沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩347 その10 日本の戦後4

2011年09月03日 09時08分22秒 | 政治論
 「天皇」とはわれわれにとって如何なる存在か。私見によれば「彼」は従来朝鮮からの帰化人であり多くの氏族の中の一氏族にほかならない。氏族とは専ら血縁関係を中心にまとまった一系譜というものらしいがそもそも日本の歴史に所謂「神話」をもって登場する唯一の存在でありかつ代々西日本のどこかから出発して6世紀頃畿内にほぼ定着した最も権威あり段違いな力があってかつ「神懸かり」な集団の頂点におわした。「神話時代」と人為的自然淘汰の時間的凌駕によりこの氏族と天皇は政治的な全体性を具足した一種「カリスマ」的君臨を可能にしているものであろう。しかし近代化を拙速に完成した日本ではこの「あいまいな存在」については近代化の範疇に加えることがなかったばかりか「王政復古」という時代錯誤を冒してまで残存させたという経緯がある。これは維新の主体が特権階級の下層部に端を発し本来「革命」が有する「無産階級」性を横溢し観念論先行の「跛行性」を運命的に孕んでいた本質に因果する。この事実はしかし重大な結果を招来したと我々は確認せざるを得ない。少なくとも日本国憲法同様「天皇制」は連合国特に米国政府の暫定的占領統治理念に依拠し、戦後も特に決定的徹底的論議もなく自動的にこの国のある意味根幹部分に鎮座することとなった。日本国憲法がその前段においてむしろユートピア的発想の高雅な理念をうたいあげることでこの国の置かれた惨憺たる精神状況に大きな価値を加速的に付加した実質は恐らく今後共評価されるものと思われるが、一方で無反省に等しい内容で戦後直ちに持続され「象徴」化された「天皇制」はとりわけて21世紀の現代にあってどうしても腑に落ちない玉虫色を発していると言わざるを得ない。何故か。例えば極東裁判における「天皇不訴追」が仮にアメリカの日本占領政策の政治的判断に拠ったとしても当然ながらその戦争責任を追及されるべき存在であったわけで少なくとも国内輿論において天下を上下するほどの論議は必要だったはずだ。いずれにしろそれはなかったし、この国の無神論的傾向と氏神信仰は全く別種の趣を呈している。しかも氏神はついに天皇という「神」を排除する絶対的要件を充足し「天皇制」の謂れを正面から否定している。(天皇の人間宣言は虚構、本来無根のパフォーマンスといえる。元来民衆に根付くことがなかった現人神が今更「人間です」といったところでお笑い草ではないか)神道の問題ではない。もしそれが問題になるとすれば国家神道が醸した先の大戦における無類の人心収攬政策だけだ。人々が氏神において信仰心を充足する現況では土地、天然物、もしくは地域の地縁、をして精神的内面的安定を得るわけで、象徴天皇の御陰ではない。(中断)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。