11月16日、盧泰愚前大統領が収賄罪で逮捕。
12月3日、全斗煥元大統領が反乱罪で逮捕。
12月15日、KEDOは北朝鮮との間で軽水炉事業に関する供給取り決めを締結。輸送・通信・特許免除・労働力・用地・債務不履行などについての議定書に調印。
■韓国の歴代大統領は、暗殺されたり死刑判決を受けたり、末路が凄まじいのですが、北朝鮮と軍事的に対立して来た過去の大統領が酷い目に遭うというのは北朝鮮にとっては目出度い話でしょう。北に対して強硬な姿勢を見せたり、民族主義を高揚したりしていた金泳三大統領を挟んで、韓国は徐々に北朝鮮の民族主義の仮面に騙されて行ったようなものです。それを止められず、拉致事件の解明も出来ず、コメと核開発の資金と人材と技術まで渡していた日本は最も愚かな国だったと言えそうです。
■年が明けて1996年となって早々の1月11日に、自社さ連立で第1次橋本龍太郎内閣が発足します。「政治改革」やら「構造改革」やら、改革騒ぎが続いていた日本はバブル崩壊後の痛手から立ち直れずに国際情勢などに目は向かなかったのでした。
6月14日、世界食糧計画(WFP)を通じて、食糧・医薬品など525万ドルの支援を閣議了承。
7月、敷地調査団が北朝鮮を訪問。以後、97年3月まで7回にわたり調査を実施。
9月28日、北朝鮮潜水艦が韓国東部江陵で座礁し上陸した北朝鮮兵24人が死亡、1人を拘束。韓国側は15人死亡。
12月27日、ペルー日本大使公邸人質事件。
■ペルーの人質事件は、危機管理能力も情報収集能力も日本にはまったく無いという事実を全世界に宣伝する出来事でした。それがそのまま、国民が拉致され続けていたのを四半世紀も知らずに放置していたという前代未聞の間抜け振りを世界に晒すことにつながって行きます。
1997年2月3日、横田めぐみさんの拉致問題が表面化。
2月12日、北朝鮮の労働党中央委書記の黄長が韓国に亡命。
3月25日、米国の『ワシントン・ポスト』紙が「日本は大量の余剰米を抱えているのに北朝鮮を支援しない。飢餓に苦しむ北朝鮮を考えずコメを貯め込んでいる」との批判記事を掲載。
4月、工事着工に向けて高級専門家会議を開催し、7月まで3回開催。
7月、咸鑑南道琴湖地区にKEDO事務所を開設。
8月、琴湖地区で軽水炉の着工式。100万キロワットの軽水炉発電の原子炉を2基設置する工事開始。
9月6日、日本人妻里帰りに関する日朝赤十字連絡協議会。
■民主党寄りの『ワシントン・ポスト』は能天気な記事を書いていたものですが、この頃は本当に北朝鮮が核開発を諦めると米国は信じきっていた事が分かります。まったくクリントン政権は素人臭い外交戦略を展開して、後の世界をめちゃくちゃにしてしまった困った政権でした。この頃には、次の年にインドとパキスタンが緊張状態になるとか、ケニアとタンザニアの米国大使館が爆破されるとか、勿論、自分自身が「ポルノ小説」の主人公になってしまうなどとは想像もしていなかったのでした。
9月23日、日米新ガイドライン。
10月8日、金正日が朝鮮労働党総書記に就任。
10月9日、日本政府はコメ6万7000トンの無償援助と国際赤十字などに9400万円の医療関係支援を閣議了承。
11月8日、第1回日本人配偶者里帰り。
11月11日、3与党代表団(総団長・森喜朗自民党総務会長)が訪朝。
■1997年は、11月に北海道拓殖銀行と山一證券が破綻して「失われた10年」の総仕上げのような大騒ぎをしていたのですが、北朝鮮に対しては大盤振る舞いが続けられ、厳正に審査されて選ばれた「優秀な日本人妻」の皆さんが里帰りして、北朝鮮の礼讃宣伝をして行ったのでした。地元石川から拉致された寺越武志さんとべろべろに酔っ払って握手して来た森喜朗さんは、事の重大性にはまったく気付かなかったのでした。
12月3日、韓国金融危機。IMFなどが総額550億ドルの支援。01年8月にIMF融資を完済。
12月9日、ジュネーブで第1回4者会談(韓朝米中)
■7月にタイで始まった東南アジア諸国の外貨暴落による経済破綻は、韓国にも飛び火して大騒ぎになりました。資本主義の恐ろしさを身に染みて知った韓国の中に、社会主義幻想が広がって行くのも仕方が無かったかも知れませんが、IMFの管理下に置かれた屈辱感が金大中候補への期待感を膨らませて行ったようです。