関係を破棄する騒ぎになりました。不思議なことに同時期の沖縄から報道された「怒り」は、米軍が運び込む迎撃用ミサイル・システムに対する物だったわけです。テレビのニュースでは、代表者が「米国に持ち帰れ」と主張しておりましたから、本州の日本海岸に配備した方が良いという意見とは違います。

■PAC3は海上自衛隊の護衛(巡洋)艦にも装備されますが、3段構えの迎撃計画のためには陸上基地にも配備する必要が有ります。沖縄県民が声を揃えて日本に迎撃能力は不要だと言っているとも思えませんから、「持ち帰れ」の声を放送したテレビ局は昔ながらの習慣で、うっかり反米ニュースを報道したのかも知れませんなあ。何度もミサイル実験をしている北朝鮮が核武装したのですから、在日米軍の主力が駐屯する沖縄に最新鋭の地対空迎撃ミサイルを配備するのは当然の事で、沖縄から日本各地に基地負担を分散する場合にはこのシステムと一緒に移動することになるでしょうから、迎撃ミサイルの配備に反対するのは如何なものでしょう?

■再び「50年史」に戻ります。朝鮮戦争が「休戦」になる前後、金正日将軍様(当時は金ユーラ君)はまだ御幼少であらせられまして、50年10月19日の平壌陥落の頃には早々と国境線を越えて中国領内に非難亡命?しております。吉林学院という学校で小学生として2年間を過ごしたと言われています。38度線を挟んで戦局が膠着した11月頃に平壌近郊に舞い戻った金ユーラ君は、両親が創設した「万景台革命遺児学院」で初等教育を続けたそうです。この教育施設は金日成の支持に従って命を落した人々の遺児を集めて革命第二世代を養成する目的で1947年に設立されたもので、51階級に分けられる「出身成分」の最上層を占める特権階級は、現在、この学校の出身者によって構成されているようです。母親が32歳という若さで亡くなっていますが父親は健在でしたから、金ユーラ君は正確には遺児ではないのですが、国連軍に占領された後の平壌がどんな状況だったかを知るには貴重な歴史的事実ではあります。

其の壱拾参に続く

北の原爆50年史 其の壱拾壱

2006-10-18 15:11:38 | 歴史
■ちょっと寄り道して、10月12日の記です。国連安保理の議長が「順番」で回って来ていた日本ですが、因果は巡る糸車、日本の大島国連大使は被爆者なのだそうです。「誰かアイツをしょっ引いて来い!」と言いたい気持ちを押し殺して御自身が見た物、聞いた声、肌の暑さと痛みを想起しておられるのでしょうなあ。されど、我が美しい?日本は、拒否権も無い非常任理事国ですから、文字通りの司会進行役以上の仕事など出来ないでしょう。今更、日本政府の外交力に何かを期待する国連加盟国など一つも有りませんし、悲しい事にそんな現実に最も深い理解を示すのが日本国民なのですなあ。国連では国連憲章第7章第42条の扱いで議論が起こっております。以下に引用してみますが、国連憲章は1945年10月24日に発効しているという歴史的事実と、今でも後生大事に「敵国条項」を残しているという馬鹿馬鹿しい事実を併せて承知しておかないと、この条文の「真意」は分かりませんぞ!

安全保障理事会は、第41条に定める措置では不十分であろうと認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。

■しつこく「空軍、海軍又は陸軍」と書き連ねる文面から時代を感じますなあ。すぐに腰砕けになったイタリア軍は眼中に無く、欧州随一の陸軍大国だったドイツに対して、最後に国連軍の錦の御旗を持った「陸軍」が勝負を決めるような気迫が感じられますし、もう一つの敵国・日本は「太平洋戦争」でガダルカナルに始まってニューギニアには14万人、フィリピンのルソン島には7万余人、硫黄島には2万人という具合に絶海の孤島にばら撒かれて次々に壊滅して行きましたが、それは米海軍の実力を世界に示したものでした。そして、第二次世界大戦の末期には超長距離爆撃機に加えてジェット戦闘機が登場したように、国連が創設される頃には新たな空軍の時代になっておりました。軍事制裁の最初に「空軍」が置かれる一方で、日米安全保障条約を盾にした米国は金輪際、日本に飛行機は作らせない!という占領政策が実施され、その影響は今も残っていて世界一の自動車大国に相応しくない日本の貧弱な航空産業の姿が有ります。まあ、真珠湾攻撃に始まり特攻作戦に苦しめられた米国ですから、その気持ちも分からないではないのですが……。

■12日現在、北京政府が推奨している第41条はどうかと見てみれば、


……この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができる。

■60年も前に決められた条文ですから、少しでもネットを利用している人達ならば、「おいおい」と呆れることでしょう。「一切のネット接続を断絶」の一言が有れば、ぞろぞろと並んでいるコミュニケーション手段が一切合切瞬時に停止します。「運輸通信の手段の全部」を適切に現代の時代状況に適合させれば、世界中の電話回線とインターネットのネットワークから北朝鮮を切り離し、在外公館や関連施設も一切の通信アクセスを不能にしてしまう処置が取られるはずです。しかし、それは新しい形の全面戦争を意味しますから、これでは第41条と第42条との区別が無くなってしまいますなあ。案外と今の北朝鮮はIT産業に力を入れて外資も呼び込んでちょっとした盛況を呈しているとの話も有りますから、50年間も準備し続けた国連軍の再来襲よりも、こちらの制裁の方が国家の息の根を止める効果が有るかも知れません。

■日本のテレビと新聞の動向はだんだんと傾向性を明確にして来たようで、朝日・毎日新聞系は事態打開の責任は「米国に有る!」と言い始めているようですし、産経新聞は「すべての鍵は中国が握っている」という立場のようですが、讀賣新聞のスタンスがもう一つはっきりしないような印象です。

其の壱拾弐に続く

北の原爆50年史 其の壱拾

2006-10-16 12:17:59 | 歴史
12月3日には38度線までの総退却命令が出される。平壌市民は難民の奔流となって南下し、国連軍は中国軍の追撃に死傷者を増しながら撤退していた時に、ソ連が欧州で大規模な軍事作戦を準備している兆候が察知される。16日にトルーマン大統領はNATOの前身となる国際軍創設案も含んだ「国家非常事態宣言」を布告して、米国が第三次欧州大戦を覚悟している意志を示す。これは即ち膠着状態となった朝鮮半島を放棄して、主戦場を欧州に移す事を意味し、事実トルーマンとマッカーサーの間で戦略の相違を巡る議論が起きた。欧州の前に朝鮮を片付けて自らの戦歴に傷を付けたくないマッカーサーは、ソ連と中国の21都市の名を連ねた「原爆投下目標リスト」を送って原爆使用権限を求めた。

■マッカーサーの計算では、30から50発の原爆投下で戦争は10日で全面勝利すると出ていたそうです。更に、彼の脳裏には、半島の付け根を横断する放射性コバルト・ベルト地帯を新たな「国境」として作り、共産勢力の半島南下を100年間阻止する「平和な半島」が浮かんでいた事を戦後に証言して世界を驚かせます。勿論、被爆国の日本からも驚きと怒りの声が上がりましたが、おそらく、マッカーサー証言を最も深刻に受け止めたのは標的にされていた金日成その人だったでしょう。


中国軍は38度線の北側に身を潜めて動きを止めていたが、22日の北京放送は首相兼外相の周恩来の声明を世界に伝えた。
①一切の外国軍隊の撤退
②朝鮮人民による内政の解決
③米軍の台湾撤退
④中国代表の国連参加
最後に、「政治地理的境界線としての38度線は、永久に消滅した。」と付け加えた。つまり、38度線は外交交渉の前提となる「国境」ではなくなったという意味である。この「国境」の消滅は朝鮮半島の混沌を意味すると同時に、米軍占領下に置かれていた日本にも「国境」が存在していない実態を炙り出した。雪崩を打って押し寄せる北からの難民が無制限にソウル市内に流入するのを避けたい韓国政府は、避難路を確保し各地に収容所を設置する救護対策を進めていたが、同時に国連軍が反撃に転じた場合を想定した「100万人日本移住計画」も立案していたのである。朝鮮半島全域を戦場として戦う為には、後方補給基地として時ならぬ特需に沸き立っていた日本の九州を、巨大な退避所として利用しようという大計画である。

■この時の周恩来プランがすべて実現している事が分かります。忘れたならない事は、朝鮮半島で起こるすべての問題は台湾に直結している事実です。金日成にとっては、②が最も大切で国連軍ばかりかソ連からの政治的独立を保障してくれる条項なのですから、足を向けて寝られない大恩を受けたということになります。そして、日本が忘れてならないのが、当時の韓国政府が立案した大移住計画の存在です。報道によりますと、不況に喘ぐ対馬では行儀の悪い客でも受け入れねば観光産業が廃れてしまうので、韓国からの観光客を大歓迎しているのだそうです。地元の漁師さんが困るほど海を汚して釣を楽しんだり、中には韓国で売るために乱獲している困った人まで出ているそうです。その上、最近では「対馬は韓国領だ」と言い出す勢力も現われたとか……。

■北朝鮮が無事に生き延びたにしても、突然の体制崩壊の大混乱になったにしても、避難所になるか収容所になるかは分からない「領土」を手当てして置こうとの遠慮の無い欲望の発露なのかも知れません。この大計画を知った時の日本政府の驚きは公表されていないのですが、それは大変なものだったようです。終戦直後から在日朝鮮人問題が日本の大都市で起きていて、朝鮮戦争勃発後は日本国内でも南北二派に分かれて各地で凄惨な暴力沙汰が起こり、逮捕された仲間を救出しようと警察署や関係機関が襲撃される事件まで発生していました。その対応に苦慮していた日本政府でしたから、この大移住計画を打診された時の官房長官は絶句したのだそうです。

■極東軍司令官の中にこの計画に賛同する声が有ったというのですから、独立を失っていた日本には対馬海峡の「国境」が無かった事の証拠でもあるでしょう。幸運にも、朝鮮戦争はそれが勃発した「分割境界線」を「休戦ライン」という擬似「国境」として画定して終了しましたし、日本もサンフランシスコ講和条約によって独立を回復して新しい「国境」を得る流れの中で、この大移住計画は歴史の幻となって消え去ったので、多くの日本人はこの計画の存在を知らないままになりました。しかし、「朝鮮休戦会談」が始まって戦争が小競り合いになった頃、1952年の1月18日に「李承晩ライン」が引かれたのは日本中が驚いたのでした。この韓国側が一方的に宣言した国境線の中に「竹島」が囲い込まれていたのです。勿論、対馬は含まれてはいませんが、上島の北岸を翳(かす)めるように正規の国境線よりも近寄っていました。

其の壱拾壱に続く

北の原爆50年史 其の九

2006-10-16 12:17:50 | 歴史
金日成の失策の行く末を考えていたスターリンの下に、10月26日、ダレスの「対日講和7条件」の文書が届けられる。それには琉球・小笠原諸島を米国の信託統治下に置く事、台湾・澎湖諸島・南樺太・千島の将来を改めて米英中ソで話し合い、決裂した場合は国連総会に持ち込む事、更に将来の日本再武装までは日本地区の安全は日米双方の責務とする事等が書かれていた。これは外交軍事の比類無き天才を自任するスターリンにとっては、カイロ宣言・ヤルタ協定・ポツダム宣言と自慢の権謀術数を駆使して手に入れた極東の権益を白紙に戻すばかりか、日本にソ連に対する復讐の機会を米国が与えたと解釈出来る内容であった。

■嘗てのツァーリに成り代わって日露戦争の復讐を思う存分に楽しんだスターリンでしたから、日米合同軍による日露戦争の再現など考えたくもない事であったでしょう。ソ連・中国・インドが反対の意を表明しますが、朝鮮戦争で東側の遣り口を知った米国は聞く耳を持たず、強引に事を進めます。ここで中国とインドが共にソ連に同調していますが、当時、中国は「チベット解放戦争」の総仕上げに掛かっている段階で、インドは英国を頼って抗議しているのですから、国際政治と言うのは奇妙なものです。米国からの法外な和平条件が出されても、中国は一歩の引きませんでした。それにはスターリンから届けられた最新鋭のジェット戦闘機の存在が有りました。


スターリンから届いた最新鋭のジェット戦闘機ミグ15とレーダー・通信設備、更に高射砲部隊も供与された。11月1日、史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が朝鮮半島上空で行われる。その日から戦闘中の無線通信の中にロシア語の叫び声が聞こえ始め、北朝鮮軍のマークを付けたソ連製ジェット機150機を操る中国空軍の制服を着たソ連兵は、半島北半分の制空権を奪回し始める。ソ連が休戦までに派遣した人員は延べ8万に上ると言われている。

■ドイツが開発したジェット機の技術はそっくりソ連に持ち去られていましたし、同様にドイツから多くの技術者を招いていた米国でも開発が進み、似たような形の戦闘機が出現して北朝鮮上空でドッグ・ファイトを演じたというわけです。空軍からの報告によって、11月下旬にはマッカーサーも中国正規軍が本格的に参戦している事実を認めざるを得なくなります。北朝鮮側では、短期間での勝利を確約していた金日成の甘い判断をスターリンは責めていましたが、米国でもマッカーサーとトルーマン大統領の間で責任の押し付け合いが始まり、解任問題へと発展して行きます。


半島北部の前線では夜間には零下30度にもなる寒さと、11月27日から始まった北側の大反撃に国連軍は総崩れとなって撤退が決定され、戦況の厳しさを知ったマッカーサーは台湾に逃れていた蒋介石からの協力の申し出を受け容れる考えを明らかにする。戦線の建て直しの為には早急に兵力の補充が必要だが、米国議会や国連総会の議決手続きを待っていては手遅れになるとの判断から、開戦時に提供の申し出の有った中華民国軍3万3000人を投入しようと言うのである。しかし、朝鮮半島の国内戦が実質的には米国対中国の戦争に変貌している段階に台湾軍が参戦すれば、国共内戦の再開となって中国はソ連を引き入れて全面戦争を決意するのは間違い無い。そうなれば、全世界が社会主義国になるか、或いは地上から社会主義国が消滅するかを決する第三次世界大戦が勃発し、既に原子爆弾を開発していたソ連は核戦争も辞さないと思われ、統合参謀本部はマッカーサーの提案を拒否。

■こうした切迫した状況の中で、11月30日の大統領定例記者会見が開かれたのでした。トルーマン大統領は「原子爆弾は、それが使われねばならない時に使用される。それを判断するのは現地司令官である。」と口を滑らせてしまいます。米国は開戦当初から原爆使用の研究を密かに開始しており、トルーマン発言の頃、米国は前年の8月に原爆実験に成功していたソ連に数で対抗する戦略を採用し、既に約300発の原子爆弾を所有していたのでした。これに驚いたアトリー英国首相は急遽渡米して原爆使用を思い止まらせるべく努力して目的を果たすのでした。

■唯一の後ろ盾となっているソ連でさえも、虎の子のような数発の原爆しか持っていないのですから、300発の原爆が自分の頭の上に降って来ると想像した時の金日成の恐怖は想像も出来ません。しかし、この時は英国政府の努力によって朝鮮半島の北半分が廃墟となるのだけは避けられました。

其の壱拾に続く

北の原爆50年史 其の八

2006-10-16 12:12:18 | 歴史
■1956年2月14日の第20回党大会でフルシチョフが行なった「スターリン批判」が原因で中ソ対立や北朝鮮の主体思想キャンペーンが始まるという解釈も有りますが、スターリン時代から社会主義陣営は決して一枚岩ではなかった事がそもそもの原因なのだという事が分かります。朝鮮戦争の休戦から10年後に「毛沢東の原爆」が生まれますが、北朝鮮も核武装をずっと考え続けるようになるのも、スターリン時代に根を持つ話のようです。それが本当ならば、北朝鮮の核武装を押し留めたり一旦手に入れた核兵器を諦めさせる事がどれほど困難であるかが分かります。

10月18日、正式に朝鮮出兵を決定した電報が北京から金日成に届く。しかし、翌19日に平壌は陥落。中国軍の参戦は無いと信じ切っていた米軍の油断を衝いて「中国義勇軍」が、続々と鴨緑江を渡る。奉天の彭徳海を司令官とする朝中連合司令部麾下に満洲の朝鮮族を主軸に兵力36万の3個軍団が侵入したが、国連軍の目には北朝鮮軍との区別が出来ずに疑心暗鬼が広がって行く。24日には李承晩大統領が平壌に入城して市民30万人の歓呼に迎えられ、27日の平壌奪還慶祝記念大会に出席。

■平壌陥落の一報を聞いたスターリンは、「放っておけ!金日成には中国で亡命政府を作らせて、我々は新しい支配者と上手くやる」と側近だったフルシチョフに向って言ったとか……。身から出た錆(さび)と言うべきか、傀儡国家とは言え支配者を好き勝手に拾ったり捨てたりしていれば、恨みを一心に受けて報復されるに決っています。この時のスターリンの裏切りに対する深い恨みが、後に金日成の「主体思想」に結実します。フルシチョフのスターリン批判よりも1年前、金日成が犯した朝鮮戦争の大失敗を責める声が、延安派からもソ連派からも湧き興る気配を察知して、ソ連でもなく中国でもない「思想における主体」と称する朝鮮革命理論が生み出され、主体思想に敵対する者は反朝鮮であり反革命だと指弾されて粛清の嵐が吹いたのでした。

■「政治の自主」「経済の自立」「国防の自衛」の3本柱が主体思想なのだそうですが、何処の国の言う事も聞かない「政治の自主」には、最悪の場合に自給自足生活で耐え忍ぶ「経済の自立」が必要でしょうし、武器弾薬を恵んで貰って戦争をしている惨めな立場を脱する為には武器の国産化と、核武装が必要になります。何だか、核兵器さえ自力で開発出来ればすべてが解決されそうな話です。「経済の自立」さえも、核兵器自体でも開発技術でも、高値で取引できる闇市場が存在しますし、既にミサイル技術は有力な密輸商品ですし、核武装に成功すれば、好きな物を要求する何よりの取引材料に重宝します。

■主体思想の表紙も中身も書き上げた黄長さん御本人が韓国に亡命してしまったのですから、もう主体思想は終っているのでしょうが、それに代わる看板も見付からず、小平型の改革開放も百害有って一利無しの劇薬にしかならず、主体思想の権化のような核兵器にすべてを賭けるしかなくなってしまったのかも知れません。核兵器の開発にはどうしても最初はソ連の助力が不可欠でしたし、核兵器などという贅沢を言う前に、すべての通常兵器をソ連からの援助に頼らねばなりませんでした。このソ連からの援助が金日成の命を保障していたようなものです。その中からデッド・コピーでも高く売れそうなミサイル兵器に目を付けた金日成は、せっせとミサイル製造技術を高めて安価で中東諸国に売り捌くのに熱心になります。

■朝鮮戦争の3年間に延べ300万人を投入し、死傷者100万人以上という犠牲を出したのが中国でした。これを称して「血の同盟」と言うのです。武器弾薬を恵んでも貰うのも情けないのですが、生身の兵士まで借りて戦い、実質的に敗北したのですから金日成親子は終生北京政府に頭が上がらないわけです。中ソ対立の時代には、中国とソ連とを天秤に掛けて双方から好きな物をプレゼントして貰った事も有りましたが、両国が真っ当な国交を結んでしまったら、死なない程度の贈り物しか貰えなくなったというわけです。

■大日本帝国から接収した兵器を中心に、時代遅れの武器を持って布の帽子にズック靴、革命精神だけで肉弾戦を挑んだ結果が死傷者百万人でしたから、それで眼が覚めた中国人民解放軍は大急ぎで近代化に着手しました。しかし、それはソ連の過酷な借款条件に耐え続ける事を意味していました。攻め込んだ満洲からは便器まで奪い、ドイツでは印刷用の活字や映画撮影用の照明機材まで持ち去ったと言われるソ連軍ですから、他からの援助が得られない北朝鮮と中国は足元を見られて、ソ連に搾り取られる事になります。朝鮮戦争の唯一の勝利者はスターリンだったと言われるのも当然なのです。搾取階級が消滅した社会主義国同士が搾取し合っているというのも皮肉な話ですが、スターリンにとってはソビエト連邦の存続だけが問題でした。

其の九に続く

北の原爆50年史 其の七

2006-10-16 12:12:03 | 歴史
■朝鮮戦争当時には、ソ連に縋(すが)り付かねば何も出来なかった中華人民共和国でしたが、独自に核爆弾と大陸間弾道弾を開発する頃で国連の安保常任理事国の議席に恥じない軍事大国になっていますから、当時の慌てぶりはすっかり昔話になってしまいました。

ソ連の保養地ソチで、ソ連空軍の即時派遣を要請していた周恩来に対して、金日成を見捨てたスターリンは米ソの直接対決を避けようと、準備不足を理由に空軍の支援は不可能と通告して高みの見物を決め込む。周恩来の弁舌と情熱も鉄の男スターリンには通じなかった。10月11日には周恩来から「参戦を再考すべし」の緊急電が北京に届く。前日の10月10日に徹底抗戦を命じた金日成は、平壌を放棄して国境に逃走。人民軍副参謀総長・李相朝は、延安派の内務相・朴一禹と共に再び北京を訪問して中国軍の参戦を要請。しかし、ソ連の姿勢を肌で感じて帰国していた周恩来は「満州を戦場とする第三次世界大戦の勃発」を懸念して出兵に反対。毛沢東と彭徳海は「兄弟国として見過ごせない」と強硬に論陣を張って国運を賭けた論争が続いた。

■無能で臆病な金日成に代わって、仕掛けた無謀な戦争で建国したばかりの祖国を失わない為に努力を重ねた人々も、命令に従って戦線を守って頑張った司令官達も、後の政争の中で次々に粛清されて行く運命でした。金日成の「無謬神話」を嘲笑うような体験と記憶を持っている者の居場所は、金王朝には無かったという事です。


10月11日、韓国軍によって元山市が陥落。国連軍も38度線を越えて北進を開始。中国軍の来援を待ち侘びながら戦後の保身に汲々としていた金日成は、手回し良く平壌放送で敗因を発表。米軍の物量に加えて「反革命・反党分派分子」の責任を追及する内容で、韓国内で呼応決起する20万人の共産党員がいると言った朴憲永外相や軍団長の金武亭中将等を名指しで批判。朴外相は後に米国のスパイとして粛清され、延安派の巨頭だった金中将は微罪で逮捕され謎の病死を遂げる。

■「粛清の嵐」は社会主義国に特有のもので、建国間も無い中華人民共和国でも人民解放軍は長い中国の伝統も手伝って、粛清されない為に有力幹部の私兵化が進み、巨大な地方軍閥の集合体となっていました。最高権力者に祭り上げられて子飼いの武力を持たなかった毛沢東は猜疑心に駆られて、人民解放軍全体を彼一人に忠誠を尽くす軍隊に生まれ変わらせる目的で、朝鮮戦争を利用した可能性が有ります。後に謎の死を遂げる林彪が、核戦争になる危険が高い事を理由に朝鮮戦争への介入に反対した時、彼の運命は決っていたのかも知れません。

■世界最強の米軍と直接干戈(かんか)を交えた朝鮮戦争は、毛沢東の専売特許だった「プロレタリア的情熱で武装した遊撃隊」思想の破綻を証明する結果になって、その後の党内権力闘争を激しい物に変える契機となります。現在も続く驚異的な軍事大国化への道に踏み出したのも、朝鮮戦争で知った新しい戦争の実態を知った結果からでした。


中国共産党内の論争で毛沢東は一時孤立し、10月12日には先の出兵電報を取り消す電報が金日成の手元に届けられる。絶望した金日成は半狂乱になって国境周辺の洞窟内で自棄(やけ)酒。米軍の要請で投入された日本の掃海艇13隻が半島東岸沖を北上して元山港の機雷除去作業を開始。同日、中国共産党政治局は「ソ連空軍の支援が無くとも参戦」を議決した上で、重ねてソ連に援軍を要請する捨て身の戦法に出る。第4野戦軍指揮官林彪将軍は毛沢東の指示に従って北部山岳地帯で反撃作戦を展開すべく、12個師団に夜間のみの徒歩移動という隠密行動で13日の夜から鴨緑江の渡河を開始。スターリンは渋々、装備や兵を派遣する決定をするが、彼の真意は米軍を朝鮮半島に釘付けにして欧州戦略を進めると同時に、中国を消耗させて戦後の援助を餌に軍事力を完全に支配下に置こうとするものであった。

其の八につづく

北の原爆50年史 其の六

2006-10-14 08:54:35 | 歴史
国連総会は朝鮮の和平統一に関する8箇国決議案を賛成47・反対5・棄権8で採択するが、マッカーサーは中国の参戦は無いと予測して戦闘終結地点「マッカーサー・ライン」を鴨緑江の南100キロに設定。10月8日、韓国軍が続々と38度線を越えて平壌一番乗りを競って北上している時、平壌市中心の山牡丹(モラン)峰(ボン)の地下深くに造られた指揮所の中で、恐怖に慄(おのの)く金日成は部下に当り散らしていた。中国大使館員が中国軍参戦の電報を携えて訪問すると、手ずからグラスに酒を注いで大使館員と共に喜びの乾杯をした。中国は国連8箇国決議案に対して「韓国軍の北進は国内戦だが、外国軍の侵略には平和の為に立ち上がる」旨の声明を発表した裏で、周恩来と林彪を密かにソ連に派遣し、援朝義勇軍総司令官に彭徳懐を任命。

■今でも「義勇軍」という名前で歴史に書かれる中国軍は、実際には結成間も無い中国人民解放軍そのものだったというのは公然の秘密です。「外国軍の介入」を非難しておきながら、自分も外国軍として参戦するのでは大義名分が立ちませんから、軍服から徽章を取っての参戦となった次第。この程度の芸当が出来ないと国際社会では生きて行けないという是非とも歴史教科書に載せるべき話です。


翌9日、ワシントンから中国領土内の攻撃を禁止する制限付きで北進許可を受けたマッカーサーは、2度目の降伏勧告を「北朝鮮首相」宛てに行うと、その翌日に金日成首相は平壌放送を通じて北朝鮮軍と民衆に徹底抗戦を命令。38度線突破の大義名分を得たと解したマッカーサーは主力の第8軍に北上を下命。開戦時は、連絡用の飛行機十数機に戦車は零という韓国軍に対して、ソ連製の飛行機170機と戦車258輌で圧倒していた北朝鮮軍だったが、物量に勝る米軍の参戦で完全に攻守所を変え、8日に実施された鴨緑江に架かる新義州橋に対する攻撃には、大型爆撃機B29とB26に戦闘機を加えて延べ600機を投入。

■第3次世界大戦を起さずに自らの世界戦略を進めようとする米国の姿勢はこの朝鮮戦争から一貫しているようです。それは本当の相手だったスターリンも同じで、そのスターリンを批判した後継者のフルシチョフも後のキューバ危機で核戦争を覚悟したケネディ大統領の決意の前に屈辱的な撤退をしています。それとは別にアイゼンハワー大統領が辞任する時に言い残した巨大化した「軍産複合体」の生き残り戦略も、ソ連や北朝鮮内に潜入していた諜報員から伝えられていたソ連軍と中国軍の動きを利用しようと動き出していた点も見逃せません。朝鮮戦争勃発の前年から日本列島を兵站基地にすべく密かに米軍側は待ち構えていた証拠が明らかにされています。そんな米国と真正面から組み合う心算などまったく無いスターリンを頼り切った金日成の妄念と、世界最大の軍需産業を生み出してしまった米国の血生臭い商売とが朝鮮半島を地獄に変えたのでした。

■幸か不幸か、米国の軍産複合体はイラクを相手にした2回の戦争でたっぷりと儲け、今は復興事業で設けている段階です。一度は勝利に熱狂していた単純な国民の中に「正気」が戻って来て反戦ムードが広まる、毎度お馴染みの米国らしいサイクルが一巡しています。その「ラブ&ピース」の熱が冷めないと、次の戦場を求めるわけには行かないでしょう。ヴェトナム戦争に続く無駄な戦争となる公算が高いイラン戦争が片付かないまま、イランの核武装を阻止しなければならないブッシュ政権は3国を並べて「邪悪の枢軸」と言い切ってしまった手前、すっかり手詰まり状態です。

■朝鮮戦争当時ならば、後見役の大国が必要だった戦争は、交戦的な産油国の資金や宗教的な信条を材料にした献金で起せるテロに変わってしまっています。それを考えれば北朝鮮は50年前の伝統的な戦争を続けているという事になります。冷戦時代の幕開けを世界に知らせた朝鮮戦争では、超大国の駆け引きの手駒にならざるを得なかった小国の中にも、大国を手玉に取って見せたいという誘惑に勝てない支配者が居る事を、この朝鮮戦争勃発の時期に世界は学ぶべきだったようです。核兵器を独占していた国々は国連安保理を舞台にして交渉し、サミット会議でも話し合えるようになりましたが、大量破壊兵器を作る技術と人材はろくに食糧も生産できない貧しい国でも大金を払って手に入れられる時代になっています。

其の七につづく