沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩436 無理に判るな

2013年08月17日 21時26分30秒 | 政治論

 歴史のダイナミズムにおいて、その正確な周期を計算する事は難しい上に、周期計算の定数さえ、どう割り出したらいいかその方法を容易には発見できないのが通例ではある。

 あらゆる主義主張は時代を突出し、いかにバランスを取っても、歴史の潮流にあって普遍的な価値を生むことは、少数の選良にのみ許されている(これを奇跡とか僥倖というのだろう)のであり、持たざる者の宿命として不可知的に身を処すということが求められる。

 不可知論は、勿論「知るべからず」でも「知りえない」でもなく、ただ、外在のものを「静かに遠ざける」ことだ。人間の関係性においてこの身に馴染まないものを、できるだけ遠ざけること、と言うといささか食わず嫌いの気を感じるが、いずれにしろ人知が触れることのできるのは短い生涯ではごく限られてくる、この脳髄の容量も無限に向かってはないに等しい、要は責任を取れないことに命を懸けないこと、....どうもうまくいえないが、知ったかぶり(身の丈に合わないことをさも知ったようにやってしまうこと)は日本人の長所で弱点であり、場合によって重大な過ちの大元ともいえる。

 日本人のこうした傾向が明治以来の近代にあって、とんでもないことをやらかしてしまった。鎖国を解いて世界史の渦中に入ってからおかしくなった。戦後の日本を眺めているとどうもそういう「知ってないことに知った風な口を利いた」ことから現代日本を偏頗で歪んだものに拵えた気がされる。

 「無知の知」ではないが、これは謙虚ということより精神衛生にほかならないのではないか。精神の運動において、その円滑と正常を保全するのは哲学の原点たる神託「汝自身を知れ」に回帰して知るという行為に就く、ということ。

 靖国も英霊も窺い知れない雲や霞である。沖縄では今でも兵隊の亡霊が見えるらしいが、それは「ありもしない幻影」というよりも我々自身の心眼にほかならず、微かにでも、ある種の歴史というのはドライな現代に蘇るのだろう。安部晋三が様々な減らず口を叩くのはどうも「下手な鉄砲」の伝で時により「袈裟の下の鎧」風情を見せたりするが、時に昂然と軍国礼賛を嘯くのでこういう危険な政権は早々に潰すのが大衆のためであろう、と知った振りをする。(つづく)


詩435 非戦

2013年08月16日 06時45分15秒 | 政治論

 往時は(日活映画などは)馬鹿にして実際観もしなかった45年前の映画「ああ ひめゆりの塔」だったが、ギャオの無料動画で何気なく観て結構よくできているな(やや観念が勝っているが)と思い、同時に、沖縄で起きたこの悲劇が、非戦や反戦の思いに直結するにしろ本土にはとうとう流れ着くことのない難破船であることを、いやでも認識せざるを得ない現状に地団太踏む思いだ。

 移住して7年目にして、このようなものを見るたびに自然に落涙するのは不思議でもある。周知のとおり、沖縄戦は沖縄人の犬死だったが、その余の兵隊軍属も同様に無駄死にしたことになる。この伝でいくとそもそも日中戦も太平洋戦争も大方は実に情けないほどに無駄で口惜しい死の累積であった。

 従って靖国なんぞはご丁寧に神に祭り上げて、さながら報国の献身を美化し、過ちと愚行で占められた将軍どもの無責任な始末を棚上げしている、というわけで、この国の戦後がいかに歪んでいるかを象徴している。

 翻弄、という言葉が適当していると思うが、ひめゆり学徒の、戦争に弄ばされた運命には彼女らの健気さと初々しさ、純真さが弾けるような明るさで輝きながら、一方でこの戦争の理不尽さ、軍部の狂熱、特殊に打ち捨てられた沖縄の悲運が浮き彫りにされ、戦後も繰り返される国による不当な処遇、施策、問答無用の強権行使など、「沖縄は黙ってないぞ」という大衆的な運動に今後も揺ぎ無い根拠を与え続ける。こうした沖縄の闘いは、この国が腐りきっていたとしても、その本来性を失わず、たどり着かない近くて遠い本土の方へ漲る非戦の思いを波動させることになろう。(つづく)


詩434 敗戦

2013年08月15日 08時57分17秒 | 政治論

 戦争を知らない人間に、この国に起きた68年前の敗戦という事件について、「だから戦争はしていけないのだ」という風に、教訓的に学び悲惨さを実感し、今この国がしていること、しようとしていることで、かの戦争につながるような動きがあれば如実に危機感を持ち、あらゆる手段を駆使して自己の反戦意思を明確にする行動に出る、というようなことを望むのは甚だ容易ではないのだが、歴史学というものが、現実の政治や大衆運動に一定の有効性を発揮するというようなことが可能なら、それは結局如何に歴史的評価を痛切痛烈に体験的に語るかという部分で注力する以外道はあるまい。

 来日中のオリバー・ストーン監督もまた、日本の広島長崎沖縄を訪問して、あの戦争のことを新たに学び、史実に謙虚に耳を傾け、虚心に自己自身の体験として深く胸に刻むということをしているという。

 自国において原爆が「必要だった」と教えられ、そのように教えていることを間違いだと氏は言う。事実は、対ソ冷戦の幕開けにほかならず、大国間の駆け引きの道具に過ぎなかったし、現実に起こった一般市民の身の上の、非人間的残虐行為だけが強烈に現代に蘇るのである。

 これに関しては一切の言い訳はまことに醜悪だ。戦争を引き起こそうという政治的軍事的展開の全てが、最初に辻褄の合わない言い訳めいたロジックから始まり、客観的史実を捻じ曲げ、正直な自己体験に目を背け、脳髄でしか起こっていない戦争の必要性を殊更に強調し、領土問題に結び付けて、軍拡的な発想に水を得た「喧嘩好き」な餓鬼道をしたり顔に論う、というのが真相だ。

 何故なら彼らの大半が戦争を知らない世代なのだから。従って敗戦の現実が映像等を通して遍く現代に蘇るこの日、その現実はありのままに眼前に開陳され、人々の心奥に明瞭で確実な体験として刻印されるような、印象的なドラマを演出することだ。

 少なくとも沖縄に関して、彼ら右傾グループが危惧する軍事的脅威という言い訳は通用しない、とわかっている。彼らが軍拡すればするほど沖縄はその脅威の度合いを増すばかりであり、与那国に自衛隊を常駐することは、明らかに中国の世論を刺激し小競り合いのひとつくらいは必ず誘発する。この国は、辺境を領土侵犯の前線と見做そうとしているが、大嘘だ。沖縄はだまされてはならない。弾道ミサイルは一切を飛び越して何時でも君らの町に雨と降り注ぐだろう。それを思えば戦争の愚かしさが容易にわかろうというものだ。(つづく)


詩433 国になってない日本国

2013年08月14日 09時01分37秒 | 政治論

 今、沖縄県の本島(県都那覇を有する)に当たる弧状の島に起こっていることは、本土と呼ばれる北海道(ここではその地以外を内地というが)、本州、四国、九州とその余の島々ではあり得ない事としか言い様もない、日本政府とアメリカ合衆国政府による共謀した軍事行動によって、その面積の2割近くの広大な中枢部分を占拠し、軍事基地として自由自在に使っているということだが、そればかりでなく(それだけなら、本土に全体の25%の米軍基地が居座っている現状と差異はない)、圧倒的に反対し抗議活動し議会制民主主義決議に基づく県民総意がその意思を明確にしているにも関わらず、日米の国家安全保障の名の下に「問答無用」で(まるでそこに人が住んでいないかのように)「軍靴で踏みにじる」行為の数々を披瀝しているということだ。

 この歴史的蛮行に関してはまさに歴史が裁くとしても、その歴史自体が人間の手で作られる以上、蛮行に対し排除のための闘いを挑むのは人間的行為である。我々は裁き手ではない。哀願する弱者にほかならない。しかし「オキナワ」は卑屈に哀願することはない。

 第一に、いかに国土とはいえ国(国が許可した異国)が、140万の人間が住む人口密集地帯において、住民の生活を極度に公害的に脅かす軍事行為をおよそ規則も基準も蔑ろにして展開するというのは、驚嘆すべき無神経、でなければ沖縄県民に特化して差別的に非人間的行為に勤しんでいるということになる。

 こうした明らかに封建遺制的な非民主的強権主義は、こちらが軟弱に哀願する対象ではない。しかも、オスプレイの合意違反飛行訓練行為を「事実として認められなかった」とした防衛省の県に対する遅きに失した回答?は、「事実として認めても米軍側が認めない」という裏回答であり、国がその国の民の生命よりも米軍乃至米国の意向を重んじるという意味になる。

 従ってこの国には真の人間はいないし、あるのは国家安全保障の名の下に結託した傀儡政府とアメリカ合衆国政府の軍隊だけである。従って我々は決してこの国には哀願しない。なぜならここには国というものがそもそもないのだから。県警が普天間ゲート前でオスプレイ追加配備反対抗議活動を排除しようとするのは、滑稽を通り越してまさに国としての意味を成さない国家権力執行者の悲劇的有り様ではないか。(つづく)


詩432 安部政権の幼稚で中途半端な国家主義

2013年08月13日 07時31分05秒 | 政治論

 この安部政権のやろうとしていることが国家主義の名にも値しないことは、およそ日本の政体が常時史的に証明してきた政治的無責任体質を思い出せば自ずと了解されよう。

 集団的自衛権の解釈学的容認はつまり、是が非でも日米関係を対等化(戦時における共同軍事戦線の構築)し、戦後レジーム(安保体制の偏頗性片務性)から脱却し、いつでも自ら戦争手段を講じられるよう法的根拠付けることが狙いだが、最終的には核兵器製造にまでこぎつけて「核の傘」幻想を打破したいというのが本音のわけだ。

 当然こうした動きは大戦被害国であるアジア各国の有事懸念、日本の再軍備軍国復活を想像させ、石原老人の思惑通り、とりわけ尖閣からみの対中戦端を拓く導火線になろうが、この小競り合いと局地戦(与那国配備の自衛隊が主役となる)が特に沖縄島嶼を戦火に巻き込み、「沖縄戦」の再現を見ることになるし、更には(既に現代戦争事情から沖縄が本土の防波堤になることは不可能なので)弾道ミサイルの飛来が首都圏を地獄の坩堝に叩き込み、日中全面戦争の様相を呈することになろうということだ。

 もともと対中戦を想定しないし望んでもいないアメリカが、こうした安部政権の動きを危険視するのは当然で、松岡全権が国際連盟議場を居丈高に蹴って戦争の道をひた走るにいたったあの歴史が示すように、同盟国にさえ見放され孤立化のみちを歩むのは見えている。

 このような想像とは別に、所謂文民統制の効果が徐々に弱小化している昨今のメデアマスコミはじめとする言論界の脆弱化もまた別の大きな懸念材料である。朝日毎日の右寄り傾向は目を覆うばかりだし、NHKなどは完全な政府主導国営放送そのものと化した。何が起こっているのか。恥も外聞もなく己の立地を慌しく蹴立てて(大震災も原発崩壊もどこへやら)敗戦国待遇から抜け出さんと、明らかな矛盾即合一を政権力という圧力主体の勢いのままにこの数年でやってのけようとしているわけだ。悪あがきとしか言いようもない。(つづく)


詩431 累積する日米の前近代性

2013年08月12日 12時21分40秒 | 政治論

 アメリカ合衆国の沖縄軍事植民地処遇と、日本国政府の、日米安保堅持方針による国内米軍基地展開自由放任という有り様は、沖縄の人権闘争に対し常時無回答であり続ける固定的な自動機能システムだが、要点は、沖縄に過重な基地負担を押し付けている現状に関し、当初(大田知事時代)の段階的解消計画に基づく「普天間返還」が、米国の国家安全保障政策(1960年代)において予め計画されていた「辺野古移設(新設)」という条件を付すことにより、沖縄の負担軽減とは真逆の新基地建設という欺瞞性に満ちた局面を現すにいたり、沖縄の怒りを決定付けたということになる。

 ここでは、先ず米国による沖縄の軍事植民地視乃至戦勝国占領地視と、「日米地位協定」による米軍基地関連の「治外法権」体質を、ほぼ現実に生じた事案に沿って「申し入れ」の内容でしか対応できてない日本国政府の、沖縄に対する不当な不平等な政治的封建遺制放置状態が、近現代政治理念の方向性に著しく逆行するものとして捉えられているということだ。

 米国の沖縄植民地視の因源については、日琉関係史における琉球処分等、日本国の異民族圧制という米側認知がまずあって、大戦時沖縄占領が琉球の日本からの解放に等価するという意識を生み、敗戦後米国的政治スタンスにおいて信託統治形質を自然醸成したと考えられる。

 沖縄返還時、日本政府は大嘘をつき、ただ単に「潜在主権」なる奇妙奇天烈な日米協定の正体を「基地存続核付き」という内容で卑劣にもアリバイ証明しただけの、沖縄特化政治の開始という段階に突入していった。

 日本中が国内人種差別、しかも根拠のない異族視?という、日本国常民レベルでの精神的封建体質に覆われた。戦後体制の基本としてあった「軽負担経済復興その後の高度経済成長」としての吉田ドクトリンは、便利すぎる精神的偏向を助長しつつ、自由競争と弱肉強食乃至自然淘汰的な動物的エゴイズムを養生し、政治的な無知、無関心、無責任、無頓着な戦後世代精神風景を助勢したと、精神分析的には言えそうだ。この政治的な無責任体質について常民レベルに転嫁するのは愚である。しかしそれでも、日本国民の精神風土、体質はあらためて罪深いものがある。(つづく)

 


詩430 普天間固定化

2013年08月12日 06時56分50秒 | 政治論

 言葉の正確な意味で「普天間飛行場」は固定化した。現時点で2021年までとしている移転計画の遅延は2026年それ以降を想定せざるを得ない見通しであり、少なくとも返還計画起点(1995年)から見れば30年以上の時間経過を経ることになるばかりか、米国財政事情、沖縄反発、辺野古移設の非現実性に鑑みれば、無条件返還にしてもまず到底近い将来の実現が見込めないことになる。この新型輸送機MV22オスプレイを普天間に強行配備した結果、現有格納施設では機体の保全が保証されないため、新たな格納庫建設の必要性に軍が言及している(沖縄タイムス8月11日記事)ことからも、今後何十年と固定的に普天間を使用する意図が見え見えなのだ。なんという欺瞞性に満ちた計画であったか、今にしてみれば返還後の沖縄に対する絶えることない侮辱行為の最たるものといえよう。米軍米国政府国防省が沖縄の基地負担の軽減などに何ほどの関心があろうか。ラムズフェルドの「世界一危険な米軍基地」という表現も、「だから危険性を除去しなければならない」という文脈につながる必然性はなかったのだ。彼らのうちに理念的心情的な沖縄顧慮を期待した我々が彼らに対して認識不足だったというしかない。この問題は政治的問題でさえない。


詩429 没落覇権国家

2013年08月10日 12時43分42秒 | 政治論

 オスプレイ12機中残10機は、フェイントをかけ来週12日にも岩国基地から普天間へ移転、追加配備される。

 沖縄にとっての米軍・米政府の非道ぶりは今更言うまでもない。去年の強行配備は台風で数日順延になったが、今年の残留機の追加配備はヘリ墜落事故で一時逡巡されたものの、1週間で元の木阿弥という、(負担軽減とか沖縄への配慮とか言うが)その理念性の欠如を覆い難く示している。

 沖縄の制空権も米軍が支配的に確保しているらしい(琉球新報8月10日記事)。沖縄本島を自国領土としている、事実上の米国軍事植民地実態は今更指摘するまでもない。まあ、やりたい放題といったところであり、それを指くわえて頑是無いがきのように見送り、更には泥棒に追い銭を繰り返す日本国政府のわけだ。

 もしかすると、安保容認派の県知事仲井眞君は「公有水面埋め立て承認」にどさくさまぎれに同意するかもしれない。この同意から先、住民・支援者・活動家の抵抗を掻い潜りながら、彼らはいかに強権的に工事を推し進めるのだろうか。この時沖縄の世論はどういう対応に身を置くのだろうか。あるいは、永年押しとどめられていた「普天間移設」が実行に移されたとき、日本の、本土人の反応というのはどんなものなのか。

 彼ら米軍米国政府は沖縄県民の民意を踏みにじり、その目の前で欠陥機オスプレイを強硬に配備してみせた。これは沖縄県民への外国の明らかな挑戦であり、武器を持たない異国人への卑劣な武断行為である。

 日本政府と沖縄県が少なくとも同一国人にありながら、日米の安保体制施策においてほぼ完全な乖離状態にあることは、米国政府とて百も承知のはずだ。それを横目で見ながら、彼ら自身の国家安全保障のためには、異国の無防備な人民が住する普通の島を、軍靴響かせ我が物顔に軍事的な任務遂行することを全くためらわない、その封建遺制的な国家施策にはこのアメリカ合衆国と言う国が、大戦の戦勝後世界覇権を唱えて遍く世に跋扈した結果、世界史上の道義的価値を棚上げして理念的後退を準備した、今後没落していくしかない運命に落ち込んでいくのが見えている。(つづく)


詩428 アメリカ人に蔓延るだろう沖縄誤解

2013年08月08日 07時19分53秒 | 政治論

 何故ストロンチウム90が救難用ヘリに使用されるのか知らない(飛行中の回転翼のひび割れを調べるセンサー用だそうだ)が、実際使われていたかどうかはともかくそうした機体が破壊飛散炎上したならその近辺に当然に放射性物質を撒き散らし、とりわけ宜野座村北部山中にある水瓶に影響を及ぼすことは目に見えている。

 水溶性ということだから、半減期約29年のこの物質が今後降る雨水に混じって流入し、ダムを汚染する可能性が指摘されることになる。

 米軍が事実を隠蔽することは既定の成り行きである以上、是が非でも宜野座村は勿論、沖縄県が総力を挙げてでダム水質の徹底管理が求められる(と、小出裕章助教は述べている)。

 こうした不祥事が表面化するたびに、一県民の正直な思いは「こんなふうに、そこに住んでいる人々に不安感と迷惑をかけて、よくもまあ平気で居座っていられるものだなあ」、このアメリカという国は、ということだ。この図々しさ、厚かましさというものは、通常の感覚では理解しがたい。

 こうしたアメリカ人の心情を忖度するに、種々の因源が想定されるが、もし彼らがこうした県民の気持ちを本当に認知しないということなら、そこには何らかの誤解、勘違い、無関心が蔓延っているのだということになる。

 日本国と米国の間にある因縁が微妙に交錯して、沖縄県に集約的に体現されているということか。例えば原爆に関する明らかに国策的な教育によって、それを「必要だった」とする当事者たちの自己欺瞞が全国民に浸透した結果、醸成された誤った認知(と、オリバーストーン監督は指摘する)、のように。(つづく)


詩427 沖縄の救済

2013年08月07日 07時43分28秒 | 政治論

 今、沖縄では、平年を1、2度上回る真夏の炎天下、かつてない極小雨の悪条件下、墜落した米軍ヘリの齎すだろう水源地への影響調査に入った宜野座村役場調査員に対し、米軍関係者が事故現場への立ち入りを拒否するという、ありえない非常識な強権を行使していると報道された。

 至るところで綻びを見せている「日米地位協定」は、その大元である日米安保体制に赤子のようにぬくぬくとくるまれて、絶対保守主義が無類の堅固さを誇示する日本国という、維新以来一貫した官尊民卑体質の国家が、真逆の卑屈さで戦勝国アメリカにお追従している状況にあっては、決して崩れない鉄の壁と化していることを改めて現実に目の前にするわけだ。

 白井聡氏によれば、氏が恐らく言葉を濁しているか明瞭に披瀝しなかったこの国の、国体の大本である天皇制の悪弊が、その天皇制国体の護持という非民主的動機に彩られた敗戦後采配によって、この国とりわけ沖縄島嶼を全体として「防共」のための要塞群島に確定してしまった、という歴史的真実以外、こうした沖縄を巡る人権と人間的な矜持に関わる問題そのものの本質は見えてこない。

 浅学にして無知ではあるが、民族的重要問題である「天皇と民衆」の関係性に関する学術的考究が皆無なままでは、恐らく沖縄の救済は望むべくもない。

 現皇太子あたりが卓越した知的選良たるその妃の知恵を借りて、この国の歴史と敗戦、戦後日本の有りようについて見解を示すくらいのことがあってもいいのだが、「開かれた皇室」は口先だけのことだ、ということだ(普通に考えると皇太子妃の慢性的な神経症はこの独特な異次元空間にあっては当然に予知された結果だったに違いなく、離婚事由の十分条件に違いない)。

 当然ながら昭和天皇メッセージの撤回と、日米安保の即時破棄以外、解決の方法はない。ドンピシャのタイミングでオスプレイ強行追加配備に墜落事件が重なり、慌てふためく政府関係者どもの醜態は実に噴飯ものだ。(つづく)


詩426 無駄な無意味な国というもの

2013年08月06日 19時38分12秒 | 政治論

 白井聡氏の「永続敗戦」という分析、つまり微分方程式は、恐らく現況の純粋論理学的な意味では、近来に希な正確さで成立するものと思われる。

 一歩進んで、日本の国体を総合的に積分するのは何かということだが、氏が沖縄に関してこれを展開しているなら、解は意外に容易に得られるのかもしれない。

 人は分析して極限値を得るし、総合して条件付きながらひとつの三次元的空間ゾーンを得る。数学的にはどちらも解は一つだ。だが、数学も人生も含まれる諸要素を精細に認識する限り、多少の齟齬はあっても同じような方向性に集約することは理解されよう。

 確率と統計が全てではない。それは何処まで行っても漠然とした参考資料の一つに過ぎない。つまり、演繹的に解は限りなく一個の確定値らしきものを指し示すというに過ぎない。

 何故帝国の参謀本部は誤った答えにつき従ったのか。彼らは多くの回答の中から一つを選んだのでなく、誤った一つの方向に向かって一目散に駆け出した、と見える。それはむしろ錯誤でなく確信に近かった。つまり信仰である。

 抑も明治維新は王政復古の大号令に始まり、明治欽定憲法に極まった。五箇条の御誓文は能う限り帝国的支配機構の中の「言葉の上の公正主義」に過ぎないが、こうした天皇中心軍官民一体の全体主義は恐らく世界性の視点からは単なる天皇ファシズムとしか受け取られなかったであろうし、実際そのようにしか機能する術を知らなかった。

 従って軍官民にあって民以外は当然に確信をもって皇国の興廃に全身全霊を傾注したわけだ。このことは、「愛国心」とも符号する。但し「愛国心」は単なる言葉に終わるのではなく現実に生身の犠牲を伴うことは常識的に了解されよう。

 それで軍と官は、民に犠牲的精神を鼓吹し、同時に皇民自覚を絶叫的に操作した。観念的な「愛国心」が現実にはありえないように軍や官にそういう気配はなかった。彼らは皇民のなかに自身の「愛国的な」気運を投影しようと躍起になっていただけで、愛はなくイキガリだけがあった。

 彼らが信じている国体が自己愛的なものにまで馴化することはついになかった。何故なら彼らには、民意を測る柔軟な脳機能の持ち合わせがなかったから。民意を知らない愛国心とは一体何か。そんなものは金輪際ありはしない。この国には維新以来のかかる国家愛はなかったのであり、今後も絶えてないのであろう。だから現今国体は無意味である。

 この国を積分すると結局するに防衛すべき(愛すべき)国というものはないのであり、集団的自衛権行使とは、政治家やその周辺あるいは財界その他の連中が、「イキガッテ」見せるためにでっち上げた空威張りに過ぎず、一方ではいかにしても保守的に流れていく国勢の陰でむなしく絶望する民衆の生活だけが確からしくある。


詩425 米軍、米国ってえやつは

2013年08月06日 13時03分58秒 | 政治論

 墜落したのは米空軍嘉手納基地所属のHH60ベイブホーク救難ヘリ1機。墜落場所は名護市寄り宜野座村北部の米軍キャンプハンセン敷地内、民家まで2キロ。山口県岩国基地からの、普天間飛行場へのMV22オスプレイ追加配備12機のうち残り10機については無期限(詳細を伝えてない)延期と、米軍側が発表した。彼ら(日米政府)のしていることは、人知が及ぶ限りで言えば、決して広大ではない弧状の小島の140万人が通常生活をしている上空を、いつ落ちるとも知れない「戦争」のための、決してその住民の安全を保障しない国家安全保障の名のもとに、訓練と輸送飛行を数限りなく繰り返しているという行為なのだが、問題は、この小島の140万県民の大多数(その具体的数字など問題ではない)が、こうした彼らの行為によって、墜落不安のストレスと、爆音、騒音、に対する無際限の不快感に苛まれ、憲法に保証しているはずの生活生存権、幸福追求権を蝕まれているということだ。普天間爆音、嘉手納爆音訴訟はこうした住民の切実な気持ちを反映しているが、未だそれについて賠償(金銭でなく訓練自体の差し止め)されてはいないし、今後辺野古、高江など彼らが目論む新たな住民攻撃によってその被害はいよいよ拡大していくことは間違いない。この米軍訓練が彼ら(米国)の理屈から言えば彼らの利益には少しも矛盾していない(自分乃至自国の安全を保障しようという行為)が、沖縄に関しては間違いなく他人(他国)の安全を保障しない(他国の一般の民衆の命を脅かす)という性格を持っている以上、彼らが確信犯的にその他国乃至沖縄県の住民の人権を蹂躙している(民意を無視し戦争行為を強行していること)事実に対しては明らかな国家エゴ(従って他国への無思慮な迷惑行為)と言わざるを得ない。いかにその他国の政府が無作為に許容する行為に自主性を欠落させているといっても、その国の住民意見が真っ向から国のやり方に反対し議会制民主主義の筋を通している場合、己の国家行為(米国)に無反省にゴーサインを出す国民性というものは到底近代現代にわたる理念的説得力をもつことはないであろう。(つづく)


詩424 普天間飛行場代替施設建設事業(名護市辺野古)に関する意見書の下書き

2013年08月03日 17時02分25秒 | 政治論

 現在、名護市にあっては、「意見書」という表題の名護市長稲嶺進宛文書作成用紙が市内各所に置かれている。「普天間飛行場の代替施設建設事業(名護市辺野古)に関し、以下のとおり意見書を提出します。」という記を冒頭に掲げ、住所氏名電話番号を付して市内役所支所に持参乃至郵送することとなっている。これは勿論先に沖縄県に提出された「公有水面埋め立て承認」申請に対する県知事の許認可行為の参考資料として考慮される当該事業関係自治体である名護市市長の意見に反映すべき名護市民他関係団体による「世論糾合的意味合い」を持つ。

 名護市隣接自治体住民の意見は、最終的には「沖縄県民の意見」という括りに帰結すると思量するが、およそ20年近くもの時間の経過が、この「普天間飛行場代替施設建設事業(名護市辺野古)」というものを、とりわけ先の政権時に歴史的政治的裏切りとして顕在化してしまって以来、最早客観的問題として広く公論を起こすべき事案としたことについては誰しも異論があるまい。

 勿論この事案が沖縄特化した一地域的問題でないことは今更言うまでもない。何故ならそれは第一に、憲法9条に抵触する国家の「軍事行為」に当たり、同時にその事業規模において明らかに新基地の建設それ自体であり、更に、普天間飛行場については「世界一危険な軍事基地」を排除するといいながら実質は、事実上20年近く現状のまま放置しているばかりか、更にその危険性を払拭してないオスプレイなる軍用機を24機配備するという、殺人的矛盾状態に平然と住民を投げ込んで顧みない日米政府の、国際司法的犯罪行為と言えるからだ。

 ここに客観的に見えてくるのは、日米安保体制に基づく「理念なき権力による人民への暴力」の行使という封建遺制にほかならず、これを推し進めているのはアメリカ合衆国が持つ帝国主義的植民地主義であり、日本国政府が持つ国内同一国民に対する奇妙な国策的植民地主義であり、同時に本土人が故知らず醸成した、異族視からくる差別的無関心、更には、敗戦に絡んで昭和天皇が企んだ国体延命のための彼のメッセージであった。

 こうした視点というのは、この国が戦後、半ば避けて通ってきた日本人自身の主体性に関する見方を反映するのだが、その根本は「敗戦国」日本が陥った縛り、戦勝国依存という幻想的な国家運営による傀儡的な従属的な囲い込みなのである。そして屡々論じられるように、国が良からぬ方向へ傾斜したなら当然に統制すべき文民の不在、そして傾斜する暴走を自ら止めず、人民を地獄に導く結果を招来する根本的無責任体質、このふたつの破壊的な自滅的な退廃は一体どこから来るのか。こうした観点でこの問題にアプローチしない限り、全ては非情な結末へこの国を引きずっていく。


詩423 高江に集まれ

2013年08月03日 09時46分01秒 | 政治論

 言うまでもなく現在も、沖縄県国頭郡東村高江では毎日早朝から夜半まで、例年になく極小雨のうえ(120年余の観測史上最低だそうだ)平年より1、2度高い気温(沖縄ではこの数値は殺人的熱帯夜を意味する)が続く真夏の炎天下、地元有志、支援者、が、米軍の北部訓練場一部返還に伴う代替ヘリパッド建設(7月以降二つ目のパッド建設に着手している)関係者及び連日訓練場に出入りする米兵に対し、工事阻止のための抗議、説得工作を続けている、という間断ない報告が、芥川賞作家で沖縄県北部、今帰仁村出身の目取真俊氏により、「海鳴りの島から」ブログ内「高江の様子」でなされているのだが、この大衆行動への支援参加合流について毎回呼びかけがなされているにもかかわらず、時間的余剰に恵まれる人員がごく限られるせいか、少人数で対処しなければならない現状は余り改善されてないようだ。

 辺野古での歴史的国策強行行為への捨て身の阻止行動が、20年近く新基地建設謀略を中座させている実例は、「非暴力不服従」運動の実質的効用性を証明しているが、高江でのこうした活動に対する普遍的評価も世界の識者には取り上げられている。

 高江の人民闘争が無駄無意味不毛なのではなく、この国自体が元来無駄で無意味で不毛なのであって、見方を変えれば、すぐさまこの見かけ上の欺網実態に気がつくはずだ。

 この沖縄で展開し、さらけ出しているこの国の醜悪な戦後体制は、たとえばオスプレイ訓練の日本全土での実施という、(安保体制が無償で無条件で認容している)米軍展開の合法的実現をやってしまえば、本土人も否応なくその実態に直面せざるを得ない。

 本土人の本気の反安保行動が始まるのは時間の問題だとはいえ、ここで注意すべきは、やんばると呼ばれる沖縄本島北部の亜熱帯原生林地区が(米軍訓練軍事活動とヘリパッド建設に伴う)「自然環境破壊」の現在進行中にあり、その結果が齎す「取り返しのつかない」惨状をある日目の当たりにする危機感が高江にあって漲っているという事実だ。それは待ったなしの危機感、喰らいついても阻止しなければならないという、切羽詰ったものである。多くの人が高江に参集することを祈願する。(つづく)

 


詩422 みんなでたらめだ

2013年08月01日 21時03分08秒 | 政治論

 現自民政権に限らず恐らく多数の政党人乃至政治関係者は、9条を睨んで軍事的手段を自由化する方向性の模索に勤しんでいるのだが、概して彼らがその背景たるべき国家主義に関しては明確な論陣を構えてはいないという事実に、この国の主導的な階層にあって「民主主義」の名の下に、自己の言動言説あるいは公的な態度表明において、根本的に無責任であり続けていることが見て取れる。

 つまり日本国の憲法を、その土台のところで改変しようという行為に関する何らのパースペクティブもないままに、言わば煽情的な部分においてこの国を誘導しようという画策は、まさに先の大戦におけるナチスドイツの、空虚な観念論を振り回すアジテーションによって情感的熱狂を巻き起こし、不覚醒状態において全体主義国家気運に人民を引きずり込んだ、あのやり方そのものである。

 計らずも麻生御大は、馬鹿正直にもそういう気運に自ら巻き込まれていることを露呈してしまったわけだが、かかる無責任な参謀本部人員はこれから多方面にわたって次々と立ち現れてくるに違いない。

 腐りきった防衛省が、既に300件以上の目撃情報がある違反事実を無視し(自己判断を回避し)、米軍の厚顔な「オスプレイ飛行合意規定違反行為」に関し、事実を否定する回答でその場を凌ごうという、今回の沖縄県に対する呆れ返った対米従属行為には、今更ではあるがこの国に国防精神も戦闘士気も一切皆無なことを確認する、一方での絶望的国情を顧みないわけには行かない。

 大方の右翼的言辞には全く思想も論理も理論も見いだせず、更に言うなら何らの憂国的義憤の発露もこれを見いだせない。つまり現状においては、彼らが怒るべきは「原発再稼働」以下、でたらめを絵に描いたような規制委員会の有りよう、電力会社の薄汚いエゴイズム、であり、一向に収束も改善もみることなく、いよいよ被害が世界中の海という海に及ぼうとしている現実に対しての危機感のはずだが、これについて死にもので政治生命を擲つような国士は一人とてない。(つづく)