沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その9 現代日本という視点 9

2011年09月22日 17時10分25秒 | 政治論
 民主党が政権に在する限り、自民党が20%程度の支持をもって第二党らしく見えている限り、沖縄は永久に聾桟敷に置かれるだろうという感覚が移住者の正直なところだ。つまり公明党含めこの3党が政権獲得圏内にとどまる限り、沖縄は官僚どもの思うがままに、否、決して沖縄の思いが届くことなく永久にこのまま推移するだろう。「このまま」というのは面白い表現だが、では沖縄は一体今どういう状況状態にあるのかよく吟味してみよう。今の沖縄の姿には、「現代」という時代はただ時間としてしか存在しない。時間乃至時間的名辞、もっといえば現代日本という実質があるならそこから過去に取り残された状態にある。沖縄はまさしくこの現代日本によって薩摩侵攻の時代以前に放出されたといえる。沖縄は佐藤栄作の大嘘「沖縄返還なくして日本の戦後はない」以後最も底気味の悪い薄汚れた日米の国と民によって糞ツボに放り込まれたという状況にある。では琉球はどうして立ち上がらないのか。どうしてこの奴隷状態から奮起しないか。馬鹿を言っちゃいけない、大震災も原発事故も集中豪雨も都市ゲリラ豪雨も台風も現代日本の惨状をものの見事にアケスケに露骨に目に見えて明らかに顕現し、この国の土性骨が腐朽していることを物語っているではないか。石原都知事は「天罰だ、国民はかわいそう」と付け足したが実は感傷を廃して凝視するなら、戦後日本全体がもう一度敗戦当時の瓦礫の山に立ち返る実に切迫して緊急な精神的要請の普遍化という内実にあることを見逃してはならない。原発事故はこの国の基本的姿勢、日米安保はじめあらゆる他力本願的仮託的漁夫の利的狡猾にして怯惰なかつ情けない日本の日本人の精神を象徴的に現実化した形で現在から未来へ害毒を垂れ流し続ける。もとはアメリカに一も二もなく追従した我々の「偉大なる馬鹿爺様」たちが為出かしてくれた愚行のツケにすぎず現代の我々がほんのちょっと首をかしげるだけで180度転換するはずだ。で、どういうわけか誰も首を曲げないので大方はこのまま推移するといったわけさ。さて琉球亡国論という古めかしい論陣を掲げるなら、イラクやアフガン等の傀儡政府の有り様から類推するに日本によって侵略された琉球王府はまず薩摩藩によって中国並みに冊封関係に組込まれ当時の江戸幕府によって地方の一大名並みに処遇されたが、事実上民族としてローマの属領よろしく貢物によってその支配下に置かれ言わば独立性を失った。これが明治新政府により独特な廃藩置県の末王は華族とされ琉球王府は断絶した。時の権力の推移はいつの世にもあることでこの王朝歴史は民衆の頭上に風に舞うこの葉のように吹き飛んでいったウタカタではあったが、実はこの琉球処分こそ沖縄の本当の滅亡そのものだという見方だ。何がその実態か。琉球文化の国家的形式の改変という欺妄である。これを同化策という。沖縄の豊年祭はつい先だって何気に終わったがその豊年祈願の祭礼は移住者にとって実に興味深いものがあった。本土にいてさえ一度として真面目にお目にかからなかった所謂地域の祭礼というものをここ沖縄やんばるで直に目の前で拝観した結果そこに繰り広げられた不思議な郷土芸能の祈願形式に、頭の中では「文化的凌駕」という文字が踊りまわっていた。格調高いその歌舞音曲に4時間近くがあっという間に過ぎ去り、いつまでも余韻を残して止むことがなかった。なんとなく、意味も分からずに、目と耳で見聞きしたというにすぎないが、「いいものを見せてもらった」という感想しか浮かばない。個人の感覚はともかく彼らがむしろ嬉々として演舞する様は見ていて大変に気持ちが良く当然のように村の人も観客観光客も殆ど席を立つ気配すらなかったのだが、それら演目の一つ一つが人々の日常に生きて生き生きと息づいて語り継がれ絶やすことなくウタキの下に集うのだと思った。生え抜きの「文華」を維持しているのは何か、この移住者にはとんと見当が付かないにもかかわらずこの国が沖縄に対してしていることはある意味「大人(たいじん)」に対する「餓鬼」の所業、とでもいうしかない。(中断)


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