幼少時彼の生活環境においては定期購読の小学館学習雑誌、偶々母がたった一冊彼のために購入してくれた三省堂の年鑑的百科事典、兄が購読する上級生の学習雑誌、同級生が買ってもらう少年月刊漫画誌の回読、教室の本箱に雑然と並ぶ数十冊の本、毎朝目にする新聞、ラヂオ、貸本、図書室の本類、が大方の知的好奇心の対象で、彼の幼少時の感覚的時代背景を形成した自然と生身の人間以外の媒体ではあった。こうした媒体の中に彼の「戦争」にまつわる体験の欠片のようなものは例えばラヂオ放送が伝える「尋ね人」やら少年誌のグラビアが派手な彩色を施す戦艦や戦闘機の絵を掲載したのやらあるいは綴方に綴られる貧困と不幸の有様など実に限定的な印象の貧弱そのものの体験にすぎないのだが、こうした意識の内にうっすらと透視されるとりわけ敗戦まもない日本と日本人の追体験的触感が、現在のとりわけ沖縄戦に触れたとき肉薄しようという意志となり現実に起こった悲惨な事件の実感性を掴みとろうという試みになるのではあった。感傷にすぎない感覚的雰囲気の手探りが何を掴むのか知らないが、当然ながら彼にしても時代の子であることに変わりはない。彼の生涯で彼の晩年に集中したこの現代日本の醸した局面から重大な本質を見逃しようもあるまい。見えてくるのは「人類の滅亡」という集団強制死であり、望むと望まざるとに拘わらず引き続き浸潤する数々の現代的病根である。「呑気な父さん」的ご老体諸氏には孫たちの愛玩に興ずる一時代らしいが、その足元にとぐろを巻く毒蛇たちにはとんと気づかないようで相変わらず愚にもつかぬ手慰みに我を忘れ恍惚として眠りこける日々をお過ごしのようだ。彼らの泡を食う無様な結末には全く興味がないので彼らの戯言に付き合うことは金輪際ない。好きなようにのたまっていろ。あらゆる瑣末な低レベルの国政談義なぞ糞くらえ。右ならえの日和見主義者どもよ、さっさと埒外に去れ。現代日本はかくして彼にとってただ単なる甲斐のない罵りの対象でしかなかった。軍国主義礼賛、戦争を知らない根本的無資格者が言い募る汎太平洋戦略における米軍の役割とは一体どういう内実か。どっちが無知かと言えば「汝自身を知」らないあいつらこそ本質的痴れ者ということさ。我々の税金を無駄遣いする「ドラ息子」どもよ、お前たちに言うことはない。(中断)