往時は(日活映画などは)馬鹿にして実際観もしなかった45年前の映画「ああ ひめゆりの塔」だったが、ギャオの無料動画で何気なく観て結構よくできているな(やや観念が勝っているが)と思い、同時に、沖縄で起きたこの悲劇が、非戦や反戦の思いに直結するにしろ本土にはとうとう流れ着くことのない難破船であることを、いやでも認識せざるを得ない現状に地団太踏む思いだ。
移住して7年目にして、このようなものを見るたびに自然に落涙するのは不思議でもある。周知のとおり、沖縄戦は沖縄人の犬死だったが、その余の兵隊軍属も同様に無駄死にしたことになる。この伝でいくとそもそも日中戦も太平洋戦争も大方は実に情けないほどに無駄で口惜しい死の累積であった。
従って靖国なんぞはご丁寧に神に祭り上げて、さながら報国の献身を美化し、過ちと愚行で占められた将軍どもの無責任な始末を棚上げしている、というわけで、この国の戦後がいかに歪んでいるかを象徴している。
翻弄、という言葉が適当していると思うが、ひめゆり学徒の、戦争に弄ばされた運命には彼女らの健気さと初々しさ、純真さが弾けるような明るさで輝きながら、一方でこの戦争の理不尽さ、軍部の狂熱、特殊に打ち捨てられた沖縄の悲運が浮き彫りにされ、戦後も繰り返される国による不当な処遇、施策、問答無用の強権行使など、「沖縄は黙ってないぞ」という大衆的な運動に今後も揺ぎ無い根拠を与え続ける。こうした沖縄の闘いは、この国が腐りきっていたとしても、その本来性を失わず、たどり着かない近くて遠い本土の方へ漲る非戦の思いを波動させることになろう。(つづく)