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旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

北の原爆50年史 其の参拾九

2006-10-24 12:24:31 | 歴史


11月16日、盧泰愚前大統領が収賄罪で逮捕。
12月3日、全斗煥元大統領が反乱罪で逮捕。
12月15日、KEDOは北朝鮮との間で軽水炉事業に関する供給取り決めを締結。輸送・通信・特許免除・労働力・用地・債務不履行などについての議定書に調印。

■韓国の歴代大統領は、暗殺されたり死刑判決を受けたり、末路が凄まじいのですが、北朝鮮と軍事的に対立して来た過去の大統領が酷い目に遭うというのは北朝鮮にとっては目出度い話でしょう。北に対して強硬な姿勢を見せたり、民族主義を高揚したりしていた金泳三大統領を挟んで、韓国は徐々に北朝鮮の民族主義の仮面に騙されて行ったようなものです。それを止められず、拉致事件の解明も出来ず、コメと核開発の資金と人材と技術まで渡していた日本は最も愚かな国だったと言えそうです。

■年が明けて1996年となって早々の1月11日に、自社さ連立で第1次橋本龍太郎内閣が発足します。「政治改革」やら「構造改革」やら、改革騒ぎが続いていた日本はバブル崩壊後の痛手から立ち直れずに国際情勢などに目は向かなかったのでした。


6月14日、世界食糧計画(WFP)を通じて、食糧・医薬品など525万ドルの支援を閣議了承。
7月、敷地調査団が北朝鮮を訪問。以後、97年3月まで7回にわたり調査を実施。
9月28日、北朝鮮潜水艦が韓国東部江陵で座礁し上陸した北朝鮮兵24人が死亡、1人を拘束。韓国側は15人死亡。
12月27日、ペルー日本大使公邸人質事件。

■ペルーの人質事件は、危機管理能力も情報収集能力も日本にはまったく無いという事実を全世界に宣伝する出来事でした。それがそのまま、国民が拉致され続けていたのを四半世紀も知らずに放置していたという前代未聞の間抜け振りを世界に晒すことにつながって行きます。


1997年2月3日、横田めぐみさんの拉致問題が表面化。
2月12日、北朝鮮の労働党中央委書記の黄長が韓国に亡命。
3月25日、米国の『ワシントン・ポスト』紙が「日本は大量の余剰米を抱えているのに北朝鮮を支援しない。飢餓に苦しむ北朝鮮を考えずコメを貯め込んでいる」との批判記事を掲載。
4月、工事着工に向けて高級専門家会議を開催し、7月まで3回開催。
7月、咸鑑南道琴湖地区にKEDO事務所を開設。
8月、琴湖地区で軽水炉の着工式。100万キロワットの軽水炉発電の原子炉を2基設置する工事開始。
9月6日、日本人妻里帰りに関する日朝赤十字連絡協議会。

■民主党寄りの『ワシントン・ポスト』は能天気な記事を書いていたものですが、この頃は本当に北朝鮮が核開発を諦めると米国は信じきっていた事が分かります。まったくクリントン政権は素人臭い外交戦略を展開して、後の世界をめちゃくちゃにしてしまった困った政権でした。この頃には、次の年にインドとパキスタンが緊張状態になるとか、ケニアとタンザニアの米国大使館が爆破されるとか、勿論、自分自身が「ポルノ小説」の主人公になってしまうなどとは想像もしていなかったのでした。


9月23日、日米新ガイドライン。
10月8日、金正日が朝鮮労働党総書記に就任。
10月9日、日本政府はコメ6万7000トンの無償援助と国際赤十字などに9400万円の医療関係支援を閣議了承。
11月8日、第1回日本人配偶者里帰り。
11月11日、3与党代表団(総団長・森喜朗自民党総務会長)が訪朝。

■1997年は、11月に北海道拓殖銀行と山一證券が破綻して「失われた10年」の総仕上げのような大騒ぎをしていたのですが、北朝鮮に対しては大盤振る舞いが続けられ、厳正に審査されて選ばれた「優秀な日本人妻」の皆さんが里帰りして、北朝鮮の礼讃宣伝をして行ったのでした。地元石川から拉致された寺越武志さんとべろべろに酔っ払って握手して来た森喜朗さんは、事の重大性にはまったく気付かなかったのでした。


12月3日、韓国金融危機。IMFなどが総額550億ドルの支援。01年8月にIMF融資を完済。
12月9日、ジュネーブで第1回4者会談(韓朝米中)

■7月にタイで始まった東南アジア諸国の外貨暴落による経済破綻は、韓国にも飛び火して大騒ぎになりました。資本主義の恐ろしさを身に染みて知った韓国の中に、社会主義幻想が広がって行くのも仕方が無かったかも知れませんが、IMFの管理下に置かれた屈辱感が金大中候補への期待感を膨らませて行ったようです。


北の原爆50年史 其の参拾八

2006-10-24 12:24:20 | 歴史
■金丸訪朝団の約束を白紙に戻すのですから、首相を出しているのに社会党は蚊帳の外に置かれて、対北朝鮮強硬派として有名だった渡辺ミッチーを団長にしての訪朝でした。更に、この訪朝団の目的には国交も無い北朝鮮に対して莫大な資金を提供するKEDOプランに関する国民の不信感とアレルギーを緩和するという事も有ったのでした。驚くのは北朝鮮側は日本政府が持て余している外国産の貯蔵米の量を正確に知っていて「余っている外国産コメ84万トン全部を下さい」と要求したのだそうです。

■話は再び95年に戻ります。


5月15日、中国が93年、94年に続いて地下核実験を実施。
5月17日、中国が2回目の核実験。

■この時、日本は村山総理・河野外相という最悪コンビが「平和外交」を仕切っておりました。村山富市さんはともかく、河野洋平という政治家は、実に不思議な事に御自身が「外交の専門家」だと信じ切っているというトンデモない噂が有ります。当時の中国は江沢民の愛国(反日)教育が真っ盛りで、盧溝橋事件が起こった7月7日は「77抗日戦争記念日」、満洲事変勃発の9月18日は「918記念日」、戦艦ミズーリ号甲板で日本全権代表が降伏文書に署名した9月2日の、何故だか1日後が「93抗日戦争勝利記念日」という新たな愛国休日を制定しました。一方、日本側には92年に定めた『政府開発援助大綱』が有ります。


「開発途上国ノ軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルノ開発・製造、武器ノ輸出等ノ動向ニ十分注意ヲ払ウ」

■この規定を厳密に守るには、世界有数の情報機関が無ければならないのですが、新聞・雑誌の切り抜きが中心と嘲笑される日本の情報収集能力では無理なのです。それでも、核開発に進む北朝鮮や露骨に軍拡に走り、毎年、地下核実験をする中国は見事に援助国リストから消されねばなりませんが、それには外交的に最も効果の有る方法とタイミングを考えねばなりません。中国の著しい経済成長の報道が増えていた時期でも有り、「原爆実験を繰り返す国にODAを出すのか!」という世論が盛り上がりまして、村山・河野コンビはすっかり困ってしまいます。地下核実験から3箇月間ももじもじしていた揚げ句に、「苦渋の選択」をするのでした。


ポリオ撲滅支援の2億円、災害援助資金1億円、草の根無償援助金1億600万円を除く95年度対中無償資金援助を原則的に凍結する」

■元々、村山富市社会党総理が靖国神社に参拝するはずもなかったので、「靖国問題」を持ち出せずにちょっと困っていた北京政府にとって、この間抜けなタイミングで出されたトボケた政府発表は嬉しい知らせだったようです。「93抗日戦争勝利記念日」に向けての愛国主義大キャンペーンの材料にされて記念式典でもたっぷりと利用される事になりました。このように核実験をやろうが、ミサイルを開発しようが、日本政府はカネを出すものだと某国はしっかり学習するような愚かな事をすると、後世に多大な迷惑を懸けることになるという単純な事が、なかなか分からない政治家が多いのは困ったものであります。

■この時に例外として拠出された援助資金も、最終的に誰がどのように使ったのか分かったものではありません。そして北朝鮮では金日成が公民の2割に当たる絶対服従の「核心層」以外は飢餓線上を彷徨う政策を続けながら軍事拡張と核武装に専心していたのですから、国交正常化以前に援助の対象になるかどうかも疑問が出されて当然でした。自らの失政で土留めもしないで斜面に段々畑を作らせて広大な地域から表土を流失させてしまいながら、周辺各国に堂々と救援食糧を要求する国を相手にする外交は、よほどの覚悟が無ければ出来ません。


6月30日、日本政府が北朝鮮の水害に対してコメ30万トンの支援を決定。
6月、米国とクアラルンプルで軽水炉事業の実施に関する共同声明を発表。
7月31日、KEDO理事会をニューヨークで開催。
8月15日、「村山談話」発表。
9月11日、KEDOと北朝鮮は軽水炉協定の締結をニューヨークで協議。
10月3日、日本政府がコメ20万トンの追加支援を決定。

■こうして発電専用の軽水炉と軍事転用も可能な重油をたっぷりと毎年50万トン貰い、日本からはコメと「村山談話」まで貰ったのですから、北朝鮮としては大喜びだったでしょう。正直に契約を守っていれば、まったく違った流れも有ったはずですが、親子二代で追求して来た核武装国家の夢を簡単に諦めるはずもなく、核開発を密かに続けていた事が露見してすべてが元の木阿弥となったのでした。
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北の原爆50年史 其の参拾七

2006-10-24 12:24:07 | 歴史
■クリントン政権の苦境を知ってか知らずか、野に下って煮え湯を飲まされていた自民党が、長年の宿敵だった社会党を抱き込んで与党に返り咲くという禁じ手を使って、ゾンビかフランケンシュタインか分からない政権を作ってしまったのが、6月30日に自民・社会・さきがけ3党連立による村山富市内閣でした。村山内閣の1年半は憲政史上最悪の悲喜劇が連続した時代となりました。「非武装中立」から「憲法9条死守」、そして「自衛隊違憲論」まで、政治博物館には絶対に陳列して置かねばならない珍品を秘蔵していた社会党ですし、副総理兼外相に河野洋平ボンボンを指名して万全のブラック・コメディ劇団となりまして、「君子豹変」なのか首相に就任したら「自衛隊は合憲」になり、社会党の唯一の財産だった北朝鮮との細くて曲がって捻れたパイプを使おうかと思ったら、就任後10日も経っていない7月8日に83歳で金日成主席が死去してしまいました。

■日本がこんなドタバタ劇を演じている間に、核保有国のインドは純国産の短距離地対地ミサイルの発射実験を6月4日に成功させています。インドは中国がチベットを併合してヒマラヤ山脈を穿って弾道ミサイル基地を建設したのを知ってからは、せっせとミサイルの射程外に生産拠点を移していました。そうやって誕生したのが現在では「インドのシリコン・バレー」と呼ばれるなったデカン高原のバンガロールという都市です。カシュミールという紛争地を抱えるインドにとって、北の中国と西のパキスタンが手を組むのを黙って見ているわけにも行かず、核武装に続いてミサイル開発にも着手していたのでした。戦後しばらくの間手を結んでいたソ連からの技術援助が有ったので、それを基礎として国産ミサイルの開発を進めたことになっていますが、ソ連製のスカッド型とそっくりだともっぱらの噂でした。

■さて、日本の村山首相はナポリ・サミットに出掛けて行って、食べ慣れない高級チーズを冷たいビールで流し込み、ひどい下痢を起して入院する騒ぎを起して主催国のイタリアに恥を掻かせてしまいました。就任後半年した頃には、1月17日の早朝5時に発生した阪神淡路大震災をNHKテレビの朝のニュースで知ったとか、3月20日には世界初の大量破壊兵器による都市型テロのオウム・地下鉄サリン事件が起こっても、「破壊防止法」の適応には絶対に反対したとか、危機管理能力ゼロという日本の実態を世界に広く知って貰うには最適任者ではありましたが、虚仮の一念で『村山談話』を置き土産にしたのは実に迷惑な話でありました。勿論、北朝鮮問題の解決にはまったく貢献などせずに辞任して行ったのでした。


10月21日、米朝基本合意に調印。クリントン大統領から金正日書記に軽水炉の建設保障の書簡が送られる。NPT復帰・軽水炉完成前に燃料棒搬出・連絡事務所の相互設置・軽水炉建設支援・重油提供
この年の秋、日本政府に対してコメ支援を要求。

■カーター元大統領と同じ民主党出身のクリントン大統領ですから、北朝鮮のソフトランディングを無定見に考えていたようです。退任後にも失政を笑われたり怒られたりして可哀想なところも有るのですが、日米経済摩擦とモニカ嬢との「不適切な関係」に精力を使い過ぎたようです。最近になって「ビン・ラディン暗殺許可を出していた」と必死の形相で自己弁護したそうですが、その言葉を最も真面目に聴いたのは、おそらく金正日将軍だけではないでしょうか?稀代のテロリストとして暗殺されるか、サダム・フセインのように首都を焼け出されて自慢の地下要塞の中で拘束されて「裁判」に引き摺りだされるか、KEDOが成立した頃が、自分の人生最良の日々だったなあ、と回想しているかも知れませんが、現在の米国政府はその後始末で大変です。


1995年3月9日、日米韓が朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)の設立協定に調印。

■日本は2006年に機構が解消されるまでにKEDOに対して500億円を拠出してしまっています。相手が相手なので、それを回収など出来るとは誰も思っていません。この資金も、一体、何に使われたのやら……。


3月28日、連立与党代表団(自民党の渡辺美智雄、社会党の久保亘、さきがけの鳩山由紀夫各団長)が訪朝。

■金丸訪朝団の「尻拭い」を早急にしなければならなかったのですが、『3党合意』という「戦後の償い」が書き込まれたアホな文書を巡って「無効だ!」と怒る自民党に対して、「有効だ!」と頑張る社会党が連立内閣を組んでいたので派遣が決らなかったそうです。そんな馬鹿馬鹿しい口喧嘩を棚上げする絶好の条件が有りました。それはコメだったようです。金丸訪朝団の日本での評判が最悪だというのは北朝鮮にも伝わっていて、もう都合の良い金づるにはならないと見切りを付けていたようですが、偽札で誤魔化せる現金とは違って深刻な食糧危機を迎えていた北朝鮮は、加藤紘一という中国とも韓国ともパイプを持っている農林族議員を一本釣にします。

■毎年保管料に50億円もかかる、古米古古米やら93年度のコメの不作で緊急輸入したものの、悪評高くて売れ残っていた外国産米を持て余していた日本と、一粒でも多くコメ支援が欲しい北朝鮮の利害が一致したのです。しかし、韓国の金泳三大統領が「同胞の支援は自分たちがやる」と頑張っていたので話がまとまりませんでした。北朝鮮はKEDOが動き出したので米朝の直接交渉を始めようと韓国の頭越しに動き出していたので、金泳三大統領は「自分も加えろ」と邪魔をしていたので、北朝鮮は頭を下げてコメを乞うわけには行かなかったのでした。加藤紘一議員は韓国側と交渉して共同で援助する話をまとめるのですが、北朝鮮とのパイプ役をしたのが後に脱税で逮捕された秘書の佐藤三郎だった事や、米価の逆ザヤで生ずる差額の行方など疑惑は指摘されたものの、北朝鮮へのコメの援助という土産はできたのでした。



北の原爆50年史 其の参拾六

2006-10-23 12:22:15 | 歴史
■「7人の首相に仕えた」官房副長官として有名な石原信雄さんが『官かくあるべし』という本に書かれていますが(小学館文庫P
212~)、1999年5月に成立した『新ガイドライン』までこの問題は解消されないままだったのでした。


……実は官房副長官として首相官邸にいたとき、私は有事対応の問題できわめて衝撃的な体験をしている。それは1993年~94年に北朝鮮の核開発疑惑が国際的な緊張を引き起こしたときのことだが、もし朝鮮半島に異常事態が発生した場合に備え、政府としても緊急対策案を用意しておく必要があるということで、官邸スタッフを集めていろいろ検討した。ところが、調べてみてわかったのは、有事の際には具体的にどんなかたちで、どこまで米軍に協力できるかについて明確な基準がまったくないということだったのである。初めてそのことを知って、私は大きなショックを受けた。

■「憲法9条が有ったから日本は戦後、一度も戦争をしなかった」などと言うオカルト話を信じ込んでいる多くの国民は、四半世紀も北朝鮮の拉致事件を知らされず、半世紀もの間、北朝鮮の核武装計画に気付かずに過ごして来たわけですが、拉致被害者に対して最も冷酷だった日本社会党が核疑惑問題に関しても能天気な自論に執着していた事実は忘れては行けません。「地上の楽園」伝説を投げ捨てて現実的な「周辺有事」を考えるのが政治家の使命なのですが、政治家ではない国会議員がうようよしているのが日本という国のようです。『新ガイドライン』に盛り込まれた「周辺有事」への対処方法に①補給や輸送などの後方地域支援、②米兵などの捜索と救援、③自衛隊による警戒監視・機雷除去の3項目が明確に書かれています。

■能天気だったのは日本ばかりではなく、韓国の金泳三大統領も米国政府からの打診に対して「民族最優先」という奇怪な自論を主張して北朝鮮を擁護するような事を言い続けたので、クリントン大統領は仰天してしまったそうです。金泳三さんは最近まで日本の早稲田大学で「国際政治」の講座を持っていたと聞きますが、一体、何を教えて下さったのでしょう?その韓国でも「核実験」の一報が入った途端に北朝鮮の旗を燃やしたり盧武鉉退陣要求のデモが起こっています。なかなか付き合い難い国のようです。お話は再び94年当時に戻ります。


3月31日、安保理は4月末を目途に査察の完全受け入れを求める議長声明を採択。
4月7日、北朝鮮は最高人民会議で「経済制裁を加えたら朝鮮半島は戦争の坩堝となり核戦争が起きる」と発表。
4月8日、IAEAは北朝鮮に対して前回の査察で拒否された施設への追加査察の受け入れを求める。
同日、日本では政治資金疑惑で細川首相が辞意を表明。
※4月28日、社会党が連立を離脱して少数与党の羽田孜内閣発足。6月25日に社会党の復帰が見込めず総辞職。

■「核戦争」の予告が行なわれたと言うのに、同じ民族に向って使うはずは無いと信じ切っている韓国には当事者意識がまったく無く、日本は戦後の気楽な丸腰生活のぬるま湯ですっかりふやけていたのを見透かしていた北朝鮮は、米軍の攻撃は無い、と踏んで更に強硬な姿勢を示します。5月8日には燃料棒の抜き取り作業を開始してプルトニウム型原爆を製造するための再処理の意志を示し、それに対して、6月10日にIAEA理事会が北朝鮮への制裁決議を採択しても動じること無く、6月13日にはIAEA脱退を表明して核武装の意思をますます明確にします。既に攻撃オプションを失っていたクリントン大統領は万策尽きて、6月15日にカーター元大統領を特使として平壌に送り、金日成主席と会談させるしか無かったのでした。

■カーターさんは大統領だった頃に「ボーイスカウト」と悪口を言われた弱腰の外交下手だった人でしたが、民主党内の長老としては彼しか候補者が居なかったのでしょう。してやったり!と金日成主席は天にも上る気分で、カーター元大統領を熱烈歓迎したことでしょう。カーターさんは大統領時代に韓国に駐留する米兵達が家族と離れているのは可哀想だ、との優しい気持ちで軍関係者の妻子を「休戦状態」の韓国内の米軍基地内の居住区に住まわせるという勘違いをしてしまったのでした。家族連れで全面戦争や核戦争をする者は居ませんから、当時の金日成はカーターさんが大好きになったはずです。
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北の原爆50年史 其の参拾伍

2006-10-23 12:21:59 | 歴史

9月25日、韓国外相が「北朝鮮の弾道ミサイルに対抗する戦域ミサイル防衛計画を話し合う日米協議に韓国も参加する意向」と発言。
10月1日、IAEA総会で核査察拒否の北朝鮮に対する憂慮表明を決議。北朝鮮とリビアが反対し中国など11カ国が棄権。
10月13日、韓国国防白書で「1983~88年に北朝鮮は起爆装置の実験を70回以上実施」と発表。
11月1日、国連総会で北朝鮮にIAEAの核査察受け入れを促す決議をするが、北朝鮮は拒否。
11月11日、米朝関係改善と核問題の解決の「一括妥結方式」を発表。
12月24日、ガリ国連事務総長が訪朝。
12月29日、米朝実務者協議で4項目一括同時解決で基本合意。

■この年、実は北朝鮮では核開発に回す資金が完全に枯渇していたのでした。必要不可欠な部品や燃料が不足し、開発に従事していた者達も生活が困窮して職場から貴重な品物を盗み出して売り飛ばしていたという話まで出ているようですし、あまつさえ、ウラン粉末まで何処かに密売していた馬鹿者まで居たという話まで有るようです。

1994年1月25日、核実験全面禁止条約(CTBT)交渉開始。

■米ソという核兵器の超大国が過剰な核兵器を削減する二国間交渉を重ねている間に、1959年12月1日には南極での核実験や放射性廃棄物の処分禁止を定めた「南極条約」に日米英など12カ国が調印し、1967年2月14日には中南米核兵器禁止条約(トラテロルコ条約)でカリブ海と中南米大陸を非核化が決定し、1971年2月11日の海底非核化条約、1985年8月6日の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)という具合に過去の植民地で勝手気ままに核実験などは出来なくなって行き、とうとうCTBTまで漕ぎ着けたというわけです。しかし、この段階で核武装が終了している国々と密かに核開発を進めていた国々との間に残っていた対立が表面化することにもなりました。


2月15日、深刻済み各施設7箇所の核査察受け入れをIAEAと合意。 2月23日、IAEAが北朝鮮に月内査察の受け入れを要求。
3月15日、IAEA査察官の引き揚げを決定。
3月16日、IAEAは「放射化学研究所の査察が拒否され核物質の軍事転用の有無は確認出来なかった」と発表。
3月19日、南北実務協議の模様を韓国でテレビ放映。北朝鮮の朴英洙首席代表が「ソウルは遠くない。戦争が起こればソウルは火の海になる」と発言。



3月20日、日本の細川首相が北京で李鵬首相・江沢民主席と会談し、「北朝鮮の核問題は国際社会の忍耐も限度に近付きつつある。日米韓中の連携が大事」との考えで合意。米政府は緊急国家安全保障会議を開催し、21日までに変化が無ければ米韓合同軍事演習を再開し、パトリオットミサイルの配備計画を検討する韓国との協議を確認。
IAEAは「核物質の軍事転用が無いことを確認できない」として、北朝鮮の核査察問題を国連安保理に再付託。

■この頃米国は北朝鮮に対して海上封鎖の実施と、空爆プランを策定していました。日米安保条約との関連で、米国政府は日本に「事前協議」を持ち掛けます。冷戦終結後、唯一の超大国となったとは言え、米国一国だけでは軍事行動に移るのは困難なので、是が非でも日本の支援が必要なのが実情だったのです。クリントン政権は日本政府に対して、経済制裁→海軍による臨検→海上封鎖→空爆と続く一連の北朝鮮に対するプランを示した上で、日本の自衛隊の各部署に臨む支援内容を列挙したリストを示したのだそうです。細川内閣は「憲法の許す範囲内で経済制裁に協力する」とは答えたものの、米軍が期待した内容とは程遠い貧弱なものだったのでした。

■細川内閣の対応を制約したのは非自民勢力の結集という、出来損ないのガラス製パズルのような野合体質、特に社会党を組み入れていた事が最大の障害になったのでした。米国の行動計画は国連安保理での経済制裁決議案が北京政府の拒否権行使によって頓挫すると先読みした上で、日米韓の三国によって国連決議無しで行なうという前提で書かれていました。閣内で社会党を説得しようとしたようですが、駄々っ子のように「国連決議」に執着したばかりか、北京政府の拒否権発動を織り込んだ米国の制裁プランに対して「中国の参加」を主張して譲らなかったそうですから、呆れてしまいます。

■闇献金疑惑で突如として政権を放り出した細川首相の後を継いだ羽田内閣でも、米国と連携しての対北朝鮮制裁プランは話し合いが続き、どうやらこの北朝鮮問題が原因で社会党は連立から離脱して羽田内閣を史上最も短命な内閣にしてしまったと思われます。米国が日本に求めた事項の中には、臨検や海上封鎖に対して北朝鮮側が武力による反撃をして来た場合に、新潟などの日本海側の港湾に入って補給や修理を受けられるか?というような具体的なものが多数含まれていたのですが、当時の法律では各地方自治体の首長に判断が任されていたので政府としては何も言えない仕組みになっていました。結局、日本はまったく頼りにならないと分かった米国は北朝鮮に対する強硬態度を改めざるを得なくなるのです。


北の原爆50年史 其の参拾四

2006-10-23 12:21:48 | 歴史

5月29日、ノドン1号を日本海で発射実験。翌30日にも試射。

■米朝高官会談を4日後に控えていたこの時期に、北朝鮮は能登半島沖350キロに着弾させました。ノドン1号の射程は1000キロと言われていますから、その半分の500キロだけ飛行したことになります。これは燃料を半分だけ注入していたのではなく、飛行弾道を高く設定して高高度から落下させる実験だったと考えられます。この方法だと落下速度が上がるため迎撃が困難になるのは当たり前の話です。更に、発射地点の咸鏡北道清津から着水地点を結んだ線を、そのまま真っ直ぐ伸ばせば首都東京に達します。ノドン1号の射程1000キロでは長野県か群馬県にしか届きませんが、弾頭を小型軽量化したり新型ロケットを開発すれば充分に東京を狙えるわけで、間も無くそれが実現することになりました。


「日本当局者が、過去の清算もしていないのに当方の交戦対象の一方であるアメリカの側に立って無分別に行動すれば、朝鮮半島を含めた地域で予測できない悪結果を招くことになり、そうなれば日本も決してそこから逃げられないことを知るべきである」

■これは4月9日に北朝鮮外務省が発表していたステートメントです。「アメリカの側に立って」と言われても、日米安全保障条約が歴然と存在しているのですから、これは無理無体な発言です。それを承知で日米両国の間に楔を打ち込むには、米国が日本を見捨てるぞ!と感じさせねばなりません。米国は飽くまでも「交戦対象」になっている事はどれほど強調しても足りないくらいで、受けに回っている北朝鮮は常に米国に対してプレッシャーを掛け続けていないとあっと言う間に占領されてしまうと恐れていますから、面と向かって米国に対する攻撃を予告するわけには行きません。その身代わりにされているのが平和憲法を抱いて丸腰で立っている日本というわけです。

■そして、6月2日に米朝がNPT脱退問題に関してニューヨークで第1回の高官会談が開かれました。ガルーチ国務次官補と姜錫柱第一外務次官の間では、とうとう「核査察」の再開はまとまらず、何と互いに「核兵器を含む武力行使や脅威を与えない保証」を確認しただけで終ったのでした。クリントン政権は明らかにノドン1号の発射実験を深刻に受け止めて「触らぬ神に祟り無し」と判断した事が分かります。ミサイルが飛んで来たというのに、日本の国会は「政治改革」の空騒ぎを続けて、6月18日には、宮沢内閣不信任案が可決されて衆議院が解散となります。国家の安全保障を誰が考えていたのでしょう?


6月11日、米朝第4回協議で「北朝鮮はNPT脱退」の棚上げを共同宣言。
7月14日、米朝交渉第2ラウンドがジュネーブで始まり19日まで継続。
7月19日、米朝が軽水炉転換支援と引き換えに「北朝鮮とIAEAの交渉再開」に合意と新聞声明。

■元々、政権発足当時から東アジアの専門家は少なく、朝鮮半島情勢に詳しいスタッフは皆無だったと言われるクリントン政権は、「日米構造協議」を開いては日本イジメをして日本の富を奪うことばかりに熱心でした。このKEDO発足へと進む頃のクリントン大統領は、ソマリア出兵の後始末に失敗し、ホワイトウォーター事件と呼ばれる土地開発に絡む不正融資疑惑の対応に追われていたのです。面倒な事を避けて最悪の選択をしたと言って良いでしょう。日本も米国の事をとやかく言えた義理ではなく、8月9日に細川護煕内が閣発足します。田中角栄の草履取りだった御公家さんの血を引く元熊本県知事の細川さんが、何故かその血統だけで人気者になったのでした。


8月13日、IAEA作業班が北朝鮮の協力体制が不十分と不満を表明。
9月14日、米下院公聴会報告書で「新型ミサイル発射実験の際に発射現場にイラン代表団が居た。射程2000キロのノドン2号も開発中」と指摘。

■これは5月29日の発射実験の事を指しているのですが、ノドン2号は射程1300キロとも2000キロとも言われる優れもので、2003年には北京政府の仲介でイランに100発出荷され、イスラエルは完全にミサイル攻撃圏内に取り込まれてしまいました。こんな大変な事態になっていたのに、細川政権時代の記憶の中に外交面での動きがまったく残っていないのは何故でしょう?
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北の原爆50年史 其の参拾参

2006-10-23 12:21:31 | 歴史

3月9日、中国がNPTに加盟。
4月8日、仏ミッテラン大統領が核実験凍結を発表。
8月3日、フランスがNPTに加盟。
8月24日、韓国と中国が正式に外交関係を樹立。
10月2日、ブッシュ米大統領が96年10月以降の核実験全面禁止法案に署名。

■フランスが最後の地下核実験終了を宣言するのは96年1月29日のことです。シラク政権になってから95年9月から翌年の1月まで、6回の地下核実験をムルロア環礁で行なった後の事でした。この時にはグリーン・ピースの監視船が爆破されたり、世界中で反対運動が盛り上がったり大変でした。日本のムーミン・パパ武村正義議員もしゃしゃり出て海外にまで出掛けて反対デモに参加したものです。しかし、95年9月のフランスによる核実験は、同年5月と8月に行なわれた中国の42回目の地下核実験に対抗するためのものだったのです。不思議に中国の実験に対するデモ行進には日本の政治家は参加していないのでした。

■それはともかく、この頃は米ソ冷戦の終結で欧米諸国はこぞって平和な時代が来ると信じて核兵器の軍縮に向って動いていたのです。しかし、北朝鮮がソ連のミサイル技術者60人をスカウトしようとして朝ロ間で大問題となったのが10月のことでした。


11月5日、北京で第8回日朝国交正常化交渉。李恩恵問題で交渉決裂。
12月10日、朝鮮労働党中央委員会総会で、金日成が金正日に政策決定権を全面的に委譲すると発言

核軍縮に向うかと思われた92年でしたが、拉致問題が徐々に外交課題になり始めて日本からのカネが手に入らなくなる北朝鮮にとっては非常に困った状態で年が暮れたのでした。


1993年1月3日、米ロが第2次戦略兵器削減条約(START2)調印。配備核弾頭数を3500発以内に制限するも未発効。
2月9日、IAEAが北朝鮮に対し、未申告だった寧辺周辺の核廃棄物関連施設への特別査察を要求したが北朝鮮は受け入れを拒否。

■この頃、金正日が訪中する予定だったのですが、小平と楊尚昆国家主席との直接会見を求めて拒否されています。親分の中国にも見限られ始めていた北朝鮮は、世界の流れに逆行する「ならず者国家」と見られ始めていたのに、日本政府はその国際世論を利用しようとはしませんでした。


2月25日、IAEA理事会特別査察要求決議を採択するが、北朝鮮は拒否。同日、金泳三大統領就任。
3月8日、米韓合同軍事演習チームスピリット再開。北朝鮮は全土に準戦時態勢を布告。
3月12日、北朝鮮がNPT脱退を表明。

■この突然の脱退表明の裏にはイランとの密約が有ったとの情報が有ります。北朝鮮からプルトニウム生産技術と核爆弾をイランに提供する見返りに、ミサイル開発資金として5億ドル(580億円)をイランが供与するという話です。この脱退表明の2日後の3月15日、「統革党」の後継団体と言われる「韓国民族民主戦線」から脱退を支持する声明が出ています。「アメリカ帝国主義反動勢力を痛打した痛快な爆弾であり、自主性を志向する朝鮮同胞と世界の被抑圧人類に勝利の信念を与えた痛快な歴史的宣言である」と言うのですが、この組織の実態は無く、韓国から拉致された人物をアナウンサーにして北朝鮮側が放送している謀略ラジオ放送だそうです。

■「ソウルの地下放送局」を自称する短波放送は1970年代から始まっていましたが、ソウル五輪が近付き北朝鮮が南北共催を提案していた85年に「革命党」の名前を棄てて「民族民主戦線」に換えたのは、ベトナム戦争の影響も有るのかも知れません。北朝鮮からの「民族」メッセージが放送され始めると、ソウル市内で短波ラジオが大量に売れ始めたそうですから、学生達が熱心に耳を傾け始めたと思われます。激しく揺れ動く韓国の世論を正確に読み取るのは至難の業と言われますが、執拗なプロパガンダも一発の核実験ですべて無駄になるという事は今回はっきりしたのは怪我の功名かも知れません。


4月7日、最高人民会議で「経済制裁を加えたら朝鮮半島は戦争の坩堝となり核戦争が起きる」と決議。金正日書記が国防委員会委員長に就任。『祖国統一のための全民族団結10大綱領』発表。
4月24日、朝鮮人民軍創建61周年中央報告会で、崔光参謀総長が「集団的制裁を加えれば効果的自衛的措置を取らざるを得ない」と発言。
5月10日、米朝両国が第33回参事官接触で高級会談の実施に合意。
5月11日、国連安保理が北朝鮮にNPT脱退の再考とIAEAの査察受け入れを求める勧告案を可決。(中国代表は棄権)

■韓国は経済成長だけを考え、中国が北朝鮮を庇うという不自然な構図がこうして作られ、極最近までそれが存続していました。

北の原爆50年史 其の参拾弐

2006-10-23 12:21:19 | 歴史

1992年1月7日、北朝鮮がIAEAの査察受け入れを表明。
韓国が米韓合同事演習の中止決定。
1月22日、ニューヨークでカンター米国務次官と金容淳朝鮮労働党書記が初の高官会談を開催。
1月30日、北朝鮮がIAEAとの核査察協定に調印。同日、北京で第6回日朝国交正常化交渉。

■北朝鮮が米国のご機嫌を取り、日本がカネを出し、中国を手本にして北朝鮮が本気で非核化に向って動き出してくれれば万々歳だったのですが、既に最後の切り札は核爆弾しか無い状態に追い詰められていた飢餓の北朝鮮が態度を変える事は不可能でした。


4月3日、第2回国際原子力供給国会議で、数値制御工作機械など核兵器開発に利用可能の関連機器65品目の輸出規制を決定。

■こうした規制がまとまったのは、米ソ冷戦が終った事が大きな理由なのでしょう。既に核兵器の拡散は始まっていて、米ソ両陣営の代理戦争ではなく、独自の理由で紛争を起し核武装を進める国が現われていたのですから、NPT体制などは絵に描いた餅だったのです。ココム規制が存在していた冷戦時代でさえも、80年代には北朝鮮から大量の「ココム違反製品」の注文が日本に押し寄せていた実態が明らかになっていますし、この92年の規制でも止められない「人材」の流れも存在します。佐藤勝巳著『北朝鮮「恨」の核戦略』(93年光文社)にも引用された『諸君!』90年5月号に掲載された麻生惣一郎氏の「在日本朝鮮人科学技術者協会」に所属する技術者リストには慄然としたものを感じます。


科協専門委員会委員長=東大生産技術研究所・文部技官、核融合、素粒子加速器用真空計の研究。
科協東京支部長=東大生産技術研究所・文部技官、生体化合物の研究。
科協東京支部常任理=東海大講師、制御工学。
科協神奈川支部会長=東大生産技術研究所・特別研究員、土木工学。
科協東京支部副会長=東工大・研究生、汎用高分子材料の研究。
科協研究部長=東大農学部特別研究員、バイオテクノロジー。
科協副会長=エンジン開発の日本企業幹部。層状掃気方式新エンジンの開発。
科協京都支部副会長=京大医学部高分子研究センター研究員。

■これはちょっと古い資料なのですが、『正論』06年4月号には「謎の組織科協に迫る」という詳細なレポートが掲載されていまして、在日の研究者達に「民族と祖国」をキーワードにした「交流」を促進させる仕組みと歴史が詳細に書かれています。下手をすると、日本の資金と知識と技術が北朝鮮の核とミサイルを生み出した可能性さえあると思うと、何も知らずに核実験に怯え、明日にでも核弾頭付きのミサイルが飛来するのではないか?と不安になっている日本列島の住民が愚かに見えて来ます。日本の反核運動を分裂させた「良い核兵器」と「悪い核兵器」の奇怪な区別が、こうした事態を生んだようなものですが、たとえ「良い核」がこの世に存在するとしても、日本に飛んで来た核兵器が炸裂した時にもその信仰を守り通せる人がどれほど居るのかはなはだ疑問ではあります。

■在日同胞の中から優秀な人材を「祖国と民族」のために勧誘して危険な兵器の開発を進める北朝鮮は、日本人科学者にも触手を伸ばしてさまざまな好条件を提示して招きいれているのも事実のようです。86年には宇宙工学の権威だった糸川英夫、87年には原子物理学の権威だった伏見康治、都内有名私立大の大学院で巡航ミサイル誘導装置に関連する自動制御装置を研究していた日本人などが、招聘されているそうです。


5月4日、IAEAに「当初報告」を提出。
5月11日、IAEAのブリクス事務局を代表とする査察団が訪朝。
5月13日、北京で第7回日朝国交正常化交渉。
5月14日、原子力工業局長が「ごく少量のプルトニウム抽出をしたが、核燃料サイクルのデータ収集のため。再処理施設は無い。抽出実験も今後しない」と発言。
5月25日、北朝鮮への特定視察を開始し、93年2月まで計6回実施。
5月、IAEAのブリックス事務局長が「北朝鮮の核疑惑施設は稼動すれば核燃料再処理施設と呼べる」と発表。

■こうして併記してみると、IAEAが疑惑を強めているというのに、日本政府は無頓着に国交交渉を続けている様子が分かります。国民の多くは北朝鮮の核開発に関してまったく知らされていなかったのですから、突然の核実験に右往左往するのは仕方が有りませんが、それが国際社会を生き抜く世界第2位の経済大国とは、実に情けない話であります。国力に見合う外交能力が無いこと以上に、世界情勢をしっかりと国民に伝えるマスコミを持てないのが、日本国民の最大の悲劇なのかも知れません。
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北の原爆50年史 其の参拾壱

2006-10-22 13:55:05 | 歴史
■翌1991年の1月から、旧ソ連との貿易決済がバーターからハードカレンシーでの現金決済に変更されて外貨不足の北朝鮮は絶対絶命となる運命でしたが、ドン金丸の太っ腹外交?で現金の手当てが付きそうになった北朝鮮は、この年に弾道ミサイル・ノドン1号の開発を開始しています。金丸さんは防衛庁長官時代に、進水した最新鋭護衛艦に「しらね」という自分の選挙区にある山の名前を付けてしまった人ですから、ノドン・ミサイルにも選挙対策用に地元山梨に由来する名前でも付けて貰えば良かったかも知れませんが、そんな事にならずに済んで地元の人達にとっては良かったですなあ。後に刻印無しの金の延べ棒6億円分が自宅金庫から発見されて、川砂利・海砂利・スケトウダラ・中古電話交換機・各種土木工事などなど膨大な「利権」を独占しようとしていたと黒い噂まで吹き上がった金丸訪朝団でしたから、日本にとってはとんだ疫病神でしたが北朝鮮にとっては光り輝く福の神でした。

■当時、北朝鮮の貿易総額の6割を占めていた旧ソ連との貿易がドルか円でなければ決済出来ない事になって、原油の輸入量は10分の1に減少し、旧満洲の吉林省などに居住する朝鮮族10万人が北朝鮮国内で飢えている親族に食糧を運び込み、17万人の朝鮮族行商人が商売に入ったと言われています。この巨大な交流の中で北朝鮮国内の惨状が外部に漏れ出し、国内にも吉林省や韓国の経済発展の実情が伝わることになります。旧ソ連に見捨てられた金日成にとって、金ズルの筆頭候補になったのは日本でした。前年の90年9月に金丸訪朝団を取り込むのに失敗した金日成は、正式な外交交渉を始めます。


1月30日、第1回日朝国交正常化交渉が平壌で開かれる。中平立大使・田仁徹団長
3月11日、第2回日朝国交正常化交渉が東京で開かれる。
5月15日、日本の警察当局が「李恩恵」の身元確認と発表。
5月20日、第3回日朝国交正常化交渉が北京で開かれる。

■この段階で、国交正常化=過去のお詫び=1兆円の現金という皮算用と、拉致事件の解決と言う悩ましい問題が絡まり始めるわけです。日本の外務省内にも、国交正常化を急いで達成するためには拉致問題は棚上げして事務手続きを進めようとする人達が居ました。すべては日本人が70年代から拉致されているという実態を等閑に付していた間抜け振りが最後まで外交交渉を混乱させたのでした。


7月31日、米ソが第1次戦略兵器削減条約(START1)に調印。ICBMなど運搬手段1600基、核弾頭6000発以下まで7年掛けて均等に削減。
8月31日、第4回日朝国交正常化交渉がまた北京で開かれる。
9月17日、韓国と北朝鮮が国連に同時加盟。
9月27日、ブッシュ米大統領が韓国を含めた海外米軍基地からの「戦術核撤去宣言」を発表。

■米ソ間の冷戦が終結し、全面核戦争の危機も不要になったので管理と整備に莫大な費用のかかる核兵器はさっさと撤去して少数の貯蔵所に入れて置いた方が良いに決っています。戦術核ならば航空機からいつでも放てますし、原子力潜水艦から発射されるSLBMが核戦略の中心になっているのですから、朝鮮半島に威嚇目的で置いておくのも無駄になったという事です。しかし、日本政府からの救援食糧でさえも「お詫びの印」と言う北朝鮮ですから、翌92年2月20日の国営『朝鮮通信』は「朝鮮半島非核化をめざす戦いで収めた輝かしい勝利」と報道したそうです。半島の「非核化」には北朝鮮の核独占体制という恐ろしい前段階が有る事を隠し通すのは呆れるばかりです。


11月5日、宮沢喜一内閣発足。
11月18日、北京で第5回日朝国交正常化交渉。
11月21日、米韓安保協議で北朝鮮の核開発疑惑解消まで在韓米軍撤収の第2段階凍結を決定。

■この時の共同声明は「北の核開発はアジア最大の脅威でありあらゆる手段を追求して阻止を図る」という断固とした内容だったので、金日成は震え上がったようです。軍事衛星で核開発の詳細を把握していた米軍は本気でした。この安保協議では、戦術核を引き上げる代わりに、湾岸戦争で有名を馳せたステルス戦闘爆撃機・パトリオット迎撃ミサイル・トマホーク巡航ミサイル・空中警戒管制機(AWACS)のフル装備を韓国に配備して、武力で北朝鮮の核開発を阻もうと言う話まで出ていたそうです。

■金日成は地下貯蔵庫と核燃料再処理工場を結ぶパイプを地下に埋設する工事を開始する一方で、盧泰愚大統領を平和共存のパートナーに祭り上げて南北間の政治交渉をしようと盛んに動き始めます。ブッシュ大統領が本気で北朝鮮に対する先制攻撃を企図していることを知った盧泰愚政権は、金日成体制の崩壊後の「大量難民の発生」を本気で心配していたので、南北は奇怪な意見の一致を見ることになりました。共同で米軍の攻撃を阻止しようとしたというわけです。


12月13日、第5回南北首相会談で「南北間の和解と不可侵及び交流・協力に関する合意書」に署名。
12月24日、金正日書記を人民軍最高司令官に推戴。
12月25日、ゴルバチョフ大統領辞任。ソ連邦消滅。
12月31日、韓国と北朝鮮が「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に合意。

■金正日書記が朝鮮人民軍の最高司令官に就任して間も無いタイミングでこの『共同宣言』が合意されました。その内容は互いに「核兵器を生産しない」「核エネルギーを平和目的のみに使用」「核再処理施設とウラン濃縮施設を保有しない」というウソの羅列なのですが、そのウソを本当に変える切り札となるはずだったのが相互査察でした。しかし、「相手が選定し双方が合意した対象について、南北核管理共同委員会の規定した手続き方法で行なう」という取り決めなので、片方が合意しなければ査察など出来ないという馬鹿馬鹿しいものでした。それでも、南北対話が進展するのは好ましい事と国際社会は歓迎したので、米国は単独で北朝鮮を攻撃する機会を逸してしまいました。


北の原爆50年史 其の参拾

2006-10-22 13:54:33 | 歴史

9月24日、金日成主席が金丸・田辺両代表に「核開発の意志も能力も無い」と発言。

悪名高い「金丸訪朝団」の暴走外交事件です。この田舎芝居みたいな外交使節団は、金丸信という浪花節好きの老人の妄念から生まれたようなものです。選挙区が同じで国会内の「根回し」仲間でもあった社会党右派の田辺誠さんが、金日成の使い走り役になって猿回しを演じた国際的な喜劇で、勿論、主役は誰が言ったか「自民党のドン」の金丸さんでした。

■この唐突な訪朝は、混乱していた日本の国政から浮かび上がった面があります。史上空前の大勢力になった田中角栄の派閥は「軍団」と呼ばれるほどの鉄の団結を誇っていたのですが、ロッキード騒動の中で竹中登が親分の復活を待たずに独立して独自の派閥を作った事から内紛が起こります。金丸は竹下を総理にすると腹を決めていたので大嫌いだった中曽根さんの助けを借りてでも、後継総裁の指名を得て竹下登内閣を誕生させたのが87年の11月6日です。発足して半年でリクルート事件が表面化して消費税を導入しただけで竹下内閣は瓦解します。芸者さんの一言で政権を失った宇野宗佑内閣を挟んで、「帽子は軽い方が良い」と小沢一郎に言われた海部俊樹内閣が発足するのが89年の8月でした。

■首相になった政治家は必ず「歴史に残る業績」を考えるもので、外交面で何の仕事もしなかったように見える竹下首相も、実は北方領土の解決を自分の業績にしようとしていたのです。しかし、その交渉相手のソ連は瓦解して行く時期でしたから、領土を失うような交渉は不可能だったので、竹下さんは「それなら北朝鮮との国交を」と恐ろしい事を思い付いたのだそうです。竹下政権復活を画策していた金丸さんがその悲願を受け継ぐわけですが、浪花節大好きな金丸さんは、83年12月16日に発生した「第18富士山丸」事件の被害者・紅粉船長の奥さんからの陳情を受けていました。このトンデモない濡れ衣冤罪事件を解決する能力は日本政府には有りません。

■朝鮮労働党と「友党関係」を持っていた社会党は貧乏な政党でしたから、これをパイプに使って自民党と交渉して資金を手に入れようとした金日成から社会党の田辺誠に、「第18富士山丸」事件の解決という餌を付けた訪朝話が持ち込まれたのです。金丸引き込み計画には、後に大騒ぎになった「戦後45年分」の賠償が含まれていたようです。飛んで火に入る夏の虫とはこの事で、選挙違反・政党間談合・闇資金を政治の常道と信じ切っているような金丸さんを団長とする田舎芝居の一座は、自民党13名、社会党10名、両党関係者と政府関係者と報道陣36名、合計90名という税金の無駄遣いの標本のような大所帯でした。

■外交交渉・共同宣言調印という「生まれて初めて」の体験に、76歳の金丸爺さんはすっかり感動して正気を失ってしまいます。金丸さんは前月8月29日に北京を訪問していて、江沢民総書記と李鵬首相に熱烈歓迎された記憶が生々しく残っていたのも不味かったと思われます。山梨県人会の片割れ、田辺誠さんは金日成の忠実な下僕となって、交渉の現場から外務省の役人も日本側通訳も追い出して、お得意の「密談」の舞台を用意するのでした。何処かの料亭と間違えていたようですが、それが政治だと思い込んでいた世代の政治家だったのでしょう。自民党の誰かさんから高級料亭に招かれて、ただ酒を奢って貰うのが政治折衝だったのですから……。この田辺さんは貴重な交渉の機会なのに、拉致問題には一切触れなかったばかりか、金日成に核開発に関する疑惑をぶつける事も避けてしまったのでした。

■突然の訪朝話に驚いた米国政府から事前に情報がもたらされていたと言うのに、金丸さんが「本当に核兵器を製造しているか教えて欲しい」と口火を切ったのに、田辺さんは「飛鳥田委員長の時代に、労働党と北東アジア非核地帯の取り決めをしている。核は無いと確信している」と何処の国の代表なのか分からない暴言を吐いているのです。忠実な下僕の間抜けな発言に救われた金日成は「意志も能力も無い」と短い大嘘をついて話題は銭に移って行ったのでした。


9月30日、韓国とソ連が国交正常化。
10月9日、土井たか子委員長と自民党の小沢一郎幹事長が訪朝。
10月11日、第18富士山丸の紅粉船長ら2人が帰国。

■「日本政府は50億ドルと言うはずだから、そちらは100億ドルと言えば良い、そうしたら私が80億ドルに落ち着かせる」と金日成が泣いて喜ぶような大見得を切ったドンの金丸さんは、可愛い子分の小沢さんにも北朝鮮の熱烈歓迎を味わわせてやろうと思ったのでしょうし、田辺さんも土井たか子さんに花を持たせようとしたのでしょう。この二人が何をしに行ったのかというと、表向きは「労働党結成45周年」式典への出席なのでした。パチンコ文化人の土井さんは兎も角、小沢さんが労働党創立記念式典に出席していたのは汚点でしょう。この訪朝の本当の目的は別に有りました。小沢・土井コンビは第18富士山丸という謀略冤罪事件の解決に対して「寛大な措置をとられた朝鮮労働党と朝鮮民主主義人民共和国政府に深い感謝の意を表わします」との文書を残して来る事だったのです。こんな証文を取られてしまった小沢一郎さんが政権を取ったら、北朝鮮との外交交渉など出来るのでしょうか?
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北の原爆50年史 其の弐拾九

2006-10-22 13:54:15 | 歴史
■しかし、ルーマニアの崩壊は北朝鮮にとっては巨大で深刻な「他山の石」でした。全公民を「成分」によって核心階層(13層)・動揺階層(7層)・敵対階層(24層)の合計51層に分類して進学も就職も、勿論、衣食住も法的立場まで厳しく区別された北朝鮮で、核心階層の390万人は金親子に絶対の忠誠を誓っていると言われています。他国の侵略行為も謀略工作も無かったのに、たった6日間で崩壊したルーマニアの場合も、独裁者のチャウシェスクは80万人の「セキュリターテ」と呼ばれる洗脳戦闘集団を創設していたのです。この組織は無謀な「産め増やせよ」政策によって発生した膨大な孤児達をチャウシェスク夫妻の子供として養育して、死をも恐れぬ世界一の「親孝行集団」にして作られたと言われています。何だか、オスマン・トルコ帝国が持っていたキリスト教徒の幼い息子たちを強引に改宗させて帝国の戦士にしていた「デウシルメ」制度に似ていますが、幼児の段階から強烈な洗脳教育を施して独裁者好みの歪んだ世界観を植え付けるものでした。

■セキュリターテは万能の権力を付与されていて、200万人以上の協力者を作って全国民を監視して密告を奨励して、好き放題に逮捕・拷問・処刑を続けて全土を統制していたと言います。ところが、チミショアラという西部の小さな町で始まった反政府デモが鎮圧されず、21日には首都のブカレストに暴動が飛び火して22日にはチャウシェスク夫妻が国外逃亡しようとするまでの騒動に発展してしまいます。勝負を決したのは国軍の寝返りだったと言われていますが、特権階級を作って独裁権力の支持層としてそれ以外は飢餓状態に放置し、自分は20の宮殿・40の別荘・21のバンガローを全国の景勝地に建てて贅沢三昧を楽しんでいたのですから、建国以来抱え込んでいた民族対立と貧困層の怒りが合体したら、たったの6日間でルーマニアでさえも崩壊したのでした。

■北朝鮮とそっくり!と思える点が余りにも多く、その崩壊過程を徹底的に調べ上げた金正日将軍様は、軍隊の寝返りを防ぐ為に「先軍政治」に命運を賭けることを決心したようです。その軍部が求める圧倒的な兵器を手に入れる為には何でもしなければならなかったのでしょう。東欧諸国の社会主義政権が次々と倒れて行った89年に、北朝鮮でが寧辺近郊に建設された出力5000キロワットの黒鉛減速型原子炉が、IEAEの監視の目を逃れて70日間停止しました。この時に、反応炉内の使用済み核燃料棒を抜き取って再処理施設に運び込んだと推測されています。ここで抽出されたプルトニウムが06年10月9日に実施された核実験の材料とされたのだろうと言う専門家が多いようです。

■明けて1990年、日本では2月28日に第2次海部俊樹内閣が発足していますが、4月1日のエイプリール・フールに旧大蔵省が発動した不動産向け融資の「総量規制」一発で、日本中を燃え上がらせていたバブルの炎は一挙に鎮火してしまいました。


2月、北朝鮮の原子力工業部長がソ連を訪問して1箇月滞在。
4月、米国政府が「北朝鮮が核再処理施設を完成」と発表。
9月5日、第1回南北首相会談

■前政権の全斗煥との違いを強調する盧泰愚大統領は、国内の民主化を進める一方で、北朝鮮との南北共存路線を模索します。その最初の試みがこの南北首相会談なのですが、ここで韓国側が提案しているのが、①韓国内から米軍の核兵器を撤去、②チームスピリットの中止、③朝米高位級会談の実現、④南北統一問題は自主的に行なうという内容でした。①は冷戦終結を受けた米国の戦略変更によって自動的に実現し、②はブッシュ大統領の訪韓を受けながら、その帰国直後に突如として発表されて韓国の国際的な信用を失墜させてしまいます。③は92年1月の米朝高級事務会談によって実現しますが、何の実りも無いものでした。④は交渉を重ねて91年12月に『合意書』がまとめられることになるのですが、内容は北朝鮮の主張を全面的に盛り込んだものになっていました。


9月19日、韓国との国交樹立直前のソ連政府に対して『備忘録』を手交。

■「ソ連が南朝鮮と外交関係を結べば朝ソ同盟条約を自ら有名無実なものにすることになろう。……これまで同盟関係に依拠していた一部の兵器も自力で作る対策を講じざるを得なくなろう。これは朝鮮半島の軍備競争を激化させ、朝鮮半島の情勢を極度に先鋭化させよう。さらに進んでアジア太平洋地域の全般的な情勢を先鋭化するだろう」という内容なのですが、「一部の兵器」が核兵器を意味しているのは明らかで、要するにソ連が北朝鮮を見捨てて韓国と手を結んだら、ソ連も核兵器使用の標的になるかも?という強迫とも読めます。

■こんな窮地に追い込まれていた北朝鮮に、葱を背負って鴨が日本から飛来するのです。
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北の原爆50年史 其の弐拾八

2006-10-22 13:53:56 | 歴史

1989年1月1日、金日成主席が北南連席会議を提案。韓国側は拒否。
1月12日、北朝鮮が現状でのソウル五輪不参加を通告。
1月20日、米国が北朝鮮をテロ国家と認定し制裁措置を発表。
1月26日、日本政府は前年11月の大韓機事件を理由に北朝鮮への経済制裁を決定。ソ連政府は「北朝鮮の犯行とは認め難く、日本の措置は東西間の緊張緩和の空気に逆行」と非難。同日、香港の『ファー・イースタン・エコノミック・レヴュー』誌が「寧辺付近に核施設らしき物の存在」を報道。

■この頃のソ連と北朝鮮との、少なくとも表面上は親密だったことが分かります。既にソ連国内に受け入れていた軍人留学生達を次々と抱き込んでスパイに仕立て上げていたはずなのに、大韓航空機の爆破テロ実行を疑って見せるのは大した芝居上手とも言えますが、まだ世界中はサハリン上空での大韓航空機「撃墜」事件を忘れてはいなかったのですから、大規模テロと言えば社会主義陣営の仕業と思われるのが嫌だったのかも知れません。


4月、セマウル疑惑で実弟が逮捕され全斗煥全大統領が公職を辞任。4月26日、韓国総選挙で与党が敗北。

6月9日、韓国学生が板門店で南北学生会議を計画したが治安当局が実力で阻止。「米帝国主義と南朝鮮当局によって学生会談は実現しなかった。盧泰愚ファッショ党の反民族的な行為を対話・和解・統一に対する挑戦として、また民族の良心と人類の初歩的な倫理道徳までも忘れた妄動として烙印を捺す」と北朝鮮学生団団長のコ・ウンサン金日成総合大学学生が抗議文を発表。
7月7日、盧泰愚大統領が南北統一問題で北との人的交流推進・交易の門戸開放等の特別宣言を発表。

■民主化闘争の中には北朝鮮からの援助や指導を受けていた者も多かったようで、あんな国と休戦ラインを挟んで隣どおしなのですからなかなか国内事情は複雑なようです。日本でも社会主義に憧れた学生運動が盛んになった時期が有りますが、韓国はイエオロギー対立が分断された「民族国家」の問題となるし、韓国特有の歴史的な地域間対立なども絡んで来るので、日本からあれこれ解釈するのは難しいようです。ただ、金大中政権から盧武鉉政権へと継承された「太陽政策」が、一発の地下核実験で一夜にしてひっくり返るほど、政治に関する世論は不安定なのは分かります。

■韓国側から見れば、日本の政治状況は実に奇妙なものだと思います。「55年体制」などという奇妙な馴れ合い政治をだらだらと続けるばかりで、一体、何を考えて政策決定しているのやらさっぱり分からないでしょう。まして韓国は大統領制を取っていますから、日本の首相が6月3日に宇野宗佑になったかと思ったら、芸者さんの「指3本」で辞職に追い込まれて8月10日に第1次海部俊樹内閣が発足しているのですから、共に半島問題を話し合う相手としての信頼感などまったく無かったでしょう。


8月16日、板門店での南北学生会議がまた実現せず。
8月26日、南北予備会談で北朝鮮のソウル五輪参加が絶望的となる。
9月、フランスの民間衛星スポットが発電所の近くに大型建造物を発見。
9月9日、北朝鮮建国40周年報告大会開催。

9月16日、日本政府が大韓機事件に伴う北朝鮮への経済制裁解除を決定。
9月17日、韓国でソウル五輪開幕。史上最高の160カ国参加。

9月21日、国連総会の議題として朝鮮半島問題が13年ぶりに取り上げられることが決る。

10月18日、東独ホーネッカー議長退陣。
11月9日、ベルリンの壁崩壊。
12月2日、米ソがマルタ会談で冷戦終結を確認。
12月25日、ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻銃殺。

■ハンガリーが独自判断でオーストリア国境を開いたばかりに、鉄のカーテンに小さな穴が開き、そこから東ドイツ国民が西側への大行進を始めてしまったのが「ベルリンの壁」崩壊の序曲でした。事態の推移を世界中が見守っていたのですが、ドイツと同じ民族分断国家の韓国と北朝鮮とは、「明日は我が身」と思って各種の資料を掻き集めて必死で分析をしたのも無理は有りません。韓国の4倍というGDPを示していたドイツが、「東西ドイツ統一後には欧州随一のスーパーパワー」と恐れられていたのに、実際に統一してみたら東西間のあらゆる格差が埋まらず、短いお祭騒ぎが終った後はじわじわと経済負担の大きさに同情が集まるような事態になりました。

■これに心底怯えたのは韓国で、「漢江の奇跡」と称えられた経済力が北朝鮮の面倒を見る間に食い潰されてしまう!と青くなった経済人と政治家がたくさん居たそうです。面白いことに、一方の北朝鮮は案外に冷静で、東ドイツ軍が西ドイツ軍に吸収される過程での事務手続きを熱心に調べていたという話があります。いざとなったら韓国を身元保証人にして「どうぞ、宜しく」と言う心算かも知れません。東ドイツのホーネッカー議長も血祭りに上げられる事も無く、東ドイツは驚くほど穏やかに消滅して吸収されたのでした。


北の原爆50年史 其の弐拾七

2006-10-22 13:53:31 | 歴史
■1988年は6月からリクルート事件の騒動が始まっていよいよバブルの狂乱が終わりに近付いて行きます。。

1月15日、大韓航空機爆破事件の捜査結果発表。

■事件はソウル五輪への参加申請締め切りの1箇月前に起きました。バグダッド発ソウル行き、ボーング707型機の大韓航空858便がビルマ南方アンダマン海上空で115人を乗せて消息を絶ちました。経由地のバーレーンで下りた「蜂谷真一」「蜂谷真由美」の日本人パスポートを持っていた2人組みが容疑者として拘束され、マルボロに仕込んだ毒を飲んで男は死亡し女は自殺を邪魔されて逮捕されます。この2人は北朝鮮の工作員、金勝一と金賢姫と判明し生き残って韓国に護送されて来た金賢姫の口から「李恩恵」の名前が飛び出して、日本中が大騒ぎになりました。ここから日本中が反北朝鮮の運動が盛り上がったかと言うと、「三つ子の魂百まで」の諺通り、2002年9月の小泉訪朝に際して金正日将軍様の自白を聞くまでは「信じられない」と言い張ったマスコミ人が居たのは驚きでありました。


2月19日、福岡市内の貿易商社が79年から秋葉原で買い集めた大量の電子部品6000万円分を10回に亘ってスーツケースに隠して飛行機で北朝鮮に運び込んでいたことが判明。

9月5日、新潟西港で北朝鮮籍の「三池淵号」に積まれた27個のダンボール箱から、パソコンなどIT関連製品12品目・1372個・総額450万円分が発見される。これは在日朝鮮人商工連合会の副理事長が北朝鮮に住む親族用の荷物として積み込んだ物。

■マスコミがトボケた報道をしていれば、こういう不心得者が出て来ても仕方が無いかも知れません。後に拉致やらミサイルやらを理由にして経済制裁が発動されるのですが、北朝鮮側としては「欲しい物は全部貰ったぜ」と言いたかったのではないでしょうか?現金と高級食材が入って来ないのは賄賂政治には不都合のようですが、核とミサイルの開発に関する技術も部品も十分に運び込んでしまったでしょう。福岡や新潟で偶に摘発されたのは極一部の御禁制品でしたが、年に何回も新潟港に入港していた「万景峰号」はずっとずっとまともな積荷検査もせず、出迎えに行く朝鮮総聯の関係者などはフリーパスで船に乗ったり降りたりしていたそうですし、何が入っているのかさっぱり分からない大量のダンボール箱も中身は調べられなかったのですから、もしも金正日の独裁体制が崩壊でもしたら国内の軍事関連施設が公開されて、山のようなメイド・イン・ジャパンの御禁制品が山のように発見されるかも知れません。そうなれば、日本は消極的ながらも「テロ支援国家」だったと認定される可能性もあります。


12月17日、盧泰愚大統領就任。
12月24日、第18富士山丸船長等2人に教化労働15年の第一審判決。「我が国に対するスパイ行為を系統的に行い、日本情報機関の指令を受けて我が国の公民を拉致した」

■第18富士山丸は、大阪市の富士汽船という船会社が所有する冷凍貨物船です。定期的に日朝間を往復して日本製品を運んで行っては北朝鮮の海産物を積んで戻る仕事をしていましたが、83年10月に船内に潜んでいた亡命希望兵士1人に気付かずに帰国してしまい、困ったものの当局に届け出て人道的に処置した紅粉船長は、うっかり北朝鮮に再び向ってしまいスパイ容疑で逮捕されてしまったのでした。強硬な態度を取れない日本政府は、「事を荒立てない」「相手国を刺激しない」という独特の外交姿勢を貫いて、後の金丸訪朝団の悲喜劇を演じる事になるのです。それにしましても、日本の政府内に北朝鮮公民を「拉致」する指令を出せるような情報機関が有ったら、もっと「両国間の懸案」はさっさと片付いたのになあ、と考えてしまいます。
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北の原爆50年史 其の弐拾六

2006-10-21 09:10:23 | 歴史
1987年4月、第3次7カ年計画(~93年度)に「複数の原子力発電所の建設」を盛り込む。この年の秋、スカッド改B100発をイランに引き渡す。放射化学研究施設の建設を決定。

■「後悔先に立たず」とは言いますが、この段階で北朝鮮に対する熱心な調査と厳しい追及が行なわれていたら、今日の原爆騒動も無ければミサイルの乱射実験も行なわれなかったかも知れません。この時、拉致されていた横田めぐみさんはまだ22歳だったのです。


6月29日、民主正義党代表委員の盧泰愚大統領候補が民主化宣言で事態を収拾。
7月10日、全斗煥大統領が辞任表明。

■悪の権化のように報道されていた全斗煥大統領の辞任を、我が事のように喜び興奮して報道している日本の新聞も有りましたし、北朝鮮のことを忘れようとするかのように、韓国の民主化を祝う気分が玄界灘を渡って共有されていたような時代でした。まったく、知らないという事は恐ろしい事であります。


7月23日、北朝鮮が92年から双方の兵力を各10万人以下にするとの大幅軍縮提案を発表。

■遅ればせながら軍縮を真面目に提案して来たようにも見えますが、英国国際戦略研究所『ミリタリー・バランス』の数字を見れば、87年時点で「92年から10万人削減」というのは決して北朝鮮が宗旨替えして平和外交を始めたわけではない事が分かります。


年 度    地上軍     海 軍     空 軍
1972年   40万8000人    1万5000人   4万5000人
1984年   48万9000人    2万7000人   5万1000人
1993年   90万人      4万6000人   8万4000人

■金日成が「軍縮」を提案した時には、60万近くに膨れ上がっていた総兵力を更に2倍にしようと大軍拡をしている最中だったのです。2000年段階には総兵力で北朝鮮106万に対して韓国は68万という状態ですが、92年当時は北朝鮮側が韓国の兵力の2倍を軽々と越えていたのですから、そこから「10万人ずつ」減らそうと言うのは詐欺でしょう。この頃の日本では、11月6日に竹下登内閣が発足するまで、田中派の内紛劇が面白おかしく報道されていました。「ふるさと創生」などという変な政策が打ち出されて、全国の地方自治体全部に1億円をばら撒くという本家の北朝鮮の首領様が聞いたら羨ましがるような事も実行されました。日本は「バブル景気」の狂乱の中に入っていたのでした。


11月29日、大韓航空機がビルマ近海上空で爆発。
12月8日、米ソがINF全廃条約に調印。
12月15日、大韓航空機爆破犯人「真由美」の身柄がバーレーン政府から韓国側に渡る。
12月16日、盧泰愚大統領就任。

■大韓航空機の爆破テロ事件は、「犯人は日本人か?」の第一報が入って「すわ、よど号犯か?」と色めき立ったものでしたが、結局は北朝鮮の工作員の仕業であることが分かると同時に、日本から人やパスポートが盗み出されている事実が判明し、北朝鮮で工作員の為の日本人教育をしている日本人が存在している事も露見したのでした。日本はそんな恐ろしい話をバブルのお祭騒ぎの中で聞いていました。


北の原爆50年史 其の弐拾伍

2006-10-21 09:09:37 | 歴史
■ソ連はこうして抱き込んだ留学生を情報提供者や工作員に仕立て上げ、最優秀の成績を付けて卒業させて送り帰したものですから、何も知らない金親子は最新の軍事知識を手に入れたと大喜びでソ連帰りの留学生を参謀本部や各師団の中枢に配属してしまいました。それが後にひょんな事から露見したそうです。金正日が掌握していた「唖も喋るし聾も聴こえるようになる(※現地の言い方ですから敢えてそのまま書きます)」と恐れられた人民軍保衛司令部が常に軍人を監視していたのですから、ソ連とのコンタクトを嗅ぎ付けられる者が出るのも時間の問題だったのでしょう。

■後の事ですが、92年からの2年間、86年からの留学生に加えてソ連領内に勤務していた在外公館の職員までもが苛烈な追求を受けて大規模に粛清されたのだそうですから、北朝鮮の軍備増強も内部では行きつ戻りつして迷走していたのでしょう。、


12月30日、金日成主席が72年南北共同声明の祖国統一提案を再確認。

■ソ連の全面的な協力を得て軍事力の増強に明るい前途が見えると、こうした南北融和政策を取って付けた様に打ち出しているのでしょうが、韓国の全斗煥政権に対する反対デモが盛り上がっている状況を見透かした上での巧妙な外交とも言えそうです。近づくソウル五輪に対して南北共同開催を提案したもののIOCに冷たく拒否され、次には南北の人口比に合わせて競技種目の3分の1を北朝鮮国内で行なう「分割開催案」を出してみたのの、韓国側から国力に見合う3種目が限度と言われてしまった金日成は、きっとその悔しさを核とミサイルの開発を進めるエネルギーに変えていたのではないでしょうか?既に社会主義幻想が世界中で消え始めていた頃でしたが、長らく「地上の楽園」と書き立てられていた北朝鮮の実情は、なかなか外部には漏れて来なかったのですが、年明け早々に起こった大事件によって一般公民の生活実態が明らかになりました。


1987年1月20日、「ズ・ダン号」事件発生。

■事件の概要をまとめますと、金萬鉄という北朝鮮の清津医科大学病院で医師をしていた49歳の人物が、金日成の独裁体制と食糧難から逃れるために75年頃から脱出を計画して船医の仕事に就いて時期を待ち、密かに準備を整えて妻子・母親・妻の兄弟とその子供たち、総勢11名で廃船となった対韓特殊工作船(要するに不審船)を改造した資源監督船を盗んで逃げ出したというのです。1月15日深夜零時に清津港を出港して南下したものの、翌日には日本海の大和堆付近でエンジンが故障して、3日3晩荒波に揉まれながら漂流し、日本の敦賀沖で発見されて救出されました。日本での取調べと亡命の交渉をしてから2月7日に海上保安庁の巡視船と同じく海上保安庁の飛行機を乗り継いで、沖縄経由で台湾に行き、翌8日に韓国に亡命を果たしたのでした。

■金萬鉄医師御本人が書いた文章が、同年6月に光文社のカッパブック『悪夢の北朝鮮』という本になって緊急出版されていますが、何故か日本のマスコミは積極的にこの事件を詳報しようとはしなかったようです。


「人民達は食糧が無くひもじい思いをしている。近いうちにコメの御飯と肉を食べさせ、瓦屋根の家に住めるようになる、と教示したが、25年が過ぎた。人民達の死ぬほどの苦しみを知っているのか……」

金萬鉄医師が自宅の机の上に置いて来た金日成への手紙にはこう書いたのだそうです。ちゃんと宛先に届いたかどうかは分かりません。彼らは本当に外部世界の情勢には無知で、言葉が大体通じる韓国は「生き地獄」だと信じていたし、日本も負けずに邪悪で恐ろしい国だと考えていたそうで、南方の暖かい島で自給自足の暮らしをしようと、玉蜀黍・小麦・大根の種を大切に持って船出したのだそうです。何だか縄文時代の海洋民の生活誌を読んでいるような気分になる話ですが、事実です。金萬鉄医師が発表した文章には、拉致犯罪に対する怒りが広まると共に日本中に知れ渡った北朝鮮の恐ろしい実情がそっくり書かれていました。

■不幸なことに金萬鉄一家を迎え入れた韓国では、その1月から全国で反政府民主化運動が加熱していたのでした。何故か日本のマスコミはこちらの暴動騒ぎの方に視線を集中していて亡命直後から始まった金萬鉄医師の暴露会見については、余り熱心に報道しなかったのでした。
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