沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩596 琉球新報記事 高江通行制止、知事控訴せず 違法認定判決確定へ

2018年01月30日 09時34分25秒 | マスコミジャーナリズム

高江通行制止、知事控訴せず 違法認定判決確定へ

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-655718.html

おかしな在り様だなあ。何故県知事は県警の機動隊が高江であのような弾圧を繰り返してたのにこれを結果的に黙認していたのか。又辺野古の強制排除も知事権限で中止させられないのか、不思議でならない。法律的な事でなく、常識的な事を言っている。

 

詩596 朝日新聞社説 (社説)「何人死んだ」 沖縄めぐる政治の劣化

2018年01月30日 09時03分25秒 | マスコミジャーナリズム

(社説)「何人死んだ」 沖縄めぐる政治の劣化

https://www.asahi.com/articles/DA3S13336305.html?ref=editorial_backnumber

本土内地ヤマトゥの日本人は呑気なものだ。沖縄から見るとこういう社説に見るようなのが今の日本の論壇には恐らく主流の論調だという以外の感想はない。ある邦画で主人公が「生きる意味が分からない、境目がわからないので」と言う、善悪の境、常識と非常識の境、言っていいことと悪いことの境、人らしく生きることと獣的に過ごすこととの境、やっていいことと悪いことの境、それらが今や薄ぼんやりとしか見えてないことのいらいらするような空気感は、人をとんでもない方向へ誘うように思える。人はこういうとき概ねその弱さからある種の教条的な言辞にへばりつこうとする。ひとはそれを左翼、共産党、バヨクなどと揶揄する。だがそういう彼等も逆の意味の教条主義に陥っていることを知らない。境目がわからないのは、命を懸けて守ったり命を懸けて闘ったりする、ある意味での自然発生的な本来性の発露が我々には欠けているからだ。今や人間は限りなく、本来的な自然性から遠くの地点に迷い込んでいるのだ。この松本何某の言辞はそれを端的に示している。彼はある面からすれば殺されても仕方がない人間だ。しかしこいつの後ろにはもっと殺されるべき人間が獣の顔でのさばっている。 


詩596 朝日新聞記事 名護市民、辺野古「反対」63% 朝日新聞など世論調査

2018年01月30日 08時40分41秒 | マスコミジャーナリズム

名護市民、辺野古「反対」63% 朝日新聞など世論調査

 
いずれにしろこの安倍晋三一派の「辺野古唯一」、「工事強行」姿勢に変化はないと思っていた方がよい。この選挙戦は、名護市稲嶺市政が「辺野古工事」に対して、これを阻止するための有効な市長権限を行使すべく、引き続きこれ(稲嶺市政)が継続されることこそ望ましい、と、市民が思うかどうかだ。ただ客観的に言えることは、若しなし崩しに容認派跋扈を許せば、沖縄の県土の中枢部分を占拠している米軍基地の毒牙が、やがて辺野古中心に北部一帯に拡大し、より先鋭に強化された新軍事拠点化し、普天間宜野湾市民同様、此処に住む多くの県民には恐怖と不安におののく日々が待っている、という未来事実が厳然としてあるということだ。いずれしろ県民には安心安全な生存生活は全く保障されてないということ、それは、今闘わなければ未来永劫持続的に固定される暗黒の世を引き受けることになる、ということだ。

詩596 日刊ゲンダイ記記事 上から下まで沖縄蔑視 野中氏死して“ヘイト集団”自民党

2018年01月29日 18時23分36秒 | マスコミジャーナリズム

上から下まで沖縄蔑視 野中氏死して“ヘイト集団”自民党

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/222140

見るに堪えぬ。こういうケダモノ連中がこの世にいやというほど蔓延っている。よくもまあ内地ヤマトゥの日本人は黙過して済ましていられるものだ。これだけ堕落しきった彼らを見ているとつくづく日本人であることがいやになるのだが、生まれつきだからのがれようもなく自身の中の世間と闘い続けるしかない。


詩596 朝日新聞記事 基地に揺れる名護「反対ばかり限界」「共に繁栄、幻想」

2018年01月29日 10時05分15秒 | マスコミジャーナリズム

基地に揺れる名護「反対ばかり限界」「共に繁栄、幻想」

https://www.asahi.com/articles/ASL1X2PLYL1XTIPE005.html

つまり変節した容認派は、現政権、乃至これまで日本政府が、いくら地元で反対しても辺野古推進一点張り、ついに工事強行に踏み切ったことをもって心理的精神的に挫折し、「チルダイ」したわけで、それは恐らく日本国における政治への絶望という、沖縄県にとっては重大な危機的意味合いしかないと思われる。そしてこの事実は、今国家に譲歩したら、沖縄差別の後代への付け回し以外の何者でもないということに、容認派県民は気が付こうとしてない。稲嶺市長は勿論基地反対を高く掲げるが、同時に国の不埒な札びら政治に尻尾を振らずとも立派に市政を前進させてきた実績をこそ誇っている。言葉の上のやり取りに終始するのでなく、国権の濫用によって生じる泥沼政治をこそ回避し排斥する選挙民の高い政治意識こそ求められているのが、この名護市長選なのだよ。