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旅限無(りょげむ)

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続・北の原爆50年史 其の九

2006-11-10 12:53:53 | 歴史

2005年1月18日、ライス大統領補佐官が国務長官指名承認を審議する上院外交委員会の公聴会で北朝鮮を「圧制の拠点」と批判。

■イラクで躓いていた米国の新任国務長官としては、北朝鮮を「外交的に」屈服させて見せたい誘惑に駆られたのでしょうが、残念ながら北朝鮮はそれを嘲笑うかのように地下核実験を実施してしまいました。


2005年2月10日、北朝鮮が「6者協議参加の無期限中断」を発表し、「自衛のための核兵器を製造した」と宣言。

今となって見れば、この時の「宣言」は核実験の準備が整った事を正直に公表していたと思われます。イラクに全力を投入していた米国は、北朝鮮の核開発の詳細を知らないまま金正日将軍様の術中にはまってしまったのでした。クリントン大統領はアフリカと旧ユーゴスラビアの実情を知らずに下手な干渉をして大失敗しましたが、イラク攻撃と中東民主化しか考えていなかったブッシュ政権は、北朝鮮に振り回される結果になってしまったようなものです。


2005年4月27日、ラムズフェルド米国防長官が上院公聴会でNPT違反の北朝鮮とイランを念頭に、「地下施設を攻撃する新型核兵器の研究開発の必要性」を訴える。

■03年末、ブッシュ政権はそれまでに禁じられていた「使える核」の研究開発を解禁する決定をしています。クリントン政権時代の94年度の国防歳出権限法(スプラット・ファース条項)によって、高性能火薬換算で5キロトン未満の小型核の研究開発を禁じていたのですが、03年11月末にブッシュ大統領はこの小型核の「研究費6000万ドル」を計上した次年度の国防予算に署名しました。小型核は戦術核とも呼ばれてミサイルや魚雷に搭載して通常兵器と同じように使用される事を前提として開発されたものです。大砲の弾に仕込んで数十キロ先の敵陣に打ち込むことさえ可能ですが、そんな物を発射した方も被曝してしまいますから、もっぱら戦術核ミサイルか核魚雷が中心となって配備されているようです。

■しかし、ラムズフェルド国防長官が言っている「地下施設を攻撃する新型核兵器」というのは、地中貫通型爆弾に核弾頭を搭載した兵器を指しています。何でもかんでも地下に埋めてしまっている北朝鮮を攻撃するとなると、この種の兵器が必要になると考えられているのですが、実は、この兵器は英国が発祥なのです。第2次大戦中に「グランドスラム」「トールボーイ」という2種類の超大型爆弾を開発した英国は、ドイツ軍が岩盤を刳(く)り貫いて造った潜水艦基地やV号発射基地に向けて、合計854発を投下したと言われています。「トールボーイ」は重さが5トン以上もあり、高度5500メートルから落せば音速を超える勢いで地面に突き刺さり、その頑丈な弾体を利して地中10メートルまで潜り込み、遅延信管によって爆弾に仕込まれた2400キロもの炸薬を爆発させる兵器でした。これを使うと凄まじい衝撃波によってちょっとした町なら1ブロック全体が崩落して廃墟となるそうで、「ブロック・バスター」などと言う恐ろしいニック・ネームが付けられました。

■「グランドスラム」という景気の良い名前が付いた方は、更に大きくて頑丈に作られていて、重量は10トン、炸薬量は5トンという化け物でした。これを使えばどんなにぶ厚い岩盤でも破ってしまったそうです。この英国製爆弾を真似て米国が作ったのが、「GBU-28」通称バンカー・バスターです。「地下掩蔽壕・破壊兵器」とでも訳すのでしょう。米国がこの兵器に注目したのは最近のイラク相手の湾岸戦争の時だそうです。朝鮮戦争やヴェトナム戦争では、原爆使用を我慢して通常爆弾とナパーム弾や枯葉剤をばら撒いていた米軍でしたが、イラクにはジャングルは無いし、米国自身が援助して作った地下施設がたくさん有りましたから、地中貫通兵器を慌てて開発したそうです。


続・北の原爆50年史 其の八

2006-11-10 12:53:34 | 歴史


2004年8月、ニューヨークで日米朝韓中5カ国の政府高官や専門家が非公式に意見を交換する「北東アジア安全保障会議」が開かれる。

■この非公式会議の場で、中国の楊希雨・朝鮮半島事務弁公室主任が「朝鮮民主主義人民共和国はウラン濃縮計画について説明する必要がある」と発言します。これが北朝鮮に対して説明責任を公式に求める北京政府からの初めての決意表明となりました。「世界規模の核拡散」を恐れる米国と、北朝鮮→日本→韓国→台湾へと連続する核武装のドミノ現象を最も恐れる北京政府の思惑が、北朝鮮による核武装間近!という状況分析によって一致したのでした。それまでの北京政府は、北朝鮮寄りの態度を堅持して米国に対して「文句を言う前に証拠を出しなさい」と言っていたのでしたが、米国は国家安全保障会議(NSC)のグリーン上級アジア部長を北京に派遣して胡錦濤主席に「証拠」を示すなどして、しっかりと根回しをしていたのでした。


2004年夏、川口順子外相の訪問予定数週間前のパキスタンで、イスラマバードの日本大使館にパキスタン外務省から連絡が入り、面会した外務省担当者が軍が用意したコメントを伝達。「ウラン濃縮のための遠心分離機の実物が北朝鮮に渡った」
「カーン博士のルートを利用したもので、パキスタン政府は了解していない」

■独自に情報を収集できない国というのは、こんな扱いを受けるのです。前年の03年10月ウラン濃縮用アルミ管がリビアに渡る直前、地中海のイタリア沖で密輸船を摘発したのは米英両国の情報機関の仕事でした。この密輸犯罪の犯人はブハリ・サイド・アブ・タヒールというスリランカ人でした。この男は85年にカーン博士と知り合い、マレーシアを拠点にして核の闇市場の「営業部長」として活動していたそうです。94年頃、パキスタン製の遠心分離機をイランに売り渡し、97年にはアラブ首長国連邦やトルコでリビアとの商談を進めていたようです。04年5月に本人が逮捕されるのですが、それに先立つ2月4日にパキスタン国営テレビの娯楽番組を中断して、4分間の特別番組としてカーン博士の「謝罪の告白」が放映されたのでした。

■従いまして、パキスタン外務省から日本の川口外相に届いたコメントは、極秘情報でもなければ最新情報でもなかったことになります。この情報が日本に伝えられるまで、日本の知らないところで、米中両政府の間でパキスタンの扱い方についての交渉が密かに行なわれていた状況証拠が有ります。中国は対インド戦略に役立つようにと長年、パキスタンとの友好関係を維持しているのに対して、米国はその時に応じて手前勝手に付き合い方を変えて来ました。70年代後半には、核開発疑惑を理由としてパキスタンに対する援助を停止しますが、ソ連がアフガニスタンに侵攻した瞬間からは軍事援助を始めました。それがタリバンを産み、アフガン帰りのイスラム過激派テロリストを生み出すことになるわけです。ソ連がアフガニスタンから撤退すると米国はまたパキスタンと疎遠になり、98年の地下核実験後には全面的な経済制裁の発動で応じました。ところが、9・11同時多発テロが01年に起こると「対テロ戦争」の協力者としてパキスタンを持ち上げることにしました。

■04年3月、カーン博士の「告白」から1箇月しか経過していない時期、パウエル米国務長官はパキスタンのイスラマバードを訪れた際に、「パキスタンを非NATOの主要同盟国にしたい」と驚くべき事を公式に発言しています。同時期に総選挙直前のスペインで列車爆破テロが起こり、総選挙は与野党逆転となって新政権は「イラクから撤退」を決定!有志同盟の一角が崩れたのでした。窮地に立たされて慌てた米国が、北朝鮮の核開発に最も深く関与していたパキスタンを諸手を上げて「同盟」に引き込んだのですから、勝手な話です。長年、パキスタンと軍事的な交流を続けて来た中国も、米国のこうした動きを黙認して同調している姿勢を採りました。


続・北の原爆50年史 其の七

2006-11-10 12:53:15 | 歴史


2003年8月、北京の釣魚台迎賓館で「第1回6者協議」開催。
北朝鮮首席代表の金永日外務次官は「米国が北朝鮮への脅威を無くせば核計画を放棄できる」と発言するが、米国代表のケリー国務次官補は「核計画を検証可能で後戻り出来ない形で廃棄すれば、北朝鮮の安全保障問題を討議する用意が有る」と主張して譲らず。

「行動」が先か「保障」が先か?この押し問答がずっと続いていますが、この頃のブッシュ大統領は8月19日にバグダッドで発生したデメロ国連事務総長特別代表を含めて22人が爆死した「国連現地本部爆破テロ事件」で暗雲が漂い始めたイラク占領政策を誤魔化すのに全精力を傾けていたのでした。

■やっと実現した6者協議の場には、ソファ・セットが運び込まれ、観葉植物で遮蔽して「密談コーナー」が作られたのでした。何だかイカガワシイ商売でもしているような風景ですなあ。まあ、問題の参加国が相当にイカガワシイのですから、それ相応の舞台装置が必要だったのかも知れませんが、とても不健康な怪しくも危険な香りの漂う会議だったのは確かでしょうなあ。ああ、嫌らしい!北朝鮮は再度、核開発計画の存在を否定します。


2004年2月、第2回協議の前に北朝鮮は「使用済み核燃料棒の再処理完了」と発表。第2回6者協議では、北朝鮮の金桂寛外務次官が「核計画の廃棄前に『凍結』段階を設け、その段階で米国が安全保障と経済援助を約束する」と取引を提案。

■着々と進む核開発でしたが、完成にはもう少し時間が必要だったようです。「凍結」という奇妙なハードルを新たに設ければ、更に尤もらしい時間稼ぎが出来ると北朝鮮は考えたのでしょう。


2004年2月、ケリー米国務次官補は講演の場で、「北朝鮮のウラン濃縮計画が稼動していれば、核兵器を年間2個以上製造できる高濃縮ウランを生産可能」と発言。

この発言は、遠心分離機2600台分の高強度アルミ150トンを北朝鮮が保有している事を前提としての推計に基づいていたのです。しかし、北朝鮮は途中で摘発されていなければ、最終的に合計350トンの高強度アルミを入手する計画を持っていたのですから、これが実行されていたら6000台以上の遠心分離機が稼動している事になります。

■この頃、パキスタンのカーン博士を中心とした「核の闇市場」の存在が発覚するのです。


2004年5月31日、ブッシュ大統領は記者会見で、「ミスター金正日」と敬称を付ける。翌月3日、北朝鮮外務省報道官は「留意する」として「核問題の平和的解決を願うなら『圧制の拠点』発言を撤回する勇断を……」と語る。

前年の秋から冬にかけて、イラク国内のバグダッドばかりでなく、ナジャフ、ファルージャ、ナシリヤ、ティクリートと重要都市で次々と爆弾テロが発生し、米軍有志連合の兵士たちによるテロリスト狩りも凶暴化して、現地の恨みを買い集めていたのでした。そんな中で11月29日に奥克彦参事官と井ノ上正盛書記官がティクリートで「何者かに」銃撃を受けて死亡するという忌まわしい事件が起こったのでした。そして、年が明けた04年、1月早々に日本の陸上自衛隊と航空自衛隊に「復興支援」という名目で派遣命令が出されまして、孤立感と挫折感が強まるブッシュ大統領を元気付けたのですが、3月11日にスペインのマドリッド中央駅で多数の死傷者を出した爆弾テロ事件が発生します。もう、北朝鮮の事など、どうでも良かったのではないでしょうか?


2004年6月、韓国が米韓共同の提案作成を呼び掛け、米国NSCメンバーと1日がかりで草案作成。
核施設の「稼動状態」→「使用不能常態」→「廃棄」という3段階論。

■イラク攻撃を強行した張本人みたいなディック・チェイニー副大統領は「凍結」過程を断固として認めず、米韓共同提案から削除させてしまいます。イラクで傷付いたプライドを、北朝鮮にまで傷つけられたくなかったのでしょうなあ。

続・北の原爆50年史 其の六

2006-11-10 12:52:57 | 歴史


2003年2月、パウエル米国務長官が北京訪問。

■飽くまでも半島の核問題は「米朝間の問題」だと言い張る江沢民を説得するのが目的でした。江沢民としては、WTOに加盟した勢いで北京五輪・上海万博の連続大成功!を実現した偉大な指導者として歴史に刻まれたい一心だったでしょうから、少なくともあと20年くらいは北朝鮮を生かさず殺さず、石油と食糧をちびちび恵んでやって時間稼ぎをしたかったはずです。下手に追い込んで金親子の悲願である「第2次朝鮮戦争」などが隣で始まってしまったら、偉大な自分のプランが台無しですからなあ。小平に引き立てられ、自分も同じような身分になったと勘違いした江沢民は、この頃、まさか次の胡錦濤政権に上海閥を根絶やしにされて追い詰められるとは想像もしていなかったでしょう。

■江沢民も米国の足元を見て、自分を高く売りつけようとしていたのかも知れません。何せ、この月の24日には、国連安保理に英国とスペインを巻き込んで『対イラク武力行使容認決議案』を叩き付けて、パウエルさんも後になって後悔することになる偽造証拠を振り回していたのですからなあ。


2003年3月、中国の銭其シン副首相が訪朝。金正日総書記と会談して米中朝の「3者協議」を提案。渋る金正日に対して「2者会談は可能」と説得。

今回06年10月末の「北朝鮮6カ国協議復帰」という大ニュース?とまったく同じ事が、この時に起こっていたのが分かります。今回は「金融制裁問題を話し合う部会」という餌もオマケに付けた上で、「米朝2国間協議も可能」の殺し文句で金正日を引き摺りだしたというわけです。ホスト役だった王毅・中国外務次官は会議中に「緊急の電話」を理由に中座して、取って付けたようなケリー米国務次官補と北朝鮮の李根・外務省米州副局長の「2者会談」を演出したそうです。片方が嫌がる見合いやデートをしつこく勧める執念深い仲人さんみたいなものです。ここまで恥を知らない国を相手に、日本の外務官僚は国交正常化交渉を進めようとしたのですから、恐れを知らぬと言うべきか、己を知らぬと言うべきか……。


2003年4月、北京で米朝中の3者会談開催。2者会談を求める北朝鮮と拒絶する米国が対立して決裂。北朝鮮は核開発計画の存在を全面的に否定。

■今回の6者協議の先行きが思い遣られる歴史がここに有りますなあ。偽札・偽煙草・麻薬という核問題と何の関係も無い国家犯罪に対して発動された「金融措置」と、懸案事項の「核放棄」を同じテーブルに乗せて交渉しようという北朝鮮の増長慢を、北京政府がどこまで我慢して付き合うか、それが問題ですなあ。それはそうと、03年4月と言えば、3月21日に予告通りに開始されたバグダッド市街の空爆に始まった『不朽の大義』と名付けられたイラク全土の制圧大作戦が進行中で、世界中の目は米軍が完全に管理して放送した「実況中継」に吸い寄せられていたのです。

■そんな忙しい時期に、北朝鮮の貿易会社代表・尹浩鎮がドイツの光学機器業者に発注した、濃縮ウラン用の遠心分離機に使われる大量の高品質アルミ管が発送途中のエジプトで押収されるという大事件が起っていました。以下は2005年6月5日の朝日新聞からの抜粋です。


尹氏は1999年までは在ウィーン北朝鮮大使館の参事官を務め国際原子力機関(IAEA)の担当だった。94年春の北朝鮮危機の時には「我が国には核開発の能力も意図も無い」と流暢な英語で記者団の取材に応じていた。……ウィーンの繁華街の裏小路の雑居ビル1階事務所に有ったゴールデンスター・バンクを仲介にすべて前払いで、核開発とは無関係の取引を重ねてドイツの光学機器業者との関係を深めて信頼を確立して行った。……事件は結局、第1回の出荷段階で捜査の手が及び、密貿易は未然に防がれた。だがその後、尹氏の行方は分からない。……ゴールデンスター・バンクは2004年夏に閉鎖された。

■同年5月1日に、ブッシュ大統領は側近も激怒した空母エイブラハム・リンカーンの甲板にジェット戦闘機(の副座)に搭乗して着艦するという、実に無責任なパフォーマンスをやって「勝利宣言」を全世界に向けて発表します。もう、金正日のことも朝鮮半島の核問題も、あの大統領の頭の中には無かったでしょう。その後の3箇月間はイラクの民主化だの復興だのと、現地の人々の気持ちも知らずにかつてのGHQ気取りで米軍主導の占領政策が実施されて、日本政府も「復興支援」に自衛隊を派遣することを決定します。


2003年7月30日、ブッシュ大統領は胡錦濤との電話会談で「日韓ロの協議参加」を提案。

2003年7月31日、北朝鮮は朴義春駐ロ大使を通じてロシア外務次官のユーリー・フェドートフに「6箇国協議を支持」と伝え、主催国の中国ではなくロシアに発表させた。

■イラクの油田を支配したし、米国の軍産複合体もたっぷりと荒稼ぎが出来てブッシュ一族が大株主となっている企業の株価は天井知らず、在庫がダブつき気味だった自慢のIT兵器も総棚ざらえで、新たな注文が武器産業に殺到していたことでしょう。最後までイラク攻撃に反対したロシアと中国に対して、「お前達が北朝鮮問題を解決しろよ」と言いたかったのかも知れませんなあ。

続・北の原爆50年史 其の伍

2006-11-09 15:07:32 | 歴史


報告を聞いたブッシュ大統領は「エッ、何だって?認めたのか!」と仰天し、北朝鮮は核開発を否定するものとばかり考えていたスタッフは困惑。北朝鮮が核武装を認めたという衝撃的な情報は秘匿されるが、一部のマスコミに漏れたため12日後に発表された。

■米朝会議が終了した後、ケリー国務次官補は韓国に立ち寄って会議の概要を伝えました。太陽政策を掲げていた韓国政府は北朝鮮のウラン型原爆開発に衝撃を受けます。それでも対話路線に替わる選択肢など持たない韓国政府は、米国の圧力と国際世論に押されて北朝鮮が自ら恭順の態度を示し、韓国や周辺国からの経済援助を恵んでも貰って、少なくとも餓死者の出ない国力を回復して将来の統一に向って欲しいと念願するばかりでした。


2002年10月26日、東京で日米韓の政府高官協議。米高官は「イラクは全体主義だが、北朝鮮は権威主義だ。体制転覆は必要ない」と発言。

■別の表現を使うと、「イラクは世界有数の産油国だが、北朝鮮はただの貧乏国だ」という事になるでしょう。11月8日には国連安保理でイラクに対して大量破壊兵器査察の無条件受け入れを迫る決議を全会一致で採択するのです。この頃のブッシュ政権は、イラクから逃げ出して来た者からのヨタ話を前提にして、「イラク解放」「中東民主化」を素朴に信じ込んで嬉々として戦争準備を進めていたのでした。従って、北朝鮮問題に関しては最悪の場合でも「イラクが片付いたら」次の標的にして楽しもうと思っていた可能性が高いわけです。拉致と核の大問題の解決を待たされた上に、日本政府は対テロ戦争を手伝うことになります。この時のブッシュ政権の選択が、イラクが泥沼化して内戦状態に陥り一箇月に100名の若い米兵が命を落す一方で、北朝鮮は「核保有国」を自称するようになってしまう結果を招きます。


2002年10月末、テキサス州クロフォードで米中首脳会談開催。

■中心議題は発覚したばかりの北朝鮮によるウラン濃縮計画でした。ブッシュ大統領は江沢民国家主席を対北朝鮮外交に巻き込もうと説得し、「朝鮮半島の非核化」と共通の目標にする事に成功します。しかし、個人的に金正日が大嫌いな江沢民は、表向きは中国最高実力者として北朝鮮との「血の絆」を尊重している振りをしつつ、米国を先頭とする旧西側陣営の国々が穏やかに金王朝を打倒してくれれば良いなあ、などと虫の良い事を考えていたようです。


2002年12月、ライス大統領補佐官が国家安全保障会議(NSC)に命じて3種類の政策選択肢を策定。
①国際的アプローチ→国務省内で支持
②特注封じ込めアプローチ→ライス補佐官が支持
③体制転覆アプローチ→ネオコン陣が支持
ブッシュ大統領は①を選択するが、本心は独裁者と交渉しない③に魅かれていた。

■クリントン時代の「枠組み合意」では日本と韓国を下請け役にしてしまったのを反省した米国は、今回は日韓中の3国を対等に関与させる心算でした。それもそのはずで、02年の12月と言えば、4年ぶりにイラク国内に国連の査察団は入って、大量破壊兵器の調査をしていたのです。当事者のイラクばかりか、国連の調査団からもブッシュ大統領が望む?ような大量破壊兵器は残されていない、という話しか出て来ない。それを「ウソだ!」「上手く隠しているのだ!」「証拠が有るぞ!」と、何が何でもパパ・ブッシュが遣り残したフセイン征伐を完遂しようと証拠は偽造するわ、ヤラセ番組を放送するわ、本当の敵のアルカイダとは何の関係も無いと分かっているのに、テロとの戦いだあ!と叫び続けていた頃です。


続・北の原爆50年史 其の四

2006-11-09 15:06:55 | 歴史

2002年8月1日、小泉訪朝準備中に、ブルネイでパウエル米国務長官と川口外相が会談し、「近い将来、朝鮮半島で核の危機が再び起こる」と告げられる。その直後に米国の情報担当者が訪日して北朝鮮のウラン濃縮疑念に関して詳細な説明をする。

9月17日の『平壌宣言』に「核問題の包括的な解決」の文言が盛り込まれる。

9月19日、日米首脳の電話会談。「金正日が米国と対話したいと何度も繰り返した」「分かった。誰か行かせる」

■この時、日本の外務省は頭越しに訪朝を行なった事を米国が怒っていないと安堵したそうですが、拉致と核とミサイルと大風呂敷を広げた能天気ぶりと北朝鮮が持ち続けていた核開発への執念も、日本が置かれている危険な立場も認識していなかったのではないでしょうか?この電話会談で米国が代表団を派遣したと思った勘違い官僚も居たようですが、同年7月末にブルネイでパウエルと北朝鮮の白南淳外相が会談して「近い将来に」使節団を派遣する事は決っていたのでした。金正日将軍様は、日本を相手に「核廃絶」などと本気で話し合うと、本当に小泉訪朝団や外務省は信じていたのでしょうか?

■。政府以上に何も知らない日本国民の内閣支持率を急上昇させた電撃訪朝でしたが、その予定を米国に通知したのは8月27日でした。既に北朝鮮の核開発に関する詳細な情報を手に入れていた米国政府は、核問題をぎりぎりと追求する情報も根性も無い日本政府に対して、「素人が勝手に北朝鮮と交渉などするな」と腹を立てたり呆れたりしていたようです。拉致も核も中途半端に書き込んだ薄っぺらな幕の内弁当みたいな宣言文を、交渉決裂を何とか避けようとの思いをたっぷりと塗り込んで書き上げたのは日本政府でした。純ちゃん人気を支え、拉致被害者に同情の涙を流していた日本の有権者の姿は、きっと同盟国の米国政府を当惑させたことでしょうなあ。

■ブルネイでのパウエル・白会談で、既に米国側は北朝鮮がロシアの業者からウラン濃縮に使う遠心分離器用の高硬度アルミニウムを大量に入手している事を知っており、パウエルはウラン濃縮に対する懸念を伝えようとしたが、白外相はまるで自国が進める濃縮計画の存在を知らないかのような反応を見せたと言う。


2002年9月、ブッシュ大統領が「北朝鮮に対する先制攻撃を除外せず」という「国家安全保障戦略」を発表。

この恐るべき発表は、米国の頭越しに実行された日朝首脳会談の、更に上を狙った頭越し外交の再開を予告するものでした。何だか素人と玄人との格の違いが露骨に見えて、嫌な感じですなあ。


2002年10月初旬、ジェームズ・ケリー米国務次官補の一行が平壌を訪問して核計画を質す。ウラン濃縮疑惑を質された金桂寛外務次官は、「デッチあげだ!」と真っ赤な顔で全面否定したが、その翌日には、姜錫柱第1外務次官が「我々が高濃縮ウラン計画を持っていてなにが悪いのか。我々は高濃縮ウラン計画を進める権利を持っているし、それよりもっと強力な兵器もつくることになっている」と疑惑を認めた。

■この時の虚虚実実の駆け引きは相当なものだったようで、これまた日本の稚拙な外交交渉とは随分と趣(おもむき)が違っていたようです。もしかすると、日本を煙に巻いて対米交渉のメッセンジャー・ボーイに仕立てて快哉を叫んでいた北朝鮮は、米国に対しても夜郎自大な自信を持っていたのかも知れません。腰抜けの子分・日本に同情しながら使節団を送って来る米国は、素敵なお土産を持って来て将軍様を喜ばそうとする、そんな事を本気で考えていたようです。しかし、御土産どころか、会議の劈頭から隠し通していると信じ切っていた「ウラン濃縮計画」に言及されて、その件に関して何の指示も受けていない北朝鮮代表団は、最初はお家芸の「でっち上げ」を絶叫して見せてその場を凌いたのでした。

■そして指示を受けた後、翌日の会議では姜外務次官から「敵視政策と核開発との引き換え」を暗に臭わせる提案が出されました。これは米国側の術中に嵌ったようなもので、ケリー国務次官補は自国の情報収集能力を見透かされないように、北朝鮮の高強度ウラン管大量入手という情報を得ている事を秘匿したまま、思わせぶりな表情を保って交渉を続けた成果だったようです。北朝鮮代表は、米国に全てを知られていると勘違いしたのでした。嗚呼、日本の訪朝団にも、金正日将軍様が「拉致事件の全貌を知っている」と勘違いするような情報収集能力と、交渉能力が有ったら……。

続・北の原爆50年史 其の参

2006-11-09 13:07:20 | 歴史
■設立直後に始まった機密文書の翻訳作業を手伝う者の中に、ドイツ語とオランダ語に堪能なパキスタン人が居ました。彼は72年5月にウレンコ社の関連企業FDOに金属素材の専門家として就職しているのですが、61年頃にトルコ人がたくさん出稼ぎに来ていたドイツの技術系大学に留学し、卒業後にはオランダやベルギーの大学で冶金学を専攻して博士号を取得する優秀な学生でした。本人は祖国に帰って教育者になりたかったようですが、就職活動がうまく行かず、偶々、冶金の技術者を募集していたFDOというアムステルダムの会社に職を得ました。名前をアブドル・カディール・カーンと言いました。彼は、ウレンコ社の翻訳作業に参加して74年10月の16日間、計128時間に亘って12種類の機密文書のうち2種類を翻訳する仕事をしましたが、その間にウレンコ社内を自由に歩き回り、立ち入り禁止エリアで写真を撮影したりウルドゥー語のメモを作ったりしていたそうです。迂闊なことに、極秘資料を清書するだのタイプするだのと言って自室に持ち帰っていたと言うのですから、ちょっと盗まれた方にも責任が有りますなあ。

■すっかりウラン濃縮技術に馴染んだカーン博士は、遠心分離器に不可欠な特殊な金属箔テープの開発を手掛けるほどの地位を獲得するのですが、何故かその頃に在ベルギーのパキンスタン大使館が、このウラン濃縮にしか使わない特殊な金属テープを買い入れます。いくら呑気な企業でも、こんな怪しい人物を物騒なウラン濃縮の部署に置いておけませんから、配置転換が命じられます。すると、さっさと休暇と称してパキスタンに帰国したのが75年の末のことだったそうです。


1947年10月2日、8月に分離独立したばかりのインドとパキスタンがカシミール地域の支配をめぐって軍事衝突。(第1次印パ戦争)

1965年9月6日、再びカシミールの支配権をめぐって紛争勃発。(第2次印パ戦争)

1971年12月3日、またまた紛争が起こって、第3次印パ戦争に発展。

1974年5月18日、インドが初めての地下核実験に成功。

■3回連続して起こったインドとパキスタンとの軍事衝突は、インドの3連勝に終っています。北から睨みを効かす中国人民解放軍の介入を恐れて全面戦争に踏み切らないインドですが、その中国が保有する核弾頭付きの長距離弾道ミサイルに怯えるという三つ巴の緊張状態が続いていたのです。そして、そのインドが核保有国になってミサイルまで開発し始めたのですから、パキスタンがどれ程の恐怖を味わったか分かりません。パキスタンの核兵器はムニール・アフマド博士やサマル・ムバラク・マンド博士などの専門家によって起爆装置が完成し、カーン博士は濃縮ウランを供給する役割だったようです。しかし、フランス人のグリフィン親子だのスイス人のティンナー親子だの、スリランカ人のタヒール氏だのというややこしい人脈を作って、ウラン濃縮技術とそれに必要な機材を闇市場で売り捌いていたのはカーン博士でした。

■北朝鮮とパキスタンとの本当の関係は今でも明らかにはされていませんから、カーン博士から北朝鮮に渡ったウラン濃縮技術と、北朝鮮からパキスタンに渡ったミサイル技術との交換に政府がどの程度関与していたのかは藪の中に押し込められたままです。この「核の闇市場」が発覚してすぐに、ブッシュ大統領は対テロ戦争に参加する事を条件にしてパキスタンを追求しない方針を固めていますし、パキスタンのムシャラフ大統領もカーン博士個人の犯罪だと言い張っています。

続・北の原爆50年史 其の弐

2006-11-09 13:07:00 | 歴史
■この物騒な演説の後、米国政府のおそらくは「エシュロン」と思われる通信情報傍受機関が、北朝鮮とパキスタンとの間で交換された電波通信の内容を大統領に報告しています。

「サクランボを送りましたよ」
「サクランボが20個届きましたよ」

などという少女趣味を疑わせる内容だったそうですから、暗号を考えた両国の担当者はどうかしていますぞ!隣国との核戦争を覚悟している国と「第2次朝鮮戦争」の準備を整えている国との間で、サクランボ談義などしたら、誰でもロクでもない連絡をしていると勘付きますからなあ。


2002年6月、北朝鮮がロシアの業者からウラン濃縮用の遠心分離機2600台分に掃討する高強度アルミ管150トンを入手した事、パキスタンのカーン博士の「核の闇市場」を通じて遠心分離機の実物20台前後と設計図を取得した事などの極秘情報が米政府にもたらされた。

■クリントン政権が北朝鮮に約束させたのは「プルトニウム型原爆」製造計画の断念でした。作るのが難しい原爆を餌にして原子力発電所と原油をせしめた北朝鮮は、比較的簡単に作れるウラン型原爆を着々と製造していたのです。


……北朝鮮が輸入したアルミ管は、英独オランダ合弁のウラン濃縮企業ウレンコ社が開発した遠心分離機に使われるアルミ管と同じ素材で、寸法も「ミリ単位で一致した」(元米政府高官)という。このため情報部門は、北朝鮮がウラン濃縮計画の稼動を企てているのは明らかと判断したという。…… 2005年6月5日 朝日新聞

■ここに登場するオランダ企業の「ウレンコ社」が重大な意味を持っているのです。この会社は1971年に英独オランダの3箇国が合弁で設立した世界最高のウラン濃縮技術を持っていたのです。それもそのはずで、設立当初から技術顧問を務めていたのは「遠心分離器の父」と呼ばれるツィッペ博士でした。このオーストリア生まれの天才を中心として設立されたウレンコ社は、社内用の極秘技術書を合弁3箇国の各言語に翻訳する作業が急がれていました。この技術書翻訳が終了しないと仕事になりませんから、それこそ猫の手も借りたい忙しさだったようです。民間企業の悲しさと、技術者の鷹揚さで情報の漏洩には余り神経を使わなかったのが、後の世界に核拡散の恐怖を広める結果となりました。

■ゲルノート・ツィッペ博士は、1917年生まれのオーストリア人で、ウィーン大学で放射性物質に関する研究で博士号を取得し、時節柄、空軍関係に就職したものの、ナチス・ドイツによる併合もあって、44~45年は独レーダー研究所に勤務した経験が有ります。そこで敗戦を迎え、雪崩れ込んで来た「何でも接収する」ソ連軍に目を付けられて1956年までグルジアの黒海沿岸のスフミという町に捕虜として抑留されます。そこは核開発を目的とした「科学者村」で、ドイツ系の優秀な科学者と技術者が捕虜として集められていて、アメリカ一国による核兵器の独占体制を崩すことが「核抑止」となるという考えの下に、ソ連の核兵器開発に協力していました。開発に成功したら莫大な報酬を受け取って帰国できるという約束も有り、彼らは熱心に研究を続けました。1949年8月29日にセミパラチンスクで炸裂した原爆を作ったのは彼らだったのです。

■広島型原爆の原料となるウラン235を天然ウランから抽出するために、遠心分離法とガス拡散法が考案されましたが、前者は非常に精密な加工技術が必要で、後者は膨大な電気エネルギーを使う欠点は有りますが技術的には簡単とされています。米国は40年代に遠心分離器を完成させていましたが、最終的に「ガス拡散法」を採用して広島に原爆を投下します。戦後80年代までは、西側の発電用のウラン濃縮技術は米国に独占されており、核兵器開発も米国式のガス拡散法がフランス、イスラエル、インドへと流れて核保有国が増加して行く流れが有ります。

■ソ連で完成した遠心分離器のウラン濃縮技術を持って釈放されたツィッペ博士は、アムステルダムで開催された学会で西側の技術が遅れている現実を知ります。エネルギーを節約できる遠心分離法の方が民生用には適していると考えた博士は米国政府に話を持ち掛けますが、技術の流出を恐れた米国は米国籍取得を迫ったので博士はバージニア大学などで続けた実験を中断して60年に欧州に戻ります。ドイツの企業が博士の技術を採用しますが、「核武装」と噂が立って西独政府が技術管理を引き継ぎ、同じ技術を採用した英国とオランダが参加して「ウレンコ」社が設立されたのでした。


続・北の原爆50年史 其の壱

2006-10-30 12:36:41 | 歴史
■10月19日に行なわれた平壌での金正日総書記との会談から帰国した唐家セン国務委員から、奥歯に物が挟まったような言い方で、どうにでも解釈できるような情報しか出て来ないのに、日本のマスコミには「これで一安心」という気分がぱっと広まったのは驚きでした。北京で唐家セン本人から話を聞いてからモスクワに飛んだライス米国国務長官の口からだけは、新展開無しというメッセージが出ていましたから、国連安保理での制裁決議などよりも米国による経済制裁解除と核実験とのバーター取り引きを繰り返したのだろう、と推測していましたら、案の定、要するに「没収したカネを返さないと2発目の核実験だぞ!」と言ったことが23日になって報道されています。

■北京政府は日中首脳会談直後の核実験に続いて、またまた面子を潰されたわけですから、この見っともない「餓鬼の使い」みたいな話を発表するには準備が必要だったようです。数日前から米国が北朝鮮船のポンファサン号を追跡しているのに合わせるように、23日になって香港に停泊していた何の変哲も無い貨物船を検査したそうです。特に怪しい点も無かったからこそ、これ見よがしに船内検査をしたのでしょうが、物騒な積荷は見付からず、消火設備などの安全設備に欠陥が有る!との指摘で出港を禁止しました。北朝鮮の船を片っ端から検査刷れば同じ結果が出るのは不思議ではありません。金日成が直接設計を指示したとされる万景峰号でさえ、拉致事件解決の為に圧力を掛けると決断した日本政府が検査してみたら、安全基準を満たしていなかったのですからなあ。

■更に北京政府の立場が苦しい事を示唆するように、有毒野菜の輸入禁止に対抗するように血祭りに上げた「SK-Ⅱ」という日本製の女性用化粧品の輸入禁止騒動が上海で燃え上がったのに、突如として23日に「安全宣言」を出して日中友好路線を全面に押し出しているかのようです。北朝鮮を本気で締め上げようと思えば、直接米国と歩調を合わせるのは危険過ぎますし、漁夫の利か棚からボタ餅を待っている他人事のロシアでは頼りないし、北京政府以上に北朝鮮崩壊を恐れている韓国では逆効果になりそう、そうなれば頼りは日本という事になったのでしょうなあ。ますます安倍政権に追い風が吹いているようですが、一挙に拉致事件の全面解決を餌にして事態の打開に出て来たら、さて北朝鮮を相手にタフな外交交渉が出来るのでしょうか?

■そんな急展開を見せている北朝鮮問題ですが、御好評を頂いた『北の原爆50年史』で、北の核兵器開発は「親子二代の悲願」であったと指摘していた手前、その続編を書いておかねばならなくなってしまいました。


2002年1月末、ブッシュ大統領の一般教書「悪の枢軸」演説。

先に正編の『北の原爆50年史』で、北朝鮮の核武装は50年以上前の「第1次朝鮮戦争」末期に、米国が正式に核兵器使用を予告した時に始まる、という説を検証したのですが、今、世界を揺るがしている騒動の直接的な引き金になっているのはブッシュ大統領の『悪の枢軸』演説ではないでしょうか?この演説原稿を書いた人が証言していたと記憶していますが、『悪の』という言葉はブッシュ大統領自身が原稿にを書き換えたものです。気分はすっかり十字軍!あるいは『ハリー・ポッター』やら『指輪物語』の主人公が乗り移ったかのような興奮気味の演説になっていましたなあ。

■この演説の前年10月7日にはアフガニスタン攻撃を開始し、翌年の3月20日に始まるイラク攻撃を着々と準備していたブッシュ大統領から「悪の枢軸だ!」と名指しされた三カ国は、それぞれの特色を明確に示す反応をしていたのです。イラクはクウェート侵攻から始まった湾岸戦争でバグダッド攻撃を躊躇したパパ・ブッシュの息子を舐めていましたし、イランは国連安保理のほとんどと気脈を通じている強みから、平然とマイペースで核開発を進めて行きました。しかし、北朝鮮だけは「第2次朝鮮戦争」を覚悟した可能性があります。

北の原爆50年史 其の四拾伍

2006-10-25 12:21:12 | 歴史

4月19日、金正日総書記が北京入り、胡錦濤国家主席と会談。その帰路、国境の竜川駅で22日に大爆発。携帯電話を使った爆弾テロ?
4月25日、竜川駅列車爆破事故の被災者支援のために、日本政府は10万ドル相当の医療物資支援を決定。
4月26日、韓国政府が竜川駅での爆発事故に対して10万ドルの支援を表明。
5月4日、北京で日朝拉致協議。藪中局長・田中審議官
5月12日、北京で6カ国協議の作業部会の初会合。
5月14日、韓国憲法裁判所が盧武鉉大統領の弾劾訴追を棄却。
5月22日、小泉首相が2度目の訪朝。拉致被害者の家族8人のうち5人の帰国と25万トンの食糧援助と1000万ドル相当の医薬品支援が決る。
5月26日、南北初の将官級会談が金剛山で開催。

■この頃は、「6カ国協議」と「日朝交渉」が連動・並行して進んでいたのですが、力強いパートナーになって欲しかった韓国が、盧武鉉大統領の巨大な収賄疑惑で揺れていて、まったく頼りにならない状態にありました。それでも、北朝鮮にしてみれば、米国からの体制保障と日本からもカネの両方が貰えそうな甘い夢を見ていられた時期でもありました。


6月7日、3万7500人の在韓米軍の再編問題を話し合う米韓公式協議で、05年末までに3分の1に当たる1万2500人削減を通知。
6月14日、特定船舶入港禁止法成立。
6月23日、北京で第3回6カ国協議
7月2日、パウエル米国務長官と北朝鮮の白南淳外相がジャカルタで2年ぶりに会談。
7月21日、済州島で日韓首脳会談。盧武鉉大統領は任期中に「歴史問題」を争点にしないと約束。

■盧武鉉大統領のこの約束は呆気なく反故にされ、後に2年間も「靖国問題」で日韓関係は冷え込んでしまうのでした。米国としてもイラク戦争の出口が見えなくなっていましたから、北朝鮮問題は「話し合い」で決着を付けたいと念願していたようですが、「悪の枢軸」と名指ししてしまった手前、振り上げた拳を開いて軽々しく握手は出来ないことになってしまいました。


7月27日、東南アジアに在留していた脱北者450人以上が韓国に亡命。
9月1日、北京の日本人学校に脱北者29人が駆け込み。
9月2日、2000年の韓国で未申告ウラン濃縮実験が行なわれていた事が発覚し、82年にプルトニウム抽出実験、80年代から未申告の核関連実験。
10月18日、米国で「北朝鮮人権法」に署名。

■昔の朴政権時代に「核武装」の話が出た時には、米国が「核の傘」を保障して収まったのでしたが、やはり、当時の韓国内部では米国が逃げ出して自分達だけが北からの圧力に対抗しなければならなくなる不安が残っていた事が分かります。金大中政権からは、南北融和の夢が開いて、万一、北朝鮮に核兵器が有ってもそれも含めて丸ごと統一してしまえば良いというような、実に素朴な雰囲気が韓国内に満ちたようです。しかし、そんな夢を見たのは朝鮮戦争の後に生まれて育った世代だったという鋭い指摘も有ります。拉致問題にしても、日韓で連携して解決に向おうと呼びかけても、何故か韓国内では38度線を挟んで分断されている同胞達への同情が盛り上がらず、民族統一の夢ばかりが語られる時期が続きました。

■この年、イランはソ連から買って建設していた原子力発電所を稼動します。翌03年の夏には、ロシア経由でテポドン2号の部品を入手しています。06年7月に初めて発射実験をして爆発してしまったようですが、これが噂通りに射程3600キロの能力を持っているとすると、北朝鮮からグアム島を攻撃出来ますし、イランからはフランスのパリまでが狙える事になります。ですから、2006年1月19日のシラク発言には大きな意味が有ったのでした。この日、フランスのシラク大統領は大西洋岸のブレスト港のミサイル原潜基地を視察して、唐突とも思える物騒な事を言ったのでした。


「もしも自国領土がテロ攻撃または大量破壊兵器による攻撃を仕掛けられたら、敵国の権力中枢および拠点に反撃を加える」

■一方ではイランの原子力平和利用を擁護するような発言をしながらしっかり商売しているフランスですが、万一の場合は相手がお得意様であっても容赦なく核攻撃による報復をするぞ!という意味でした。更に物騒なことに、シラク大統領はフランス原潜に搭載しているSLBM(潜水艦発射長距離弾道ミサイル)に載せてあるMIRV(複数個別誘導弾頭)の数を減らすぞ!とも言ったのだそうです。MIRVは迎撃技術が向上したのに対抗して大気圏に再突入してから、ばらばらになって複数の標的に向って核弾頭が落下して行くという悪い物です。中にはハズレも混ぜておいて、迎撃ミサイルを無駄撃ちさせるような工夫もされていると言われています。つまり、弾頭内の落下物を減らすという事は、ハズレを無くして少数の標的を限定的に核攻撃するぞ!という意味になります。

■シラク発言の真意は、テヘラン郊外のミサイル組み立て工場、ナタンツの地下ウラン濃縮工場、ブシェールの原子炉、アラークの地下プルトニウム処理工場などをきっちりと核攻撃するよ、という予告でした。この発言に呼応して、隣国ドイツのショルツ元国防相の口からは、万一、ドイツが核攻撃されたらフランスがしっかりと敵討ちをすると約束しろ!さもなければ自前の核兵器を開発するぞ!というものでした。欧州は北朝鮮から流れ込んだ長距離ミサイルの存在を自国の防衛戦略に織り込んで考えている事が良く分かる話です。

■すっかり長い話になってしまいました。2005年以降の話の続きは今回は省略です。要するに50年前に核武装を決意した金日成の判断は、残念ながら正しかった事を証明する2年間がこの後に続いたのです。金正日将軍様は、権力を掌握した直後に、国民が飢えているのは承知の上で、ミサイルと核を持つために全力を尽くすのだ!という意味の演説をしているのです。NPT体制という核兵器の存在と効力を全面的に認めた約束事には、どんな手段を使っても核武装してしまった国を承認せざるを得ないという大きな弱点が有ります。「どうして自分達は核武装しては行けないのか?」という尤もな疑問に対して、誰も明確な答えを出せない限り、核兵器を切り札にする冷酷な外交が繰り広げられるに違いありません。

■国連安保理の特権を独占する常任理事国が、そのまま核保有国である理由は決して表立って語られないタブーでしょうが、米ソに続いて核武装をした国々が考えた事を南アフリカもリビアもイランも北朝鮮も考えたのです。EUを結成して新しい時代を切り開いたように見える欧州でさえも、英仏両国が独自の核戦略を手放せないのですから、民主主義の核だろうと社会主義の核だろうと、更にはユダヤの核もヒンズーの核もイスラムの核も、古代から続く権力の維持に欠かせない武器の一つでしかないのでしょう。6カ国協議の議長国で、北朝鮮を武装解除させたい全世界の期待を一身に受けているような格好の北京政府ですが、彼等が恐れているのは台湾の核武装であり、日本の核武装でしょう。日本の常任理事国入りを必死になって阻んだ理屈と同じ理屈で日本の核武装には絶対反対でしょうし、台湾の核武装は「2つの中国」を満天下に知らしめる抜群の効果を発揮しますから、絶対に反対でしょう。

■核が無くても立派な外交を展開する国家が「何処かに」存在しないと、核のチキン・レースとドミノ現象は止まらないのではないでしょうなあ。

おしまい。

北の原爆50年史 其の四拾四

2006-10-25 12:20:49 | 歴史

2003年1月10日、北朝鮮が核拡散防止条約からの即時脱退を表明。
2月5日、「核施設を再稼動」と表明。
2月24日と3月10日、地対艦ミサイルを日本海に発射。

■この時に発射されたのはメイド・イン・チャイナのシルクワーム・ミサイルだったと言われています。小型の武器ですから核弾頭などは絶対に搭載できないのですが、ミサイル発射実験には変わりは無いので、周囲の反応を見たものと思われます。


2月25日、盧武鉉大統領就任。
4月23日、北京で米中朝3カ国協議。「核兵器保有」と「核燃料棒の再処理がほとんど終了」と米国に告げる。
6月6日、日本で「有事関連3法案」成立。
6月9日、万景峰号が新潟港寄港を断念。
6月30日、開城(ケソン)の経済特区工業団地着工式。
7月26日、日本で「イラク復興支援特別措置法」成立。

■金大中政権が終るのに合わせる様に「核兵器保有宣言」などが出されるから、朝鮮半島に核武装南北統一国家を樹立する密約が出来ていたのではないか?などという物騒な憶測を呼ぶのです。日本の事など何も知らないクリントン大統領の時代に、北朝鮮に対して限定的攻撃を計画して日本の支援を求めて、初めて『憲法9条』の意味を知って当時の米国政府は腰を抜かすほど驚いたわけですが、その時の宿題が『新ガイドライン』で解かれ、『有事関連法案』で一応の完成を見たのですが、今度は「周辺事態」というややこしいハードルが見付かって、ブッシュ政権も頭が痛いようです。まさか、イラク戦争の時のように、『朝鮮民主主義人民共和国復興支援法案』などを早々と書き上げるわけにも行きませんし……。


8月4日、韓国の現代グループの「現代峨山」の鄭夢憲会長がソウルで投身自殺。
8月27日、北京で第1回6カ国協議。
11月4日、KEDOが軽水炉事業の中断を決定。
■韓国の現代グループ総帥の投身自殺は驚きでしたが、金大中政権が南北首脳会談の時にいろいろと内緒の約束をして、5億ドルの闇資金を提供したとかで、政治資金規正法違反やら脱税疑惑やらで身動きが取れなくなっての自殺だったと言われているようです。日本でも金丸訪朝団以来、北朝鮮との密約やら利権漁りやら、黒い噂は絶えませんが、何でも「地下に埋めてしまう」国を相手にするとこうなるのでしょうなあ。


11月19日、自公連立で第2次小泉内閣発足。
12月20日、平沢勝栄議員と鄭泰和大使が北京で拉致協議。

■テレビで顔を売って有名になった平沢議員ですが、実質的にはどれほど拉致事件の解決に力を発揮したのか誰にも分からないようです。佐渡に帰って来た曽我ひとみさんを東京に呼んで、自分の選挙区で客寄せパンダにしたなどというフザケた話も有ったようですが、二元外交はやはり行けません。


2004年2月11日、平壌で拉致問題協議。田中均外務審議官・藪中三十二アジア大洋州局長、金永日外務次官・姜錫柱第1外務次官が協議。
2月25日、北京で第2回6カ国協議。
2月26日、日本政府は改正外国為替・外国貿易法施行。
3月12日、盧武鉉大統領の弾劾訴追案可決。
4月1日、山崎拓元副総理と平沢勝栄議員が大連で鄭泰和大使と接触。

■誰が書いたか分からない『平壌共同宣言』が既成事実となって、「早くカネをよこせ!」「拉致事件を解明しろ!」の水掛け論が、ここから延々と続くことになるわけですが、「対話と圧力」という要するに日本側からは何も出来ないという外交政策しか取れないことが明らかになっただけでした。恐ろしい事に、日朝間の外交交渉は一切の記録が破棄されてしまって、後の歴史研究は不可能となっているのだそうです。そうなればソ連の崩壊と同じで、金正日体制が崩壊でもして機密文書がごっそりと出て来ない内は、日朝間でどんな交渉が行なわれたのか誰にも分かりません。

■長々と政権を維持した小泉首相は、「核・ミサイル・拉致問題」を一括して協議するなどと、米国でも不可能な空疎な大風呂敷を広げたままで任期を終えてしまい、イラク派兵という中途半端な軍事行動の先例というオマケも付いた置き土産となりました。未だに拉致事件の全貌は見えず、ミサイルはどんどん進化し、とうとう核実験が実施されたのですが、強運の小泉プレスリー首相は任期中に責任を問われずに済んだのでした。


北の原爆50年史 其の四拾参

2006-10-25 12:20:27 | 歴史

9月3日、江沢民中国国家主席が訪朝。
9月11日、ニューヨークで同時多発テロ発生。
10月29日、「テロ対策特別措置法」成立。
12月22日、奄美渡島沖で海上保安庁の巡視船が不審船と銃撃戦。

■何ともきな臭い21世紀の幕開けとなったものですが、アフガン戦争で米国が育てたテロリストが巡り巡って米国本土に大規模なテロ攻撃を仕掛け、腫れ物に触るように扱って来た北朝鮮に日本は好き勝手な悪事をさんざんやられていた事が発覚したのですから、ブッシュ・小泉の蜜月時代となるのも当然だったのかも知れません。


2002年1月29日、ブッシュ米大統領が「悪の枢軸」演説。
5月8日、中国瀋陽市の日本総領事館に5人の脱北者が駆け込み中国警察に拘束され連行される。

■「悪の枢軸」に北朝鮮が含まれていた事に、日本人の多くは大した印象を持たなかったようです。それもそのはずで、日本中がサッカー大会に沸き立ち、「韓流ブーム」に雪崩れ込んで行ったのですから、東アジアに残されていた冷戦構造の後始末が始まると予感する余裕は無かったのでした。しかも、その後始末に関して以前のレーガン政権が欧州に対して見せた情熱を、米国は朝鮮半島に対しては注がない事にも気付かなかったのでした。


5月31日、日韓共催でサッカー・ワールド・カップ開幕。
6月13日、米国が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約を破棄。
6月29日、黄海で南北砲撃戦発生し韓国高速艇が沈没。
9月17日、平壌で初の日朝首脳会談。「日朝平壌宣言」締結。
10月3日、ケリー米国務次官補が訪朝。
10月15日、拉致被害者5人が帰国。
10月16日、米国が「北朝鮮が核開発を認めた」と発表。
10月25日、北朝鮮が米国に対して「不可侵条約」締結を提案。
10月29日、クラルンプールで第12回日朝国交正常化交渉。
11月14日、米国が北朝鮮に対する重油供給を打ち切る。

■こうして時系列で重要事項を並べてみると、北朝鮮が「拉致問題」を餌にして日本を便利に使って米朝の直接交渉を求めていた事がはっきりと分かります。しかし、クリントン時代に騙された米国政府が同じ轍を踏んで間抜けなダンスを踊るはずはありませんでした。


12月9日、イエメン沖でスカッド・ミサイル15基を輸送中の北朝鮮船が米軍によって臨検される。ミサイルは没収されるが船は無罪放免。
12月12日、核施設の封印を解除。
12月31日、IAEA査察官を追放。

■こうしてKEDOで運転を停止していた寧辺の黒鉛減速型原子炉を再稼動させたのでした。それはプルトニウムを更に抽出して再処理するという意思表明です。気になるのは、イエメン沖でスカッド・ミサイルが没収された事件です。イエメンと聞きますと、2000年10月12日にアデン港に停泊していた米国海軍の駆逐艦コールの舷側に大穴を開けた小型船による「自爆テロ」の事です。06年10月15日に国連安保理で採択された「制裁決議」には、「次は軍事制裁」というメッセージと共に「貨物の検査」が含まれています。拉致事件の被害国で島国の日本は独自に「入港禁止」を打ち出していますが、海上での「臨検」も実施出来ない状態なのですから、貨物船や漁船の形をした北朝鮮海軍の特殊な船が、悪天候や機械的な故障を理由にでもして日本の港に押し入って来た場合、それを阻止などできないのではないでしょうか?

■もしもそんな「不審船」の喫水が不自然に深くて、船倉に「極端に重い荷物」を積んでいるのが確認されたらどうなるのでしょう?原爆を敵地に運ぶのに長距離爆撃機や3段式大陸間弾道弾など無くても大丈夫でしょう。麻薬の密輸や拉致工作に失敗したら「自爆」するせよ、という理不尽な命令に随う兵士が居る国ですから、核攻撃要因として自爆船に乗る者もたくさん居ると考えられます。地下トンネルを通って隠蔽施設内に繋留されている船に核兵器を積まれたら、監視衛星からも見えませんぞ。日本の港に着岸してから「核武装船」を名乗られたら手も足も出ないのではないでしょうか?そうならない事を祈るばかりです。


北の原爆50年史 其の四拾弐

2006-10-24 12:25:31 | 歴史
■97年11月に団長として訪朝した際に、自分の選挙区の石川県で1963年に拉致された寺越武志さんとの会見を自己宣伝に役立つと張り切っていた森さんは、さんざん焦らされて最終日の滞在4日目に寺越さんと会わせて貰えると聞いて、前祝に北朝鮮側の接待攻勢にやられて肝腎の寺越さん御本人が会場に到着した頃にはヘベレケだったとか……。この4日間にじっくりと観察された森さんは、北朝鮮好みの人物と判定されていたのでした。そんな森さんですから、首相になって半年後の10月20日にアジア欧州会議出席のために韓国に行き、ブレア英国首相に自慢話のつもりか「3年前の訪朝時に北朝鮮のメンツを立てようと、……行方不明者が北京やバンコクなどの第三国で発見される方法」を提案したと喋った事が新聞にスッパ抜かれてしまったことも有りました。

■97年の森訪朝団は、団長が森喜朗自民党総務会長で、副団長が中山正暉議員、野中広務幹事長代理と社民党の伊藤茂幹事長、さきがけの堂本暁子議員団座長も参加する大規模なものでした。「第三国発見案」の発案者とも噂される副団長の中山議員は、拉致被害者のリストを入れた茶封筒を金容淳書記に渡そうとする元気者でしたが、何故か帰国後には「拉致問題解決は国交正常化後」が口癖になってしまいます。拉致問題が国民的な感心を集めるようになると、中山議員と野中議員は揃って政界から「引退」してしまうのです。

■金泳三大統領時代には、南北統一交渉が進まない横から日本が国交正常化を進めるのは止めてくれ!と邪魔が入ったそうですが、金大中政権になると、何故か日本の交渉を認めつつ、それを利用するように自分も北朝鮮との接触を強めて行きました。


6月13日、金大中大統領が初の平壌訪問。14日、南北首脳会談で統一問題の自主的解決など5項目の南北共同宣言に署名。
7月19日、金正日総書記とプーチン大統領が会談。
7月26日、タイで初の日朝外相会談。河野洋平外相・白南淳外相
8月21日、第10回日朝国交正常化交渉を東京と木更津で開催。
9月18日、京義線連結南側起工式。
10月6日、WFPを通じて日本から50万トンのコメ無償援助。
10月12日、趙明禄・北朝鮮国防委副委員長が訪米し、米朝コミュニケを発表。
10月13日、金大中大統領にノーベル平和賞受賞。
10月23日、オルブライト米国務長官が訪朝。
10月30日、北京で第11回日朝国交正常化交渉

■クリントン政権の最後の1年は、金大中大統領がノーベル平和賞を受賞しオルブライト国務長官が平壌を訪問してマス・ゲームに大喜びしている内に年末になるのですが、金大中のノーベル賞に刺激されたかのように、その年の春に一度頓挫した「村山訪朝団」が、野中広務の暗躍と努力によって復活して何が何でも国交正常化を進めようとするのでした。


12月1日、村山富市元首相が訪朝。
12月19日、日朝赤十字会談で「行方不明者」の調査再開合意。

■先述した密約の噂のある村山訪朝団は、8回目に決裂していた日朝国交正常化交渉を再開する道筋を付けて帰国するのですが、その必要が有ったのかどうか、今となっては甚だ疑問と思われます。さて、米国の年末は11月7日の大統領選挙に際して前代未聞の大混乱が起こっていました。ブッシュ候補の弟が知事を務めるフロリダが決戦の地となり、それでも決着が着かずに父ブッシュの友達が集まっている最高裁判所の裁定を受けて12月13日に息子ブッシュの当選が決りました。

■明けて2001年、記念すべき21世紀最初の年は後の5年間を予感させる大きな変化が起こった年でした。4月6日には、「神の国」発言やらKSD事件などの不祥事により森首相が退陣し、4月26日には三度目の正直で自民党総裁になった小泉純一郎内閣が発足しました。総裁選挙の真っ只中で「終戦記念日に靖国参拝」を公約したり、田中真紀子さんを人寄せパンダに利用したり、先行きが心配になる変人総理の内閣でした。


5月3日、金正日総書記の長男・正男が1日に成田空港の入国管理局に不法入国で身柄を拘束されていた事が明らかになる。

■今でも真相が見えない拘束・釈放・国外退去の不自然な流れで、何が何だか分からない実に不愉快な事件でした。一時期は田中真紀子外相の応援団を自負していた平沢勝栄議員が自分の口から「テポドンが飛んで来るから即刻釈放すべきだ」と御注進に及んだと自慢げに話していたようですが、世論が怒りで満ちると黙ってしまったようです。田中真紀子外相がパニックを起こして判断を間違えたという話や政府判断で逃がしたという話も有るようですが、どちらにしても日本が外交下手だと再認識させられた間抜けな話でした。まあ、当時の外務省は前年からの「アケミボタン」の裏金騒動でまともな仕事など出来ない状態だったわけですが……。
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北の原爆50年史 其の四拾壱

2006-10-24 12:25:11 | 歴史
■翌年の1999年には、北朝鮮は絶妙の硬軟使い分け外交を展開して日本を籠絡してしまいます。

3月23日、不審船2隻が日本海で領海侵犯。
6月15日、黄海上の緩衝海域で北朝鮮と韓国の警備艇が銃撃戦、北朝鮮側は80人死傷、韓国側7人負傷。

日本で密売される麻薬や覚醒剤の4分の1以上が北朝鮮産だと言われていた頃ですから、不審船が2隻ばかり見つかったところで大ニュースではなく、北朝鮮の工作員の間では「食後のトイレに行くより簡単」と言われる日本潜入、拉致も密輸も好き放題に続けていたのに、日本政府は不審船を何度も見付けて追い回しては、北朝鮮の領海に逃げ込まれて見送って来たのでした。「休戦中」の韓国に対しても武力浸透を繰り返していた北朝鮮がちょっと大規模な銃撃戦をしたのですから、日本国内にも若干の警戒感が生まれつつありました。

■その気配を読み取った北朝鮮は、9月24日に「ミサイル再発射凍結」を発表して見せます。それに引き寄せられるように、12月1日には村山富市総理が訪朝するのでした。表向きは「無条件での国交正常化交渉再開」に合意するための訪朝だったとされているのですが、実態は相当にどろどろした利権やら一部の政治家の歪んだ歴史観によって進められた間抜けな朝貢外交だったようです。事は97年に行われた「森訪朝団」が結んだ密約から続いていた二元外交から始まったもののようです。ミサイル「再」発射凍結を待ち兼ねたように、9月下旬に元衆議院議員の上田哲(旧社会党)が自民党幹事長に返り咲く直前だった野中広務議員の「密書」を持って訪朝しています。『週刊現代』がその内容を村山訪朝直後にスッパ抜きます。


「……国交樹立の交渉に当たって、日本側が朝鮮民主主義人民共和国に真摯な謝罪を表明する……食糧、医薬品、土木技術など可能な限りの支援を行なう用意がある……」

■北朝鮮の砂利利権やら金の延べ棒やら、とかくの噂の有ったドンの金丸信に心酔していた腰巾着同然だった野中さんですから、国賊扱いされた90年9月のお詫び訪朝に対する反省も恥ずかしさも感じなかったのでしょう。村山改造内閣で幹事長になった野中さんは、総理の訪朝に同行してキンピカの金日成主席の馬鹿でかい銅像に献花していましたが、6回に渡った対北朝鮮支援の中で最大規模の資金提供を実現してしまいました。


1995年3月の渡辺訪朝団→6月実施分:政府保有米30万トン(無償で24億円分の15万トン、有償15万トン)。10月実施分:政府保有米20万トン(有償で32億円分)。

1996年6月実施分:食糧1.5万トンと医薬品類(WFPに約6億円供与)

1997年11月の森訪朝団→10月実施分:政府保有米6.7万トン(WFPに約29億円供与)

1999年12月の村山訪朝団→翌年3月実施分:政府保有米10万トン(WFPに38億4000万円供与)

2000年4月の国交正常化交渉再開→12月実施分:政府保有米50万トン(WFPに172億円供与)

■こうして北朝鮮に無償で渡った269億円分の支援が何処に流れて何に使われたのやら、さっぱり分かりません。この金額にしても役人のトリックが有るそうで、逆ザヤや相場の変動などを勘案すると北朝鮮への援助を1200億円を超えるという試算が有るそうです。これほどの支援をし続けて、日本が得られたのは12月19日の日朝赤十字会談で合意された「行方不明者」の調査再開ぐらいのものでした。4月5日に第9回日朝国交正常化交渉が7年半ぶりに平壌で開催されましたが、高野幸二郎大使と鄭泰和大使との話し合いは大した成果も無く、「拉致は禁句」の不毛な内容だったようです。北朝鮮にとっての幸運はまだまだ続きまして、翌年2000年の4月2日に小渕首相が急逝して密室談合の結果、5日に総理に決ったのは森喜朗さんだったのです。



北の原爆50年史 其の四拾

2006-10-24 12:24:48 | 歴史

2月25日、金大中大統領就任。「太陽政策」推進。
3月28日、自民党の中山正暉議員が訪朝。
4月6日、パキスタンが中距離ミサイル発射実験に成功。
5月11日、インドが24年ぶりに地下核実験。13日に2回目。
5月28日、パキスタンが初の地下核実験。30日に2回目。
6月6日、印パ核実験に対する安保理決議採択。
※7月30日、小渕恵三内閣発足。
8月31日、テポドン1号発射。日本は制裁措置。
9月5日、金正日が国防委員長に就任。

■北朝鮮国から核保有国のパキスタンにノドン2号が渡って「ガウリ」と言う名前で発射実験が行なわれました。後に有名になるカーン博士が欧州から盗み取った技術と密輸した資材を使ってパキスタンは既に核爆弾を持っていて、それを米国は知った上でインドに自制を促していたそうです。インドが納得したのはパキスタンには核を運ぶミサイルも大型爆撃機も無かったからでした。敵の敵は味方という理屈でパキスタンと組んでインドに圧力をかけていた中国に対しても、米国は絶対にミサイル技術を渡しては行けない!と強く要求していました。ウラン型原爆が欲しい北朝鮮とミサイルが欲しいパキスタンの仲介をしたのは中国だという状況証拠は有りますが、決して表面化はしない話になっています。

■こうして誰の仕業か知らないまま、インドとパキスタンはNPTにも加盟しないまま核弾頭ミサイルを持って核保有国になっています。経済制裁を加えた米国でしたが、対テロ戦争が始まるとパキスタンもインドも味方に引き入れる代わりに無罪放免にしてしまうのは後の話です。射程2000キロのテポドン1号が完成して日本列島を飛び越えて行きました。これは日本の宇宙開発でもなかなか成功しない3段式の長距離ミサイルです。見事に切り離された第1段ブースターは日本海に落下し、第2段は列島を越えて発射地点から1600キロも離れた太平洋上に着水しました。「人工衛星の打ち上げだ」と言われていますが、誰もその形を見ていません。既に日本全土は射程内に収めているので、米国本土に届くテポドン2号が本当に完成すれば、米国も膝を屈して直接交渉に応じると金正日将軍様は信じ切っているようです。

■この年、パキスタンは6回の核実験を行なっていますが、その現場に北朝鮮から12人の専門家が参加していたとの情報が有ります。それも核の闇商人カーン博士の自宅に長期間滞在していたなどという話まで有ります。06年10月9日に行なわれた北朝鮮の核実験が、技術的に考えられないほど小規模な爆発だったので、失敗か?通常爆薬の偽装実験か?などと憶測を呼んでいましたが、この98年に行なわれたパキスタンでの核実験で、最後の一発はプルトニウム型の小型核爆弾だったとの証言も有り、米国が対テロ戦争の仲間になった事で無罪放免にしたパキスタンがどこほどの核兵器開発技術が有るのか、その開発の歴史も全貌が封印されているようなので、北朝鮮が持ち込んだ核爆弾を使用したのかどうかも分かりません。

■どうやら腐っても鯛とでも言うべきか、米国の諜報組織は北朝鮮がパキスタンと共同で核開発を進めている事実を掴んでいたようです。核実験が終了して間も無く在パキスタン北朝鮮大使館の大使夫人が何者かに銃撃される事件が起きています。米国からの「警告」ではないか?との推測が広がっていたようです。テポドン1号の発射実験に成功し、その成果を確認するように金正日が国防委員長に就任して軍を完全に掌握するという流れの裏に、核弾頭の存在が有ったとしたら、世界は完全に手玉に取られたと言えそうです。

■10月5日に自民・自由・公明の3党連立で小渕内閣第2次改造内閣が発足した日本は、バブル崩壊後の「不良債権」問題に眼を奪われていたのでした。日本よりも先に経済危機を脱した韓国の金大中政権は、この年の11月18日に金剛山観光を開始しています。分断前から風光明媚な場所として有名だった金剛山塊には、経済的な余裕が出来た韓国の人々が大挙して押しかけ、「外国人用価格」に従って落された莫大な現金が北朝鮮の核開発を蘇生させてくれました。同年の12月18日には、韓国南部全羅南道沖で見つかった北朝鮮小型潜水艇を韓国軍が撃沈しているのですから、韓国の危機意識は完全に閉塞していたと考えても良さそうです。それ以上に北朝鮮が期待したのは日本から開発資金を巻き上げる計画だったようです。何しろ、当時の日本国総理大臣はアノ村山さんだったのですから……。
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