沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩433 国になってない日本国

2013年08月14日 09時01分37秒 | 政治論

 今、沖縄県の本島(県都那覇を有する)に当たる弧状の島に起こっていることは、本土と呼ばれる北海道(ここではその地以外を内地というが)、本州、四国、九州とその余の島々ではあり得ない事としか言い様もない、日本政府とアメリカ合衆国政府による共謀した軍事行動によって、その面積の2割近くの広大な中枢部分を占拠し、軍事基地として自由自在に使っているということだが、そればかりでなく(それだけなら、本土に全体の25%の米軍基地が居座っている現状と差異はない)、圧倒的に反対し抗議活動し議会制民主主義決議に基づく県民総意がその意思を明確にしているにも関わらず、日米の国家安全保障の名の下に「問答無用」で(まるでそこに人が住んでいないかのように)「軍靴で踏みにじる」行為の数々を披瀝しているということだ。

 この歴史的蛮行に関してはまさに歴史が裁くとしても、その歴史自体が人間の手で作られる以上、蛮行に対し排除のための闘いを挑むのは人間的行為である。我々は裁き手ではない。哀願する弱者にほかならない。しかし「オキナワ」は卑屈に哀願することはない。

 第一に、いかに国土とはいえ国(国が許可した異国)が、140万の人間が住む人口密集地帯において、住民の生活を極度に公害的に脅かす軍事行為をおよそ規則も基準も蔑ろにして展開するというのは、驚嘆すべき無神経、でなければ沖縄県民に特化して差別的に非人間的行為に勤しんでいるということになる。

 こうした明らかに封建遺制的な非民主的強権主義は、こちらが軟弱に哀願する対象ではない。しかも、オスプレイの合意違反飛行訓練行為を「事実として認められなかった」とした防衛省の県に対する遅きに失した回答?は、「事実として認めても米軍側が認めない」という裏回答であり、国がその国の民の生命よりも米軍乃至米国の意向を重んじるという意味になる。

 従ってこの国には真の人間はいないし、あるのは国家安全保障の名の下に結託した傀儡政府とアメリカ合衆国政府の軍隊だけである。従って我々は決してこの国には哀願しない。なぜならここには国というものがそもそもないのだから。県警が普天間ゲート前でオスプレイ追加配備反対抗議活動を排除しようとするのは、滑稽を通り越してまさに国としての意味を成さない国家権力執行者の悲劇的有り様ではないか。(つづく)