goo blog サービス終了のお知らせ 

旅限無(りょげむ)

歴史・外交・政治・書評・日記・映画

歴史的遺産の利用法 其の参

2006-06-20 22:17:23 | 歴史
■異常な親日国だった渤海が存在していなければ、多くの遣唐使が命を落としたり貴重な文物を持ち帰れなかったのです。アジア重視というのなら、日本とアジアとの交流史をしっかりと後世に伝えておかねばなりません。「遣唐使」という名前を辛うじて覚えている程度の教養しか学生に授けられない歴史教育では困りますなあ。北はアムール河流域にまで達していた渤海国が存在しなければ、破れたとは言え、満州国の五族共栄の夢は生まれなかった可能性もあります。契丹に亡ぼされたことになっていますが、白頭山の大噴火による大災害が滅亡の原因ではないか?とも言われる謎の多い渤海国は、東アジアのポンペイだったのかも知れませんぞ。そんな面白い歴史を埋もれさせては勿体無いですなあ。

■朝鮮半島では南北統一の浮かれ話が流行しているそうですが、現代の60年は古代の1000年分くらいの大変化をもたらす世界の現状を考えねばなりません。ベルリンという切り込みを入れておいた東ドイツでさえ、統一までの45年の大穴を埋めるのにまだまだ長い時間が必要なのですからなあ。高句麗の歴史問題が中韓でしか議論にならないというのは今の力関係を如実に表わしていると思われます。高句麗も渤海も北朝鮮のルーツだ!と言いそうなものですが、将軍様もおっかなくてそんな不遜な事は言えないのでしょうなあ。もう少し日韓関係が良好ならば、渤海の石碑を韓国に「一時返還」するのも面白い一手かも知れません。チャイナが南の海で好き放題の線引きをしているのは困りものですが、東に押し出して来ては駄目だぞ!というつっかえ棒の代りに石碑を使えれば、日韓共同で「チャイナ外し」の歴史研究が進められるのですが……。

■2006年6月7日の朝日新聞には、別の歴史遺産の記事が掲載されました。『朝鮮王朝実録』という書物です。今度は宮内庁ではなくて、東京大学が舞台です。


東京大の図書館に収蔵されてきた「朝鮮王朝実録」47冊が、ソウル大へと寄贈されることが決った。「存在そのものがドラマ」(佐藤慎一・副学長)と調査に当たった東大関係者も驚くこの歴史書は、日本と朝鮮との間の長く厳しい歴史の生き証人とでもいうべき存在だ。7月中にも、90年ぶりに祖国へと帰る。

うっかり「祖国へと帰る」などと書いてしまっても良いのでしょうか?北朝鮮から文句が出たら、きちんと反論する準備をしておくべきでしょうなあ。


朝鮮王朝の正史である「実録」は、韓国に鼎足山本(848冊)と太白山本(1181冊)の2セットが残る。東大に保管されていたのは五台山本と呼ばれるセットの一部47冊。日本が植民地にして間もない1910年に、東洋史の大家、白鳥庫吉・東京帝大教授がもたらしたらしい。当初は太白山本と同じ冊数だったと考えられるが、東大図書館は関東大震災で全焼。研究者が借り出していた74冊が焼け残り、そのうち27冊が1932年に当時の京城帝大に移され、ソウル大へと引き継がれている。

■大変な史料が眠っていたものです。しかし、天下の東大でも貴重な史料が集められている図書館に地震対策が施されていなかったのは驚きです。これも大切な歴史の教訓でしょうなあ。今の東大図書館はあちこちに分室を造って史料を分散保存したり、消火設備や耐震構造も採用しているようですから、資料保存に関しては長足の進歩を遂げたと言って良いのでしょうなあ。先日の松山訪問で、正岡子規記念博物館のW学芸員から、現代の複製技術について詳しい説明をして頂きましたが、研究者にとっても不自由の無い現物とまったく同じ物を作れるのに驚嘆したのでした。こういう他国の書物は、どんどん精巧な複製品を作って現物はどしどし返却したら良いでしょう。


朝鮮王朝は1445年、実録を保管するための史庫を国内4箇所に設けた。ところが16世紀末に、豊臣秀吉の侵略によって三つの史庫が消失。残った1セットをもとに1606年に復元し、史庫を5箇所に増やし保管していた。

豊臣秀吉まで引っ張り出されると日本の立場は弱くなります。チャイナ側からの度重なる侵略行為を引き合いに出して、「たった1回の侵略をいつまでも問題にするな」という開き直りも出来ますが、ここは素直に反省しておくべきでしょう。

■文禄の役=壬辰の倭乱(1592~96)と慶長の役=丁酉の倭乱(1597~98)は、巨大な歴史ドラマでした。「北虜南倭」に苦しむ明王朝と日本との関係を中心に据えると、東アジアの再編成という大掛かりな企てたが見えて来るのですが、それは織田信長から豊臣秀吉に引き継がれ、徳川家康が清算して鎖国政策へと向います。その大きな分岐点に位置する重要な侵略戦争なのに、何故か日本では大河ドラマでも扱いは粗略に過ぎるような気がします。韓国では大作のテレビ・ドラマや映画も作られているそうですが、「韓流ブーム」の波には乗らないようですなあ。日本の視聴者にとっては不愉快で視聴率が期待できないからかも知れませんが、韓国併合よりは冷静な議論が可能な歴史的事件ですから、もっと興味を持っても良いのではないでしょうか?

歴史的遺産の利用法 其の弐

2006-06-19 10:43:27 | 歴史


遼寧省大連市の政治協商会議では今年1月、大連大学の王禹浪教授らが石碑研究の促進を求める提案をした。旅順市では石碑の展示館建設計画も浮上している。北京の研究者らが04年に設立した「唐鴻ロ井碑研究会」(羅哲文会長)の関係者は、「石碑研究での協力を進め、駐日友好関係を発展させたい」と話し……。

反日運動に利用しようという悪意はまだ見えないようですが、下手をすると一番損な役回りが日本に押し付けられる危険は有ります。


中国側の関心の背景には、歴史的な帰属をめぐる韓国との論争がある。渤海国の前にあった高句麗をめぐる論争は、昨年5月の中韓首脳会談で取り上げられるなど、外交問題に発展した。中国から見れば、高句麗の流れを引く渤海国が唐の藩国であったことを示す石碑は、両国とも中国の歴史に位置づけられるとの立場を裏付ける重要な証拠になる……。

■高句麗時代、楽浪郡や帯方郡を置かれてチャイナの藩国になっていたのは事実ですが、313年には五胡十六国の動乱時代の開始に合わせて完全な独立を回復しています。その全盛期に出現したのが広開土王で、チャイナは南北朝時代へ移る中、高句麗は現在の北朝鮮の2倍以上の国土を北に広げて元気でした。現在の韓国に当たる場所には新羅・百済・加羅(任那)が鼎立して大和朝廷も勢力争いに介入しているという非常に複雑な国際情勢でしたなあ。そんな高句麗ですから、朝鮮半島の人々にとってはチャイナの圧力を押し返した歴史の希望であるわけです。しかし、相手のチャイナ側からすれば、楽浪・帯方郡を置いて呑み込んだ時点から歴史を語りたいわけで、高句麗が元気になったのは北方民族が乱入して起こった天下大乱の五胡十六国から南北朝の「特殊な時代」に起こった一時的な椿事だったと言いたいのでしょうなあ。

■一度呑み込んだからと言って自分の領土だったと言うのは怪しからん!と韓国は怒っているのですが、その舌の根も乾かないうちに竹島ばかりか対馬にまで唾を付けたと偽書を振りまわして興奮しているのは困ったものです。世界は二枚舌で喧嘩するのが常態なのですなあ。日本もこういう図々しさと逞しさを身に付ける必要が有りそうですぞ。渤海国の遺跡は遠くロシア沿海州にも残っているのだそうです。ウラジオストクの西300キロ、その名を「クラスキノ遺跡」と言うのだそうです。昔は「塩州城」という地名で、日本へと向う船が出た港町だったようです。環日本海文化と呼ばれる広大な交易ネットワークの歴史は古く、渤海国もこの伝統の中に出現したのでした。渤海は海上交易によって栄え、唐王朝さえも羨むほどだったのです。

■このロシアのクラスキノ遺跡から発掘された陶器の破片が、福岡県、石川県、山東省、四川省、陝西省、浙江省などでも発見されている湖南省産の物だとか、何とも壮大なネット・ワークを作ったものですなあ。日本海沿岸の地方自治体では、新しい日本海文化を創り出そうと頑張っているところが多いようですから、渤海国の歴史は決して他人事ではないのです。


渤海史を専門とし、99年に石碑を紹介する論文を発表した国学院大栃木短大の酒寄雅志教授は「渤海という国ができた当時を考える史料だ。皇居の奥深くしまい込んでおかないで、まずは開放・公開してほしい」と語る。宮内庁によると、石碑は現在も「国有財産」として皇居内の吹上御苑で保管されている。立ち入り規制があり、写真の提供には応じることはあるものの、公開はしていないという。返還などを求める動きについては、「そういう報道には接していない」としている。

■高熱をおしてシンガポール、マレーシア、タイを歴訪していらっしゃる天皇皇后両陛下がお聞きになったら悲しむような宮内庁のコメントです。こういうのは世が世ならば「君側の奸」と言うのではないでしょうか?宮内庁には新聞も雑誌も届かないのか?海外での武力行使を認めない「憲法9条」を遵守するなら、「戦利品」はどんどん送り返してしまえば良さそうなものですが、縦割り官僚達にとっては国益よりも省庁を守ることが大切なのでしょうか?欧米では平気で「戦利品」を博物館に展示しているのですが、それでも「国民の財産」として全面的に公開していますぞ。皇居内に仕舞い込んでいるのなら、「皇室の財産」なのではないですかな?もたもたしていると「略奪者」の汚名を天皇家に負わせることになるかも知れませんからご注意を願いたいものですなあ。

歴史的遺産の利用法 其の壱

2006-06-19 10:43:11 | 歴史
■日韓、日中間には「歴史認識問題」が出たり引っ込んだり、偶には暴動になったりしてテレビ・ドラマや映画などの交流に水を差します。面倒臭くなると、歴史など何も知らない素人が最近の歌手や俳優を気に入ったという単純な理由で「交流」が進めば良いのではないか?と考えたくもなりますが、それは所詮は「商売」の話という限界が有って、下手をすると新たな幻影が生まれて歴史自体が歪んでしまう危険が有ります。

■対馬では韓国からの観光客を抜きにしては地域経済が成り立たなくなっているという報道も有ります。それも草の根交流の一種なのですが、釣り人の違法行為やゴミ問題が深刻化しているとの話も有るようです。テレビ・ニュースによりますと、韓国からの団体客のガイドさんが参加者を喜ばそうと、「竹島も対馬も韓国領です」などとメチャクチャな説明をしてお客さんから拍手喝采を受けているようですぞ!地元の人にとっては大切なお客様ですから、何を言おうと放って置くしかないでしょうが、目に余るようになると抗議に出向いて暴力沙汰を起す元気な日本人が現われるかも知れませんなあ。戦後、韓国も中華人民共和国も、現政府の正当性を前面に押し出すために無理な物語で歴史を書き換えてしまっていますから、そんな教育を受けて育った人達が観光客になって日本に来ると面倒臭いことになりますなあ。


皇居の中に、中国から運ばれた一つの石碑が眠っている。7~10世紀に東北アジアにあった「渤海国」と、唐王朝の関係を伝える史料で、日露戦争後、「戦利品」として当時の日本軍によって持ち出された。中国の研究者らの間でいま、この碑の公開や返還を求める声が出始めている。……  以下 朝日新聞2006年5月28日記事

■記事の中でも言及されていますが、同時期に朝鮮半島から持って来た「北関大捷碑」が、置かれていた靖国神社の境内から今年3月に北朝鮮に返還されています。「日本は歴史的遺産も拉致した!」とでも騒ぎ立てるつもりなのか、と思っていたら案外静かに返還されたようです。戦争中の石碑と言えば、高句麗時代の「広開土王」を日本軍が改竄したのしないのと変な騒動が起きたことが有りましたなあ。朝鮮半島とチャイナとは、長い「押し競饅頭」の伝統が有りますから、高句麗VS隋だの高句麗VS新羅VS百済VS唐だの、朝鮮半島は分裂と統一を繰り返しながら、チャイナの歴代王朝とも対立と臣従とを繰り返していましたなあ。騎馬民族の雄だった高句麗は、隋の大遠征を3回に亘って撃退し、その莫大な戦費が原因で隋は滅亡したとさえ言われています。その高句麗の跡を継いだのが渤海国です。

■講談社現代新書1104『渤海国の謎』上田雄著が、コンパクトにまとまっていて読み易い渤海の入門書です。日本との関係がどれほど濃密だったのかが分かって楽しい本です。


石碑は「鴻ロ井碑」と呼ばれ、横3メートル、高さ1.8メートル。713年、唐朝が渤海国の国王に「渤海郡王」の位を授け、唐朝と渤海国が君臣関係を結んだ事を記している。現在の中国遼寧省旅順市に設けられた。日本と直接関係のないこの碑が皇居に移されたのは1908年。防衛研究所図書館収蔵の「明治37、38年戦役戦利品寄贈書類」などによると、海軍によって、日露戦争の激戦地だった旅順から運ばれ、戦利品として明治天皇に献上された。

■「日本と直接関係のない」と言い切れるかどうかは疑問が有りますが、激戦地だった旅順から手ぶらでは帰りたくなかった日本軍の気持ちは分かります。しかし、韓国が独立し満洲国も無くなったのですから、いつまでも日本が持っているのは問題が有ると言えるでしょうなあ。しかし、高句麗の跡を継いだ多民族国家の渤海の跡目はどこの国が継ぐべきなのか?と問われれば、非常にややこしい事になります。

日本敗れる時 其の伍

2006-06-18 10:50:07 | 歴史
■暑さと疲労で守備陣はへとへとになっていた所に、試合前日まで休養を充分に取っていたオーストラリア軍が攻め込んで来ます。最長でも6ヶ月の軍務が終れば戦線を離れて休養を取っていた米軍に対して、召集されたら最後、ずっと戦線に貼り付けられていた旧日本軍の心身ともに追い詰められて行く状況に似ています。自殺説さえ囁かれる山本五十六大将の最前線での戦死は、始めから罠を仕掛けられたも同然の中田ヒデ君の疲れ果てた姿に重なります。楽勝を予感しつつ中途半端な守勢に入る事を言い訳にして疲れている仲間達は、邀撃漸減策と一度の大海戦を計画して最後まで全力の出撃を躊躇って終った旧海軍と重なり、間断なく積極的な攻撃を主張して受け入れられなかった山本五十六の悲劇が、「走らないとサッカーは勝てない」と言い続けた中田ヒデ君に重なります。

■ワールド・カップの会場に立てたサポーター達が眠りも忘れてはしゃぐのは許されても、選手が試合本番に疲れを残してしまうほどの直前練習に励むのは褒められたことではありません。同点に追いつかれた時、既にヒディング作戦に翻弄されてしまった中盤組は実力を発揮できないほどの疲労に襲われていたようです。それはまるで旧海軍が永久に実現しない大海戦を夢見て戦力を温存しながら徐々に保有艦船を無駄に沈められて行った姿に似ています。選手達は変なプレッシャーを感じて不安に陥ってしまったのでしょうか?練習せずに休養を取ったりすると無責任なマスコミが「怠けている!」「緊張感が足りない!」などと「撃ちてし止まん」の伝統を振り回すと心配したのでしょうか?


後半43分、投入された小野によって補強された中盤からパスが出て、ゴール前の福西に繋がるがシュートは不発。

後半44分、MFカーヒルがゴール前20メートルからのミドル・シュートがポストを直撃してそのままゴール左隅に決まり勝ち越しの2点目。その3分後ロスタイムに入って、FWアロイージがゴール前に突入して左足シュートで駄目押しの3点目。

1944年7月7日、サイパン島玉砕。
 同年7月21日、米軍がグアム島上陸開始。
 同年8月3日、米軍テニヤン島占領。飛行場建設。
 同年10月24日、レイテ沖海戦。神風特攻隊出撃。
 同年11月24日、サイパン島を発進したB-29が東京を初空襲。
1945年3月10日、東京大空襲。
 同年3月26日、沖縄上陸作戦開始。
 同年8月6日、広島に原爆投下。
 同年8月9日、長崎に原爆投下。

■一度だけ完成した縦パスの連携で福西君にシュートのチャンスが訪れましたが、敵陣ゴール前で足がもつれて自爆同然の不発シュートになってしまったのは、レイテ湾を目前にして反転した栗田艦隊の姿と重なりましたぞ。可哀想なのは川口君で、勝っている話ばかりを聞かされていた銃後の国民が焼夷弾の雨の下で、疎開だの灯火管制だのと追い詰められていった悲惨な姿とGK川口君の切なそうな顔が重なりました。後半44分に投入された大黒君は神風特攻隊みたいなものでした。健気(けなげ)に走り回ってもシュートのチャンスはやって来ませんでした。それは戦闘機として戦えなくなった零戦達に似ていました。

■そして、ロスタイムの3点目は、(誠に不謹慎な比喩になってしまいますが……)戦後のソ連との対立を見越した長崎への「無駄な原爆」投下みたいなものです。得失点差を有利にすると同時にブラジルとクロアチアに向けて怒涛の得点力を見せ付けるためのデモンストレーションのように見えましたなあ。既に日本の姿はオーストラリアの眼中に無かったのではないでしょうか?初出場のオーストラリアを韓国を率いて駆け上がったベスト4よりも上に押し上げようとする気迫がヒディング監督には満ちていましたなあ。

■日本側の敗戦の弁には、旧日本海軍が愛用した「米国の物量」神話によく似たものが漂っているようでした。自分の作戦ミスを相手の有利な条件を言い訳にして誤魔化しては行けません。始めから石油資源を遠方の求めねばならなかった日本軍が当然のエネルギー不足で自滅して行ったように、暑さと緊張と言う敵も味方も同じ条件下で、スタミナ温存に失敗したばかりか、選手交代に逡巡したジーコ監督の失敗は誰の目にも明らかです。出場選手を発表した記者会見で、監督交代というサプライズが必要だったという冗談が冗談ではなくなってしまいましたなあ。日本が戦争(サッカー)に勝てるようになるには、まだまだたくさんの苦労を経験しなければなりません。サポーターの皆さんはプロ野球界の阪神ファンや横浜ファン、或いは最近の楽天ファンを見習って粘り強く応援し続けねばならないでしょう。

■日本社会ぜんたいの問題として、小さな子供達が走り回ったりボール遊びが存分にできる「空き地」を確保しない限り、ワールド・カップのピッチを90分間疾走する馬力の有る強靭な足腰を持つ選手は出現しない事も考えるべきでしょう。テレビ・ゲームと自動車遊びが大好きな若者の中からサッカー選手など生まれるはずはないでしょうし、元々、スポーツの基本になる「走る能力」を軽視している文化にも問題が有ります。イチロー君が出て来るまで、本格的な「走攻守」に優れた選手が居なかった野球界にしても、陸上競技のトラック種目に強力な選手が出現しないのは、設備にも指導者にも制度にも、大きな欠点があることの証拠でしょう。文科省あたりに主導権を預けている限り、ワールド・カップは「参加することに意義が有る」世界的なお祭で有り続けるのでしょうなあ。

■クロアチア戦に望みを懸けて応援するのは当然ですが、オーストラリア戦に感じた悔しさは絶対に忘れては行けません。今大会の結果がどうであろうと、「打倒オーストラリア」が当面の目標になるのでしょうなあ。因みに韓国チームは初戦を勝利で飾って士気が高まったそうです。ヒディング監督の教え子達ですなあ。ジーコ監督を選んだのは誰なのでしょう?

※FIFAの広報から「誤審」の発表が有ったそうです。憎っくきMFカーヒル選手がペナルティ・エリアでファウルを犯していたのを見過ごしたのだそうです。本来なら、イエロー・カードを貰っていたカーヒル選手は退場で、日本は貴重なPKの権利を得られたのだそうです。歴史と試合に「もしも」は禁物ですから、これで2対2になっていたはずだ!と言うのは止めましょう。高原君のファウルと相殺だ!と言われたら困りますし、日本チームは攻撃力を失っていたことに変わりは無いのですからなあ。でも、ちょっと悔しい!

-------------------------------------------
■当ブログの目次
どこから読んだら良いか迷ったらここをクリック

■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い
------------------------------------------

日本敗れる時 其の四

2006-06-18 10:49:28 | 歴史
■元気者の坪井君ですが、04年7月のスロバキア戦で負傷し、半年間の戦線離脱を強いられたのと同じ箇所の故障なのだそうです。単なる筋肉の痙攣(けいれん)ではなかったの?という厳しい指摘も有るようですが、本人が駄目だと言っているのですから仕方が有りません。自陣ゴール前を元気に走り回っていた坪井君は、無敵の零式戦闘機みたいでしたなあ。坪井君は故障で退場、零式戦闘機は構造を徹底的に調べ上げられて対抗兵器が大急ぎで開発されて時代遅れになって行き、最後は爆弾を抱いて特攻が始まるのです。

後半16分、DFムーアに代えて1メートル92センチの大型FWケネディを投入。

■この長身の選手は敵陣ゴール前にも攻め寄せて来て、ただでさえ高い身長に加えて抜群の跳躍力を持っている手強い相手です。何だか巨人機を思わせますなあ。1942年9月21日、米国で超空の要塞B-29が初飛行します。南太平洋ではガダルカナル島の奪い合いが激しくなって、日本軍が第二次奪回作戦に失敗した頃の話です。敵は重爆撃機を投入して来たというのに、日本側にはそれに対抗する大型爆撃機も無ければ、撃墜する対抗機も充分には揃っていませんでした。後は焼夷弾で主要都市が灰燼に帰すのを待つばかり……。


後半8分、DFエマートンが中央からミドル・シュートを放つがゴールの枠外。

後半14分、GKがクリアしたボールを高原がカット。ドリブルで攻め込みシュートしたが相手DFに跳ね返される。

後半24分、ゴール前18メートルからFWビドゥカの低空FKをGK川口が右手一本で阻止。

■戦力の差が隠しようも無く露になり始める流れですなあ。1942年4月18日午前7時20分、銚子沖1200キロ地点に進出した空母ホーネットから陸軍機B-25爆撃機16機が発艦。帝都初空襲と言う大事件の始まりです。この日は「防空演習」の日になっていて、朝から帝都東京上空では模擬空中戦が行なわれていたそうです。ラジオも新聞も「勝った、勝った、また勝った」と連日報道していましたから、国民は暢気に空を見上げていたようです。日本軍は油断無く海上哨戒をしていて、ちゃんとホーネットを発見していたのですが、まさか長距離爆撃機を空母から発進させるとは想像もしていないので、発見場所が700海里(1296キロ)地点だった事から艦載爆撃機が発進するには翌日まで空母は航行しなければならないだろう、と考えたのでした。

■防空訓練している日本の飛行機の群の中に見た事もない巨大な機影が混ざっているのに気が付いた人はほとんど居なかったそうですし、高射砲が射撃を始めた音も訓練だと思っていたそうですなあ。御丁寧にもこの日、東條英機首相は宇都宮と水戸を視察する予定になっていて、宇都宮師団司令部と宇都宮飛行学校の視察後、水戸に向って陸軍機で飛行中に、見慣れない変な飛行機と擦れ違っているのだそうですなあ。水戸市の視察をしている時に県庁職員から「帝都空襲」を知らされて真っ青になったのだそうです。ビドゥガ選手が見せた唸りを上げる低空シュートは、B-25爆撃隊の轟音を思わせる迫力が有りましたなあ。


後半30分、ヒディング監督はFWアロイジを投入して前線を厚くする。

■零式艦上戦闘機と対抗するために新型戦闘機が投入された時期に重なります。1943年10月6日、中部太平洋のウエーキ島上空でグラマンF6Fヘルキャットと零戦が初の空中戦を行なって苦戦します。その後は銃撃されても堕ちないムスタングやライトニングなどの化け物は、空の戦車として日本の飛行機を次々と撃ち落して行くのです。ジーコ監督の手には交代カードが3枚しか無いのに、坪井君の交代で1枚使ってしまったのが敗因とも言われますが、相手が攻勢に出て来たのを傍観したのは大失敗です。旧日本軍には対抗兵器が無かったけれど、ジーコ・サムライ日本には控えの選手が居たのですからなあ。ここで小野君でも大黒君でも即座に投入しておけば、追加点を奪いに行くぞ!という意思が選手にも伝わったはずなのですが……。

■ヒディングの悪魔の戦術で中田ヒデ君も中村俊輔君もぼろぼろに疲れ切っていたのでした。ピッチ上の温度は摂氏38度だったとの情報も有ります。前日までボーリングやらゴルフやらで、一見暢気に過ごしていたオーストラリア軍は、この猛暑に耐えるスタミナを温存していたのかも知れませんなあ。日本のマスコミは連日、日本チームの練習風景を報道しており、特に中田ヒデ君が居残り特訓をしていると頼もしげに伝えていたのでした。疲労を心配する報道は皆無だったのではないでしょうか?大本営発表の提灯記事を書き散らしていた戦時下の新聞社と何処が違うのでしょう?「気持ちだ」「気合だ」「応援だ」などと、戦時中の馬鹿馬鹿しい標語みたいな報道をしているセンスを疑わねばなりませんぞ!


後半30分、柳沢の力を失ったシュートはゴールを外れる。

後半34分、中盤強化のために小野を投入し柳沢を下げる。

後半39分、オーストラリアの左サイドからロングスロー、GK川口が飛び出し、ゴール前にこぼれたボールをMFケーヒルの右足がネット中央にシュート!

1942年6月5日、ミッドウェー海戦始まる。空母4隻喪失。
 同年8月18日、ガダルカナル島第一次反攻作戦失敗。
1943年2月7日、ガダルカナル島撤退完了。
 同年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官戦死。
 同年7月29日、キスカ島撤退作戦成功。
 同年11月1日、米軍がブーゲンビル島に上陸開始。
1944年2月17日、米軍がトラック島基地を攻撃。
 同年3月8日、地獄のインパール作戦開始。
 同年6月15日、米軍がサイパン島上陸開始。

日本敗れる時 其の参

2006-06-16 12:46:34 | 歴史
■これを「邀撃漸減(ようげきぜんげん)」と呼んで必殺の「迎撃作戦」と信じていました。つまり、サッカーで言うところの「攻撃的な防御」から一挙に攻勢に出て得点するという戦法と似ているのです。ところが、自分で飛行機をたっぷりと積み込んだ機動部隊をバカみたいに遠い適地に進めて飛行機で主力艦隊を崩壊させてしまったものですから、「大海戦」計画が宙に浮いてしまいます。真珠湾の上空を日本の飛行機が飛び回った数日後に、超弩級戦艦大和が進水しています。当初の計画の目玉になるはずの大戦艦は誕生の時から税金の無駄遣いの巨大な塊(かたまり)だったのです。最後は沖縄特攻作戦に行かせて洋上で大爆発させてしまいましたなあ。

■ジーコ・サムライ日本も、何が何でも正真正銘のシュートを放って追加点を取りに行くのか、虎の子の1点をどんなに卑怯未練で無様な戦いになろうとも死守して勝ち点3をもぎ取るのか?に悩みます。司令官のジーコも腹は決らなかったようです。前半が終了してピッチを去る時に、中田ヒデ君は盛んにFWの選手に檄を飛ばしている姿をテレビ・カメラは捉えていましたなあ。彼は追加得点を取ろう!と言っていたのでしょう。しかし、選手達は中田ヒデ君の言葉に大きく頷くような場面は無かったようです。選手の自主性を信頼するという方針が裏目に出始めていたのを証明するのが、休憩時間に語った言葉です。


「リードしている時のサッカーをやろう」

■このジーコ監督の指示はメンバーにはどんな意味に取られたのでしょう?手段を選ばずに1点を死守してカッコ悪く「勝ち点3」にしがみ付くのか、守りつつもカウンターで追加点を貪欲に取りに行くのか?万一、守りと攻めの間に意思の齟齬(そご)が起きていたのなら、中間地帯にぽっかりスペースが開いて敵が好き放題に暴れまわる事になりますなあ。漏れ聞くところによりますと、敵将ヒディングは日本チームの要は中田ヒデ君と中村俊輔君の二人だけだ!と見抜いていたそうです。これは米軍が「蛙跳び」作戦で沖縄とサイパン島だけを目指して日本列島に肉薄したのに似ています。ラバウル航空隊もシンガポール要塞も戦線の後方に放置して、日本を焦土にする事しか考えていない米軍と、格好良い「一戦後和平」の花道を探していた日本軍との違いが、今回のオーストラリア戦にも見えたような気がします。

■ドイツ戦で2度のシュートを決めた高原君を連日囃し立てていた日本のスポーツ・ジャーナリズムは、ヒディング監督に利用されたようなものです。策士ヒディングの眼中には高原君の影さえ無かったようですぞ。彼が大変な努力家である事は本当でしょうが、勝負師にとって最も大切なのは「運」です。日本海海戦に東郷平八郎が起用された最大の理由は「運が良い男」でした。江戸時代生まれで戊辰戦争を経験していた明治の軍人は実戦での「運」がどれほど重要なのかを知っていたのでしょう。世界レベルで通用する「運」を持っているのは中村俊輔君と中田ヒデ君だけだったという事でしょうなあ。


後半8分、競り合いから着地したDF坪井が右太腿裏を痛める。自ら続行不可能のサインを出して、11分に茂庭君と交代。

「運」という話になると、ジーコに付き纏う「不運」について就任直後から何度も書かれていましたなあ。ピッチに仰向けに寝転んで苦痛に表情を歪めている坪井君の姿は、米国に捕獲された零式艦上戦闘機を思わせました。

1942年6月5日、艦上攻撃機9機と零式艦上戦闘機6機が空母龍驤を発艦してダッチハーバー攻撃に出撃。古賀忠義一飛曹が操縦する零戦の一機が地上砲火で被弾。潜水艦による救助を期待して不時着予定地のアクタン島に向かうが、湿地帯の泥に車輪を取られて機体は一回転し古賀一飛曹は首の骨を折って即死。一部始終を見ていた僚機は銃撃して機体を消失させるのは忍びないと機体を放置して帰還。その5日後、米国哨戒機によって機体は発見されて分解梱包されて8月12日にサンディエゴ海軍航空基地に届けられ、1ヵ月後には星マークを付けて飛行試験が始まる。

日本敗れる時 其の弐

2006-06-16 12:46:21 | 歴史
■日露戦争の体験から「開戦劈頭、敵主力を撃滅」の方針が出ていたにしても、奇襲を禁じるハーグ条約が発効していたのですから、日本は戦争の始めから大間違いをして自分から「悪役」になってしまった過去を思い出せば、あの「タナボタ」得点を大喜びするべきではありませんでしたなあ。黙って次の「本物のシュート」を貪欲に狙いに行かなければ駄目です!ファウルであろうとなかろうと、どちらにしても、あれは「シュート」ではなかった事だけは確かです。スポーツ紙が掲載した外電は以下の通り。

オーストラリアのGKシュワルツァーは柳沢に邪魔されたように見えた。(ロイター)

高原がGKを妨害したように見えたが、エジプト人主審はオーストラリアの講義を受け付けなかった。(AP)

■1点は1点ですから、これを切り札にして勝ち点3を取っていれば「勝てば官軍」原爆も東京裁判も許される!と言っていられるのですが、それには勝利に対する獣じみた執念と手段を選ばぬ迫力が必要で、それは和風の文化にはそぐわないもののような気がして仕方が有りません。生活を犠牲にし、詐欺にカモにされながらも現地のドイツまで出かけて応援している人や、明日の勤務や授業を放り出してでも声援を送っている人達がぬか喜びするのは結構なことです。しかし、ピッチに立っている選手たちの喜びようは異常でした。始めから中村俊輔君がフェイント気味のシュートを狙い、それを柳沢と高原が承知の上でファウル覚悟の突進をしたのなら良いのですが、どう見ても中村俊輔君のクロスが長過ぎ、高原君と柳沢君が間に合わなかった所に、うっかりしたGKシュワルツァーが飛び出して柳原君と接触、その直後に飛び込んで来た高原君と衝突。後から飛び込んで来た高原君の手の動きも「微妙」なものが有りましたなあ。

■ファイターならば、こんな得点に大喜びなどせずに、敵陣のゴール・ネットを突き破るようなシュートを叩き込んでやる!という殺気立った表情になって唸り声を上げて欲しかったですなあ。まるで優勝でもしたかのように大喜びしているサムライ日本を観ていて、何故か戦争中の草鹿参謀長という変な人の事を思い出したのでした。真珠湾攻撃の作戦立案をしたり、ミッドウェー海戦には「運命の10分間」の大チョンボの現場、旗艦赤城の艦橋に居た人です。この人は「無刀流」とか言う剣の使い手で深遠な剣の奥義を近代総力戦に応用しようとしたオカルティックな人物です。敗戦後は有機農法か何かに熱中して明るい戦後を過ごしたようですが……。

■草鹿参謀長が鍛えていた剣術には「金翅鳥王剣(きんしちょうおうけん)」とか言う奥義が有るそうです。名人の一撃を加えたらさっと引く戦法なのだそうで、悪く言えば自己満足の美学に凝り固まった話のようなものです。格好良く引き上げる後ろから卑怯千万な飛び道具が飛んで来たら騙まし討ちに合って無様に殺されるだけでしょうに!時代劇のチャンバラ映画ならば、抜き手も見せずに鞘走った白刃が一閃したと思ったら目にも留まらぬ速さで剣は鞘に納まって、悠然とその場を立ち去る主人公が居て、それを呆然と見送った相手の髷(まげ)がぽろりと落ちる……。そんなイメージで近代的な消耗総力戦をやっていたのですから、トンデモない話です。

■世界を驚かせた真珠湾攻撃にしても、魚雷が使えないほど水深の浅い湾内に並んでいる軍艦を「着底」させて大喜びしたものの、巨大な燃料タンクもクレーンやドック設備も無傷で残した結果、せっかく撃沈した軍艦は一隻を残して全部修理されて戦線に復帰してしまいます。相手に止(とど)めを刺さずに、大勝利に酔っ払えるのが日本人なのでしょうか?さて、ジーコ・サムライ日本は、この「タナボタ」得点の後、旧日本海軍と同じジレンマに落ち込んだように見えたのでした。日露戦争時の日本海大海戦を教科書で勉強していたエリート達は、対米戦争でも大海戦をやる心算でいたのです。それには、広い太平洋をぞろぞろと軍艦を並べて渡って来る米国艦隊をちびちびと沈めて、決戦場と想定されているマリアナ諸島近海に達するまでに弱体化させておいて、それを迎え撃って撃滅するのだそうです。

日本敗れる時 其の壱

2006-06-15 14:47:13 | 歴史
■残念至極と言うべきか、予想通りと言うべきか、何とも脆(もろ)い負け方をしたジーコ・サムライ日本でしたなあ。「全勝だ!」「優勝だ!」などと、テレビ局の制作費を無駄にしたくない業界の人は空元気で暴言を吐いていましたが、旅限無はF組「日本対オーストラリア戦」の前半20分から観戦しつつ、先の日米戦争の歴史を復習していたのでした。サムライ日本の曽祖父が太平洋を舞台にして戦った4年半の激闘が、ドイツのサッカー場に再現されたような気がして仕方がありませんでした。これは日本の精神風土や歴史的な宿命のようなものなのかも知れませんなあ。

■サッカーは人類が背負っている戦争文化の最終的な型だと考えれば、国際連合に加盟している国や地域よりも多い207の国や地域がFIFAに加盟しているという現実も納得できるというものです。そんな中に紛れ込んだ日本は、やはり、良くも悪くも戦う時の癖が出るのではないでしょうか?ところどころ、少々強引な解釈も使いますが、大東亜・太平戦争のアナロジーで対オーストラリア戦を振り返って見ましょう。


前半1分、ゴール正面左から中村俊輔のFK。壁に跳ね返される。

前半6分、FWビドゥカに左サイドを破られ左右のシュート2本を放たれ、GK川口が好セーブ。

1940年1月26日、日米通商条約破棄。
 同年9月23日、日本軍仏領インドシナに進駐。
 同年9月27日、日独伊三国同盟条約調印。
1941年4月16日、日米交渉開始。
 同年7月25日、在米日本資産凍結。
 同年8月1日、対日石油禁輸措置。
 同年11月22日、日本海軍機動部隊択捉島に集結。
 同年11月26日、ハル・ノート提示。

■太平洋戦争は米国政府が対日開戦を密かに決定した段階から始まっているわけで、大陸での戦線が広がり続けて収拾が付かなくなっている日本に対して2年間に亘って米国は、外交交渉という名目で無理難題を押し付ける様子が、FWビドゥカが放った右足と左足の両方を駆使したシュートにちょっと重なりますなあ。こういう時には、相手は本気なのだと日本は早く気が付かねばなりません。先制点を取られないように頑張ったGKの川口君は右に左に大活躍で、これ以降も最後の10分間を迎えるまでは、まるで彼1人がワールドカップに挑んでいるかのようでもありましたなあ。零式艦上戦闘機のような、ミリ単位で調整した特製スパイクと機能性の極地を究めたグラブを使っていたそうです。それに加えて奥さんとお子さんの名前を刺繍したというのですから、「千人針」や国旗の寄せ書きみたいですなあ。


前半13分、福西が中央から放ったミドル・シュートはゴールの枠外。

前半22分、ゴール前中央でMF中村がボールを受けて左にドリブル、切り返して相手DFを振り切る。右足ミドル・シュートはゴール左に逸れる。

前半25分、FWブレンシアーノの右足シュートをGK川口が左に跳んでクリア。

前半26分 右サイドMF中村の左足から40メートルのアーリークロス。FW高原と柳原がゴール前に疾走。GKシュウォーツァーが飛び出し、DFニールとムーア、合計5人がペナルティエリア中央で交錯。高原とシュウォーツァーが接触して転倒する間にゴール! 

1941年12月8日、日本陸軍はマレー半島上陸開始。海軍機動部隊が        ハワイ真珠湾を奇襲。香港とフィリピンへの攻撃        開始。
 同年12月10日、マレー沖開戦で英海軍東洋艦隊主力艦撃沈。
        グアム島とフィリピンに上陸開始。
 同年12月16日、ボルネオ島上陸作戦開始。
1942年1月15日、ビルマ攻略開始。
 同年1月18日、ビスマルク諸島ラバウルに上陸。
 同年2月4日、ジャワ沖海戦でオランダ海軍を破る。
 同年2月8日、シンガポール上陸作戦開始。
 同年2月15日、シンガポールとスマトラのパレンバン占領。
 同年4月3日、ルソン島バターン半島の米軍を攻撃。
 同年4月5日、コロンボ空襲。

■攻守ともに絶好調!机上プランが予想よりも早く実現して、国民(サポーター)は根拠も無いのに勝利を確信してしまいます。虚を衝かれた相手側は、右往左往しているように見えても、必勝の態勢を整えようと裏でも表でも知恵を絞って日本の隙を探している時期に、「タナボタ」得点にすっかり気分が昂ぶって相手を見くびって舐めてかかるのが日本の悪い癖なのかも知れませんなあ。正直に言って嬉しい「タナボタ」得点ですが、外信には納得が行かない疑惑を指摘する声も有りましたし、審判はオーストラリアに対して密かに「誤審」を謝罪していたという話が翌日の新聞には出ていましたぞ。もしも、1対0で試合が終っていたら、相当に大きな問題になって尾を引いたのではないでしょうか?まるで卑怯な真珠湾奇襲で遅れた最後通牒手交みたいに……。

歴史は続くよ何処までも 其の参

2006-05-19 08:33:47 | 歴史
■箕子朝鮮の後は、衛氏朝鮮が100年弱続いたそうですが、これを滅ぼしたのが漢王朝の武帝で、「楽浪郡など4群」を設置したぞ、と漢籍に書いてあります。紀元前108年の事だそうです。しかし、漢王朝の弱体化につけ込んで、朱蒙という人が高句麗を建国します。紀元前37年から延々と668年まで頑張っていたのですから大したものですなあ。高句麗滅亡の大事件には、我らが大和朝廷が関わっているのですから、日本は随分と新しい国という事になります。391年には広開土王という英雄が現れて大活躍した記録は石碑に刻まれていますが、高句麗は313年に楽浪郡を滅ぼして漢族を追い出してしまいます。この事件は朝鮮族から見れば「民族の独立を回復」という事になりますし、漢族側から見れば「反乱」という事になりますから、楽浪郡に歴史に基点を置くチャイナの歴史学からすれば、高句麗はずっとチャイナの支配下に有ったんだ、という事になりますし、朝鮮族からすれば、楽浪群が有った時期が特殊だったんだ、という事になります。

■後漢の末期、いよいよ『三国志』の時代が始まろうとする頃、公孫康という人が遼東半島に帯方郡を設置してほぼ独立、このお陰で三国の大乱から隔てられてた朝鮮半島は、半島の三国時代を迎えました。この辺りの駆け引きに日本の北九州が巻き込まれ、大和朝廷の謎の創成期が重なっています。その後、高句麗がチャイナの南北朝時代にのし上って、大いにチャイナの歴代王朝を苦しめます。あの隋王朝が滅んだのも、対高句麗戦争に失敗したからだと言われているくらいです。日本でもお馴染みの半島の三国時代が始まるのは、西暦346年の百済建国と、356年の新羅建国からです。最終的に新羅が半島全土を掌握するわけですが、決して単独で勝ち残ったわけではなく、唐の「遠交近攻」戦略を見事に利用した結果でした。

■大和朝廷と縁の深かった百済を滅ぼしたのが660年で、怒った皇太子時代の天智天皇が唐と新羅の連合軍に戦いを挑んだのが「白村江の戦い」で、見事に完敗。大和朝廷は鎖国防衛体制を整えて臨戦態勢に入って大騒ぎしている間に、668年、南北からの挟み撃ちに遭って、さしもの高句麗が滅ぼされます。その勢いで新羅は同盟関係を結んでいた唐を裏切って独立したのでした。とは言っても、長い間の同盟関係から唐の文明と技術力、文化の高さを知り尽くしていた新羅は、唐と友好関係を維持して唐風の国造りに励んだようです。

■唐王朝自身が高句麗に接していた鮮卑族が南下して建国した国なので、半島を統一した新羅も付き合い易かったようです。長安で花開いた仏教文化の中に、優れた「新羅僧」が何人も出て来ますし、その中には仏教文化を取り入れ始めたチベット王国からの留学生に協力した新羅僧なども居ましたなあ。百済からの大量の難民を受け入れた日本も、新羅の隆盛は受け入れなければならず、遣唐使を送るにも新羅の沿岸を利用できないのは不便なので、仲良くし始めます。新羅時代に今の朝鮮半島の文化習俗の基盤が出来上がって、苗字もチャイナ風になって定着したそうです。本家の唐がいよいよ衰退して、「五代十国」の動乱が始まる頃、高句麗が滅んだ場所に震国という国が生まれ、渤海という名前に変わります。どうやら白頭山の大爆発によって弱体化した後、契丹の侵略によって滅んだとも言われていますが、この渤海が何故か日本が大好きで、名産の美しい毛皮をお土産にして平安京に頻繁にやって来ました。

■どうやら渤海国の狙いは、日本に協力して貰って新羅を南北から攻め滅ぼそうという事だったらしく、日本側は白村江の大敗を忘れていなかったので、この要請は拒否し続けていたようです。918年に王建という人が高麗を建国して、935年、とうとう新羅は高麗に滅ぼされて朝鮮半島の主が交代しました。というわけで、「新羅が唐の東部を占領した」という林教授の主張は、唐の最盛期に国際国家として多くの商人や留学生を受け入れていた頃、平和的な交流を続ける拠点として作った居留地を「占領地だ!」と解釈したか、唐王朝の末期に起こる大動乱に、新羅が少しばかり介入するポーズを取ったのを拡大解釈したかのどちらかではないでしょうか?

■どちらにしても、欧州で発展した近代国家の国境という考え方とは、まったく違う支配領域に対する感覚を持っていた中華思想による王朝時代に、無理やり占領地域や国境を設定しても議論は平行線を辿るしかない事は確かでしょうなあ。それは、清王朝を檀家信者だと思って付き合っていたチベットが、いつのまにか中華民国の領土に取り込まれてしまったように、時代の区切りを無視した欧州仕込の国境線を悪用するのは問題をややこしくするものなのです。

-------------------------------------------
■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い

『チベット語になった『坊っちゃん』』発売中!
------------------------------------------

歴史は続くよ何処までも 其の弐

2006-05-19 08:33:18 | 歴史
■朝鮮古代史騒動の続きです。

「上海商報」などによると、韓国大田大学の元教授・林均沢氏(69)は、2002年末に出版した著書「韓国史」の中で、「韓国の古代王朝・新羅が唐の時代に中国大陸に進出し、上海を含む中国東部の大半を支配下に置いた」などとの見方を示した。さらに当時の地図を紹介。それによると新羅の勢力範囲は今の上海、福建省まで及び、一方、唐は四川省、雲南省など中国の西南部の一部の地域にとどまった。林氏は哲学科教授だったが、定年後、韓国古代史の研究を行っているという。

林教授の年齢からしますと、朝鮮戦争当時は中学生だったことになりますなあ。「義勇軍」を名乗る人民解放軍が退去して鴨緑江を渡って侵入した事を苦々しく覚えている世代です。

■高句麗でなく、新羅に力点を置いて古代史を再構築しようというのは、実に面白いですなあ。


上海大学文学院のある歴史研究者は中国メディアに対し「韓国の古代王朝の領土範囲は朝鮮半島を出たことはない」「荒唐無稽(むけい)だ」と切り捨てた。韓国の駐上海領事館も「著書は林教授の個人的な見解であり、韓国では主流の学説になっていない」「この本は教科書としては使われていない」と説明しているという。
産経新聞 - 5月17日

本当に「荒唐無稽」な話なのですが、敢えて旅限無は林教授の肩を持ちます。それは『ノストラダムス』本や『神々の…』やら『ダヴィンチ・コード』ほど、トンデモない話ではないのです。問題なのは「唐王朝」の正体と考えられます。林教授の気持ちを忖度(そんたく)して、どうして今更「新羅」なのか?という問題を考えてみましょう。

■北朝鮮で、実に不思議な「遺跡」が発見された話は、ぜんぜんアジアの歴史学界では相手にしていませんが、ここから既に問題は混乱します。檀君が実在したのか?という一事が解決されないままに、朝鮮半島の歴史とチャイナの「易姓革命」「天下」「中華」の正しい歴史が激突すると収拾が付きません。19世紀の社会科学の頂点に立つ社会主義を更に発展させて「主体思想」哲学にまで達した科学的な地上の楽園で、1993年に発掘調査をした結果、檀君のものらしき骨が発見されたばかりか、「電子常磁性公明法」という聞いた事も無い珍しい解析によって5011年前のものだと判明したのだそうです。どんな機械なのか見せてくれ!などと言っては行けないようですが、噂によると、檀君の遺骨は白く光ってとても綺麗な巨大な物らしいのですなあ。この貴重な?遺跡を保存する為に大金を使って立派な博物館のような建物を作ったのだそうですが、北朝鮮ツアーの定番コースには入っていないようです。日本の宮内庁が「古墳は掘るな!」と頑張っているのは、それなりに智恵を働かせているのかも知れませんなあ。

■ピラミッドが出現する更に3000年前に活躍した檀君の遺跡が出て来たら、誰も文句は言えなくなるわけですが、南北融和政策を進めている大韓民国からも、この大発見に関する動きは無いようです。何だか、ドイツの水道工事屋さんが行った事も無いチベットのラサ、ポタラ宮殿の地下で「巨人の骨」を見たぞ!と言った話を髣髴とされるような、ロマンティックな話ですが、残念ながら現在の歴史学では、紀元前3世紀の箕子朝鮮国あたりから、何らかの集団が存在していた事になっているようです。では、檀君以後の2600年間の歴史はどうなっているんだ?などと失礼な事を聞いては行けません。今の北朝鮮の首領様の親子二代の歴史も、よく判らないのですからなあ。

歴史は続くよ何処までも 其の壱

2006-05-18 21:46:14 | 歴史
■靖国参拝に拘っている割りには、小泉総理の「歴史」に関する発言というものがまったく聞こえて来ません。『米百表』を復刻させて流行させたり、信長に関連する小説の売り上げに協力したりと、歴史小説が好きらしい、ということは想像出来ますが、歴史を体系的に考えている感じがしないのは不思議なことです。極一般的な意味で、歴史小説が好きなだけなのかも知れませんなあ。「物言えば唇寒し」という事情も有るのでしょうが、良く言えば庶民的、悪く言えば教養が乏しいように見受けられる小泉総理から、重厚な歴史観を聞かせて欲しいとは思いませんが…。

ナショナリズムを超えて歴史認識の共有を目指そうと、日中韓3カ国の学者らが作成した歴史書『未来をひらく歴史』が改訂された。改訂箇所は約200カ所に上ったが、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判する文言も盛り込まれたという。南方都市報などが伝えた。『未来をひらく歴史』は日中韓3カ国の学者や教師ら約40人が編集会議を重ねて2005年5月に出版した。3カ国で同時発売され、16日付の中国新聞社によると発行部数は中国で11万部超、日本で7万部、韓国で6万部に達している。中国社会科学院・近代史所の栄維木・研究員は「日本の歪曲した右寄りの歴史認識を改めてもらうことが出版の目的の一つだ」とコメントした。

■欧州の真似をして、歴史観の違いを超克しよう!と張り切るのは結構なことのように聞こえますが、欧州では社会主義神話が徹底的に崩壊して舞台が整っていましたし、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムという非常に分かり易い「テキスト」の批判も済んでいるのですから、現代史を共同で書き上げるのもさほど難しくはないと思われます。しかし、東アジアは「特色ある」社会主義やら、「地上の楽園」がまだ生き延びて居る上に、日本の歴史学はまだ「独立」を回復しては居ないとも言える状態なので、「3カ国」の学者が集まったところで、誰が主導権を握るのかは明らかです。

■中国の11万部は恐ろしく少ない!そして、日本の7万部は驚異的に多い!そんな印象を受けますなあ。誰が買ったのでしょう?


南方都市報によると今回改訂された箇所には、誤字・脱字といった技術的な部分に加えて、「2005年までに小泉首相は靖国神社を5回参拝した。政治家の靖国神社参拝問題が日本とアジア諸国との友好関係を台無しにしている」との文言が含まれた。一方、尖閣列島(中国名:釣魚島)や東シナ海のガス田問題などは言及されなかったとされる。『未来をひらく歴史』の改訂版は中国での出版に続いて、日本や韓国でも刊行される予定だという。
サーチナ 2006年5月16日

実物を見ていないので具体的な内容は分かりませんが、尖閣諸島を棚上げするのなら、「盧溝橋事件」も棚上げされているのでしょうか?日清戦争の位置づけはどうなっているのか?韓国併合の事情はどう説明しているのか?何もかも「日本だけが悪い」一色で塗り潰されている本ならば、大きな禍根を残したことになりますぞ。記事の感触からは、日本側から参加した学者さんは、戦後の一時期に独特の教育を受けた現代史の専門家ではないか?と推察できます。北方民族が大活躍する長大なチャイナの易姓革命の歴史をどんな風に扱っているのか?まさか、チンギス汗も中華民族だ!ヌルハチも中華民族だ!チベット人もウイグル人も皆中華民族だ!などのトンデモ話が盛り込まれているのではないでしょうな?!もしも、「高句麗人も中華民族だ!」まで言い切ってしまっていたら、これは非常に価値のある歴史教科書になります。

■勿論、そんな教科書の編纂作業に参加した韓国の学者さんは、祖国に帰れなくなってしまうでしょうし、一族郎党も安心して暮らしていられなくなるでしょう。そんな事件の報道が無いところを見ると、韓国の学者さんは祖国の誇りを死守したと思われます。まったく、日本という国は、自国の悪口を吐き散らす事に異常な快感を覚えるような倒錯した変態趣味を持つ歴史学者さんが居て困ります。そんなに嫌なら、お気に入りの国に亡命して国籍を変えれば良いのですが……。


「上海は韓国の古代王朝の領土だった」とする韓国の学者が出版した歴史書が、中国の新聞に紹介され、同国内で大きな波紋を広げている。ネットの掲示板には「非常識」「無責任だ」といった反論が殺到。日本の竹島の領有権をめぐっては「日本が韓国の領土にちょっかいを出す」などと韓国寄りの書き込みが大半だったが、自国のこととなるとさすがに放っておけず、「朝鮮半島こそ中国領だった」といった書き込みであふれ、韓国批判一色となっている。……

■せっかく、「3カ国協同」で『未来をひらく歴史』が刊行されて目出度い最中なのに、「正しい歴史認識」はどうなっているのでしょう?

バチカンの怒り 其の弐

2006-05-08 16:56:17 | 歴史
■改革開放の波に乗って、長らく禁止されていた信仰が認められ、北京市内でも聖堂が修復されたので、バチカンと北京政府が断絶状態が終わるのではないか?などと甘い夢を見た信者が多かったようですが、そうは問屋が卸しません。

中国とバチカンの関係は1951年以来断絶しているが、昨年春、新法王にベネディクト16世が就任し、両国に関係改善への意欲が見えていた。その一方で、中国側は関係正常化の条件として、バチカン側に台湾との断交、(国内司教任命という)内政に干渉しないことを明確に要求していた。特に司教任命権は、中国にとっては政権の安定にかかわる重大事。キリスト教は愛国会を含む公認2組織に所属する信徒だけでも500万人。地下教会などを加えると数千万人との推計もあり、これら勢力が党が掌握できない指導者のもとで結束しうる危険は避けなければならない。

■先代のヨハネ・パウロ2世は、故国のポーランドに乗り込んで自主労組の「連帯」を激励した事を北京政府は絶対に忘れません。それはルーマニアのチャウシェスク夫婦が軍部に銃殺されるシーンを見て生きた心地もしなかった北朝鮮の親子と同じです。ローマ教会の後押しでポーランドはソ連の衛星国を脱し、それが引き金となってソ連自体が崩壊して行ったのですからなあ。バチカンの好き放題にさせて置いたら、将来、チャイナ出身の法王が誕生して故国の体制批判でも始められたら目も当てられません。、


…中国がカトリック教会だけに妥協すれば、チベット仏教など他の宗教の反応も懸念される。中国外務省の劉建超報道官は7日、「バチカンは中国のカトリック教の歴史と現実を顧みず、非難には何の道理もない」と批判する談話を発表し、事実上の決裂ムードが漂っている。産経新聞 - 5月8日

■日本でも、次期政権の外務大臣にはカトリック信者の民間人でも起用して、対中国外交を進めてはいかが?チベット仏教を信仰している人でも良いのですが……。連休始めに、NHKでは衛星放送で先行放送していた歴史物で『鄭和艦隊』を取り上げた大作を放送しておりました。鄭和自身がイスラム教徒だった事を前面に押し出して、中国とイスラムがとても仲良しだった歴史を熱心に作り出しておりましたなあ。鄭和の大艦隊を送り出した永楽帝は、モンゴル帝国の復興を期した常勝チムール軍団が東に向かって大遠征に出発したのを聞いてビビッていたとか……。運よく遠征に出発した直後にチムールが事故死してくれたので大軍団は西に引き上げたのでした。それを考えれば、鄭和艦隊は海から圧力を掛けてシルクロードを押し出してくるイスラム軍団を牽制する意図を持っていた可能性が高いですなあ。

■チャイナの地に辿りついたイスラム教徒は、決して安楽な暮らしをしていたわけではなく、清朝時代には何度も大反乱を起こしておりますし、例の「太平天国の乱」と同時期には、東トルキスタンが独立する寸前まで行きましたし、それと呼応して四川省ではイスラム教徒の大反乱が起きました。太平天国教団が本当にキリスト教徒達の集団だったかどうかは怪しいものですが、大反乱を起こしたイスラム教徒は本物です!幸か不幸か、イスラムにはローマのような組織の中心が無いので、欧州でも米国でも、そしてチャイナでも、分断孤立政策を強要して押さえ込む事が出来ます。スンナ派とシーア派の兄弟喧嘩さえ無ければ、今頃はチェチェンからウイグルまでの中央アジアを挟んだ広大な地域にイスラム帝国が出現し、イラクかイランが政治的中心となり、アラビアの聖地から広がるネットワークがユーラシア大陸を包み込んでいた事でしょう。

■欧州や米国で厄介者扱いされているイスラム教徒の2世や3世は、頼るべき世界的な組織が無いので、アルカーイダにでも加入しないと反抗出来ませんが、カトリック信者にはバチカンが有ります。世界最強の情報組織とも呼ばれるバチカンですから、本気になったら怖いのです。「宗教者世界会議」のような催し物を企画して、抽象的な「愛」を語っているばかりがバチカンではありません。社会主義を根絶やしにするのか、イスラム教と雌雄を決するのか、どちらの支配地域にも人道的な援助活動を名目にしたミッション組織を送り込んでいるバチカンに対して、スターリン直伝の民族分断統治の腕を磨いた北京政府は、援助だけは有り難く受け取って、余計な事は絶対にやらせません。物騒な狐と狸の化かし合いが続いていたのですが、作り笑いの時期はそろそろ終わるという事かも知れませんなあ。

-------------------------------------------
■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い

『チベット語になった『坊っちゃん』』発売中!
------------------------------------------

バチカンの怒り 其の壱

2006-05-08 16:55:43 | 歴史
■時ならぬダビンチのブームが起きているそうで、ローマ・カトリック信者などほどんど居ない日本には、どうでも良い欧州の歴史ミステリーが大人気とか…。「シオン修道会」だの「オプス・デイ」だのと、よほどの物好きでなければ知らないような秘密結社の名前を『ダヴィンチ・コード』を読んで初めて知った!という人も多いのでしょうなあ。娯楽を目的とした本ですから、飽くまでもフィクションなのでくれぐれも深入りしない方が良いでしょうなあ。ついつい、秘密結社などと言うとトンデもない世界的な陰謀だとか、際限も無い差別を助長する屁理屈の源となる場合が多いですからなあ。

■『ダヴィンチ・コード』は未読ですが、噂によると「聖杯伝説」の謎解き話をネタにしたミステリーなのだそうです。インディ・ジョーンズ映画で『最後の聖戦』という作品が、聖杯を探す話でしたなあ。カトリック信者でもない人にとっては、どうでも良い話なのですが、スピルバーグの演出で楽しめた人も多かったことでしょう。そもそもローマ・カトリックの歴史は、ローマ帝国による大弾圧から理由がはっきり分からない国教化を経て、中世の欧州を真っ暗闇にしたばかりか、中世最後には欧州全土を巻き込んだ宗教戦争を起こすわ、十字軍を派遣して中東を荒らしまわるわ、異端審問だの魔女裁判だの、それはそれは、血生臭い物語に満ち満ちています。『ダヴィンチ・コード』が取り上げた(らしい)正典の『聖書』には含まれなかった『外典』『偽典』などには、怪しげな話も沢山ありまして、結婚式やクリスマス・ケーキを楽しんでいれば良いというものではありません。

■特に16世紀からの大航海時代には、地球全体を布教の場にしようとしたり、欧州以外の土地に住んでいる「人間」を認めずに奴隷貿易を大いに奨励したりしておりましたなあ。日本から遠く隔たったアフリカ大陸の話だと思っていたら大間違いで、しっかり日本列島からも奴隷を調達して商売していたキリスト教徒が居たそうですぞ。そんなこんなで欧州はキリスト教圏を作りながら、トンデモない事をやり続けているわけですが、小説が映画化されたとかで、その主たる舞台となるのはルーブル美術館だそうです。帝国主義時代に世界中から盗んだり奪ったりした物品を得意げに並べる悪趣味な場所とも言われますが、偽物が多すぎてどれが本物か分からなくなってしまった『モナ・リザ』が重要な鍵を握っているとか……。さてさて、世界中でベストセラー!と賑やかなことですが、隣のチャイナでも売れているのでしょうか?映画も封切られるのでしょうか?


中国がバチカンの同意を得ずに国内の司教を任命したことで、国交正常化への期待が高まっていた両者の対立が先鋭化している。バチカン側は関係司教の破門など厳しい抗議姿勢を示したが、中国側は司教任命権については「内政問題」との立場を変えておらず、事実上の交渉決裂との見方も出ている。

■世界最古のチベット探訪記を書き残したのはカトリックの修道士でしたし、チンギス汗を「プレスター・ジョン」だと勘違いして十字軍の助っ人だと思い込んだのもカトリック教徒だったそうですなあ。その後もじわじわとアジア中で布教活動を続けて、清朝末には「太平天国の乱」などという大騒ぎも起きましたなあ。最近の「法輪功」の弾圧騒動でも分かるように、北京政府は自分達が自由に操れない宗教団体が大嫌いです。


バチカン当局や香港報道によれば、4月30日に雲南省昆明教区で馬英林神父が、今月3日に安徽省蕪湖教区で劉新紅神父が、相次いでローマ法王の委任を受けずに司教に任命された。2司教は、中国の公認宗教組織、中国カトリック愛国会のそれぞれの教区が「民主選挙」で選出。選出後、バチカンに同意を求めたが拒否された。バチカン側は宗教上の自由の重大な侵害と非難。任命された新司教2人および任命式にかかわった司教2人の計4人を破門するという。

世界も我が身も食い尽くす 其の六

2006-04-30 14:55:50 | 歴史
■産経新聞の記事には、もっと詳しい数字が掲載されていました。

アフリカ最大の産油国、ナイジェリアのオバサンジョ大統領は26日、首都アブジャで中国の胡錦濤国家主席と会談し、中国側が鉄道や発電所などのインフラ整備のため40億ドル(約4600億円)の投資を行う見返りに、5月に予定される石油開発の入札で、油田4カ所の開発許可の優先権を、中国国営石油会社、中国石油天然ガス(CNPC)に与えることで正式に合意した。世界第2位の石油消費国である中国は、石油開発のパートナーとして、ナイジェリアとの関係を重視しており、同国訪問は2004年に続いて2度目。
■日本の首相や外相はナイジェリアを訪問した事が無いのではないでしょうか?世界に冠たる「省エネ」技術で次の荒波も乗り切って見せる心算なのかも知れませんが、柳の下に泥鰌が三匹いるかどうかは分かりませんぞ。


BBCテレビによると、4カ所の油田のうち二カ所はナイジェリア南部の海岸沿いにあり、2カ所は隣国チャドとの国境に近い内陸部にあるという。海岸線だけでなく、内陸部もきわめて危険な地域とされ、石油開発は容易ではないとの見方も出ている。ただ、周辺のアフリカ諸国は、今回の調印をきっかけに、中国の経済的な進出が、さらに加速するとの見方を強めている。これに関連し、ストロー英外相は26日、ロンドンでの講演で、すでにアフリカの49カ国に700社以上の中国企業が進出していると指摘した。産経新聞 - 4月28日

■英国では外相が情報を公開して警鐘を鳴らしているというのに、日本では「最初はグー、サイトーケン」の報道ばかり、その後はホリエモンの追っかけ騒動が続いていたようですが、どうかしていますぞ!米中がナイジェリアで激突でもしたら、沖縄問題にまで波及するのですから、もっと日本のマスコミも注視して貰わないと、いざという時に寝耳に水の大騒ぎになるでしょう。


サウジアラビア国営石油会社のサウジアラムコは23日、中国石油化工(シノペック)と共同で福建省と青島で行っている製油所プロジェクトが、計画通りに進んでいることを明らかにした。またアラムコは、2010年までにシノペックに日量100万バレルの原油を供給することにコミットしていると述べた。アラムコによると、中国の胡錦濤・国家主席によるサウジ訪問に際し、22日にリヤドで覚書が調印された。サウジは2005年、中国の原油輸入量の17.5%(日量44万3600バレル)を供給し、最大の原油供給国だった。
ロイター - 4月24日

■米国との関係を少しでも薄めて国内の原理主義運動を抑え込みたいサウジ王家としても、チャイナとの商売は渡りに船という所でしょうが、新疆ウイグル地区のイスラム原理主義組織が大規模に弾圧されでもしたら、アフガン戦線での戦友だったアルカーイダが黙っては居ないでしょうなあ。テロリストが内陸ルートを通って福建と青島の石油プラントを爆破するような事件を起こすかも知れません。そうなれば、米中露が手を結んで対イスラム戦争を仕掛ける構図になりますなあ。勿論、日本は米国の「後方支援」に組み込まれているのですから、否応もなく「参戦」することになりましょうなあ。そんな大問題は、小泉政権の次に丸投げ先送りでしょうから、これからの任期満了まで、得体の知れない話が日米間に出たり消えたりするでしょう。

塩と水の教え 其の弐

2006-02-24 02:16:56 | 歴史
■この事件は案外と深刻なパニックだったようですぞ。

黒龍江省・牡丹江市の浄水場汚染問題で、「3-4日間にわたって断水になる」などとでたらめな情報をSMS(ショートメッセージサービス)で送信したとされる男が21日、地元の警察当局により拘留処分となった。23日付で人民日報が伝えた。

■グーグルが高性能の検索サービスを提供すると言うので、米国内ではちょっとした騒ぎになっていましたが、背に腹は変えられないという今のアメリカの本音丸出しで、中国での「監視サービス」を始めるようですが、この牡丹江の男をどうやって見つけ出したのか?正体不明の微生物よりも、そちらの方が恐ろしい!


男の話によると、男はバスで移動中に「飲料水の汚染のために、4-5日間にわたって断水になる」という乗客の会話を耳にした。その後で、春は水質悪化が懸念されるため、市民に飲料水を煮沸するように呼びかけるニュースを報道で知った。その上で、「3-4日間にわたって断水になる」「関係部門が解決にあたっているが、あなたも水を貯めておいてください」などというメッセージをSMSで送信。男は容疑を認めているという。一方で、同省・環境保護当局によると、汚染の原因となった微生物は、藻の一種だという。種類の特定や危険性について詳しく調べるために、サンプルを北京市に送った。

■この報道が正しいのなら、悪質なデモでもウソでもない、親切心で緊急事態を知らせただけのように思えます。市当局が危機感を抱くほどの大規模なパニックが起きたのでしょうなあ。あちこちで暴動が頻発していますから、水に渇いた民衆が日頃の不満を爆発させたら手が着けられなくなる事を良く知っているのでしょう。


また、パニックに陥った市民が20日からミネラルウォーターの買い占めに走ったが、21日午後には平穏を取り戻したもよう。同市内にあるスーパーマーケットの多くでは、十分なミネラルウォーターの在庫を確保しており、価格も通常通りだという。
サーチナ・中国情報局 - 2月23日

■川が枯れたら地下水、水道水が止まったらミネラルウォーター(これが安全だと信じるしかないのが怖い)、そんな具合に代替品が見つかれば暴動は起きませんが、代わりになる物が無い「塩」が断たれると大変です。チベットを併合した御蔭で、使い切れないほどの塩資源に恵まれている今のチャイナは良いとして、ロシアでは中世のような事件が起きています。

ロシアの中部ウラジーミルやニジェゴロドなどの各州で、市民が塩の買いだめに走り、店頭から姿を消す異常事態が起きている。当局側は塩の在庫は十分と説明、騒ぎの沈静化に躍起だが、ロシアには「塩がなくなるのは戦争の前触れ」との言い伝えがあり、国民の行政不信や社会不安の表れとの見方も出ている。買いだめが始まったのは約1週間前。この地域に塩を卸しているウクライナの会社がロシア側の契約業者を変更、一時的に供給量が減ったのがきっかけらしい。市民らは店に行列をつくり塩の1キロパックを買い込んでいる。ウラジーミル州のある老人は民間テレビNTVに、最近のウクライナとの天然ガス紛争を念頭に「ウクライナが塩を止めたんだ」と苦い表情で話した。共同通信 - 2月21日

■塩と戦争を結び付けて考える感性が、今も生々しく残っている場所が有る事は知っておくべきでしょうなあ。山のような残飯を捨てながら、塩分控えめ、油控えめ、水太りに注意して暮らしていられる生活をしみじみと見直す事も大切ですが、水と塩が欠かせない生き物として歴史を受け継いでいるのが人類である事を忘れない事がもっと大切です。本当に困った時には、「塩と水」の豊かな土地を求めて大移動するのも人類なのですからなあ。

-------------------------------------------
■こちらのブログもよろしく
雲来末・風来末(うんらいまつふうらいまつ) テツガク的旅行記
五劫の切れ端(ごこうのきれはし)仏教の支流と源流のつまみ食い

『チベット語になった『坊っちゃん』』発売中!
------------------------------------------