沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩348 その10 現代日本という視点 10

2011年09月27日 12時00分25秒 | 政治論
 「現代日本」とは、「近代日本」という概念との相克という運動エネルギーを軸として主に第二次大戦の敗戦という体験の追体験的経験認識化を精神的目的としつつ既に絶望的とも言える戦後既成「現代日本」の総ざらえという主体的省察を通して自己自身における真の「未来の日本」を見据える作業によりひとつの時代的意味を具備することになるような時代として措定する。従って遠くは天皇制国家形式の完成と古代日本の歴史学的評価の更新を企図し、神話化する政治的主体の絶滅によって民俗学的に検証された民衆主体の国家の有り様を模索し、同時に民衆自身の総体的本質的検証により成長段階を把捉し如何なる形式と内実による戦略的革命が可能かを実質的に検討し、日本の歴史的権力実態を分析究極し「現代日本」において民衆が果たすべき役割を位置づけること。かかる理念に基づいて近くは敗戦、原発事故、に関し、近代日本の歴史的検証を加えその影響実態を究明する。重要なことはこれらの理性的業務においては諸外国の懸念は度外視され民族自決を基本とし一切外交的粉飾を排斥する。日本国憲法の評価はただ一点、政治レベルでの議論を拒否すること。又同時に多くの場合、想定される軍事的戦略的懸念もまた完全に度外視される、というよりもこの現実的即戦的実戦的考察以外の人為的なる不可測的事態に関し所謂仮想敵を標的とする考察の無意味さを確認しなければならない。しかしながら国内問題にしても多くは見解の相違を並行的に辿る以外なんのメリットもないこうした議論を功利的に忌避すべく暫時休戦とする判断もやむを得ない。とりわけ沖縄中心の基地問題は沖縄における「非戦意思」から題意は頗る民衆側の理念自体に関わることでここに日米の偏頗な思惑を考慮する無意味さを想起し、「現代日本」的考察対象から外す必要性がありそうだ。つまりここにあるのは日米の沖縄差別乃至占領意識乃至沖縄において惹起された現実的要請のコラボという不純さだ。総論的には戦後日本の在り方自体に関わるが、現在ここに見られる低レベルの人権運動的波動に何らかの歴史的価値として評価すべき実質を見ることはできない。明治以来の同化された琉球が醸す奇妙な日本人性をここでも散見する実態は例の「集団強制死」同様論理的把握が困難な従ってナショナリズムに火を点け易い危うさに満ちている。しかもこの沖縄の「抵抗」には飛び抜けた精神性がありそのダイナミズムがどこからきたか不明だ。結論から言えば恐らくアメリカはベトナム同様沖縄民族解放戦線によって沖縄からの敗北撤退を余儀なくされるだろう。勿論軍事的意味での過不足はアメリカにあろうはずもない。「抑止力」の大嘘は証明済みじゃないか。ふざけやがって。(中断)