母と子でみる「コルベ神父 優しさと強さと」早乙女勝元著 草の根出版会
ナチスホロコーストによって無下に殺された人間の数は膨大である。その悪の権化のような組織的強制的殺戮集団の構成員は、何故この国家的犯罪の実行部隊として然したる疑義もなく抵抗さえない在り様で、一人一人が平時なら平凡でありふれた一市民にすぎないのに、凶悪な非人間的暴力に勤しんだのか、単に戦時だったからという言い訳では済まない恐ろしい人間の本性やら、あるいは潜在的に抱える「殺人願望」など想像され、例えば沖縄高江辺野古での官憲の目に余る横暴、悪質な暴力的排除行為、戒厳令に近い異常な警備体制を何気に黙過するその物言わぬ民衆的在り様にも、同じ質の結果的には「取り返しのつかない」集団心理的犯罪性を感じないわけにはいかない。
収容者の一人が逃亡し姿を消したとき連帯責任で何人かが飢餓室やガス室送りとなる倣いだったアウシュビッツで、10人ばかりが選別されるというとき、一人の元軍人がその家族との死別を嘆き悲しんだ姿を見て、コルベ神父は「彼の代わりに私を選べ」と進み出て言う。勿論その行為は明らかに自殺行為であり、確実に餓死するか毒殺されるのはわかりきっている。黙って看過すれば少なくともその時は命を長らえる。それをそうしても誰も責めはしない。イエスは明らかに死すべき運命とわかっていたエルサレム行きを一種の懊悩の末実行し、裁かれ架上に息絶える。コルベ神父はイエスと共に「主よ彼らをお許しください、彼らは自分が何をしているか知らないのです」と言えたかもしれない。
身代わりに死を選ぶ、確実に死地となる地へ赴く、という行為は、他人事のように言えば英雄的行為となる。しかしながら翻って考えて、もし自分が同じ立場に置かれたらどうするか、やはり黙過して済ますだろうがそういう局面は日常でも往々にしてある。日常的に、心理的には恐らく頻繁にあるともいえる。試されているのは何だろう?、人間の尊厳?人間性?あるいは。
惻隠の情、が最も近いかもしれない。自発的自然性とか衝動に近い。我々の中にもあるそれを押しとどめているのは何か。コルベ神父は「自分には妻もない子もない死に近い老人だ」が「(選別され殺されようとしている)あの人には嘆き悲しむ妻や子がある、彼は生きなければならない」、だから身代わりになる、というのだが、この時彼は未だ40代の壮年であり、死は自然発生的にはそれほど近くはない。彼を真に突き動かしたのは何か。自分に置き換えるとそれは通常言われるキリスト者の倣い(他の多くの神職者が同じようなことしたという話を聞かない)などではなく、彼の全人格だったとしか言えない。この全人格は彼の普段の生活や思考、あるいは判断や行動の蓄積が自ずと作り上げる、その人独特の個別的な人間性であろう。そういう意味ではこの英雄的な行動を進んで取ったキリスト者は、自然性や自発性において(キリスト教や教会的な縛りからさえ)極めて自由であった、ということになる。自由に考え判断し行動することが、本来備わっている人間性を最も重大な局面で実効実現する結果を生む。
この安倍晋三一派や右傾化し偉ぶって物知り顔に戦時意識を煽動する識者たちは、市民の自由発想や思考、行動を縛り上げ、徒に一定方向へ誘い、やがて自ら墓穴を掘ることになる翼賛化を画策する、ナチスに近似する非人間的な物質主義者であり、優生思想に染まった破滅型のエゴイストである。我々はかかる集団心理陽動作戦に乗せられてはならない。彼等の玉砕思想を少しでも信じてはならない。だが自由に考え判断し行動する当たり前の常識を不断に正常に働かせていれば、こういう流れに左右されずに自分なりの思考、判断、行動ができるはずなのだ。コルベ神父の事は恐らくは少しも特別な奇跡的な事ではなく、誰でもそのようにあり得る事だったに違いない。ここに希望がある。(つづく)