沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その2 現代日本という視点 2

2011年09月09日 10時46分09秒 | 政治論
 沖縄戦は、太平洋戦争において、大日本帝国国土では唯一の本格的な、住民を巻き込んだ地上戦と位置付けられている。つまり、日本列島と現在称する現国土にあっては、米国が唯一箇所、空襲以外に艦砲射撃・陸上迫撃戦・掃討作戦を展開した日本列島の中の島嶼と言える。
 実質的には、一般住民が戦闘行為の真っただ中に放り出され、剰え、殆ど年齢性別を問わず軍事徴用に駆り出され作戦任務すら実行したということだ。この事実だけ取り出すと沖縄県民は軍国日本の全くの被害的境遇に叩き込まれた印象だが、実際は当時の「一億総玉砕」すら叫んだ国情からすれば、逃れようのないいかんともしがたい状況だったことは明らかで、実際多くの住民にあっても所謂軍国少年、護国の鬼めいた風情を随所に垣間見られる。
 問題は、こうした激烈な戦場に繰り広げられた惨状が、多くの戦争には必ず展開されてきた事実であり、机上に駒を進めて作戦会議をする将官連中の描く、想像にすぎない戦争とは似ても似つかぬ、惨たらしい現実が地獄絵を醸し出す光景として後代には示されるということだ。
 第二次大戦史上最悪の悲惨さとしてこれを伝える米従軍記者もいた。我々は今となっては想像するしか方法はないが、多くの体験記・戦記・報告書の類を何冊でもできるだけ広範囲に読んだり聞いたりして実像に迫っていくしかない。沖縄における非戦意思はこの生々しい体験そのものが決定的だった。
 さて我々が事戦争や安全保障を語るとき、忘れてならないのは、我々が如何に苦心惨憺刻苦勉励しても、この軍事的展望に関して正確な認識やら情報を得ることは到底不可能だという事実であり、多くは事後において判断出来るかもしれないというに過ぎないことを、一川防相ではないが素人としては十分確認する必要がある。
 要は餅は餅屋ってことさ。軍事専門家がこうだと言えばそうなのだろう、とでも言うしかない。しかしながら素人、つまりは一般人たる小市民は自己乃至その近辺を守るためには国家が、政府が、戦争屋が、死ねといったからといって死ぬわけにはいかないのだ。
 つまり戦争も安全保障も、我々には現実には、命と引き替えに決して受容するがものではないということ。論理的には従って一般徴用兵士すら自己と自己の家族とその周辺のためには、徴兵拒否という行為において国家と対立するしかないのだ。
 一方国家が必要とする戦争や安全保障とは国家の国体を維持するという一点のみで考えられるといえる。先の大戦では国体護持の主体は天皇制国家という国体にほかならなかった。「天皇のため」に多くの局面で沖縄戦は、日本帝国の中国・朝鮮・沖縄への差別精神によって「軍隊は住民を守らない」という現実を示した、と伝える。そしてこの事実が沖縄非戦意思の根幹にある。つまり、日本人の、日本軍の、天皇の「沖縄はじめ弱者後進国差別」こそ憎むべき敵だったし、今後もそうであり続けるわけだ。この認識は今も変わらないし、政府の裏切りや欺瞞、密約姿勢は益々この県民意識を増幅させている。(中断)