白井聡氏の「永続敗戦」という分析、つまり微分方程式は、恐らく現況の純粋論理学的な意味では、近来に希な正確さで成立するものと思われる。
一歩進んで、日本の国体を総合的に積分するのは何かということだが、氏が沖縄に関してこれを展開しているなら、解は意外に容易に得られるのかもしれない。
人は分析して極限値を得るし、総合して条件付きながらひとつの三次元的空間ゾーンを得る。数学的にはどちらも解は一つだ。だが、数学も人生も含まれる諸要素を精細に認識する限り、多少の齟齬はあっても同じような方向性に集約することは理解されよう。
確率と統計が全てではない。それは何処まで行っても漠然とした参考資料の一つに過ぎない。つまり、演繹的に解は限りなく一個の確定値らしきものを指し示すというに過ぎない。
何故帝国の参謀本部は誤った答えにつき従ったのか。彼らは多くの回答の中から一つを選んだのでなく、誤った一つの方向に向かって一目散に駆け出した、と見える。それはむしろ錯誤でなく確信に近かった。つまり信仰である。
抑も明治維新は王政復古の大号令に始まり、明治欽定憲法に極まった。五箇条の御誓文は能う限り帝国的支配機構の中の「言葉の上の公正主義」に過ぎないが、こうした天皇中心軍官民一体の全体主義は恐らく世界性の視点からは単なる天皇ファシズムとしか受け取られなかったであろうし、実際そのようにしか機能する術を知らなかった。
従って軍官民にあって民以外は当然に確信をもって皇国の興廃に全身全霊を傾注したわけだ。このことは、「愛国心」とも符号する。但し「愛国心」は単なる言葉に終わるのではなく現実に生身の犠牲を伴うことは常識的に了解されよう。
それで軍と官は、民に犠牲的精神を鼓吹し、同時に皇民自覚を絶叫的に操作した。観念的な「愛国心」が現実にはありえないように軍や官にそういう気配はなかった。彼らは皇民のなかに自身の「愛国的な」気運を投影しようと躍起になっていただけで、愛はなくイキガリだけがあった。
彼らが信じている国体が自己愛的なものにまで馴化することはついになかった。何故なら彼らには、民意を測る柔軟な脳機能の持ち合わせがなかったから。民意を知らない愛国心とは一体何か。そんなものは金輪際ありはしない。この国には維新以来のかかる国家愛はなかったのであり、今後も絶えてないのであろう。だから現今国体は無意味である。
この国を積分すると結局するに防衛すべき(愛すべき)国というものはないのであり、集団的自衛権行使とは、政治家やその周辺あるいは財界その他の連中が、「イキガッテ」見せるためにでっち上げた空威張りに過ぎず、一方ではいかにしても保守的に流れていく国勢の陰でむなしく絶望する民衆の生活だけが確からしくある。