沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩426 無駄な無意味な国というもの

2013年08月06日 19時38分12秒 | 政治論

 白井聡氏の「永続敗戦」という分析、つまり微分方程式は、恐らく現況の純粋論理学的な意味では、近来に希な正確さで成立するものと思われる。

 一歩進んで、日本の国体を総合的に積分するのは何かということだが、氏が沖縄に関してこれを展開しているなら、解は意外に容易に得られるのかもしれない。

 人は分析して極限値を得るし、総合して条件付きながらひとつの三次元的空間ゾーンを得る。数学的にはどちらも解は一つだ。だが、数学も人生も含まれる諸要素を精細に認識する限り、多少の齟齬はあっても同じような方向性に集約することは理解されよう。

 確率と統計が全てではない。それは何処まで行っても漠然とした参考資料の一つに過ぎない。つまり、演繹的に解は限りなく一個の確定値らしきものを指し示すというに過ぎない。

 何故帝国の参謀本部は誤った答えにつき従ったのか。彼らは多くの回答の中から一つを選んだのでなく、誤った一つの方向に向かって一目散に駆け出した、と見える。それはむしろ錯誤でなく確信に近かった。つまり信仰である。

 抑も明治維新は王政復古の大号令に始まり、明治欽定憲法に極まった。五箇条の御誓文は能う限り帝国的支配機構の中の「言葉の上の公正主義」に過ぎないが、こうした天皇中心軍官民一体の全体主義は恐らく世界性の視点からは単なる天皇ファシズムとしか受け取られなかったであろうし、実際そのようにしか機能する術を知らなかった。

 従って軍官民にあって民以外は当然に確信をもって皇国の興廃に全身全霊を傾注したわけだ。このことは、「愛国心」とも符号する。但し「愛国心」は単なる言葉に終わるのではなく現実に生身の犠牲を伴うことは常識的に了解されよう。

 それで軍と官は、民に犠牲的精神を鼓吹し、同時に皇民自覚を絶叫的に操作した。観念的な「愛国心」が現実にはありえないように軍や官にそういう気配はなかった。彼らは皇民のなかに自身の「愛国的な」気運を投影しようと躍起になっていただけで、愛はなくイキガリだけがあった。

 彼らが信じている国体が自己愛的なものにまで馴化することはついになかった。何故なら彼らには、民意を測る柔軟な脳機能の持ち合わせがなかったから。民意を知らない愛国心とは一体何か。そんなものは金輪際ありはしない。この国には維新以来のかかる国家愛はなかったのであり、今後も絶えてないのであろう。だから現今国体は無意味である。

 この国を積分すると結局するに防衛すべき(愛すべき)国というものはないのであり、集団的自衛権行使とは、政治家やその周辺あるいは財界その他の連中が、「イキガッテ」見せるためにでっち上げた空威張りに過ぎず、一方ではいかにしても保守的に流れていく国勢の陰でむなしく絶望する民衆の生活だけが確からしくある。


詩425 米軍、米国ってえやつは

2013年08月06日 13時03分58秒 | 政治論

 墜落したのは米空軍嘉手納基地所属のHH60ベイブホーク救難ヘリ1機。墜落場所は名護市寄り宜野座村北部の米軍キャンプハンセン敷地内、民家まで2キロ。山口県岩国基地からの、普天間飛行場へのMV22オスプレイ追加配備12機のうち残り10機については無期限(詳細を伝えてない)延期と、米軍側が発表した。彼ら(日米政府)のしていることは、人知が及ぶ限りで言えば、決して広大ではない弧状の小島の140万人が通常生活をしている上空を、いつ落ちるとも知れない「戦争」のための、決してその住民の安全を保障しない国家安全保障の名のもとに、訓練と輸送飛行を数限りなく繰り返しているという行為なのだが、問題は、この小島の140万県民の大多数(その具体的数字など問題ではない)が、こうした彼らの行為によって、墜落不安のストレスと、爆音、騒音、に対する無際限の不快感に苛まれ、憲法に保証しているはずの生活生存権、幸福追求権を蝕まれているということだ。普天間爆音、嘉手納爆音訴訟はこうした住民の切実な気持ちを反映しているが、未だそれについて賠償(金銭でなく訓練自体の差し止め)されてはいないし、今後辺野古、高江など彼らが目論む新たな住民攻撃によってその被害はいよいよ拡大していくことは間違いない。この米軍訓練が彼ら(米国)の理屈から言えば彼らの利益には少しも矛盾していない(自分乃至自国の安全を保障しようという行為)が、沖縄に関しては間違いなく他人(他国)の安全を保障しない(他国の一般の民衆の命を脅かす)という性格を持っている以上、彼らが確信犯的にその他国乃至沖縄県の住民の人権を蹂躙している(民意を無視し戦争行為を強行していること)事実に対しては明らかな国家エゴ(従って他国への無思慮な迷惑行為)と言わざるを得ない。いかにその他国の政府が無作為に許容する行為に自主性を欠落させているといっても、その国の住民意見が真っ向から国のやり方に反対し議会制民主主義の筋を通している場合、己の国家行為(米国)に無反省にゴーサインを出す国民性というものは到底近代現代にわたる理念的説得力をもつことはないであろう。(つづく)