沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩347 その11 日本の戦後5

2011年09月04日 21時54分21秒 | 政治論
 我々がこの無防備非守護状態におかれて不可知論的武装に活路を見出す事情はいかに非情な事務管理社会でもいやいやながら承認せざるを得まい。沖縄の主思潮は反戦ではなく完全なる非戦であると思われるが、この100年戦争的住民闘争は決して権力との根比べではない。なぜなら沖縄には実質としての「沖縄戦」体験と日本国による侵攻囲い込みの歴史的事実があり、新参者の政治的当事者の無根の観念的飛躍がこれに対抗する対立軸を有しないという原理だ。普天間も辺野古もどこにも逃げてはいかない。同様に沖縄が、沖縄の精神が、移住者まがいの大量移民を敢行するとも思えない以上真の人民戦争はここでしか起こり得ないし第三者の目からも客観的見地からも国際司法的にもまた沖縄文化遺産の総合的価値観からもあらゆる国家規模の横暴やら強制執行やらアメリカ軍拡思想やら中国脅威論対テロ無差別殺戮思想やら、おそるべき覇権主義、警察国家思想、などなど到底許容できない好戦的軍国主義的右傾化国勢として唾棄して排除する激しい憤怒に満ち満ちている。普通に考えれば誰が広島に原発を誘致しようとするか、同断で苛烈な沖縄戦を被害的に体験した沖縄にどうして更なる戦争推進軍事基地を新設するのか、県民がこれを素直に受容するいかなる屈辱的根拠があるのか。最早ありえない愚策をゴリ押しに継続する日本政府のインテリジェンスのなさたるやそれこそ国際グローバリゼーションの理念には真逆な偏頗性を恥じ入るべき事態ではないか。問題の本質は人民の強固にして大規模な反対の渦の中にアメリカ世界制覇の警察連合編成を捩じ込み「民主主義」とは名ばかりの欺瞞に満ちた「正義の戦争」をでっち上げ多くの無辜の民を死地へ追いやる犯罪的非人道的行為に加担する日本政府という実態だ。(中断)