菅官房長官と山本一太沖縄担当相が相次いで「辺野古埋め立て承認」勧奨を仲井真知事に伝えに訪沖するのだが(ありきたりな、500億程度の沖縄振興予算増額アピールをして、だ)、この見え透いたお百度参りの度にやつらの行く先々で「怒」の字が目立つ旗印の辺野古反対シュプレヒコールが沸き起こる図は、江戸百姓一揆さながらに封建的な悪臭をふんだんに放出している(勿論放出しているのは権力者の方だ)。
この事はかかる形容表現に留まらず、実際にこの国が沖縄に対して執っている国家方針そのものである。そもそもこの国に方針などは存在しない。あるのは対米的に「御説ごもっとも」を繰り返し、決して沖縄大衆に目を向けない(向けられない)この国の前近代的姿勢だけだ。
この頑丈な、一枚岩のような壁にしかみえない日本国は、沖縄にとって実に不可解な代物である。例えば既に十二分に混淆したであろう、「琉球と日本」が生み出し、育み成心を得た現今140万県民に対し、「人種差別」としか捉えられない国家施策で応じている安全保障体制は、恐らく敗戦で掴まされた日米の従属関係そのままに、一度として見直されず延々と持続されているが、この事態を不作為に踏襲して止まない、驚くべき保守停滞性を温存する、その死滅した土性骨だ。
これの大元は残念ながら旧帝国官僚となる。大日本帝国官僚の延長としての戦後日本の官僚機構というもの。従って、病根追及は明治維新に遡らざるを得ない。その基本は万機公論に決しはするが、その公論が決して民意に沿わない「非公」の論議であり、従ってこの「公」がいかに人民乖離しているかだ。これを官尊民卑というのだが、この前時代的な体質をこの国の官が、現代において有しているという由々しき事実である。その悪弊を見るも鮮やかに露呈しているのが沖縄県のわけで、普天間問題の無様な推移をみよ、これがこの国の真姿であり、しかも沖縄においてのみその醜態を平然と晒して恥じ入ることもない。(つづく)